糖尿病とは(定義・種類・発症メカニズム)
「糖尿病」という言葉を聞いたとき、多くの方が「自分や家族がなってしまったらどうしよう」「食事制限が大変そうだ」「一度なったら治らないのでは」と、様々な不安や疑問を感じるかもしれません。健康診断で「血糖値が高め」と指摘され、情報収集のためにこの記事を読んでくださっている方もいらっしゃるでしょう。
この記事は、糖尿病に関するあらゆる情報を網羅した「完全ガイド」です。この最初のセクションでは、すべての基本となる「糖尿病とはそもそも何なのか」について、医学的な定義から、なぜ発症するのかという体の仕組み(発症メカニズム)まで、できるだけ専門用語を避け、分かりやすく徹底的に解説します。
本記事は医療情報を提供するものであり、個別の医療アドバイスではありません。ご自身の症状や健康状態に関して不安がある場合は、自己判断せず、必ずかかりつけ医や専門の医療機関にご相談ください。
糖尿病の基本的な定義
糖尿病とは、一言でいえば「インスリンというホルモンの働きが不足した結果、血液中のブドウ糖(血糖)の濃度が慢性的に高くなる病気」です。世界保健機関(WHO)や日本の厚生労働省も、概ねこのように定義しています。
ここで重要なキーワードが3つあります。
- インスリンの作用不足:インスリンが膵臓から出なくなるか、出ても効きにくくなることです。
 - 高血糖:血液中のブドウ糖が使われずに余ってしまい、血糖値が高い状態が続くことです。
 - 慢性的:風邪のように数日で治るものではなく、高血糖の状態が長期間続くことを意味します。
 
私たちの体は、血糖値が多少高くてもすぐに症状が出るわけではありません。しかし、この「高血糖」状態を長期間放置すると、血液の通り道である血管が少しずつダメージを受けていきます。特に細い血管が集中する目(網膜)や腎臓、神経が傷つきやすく、これが「合併症」と呼ばれる状態です。糖尿病の本当の怖さは、この合併症にあると言っても過言ではありません。糖尿病の治療や管理の目的は、血糖値をできるだけ良い状態に保ち、この合併症を防ぐこと、あるいは進行を遅らせることにあるのです。糖尿病の管理は長期にわたりますが、その基本を理解することが第一歩となります。
なぜ高血糖になるのか:インスリンの重要な役割
では、なぜインスリンが不足すると血糖値が高くなるのでしょうか。それを理解するために、まずは健康な人の体で何が起こっているかを見てみましょう。
私たちが食事(特に炭水化物)をとると、消化・吸収されてブドウ糖となり、血液中に入ります。これが「血糖値が上がる」という状態です。血糖値が上がると、膵臓(すいぞう)にある「β細胞」という場所からインスリンが分泌されます。
インスリンには、大きく分けて2つの重要な働きがあります。
- 細胞へのエネルギー供給(鍵の役割):インスリンは、血液中のブドウ糖を、体のエネルギー源として必要とする筋肉や脂肪などの細胞に取り込ませる「鍵」のような役割を果たします。インスリンという鍵が細胞の「鍵穴(受容体)」にカチッと刺さることで、ブドウ糖の「扉」が開き、細胞内に取り込まれてエネルギーとして使われます。これにより、血液中のブドウ糖は減り、血糖値は下がります。
 - 肝臓での糖新生の抑制(ブレーキの役割):体は、空腹時でもエネルギーが枯渇しないよう、肝臓でブドウ糖を新しく作り出す「糖新生」という仕組みを持っています。インスリンは、この糖新生が過剰にならないよう「もう十分ブドウ糖はあるから、新しく作らなくていいよ」と肝臓にブレーキをかける役割も担っています。
 
健康な人では、このインスリンの絶妙な働きによって、血糖値が一定の範囲内(正常範囲)に保たれています。
糖尿病は、この「鍵」であるインスリンがうまく働かなくなる病気です。具体的には、以下の2つのどちらか、あるいは両方が起こります。
- インスリン分泌不全:インスリンを作る膵臓のβ細胞が壊れたり、疲弊したりして、インスリンそのものが十分に作れなくなる状態。(=鍵が足りない)
 - インスリン抵抗性:インスリンは作られているのに、筋肉や肝臓などの細胞側がインスリンに反応しにくくなり、ブドウ糖をうまく取り込めなくなる状態。(=鍵穴が錆びついて、鍵が効きにくい)
 
どちらの場合も、血液中のブドウ糖が細胞に入れずに行き場を失い、血液中にあふれかえってしまいます。これが「高血糖」の正体です。
糖尿病の主な種類(4つの分類)
糖尿病は、その「発症メカニズム(なぜインスリンが効かなくなったのか)」によって、WHOの2019年の分類などに基づき、主に以下の4つのタイプに分けられます。これらのタイプは、原因も治療法も大きく異なります。
1. 1型糖尿病
1型糖尿病は、主に自己免疫(じこめんえき)という仕組みの異常によって、インスリンを作る膵臓のβ細胞が攻撃され、破壊されてしまう病気です。その結果、インスリンをほとんど、あるいは全く作ることができなくなります(絶対的欠乏)。
インスリンを作る「工場」自体が壊れてしまうイメージです。生活習慣や肥満とは関係なく発症することが多く、子どもや若年層での発症が目立ちますが、成人や高齢者で発症することもあります。インスリンが絶対的に足りないため、体外からインスリンを補充する「インスリン注射」による治療が必須となります。1型糖尿病の原因は、まだ完全には解明されていませんが、遺伝的な要因と環境的な要因が関わると考えられています。
2. 2型糖尿病
2型糖尿病は、日本人の糖尿病患者さんの約9割以上を占める、最も一般的なタイプです。2型糖尿病の発症には、遺伝的にインスリンが出にくい、あるいは効きにくい体質(遺伝的要因)に加えて、過食、運動不足、肥満、ストレスといった生活習慣(環境的要因)が大きく関わっています。
メカニズムは複雑ですが、主に「インスリン抵抗性(鍵穴が錆びついてインスリンが効きにくい状態)」と「インスリン分泌不全(インスリン工場が疲弊して十分な量を作れない状態)」の両方が関わっています。発症はゆっくりと進行することが多く、初期段階では自覚症状がほとんどありません。治療は食事療法や運動療法が基本となりますが、それだけでは血糖コントロールが不十分な場合には、飲み薬や注射薬(インスリンを含む)が使われます。
3. 妊娠糖尿病
妊娠糖尿病は、「妊娠中にはじめて発見または発症した、糖尿病には至っていない糖代謝異常」と定義されます。妊娠前から糖尿病と診断されていた場合は含まれません。
妊娠中は、胎盤から出るホルモンの影響で、生理的に「インスリン抵抗性(インスリンが効きにくい状態)」が高まります。多くの妊婦さんは、そのぶん膵臓が頑張ってインスリンを多く出すことで血糖値を正常に保ちます。しかし、もともとの体質などでインスリンを十分に出せない場合、血糖値が上がってしまい、妊娠糖尿病と診断されます。妊娠中の高血糖は、お母さん自身だけでなく、お腹の赤ちゃんにも影響を与える可能性があるため、食事療法やインスリン注射による厳格な血糖管理が必要です。多くの場合、出産後は血糖値が正常に戻りますが、将来的に2型糖尿病を発症しやすいことが知られています。
4. その他の特定の機序による糖尿病
上記3つ以外に、原因がはっきりしている特殊なタイプの糖尿病もあります。例えば、膵臓の病気(慢性膵炎や膵臓がん)で膵臓ごと摘出したためにインスリンが出なくなる場合、他の病気(クッシング症候群など)の治療で使うステロイド薬の副作用で高血糖になる場合、あるいは特定の遺伝子の異常によって引き起こされる場合などがあります。
糖尿病に近いが“まだ糖尿病ではない”状態
健康診断などで「血糖値が高め」と指摘された方の中には、「境界型(きょうかいがた)」や「糖尿病予備軍(よびぐん)」と呼ばれる状態の方がいます。
これは、血糖値が「正常型」よりは高いものの、「糖尿病型」と診断されるほどには高くない、いわばグレーゾーンの状態です。この段階は、まだ「糖尿病」という病気ではありません。しかし、WHOなども「糖尿病を発症するリスクが非常に高い状態」と位置づけており、放置すれば高い確率で2型糖尿病に移行します。
重要なのは、この「境界型」の段階であれば、食事や運動といった生活習慣の改善によって、血糖値を正常に戻したり、糖尿病への進行を予防したりすることが十分に可能だということです。境界型は、体からの「このままでは危ないですよ」という重要な警告サインであり、生活を見直す絶好のチャンスとも言えます。
すぐに受診が必要な危険なサイン
糖尿病、特に1型糖尿病の発見時や、2型糖尿病でも管理が非常に悪い場合、命に関わる危険な状態(急性合併症)に陥ることがあります。以下の症状は、体がインスリン不足と高血糖の限界に達しているサインかもしれません。すぐに医療機関を受診してください。
- 異常な口の渇き、大量の飲水、大量の尿、急激な体重減少:典型的な高血糖の症状ですが、数日のうちに急激に悪化する場合は危険です。
 - 強い倦怠感、吐き気、嘔吐、腹痛:単なる体調不良ではなく、体がエネルギー不足で悲鳴を上げているサインです。
 - 深く速い呼吸、息が果物(アセトン)のような匂いがする:インスリンが極度に不足し、体が脂肪を分解して「ケトン体」という酸性の物質を作っている状態(糖尿病性ケトアシドーシス:DKA)が疑われます。意識障害に至る可能性があり、緊急治療が必要です。
 - 意識がもうろうとする、極度の脱水、けいれん:特に高齢者の2型糖尿病で見られる、極端な高血糖と脱水による状態(高浸透圧高血糖状態:HHS)が疑われます。
 
これらの急性合併症は、ためらわずに救急車を呼ぶか、すぐに医療機関を受診する必要があります。特に小児や若年者でこれらの症状が急速に出た場合は、1型糖尿病の可能性を考えて行動してください。
よくある質問 (FAQ)
Q1: 糖尿病はなぜ“慢性の病気”と言われるのですか?
A: 糖尿病の根本には、インスリンを作る膵臓のβ細胞の機能低下や、インスリンへの体の反応性(抵抗性)の問題があります。これらは風邪のウイルスのようになくなれば治るものではなく、多くの場合、その体質は生涯続きます。そのため、WHOも「慢性疾患(chronic disease)」と定義しており、病気と「付き合っていく」という管理の視点が重要になります。
Q2: 糖尿病の種類はいくつありますか?
A: 発症メカニズム(原因)に基づくと、日本の公的情報や国際的な分類では、大きく「1型糖尿病」「2型糖尿病」「妊娠糖尿病」「その他の特定の機序による糖尿病」の4つに大別されます。日本人の大多数(9割以上)は2型糖尿病です。
Q3: 健康診断で「境界型」と言われました。これは糖尿病に含まれますか?
A: いいえ、「境界型(糖尿病予備軍)」は、まだ糖尿病には含まれません。しかし、血糖値が正常よりも高く、WHOも「糖尿病を発症するリスクが非常に高い状態」としています。この段階で生活習慣を見直すことで、糖尿病への進行を防げる可能性が十分にあります。
Q4: 糖尿病は「治る」病気ですか?
A: 米国国立衛生研究所(NIH)などの公的機関は、「治癒(cure)」という言葉よりも「管理(manage)」という言葉を使います。特に1型糖尿病は、インスリンを作る細胞が壊れてしまうため、現在の医療では元の状態に戻す「治癒」は困難です。2型糖尿病では、早期に発見し、大幅な減量や厳格な生活改善によって、薬なしで血糖値が正常範囲に収まる状態(寛解:かんかい)になることはあります。しかし、糖尿病になりやすい体質自体は変わらないため、「治った」と油断せず、継続的な管理が重要です。糖尿病治療の目標は「治癒」させることよりも、血糖値を良好にコントロールして合併症を防ぎ、健康な人と変わらない生活を送ることです。
糖尿病の種類と特徴(1型・2型・妊娠糖尿病・その他の特殊型)
前節で糖尿病が「インスリンの作用不足」によって起こる状態であると学びましたが、ここからが非常に重要です。「糖尿病」と一口に言っても、実は「なぜインスリンが作用不足になるのか」という根本的な原因によって、いくつかの異なるタイプ(病型)に分類されます。
「あなたは糖尿病です」という告知は、非常にショックなものです。しかし、その次に医師が伝えるべき最も重要な情報は、「あなたの糖尿病は、どのタイプか」ということです。なぜなら、この「タイプ」によって、発症の経緯、推奨される治療法、そして生涯にわたる管理の仕方が全く異なってくるからです。
例えば、生活習慣の改善が治療の中心となるタイプもあれば、発症した時点からインスリン注射が不可欠となるタイプもあります。原因が違えば、アプローチも変わるのです。日本糖尿病学会の最新のガイドラインでは、糖尿病をその「成因(成り立ち)」に基づいて、大きく以下の4つの主要なカテゴリーに分類しています。この分類は、世界保健機関(WHO)などの国際的な分類とも概ね一致しています。
このセクションでは、それぞれのタイプがどのような特徴を持ち、なぜ区別することが重要なのかを、一つひとつ丁寧に解き明かしていきます。ご自身の、あるいはご家族の糖尿病がどのタイプに当てはまるのかを理解することは、不安を和らげ、適切な治療への第一歩を踏み出すために不可欠です。
1型糖尿病:インスリンを「作れなくなる」タイプ
1型糖尿病は、しばしば「小児糖尿病」というイメージがあるかもしれませんが、実際にはどの年齢でも発症する可能性があります。このタイプの本質は、生活習慣や肥満とは全く関係なく、主に体の免疫システム(本来はウイルスや細菌から体を守る軍隊)が誤って自分自身の膵臓を攻撃してしまう「自己免疫」という現象によって引き起こされます。
膵臓の中には、インスリンを製造・分泌する「β細胞」という非常に重要な細胞があります。1型糖尿病では、このβ細胞が免疫システムによって破壊されてしまいます。その結果、膵臓はインスリンをほとんど、あるいは全く作ることができなくなってしまいます。食事から摂取したブドウ糖が血液中に溢れていても、細胞の扉を開ける「鍵」であるインスリンが存在しないため、細胞はエネルギーを取り込めず、血液中の糖濃度(血糖値)が異常に高くなります。
このため、1型糖尿病の治療は、失われたインスリンを体の外から補うインスリン注射(あるいはインスリンポンプ)が、発見された時点から必要不可欠です。これは選択肢ではなく、生命を維持するための治療です。
1型糖尿病は、その発症の仕方によって、さらにいくつかの重要なサブタイプに分けられます。これを見分けることは、救命やその後の治療において極めて重要です。
急性発症1型糖尿病
最も典型的な1型糖尿病のパターンです。数週間から数ヶ月という比較的短い期間でβ細胞の破壊が進行します。発症すると、以下のような症状が急速に現れます。
- 口渇(のどが異常に渇く)
 - 多飲(水分を大量に飲む)
 - 多尿(トイレの回数や量が異常に増える)
 - 体重減少(食べているのに痩せる)
 - 全身倦怠感(体が重く、異常にだるい)
 
インスリンが極度に不足すると、体はブドウ糖の代わりに脂肪をエネルギー源として燃焼し始めます。その結果、「ケトン体」という酸性の副産物が血液中に蓄積し、血液が酸性に傾きます。これが「糖尿病ケトアシドーシス(DKA)」という危険な状態で、吐き気、嘔吐、腹痛、そして重篤な場合は意識障害を引き起こし、生命に関わります。糖尿病の危険な合併症の一つであり、迅速なインスリン投与と点滴治療が必要です。
劇症1型糖尿病:日本で特に注意が必要なタイプ
これは、1型糖尿病の中でも最も恐ろしく、緊急性の高い病型で、日本で発見・報告された概念です。劇症1型は、文字通り「劇的」に発症します。
数日からわずか1週間程度という驚異的なスピードで、膵臓のβ細胞がほぼ完全に破壊されます。昨日まで健康だった人が、急に風邪のような症状(発熱、吐き気、嘔吐)を訴え、あっという間にケトアシドーシスによる意識障害に陥ることがあります。救急外来を受診した際には、血糖値が測定不能なほど上昇していることも珍しくありません。
この病型で特に注意すべき点は、発症直後の健康診断では異常が見つからないことが多いことです。例えば、1ヶ月前の健康診断では血糖値もHbA1c(過去1〜2ヶ月の血糖平均値)も完全に正常だった、というケースがほとんどです。発症があまりにも急激なため、HbA1cの値が上昇する暇さえないのです。このため、診断が遅れるリスクがあります。最近では、一部のがん治療薬(免疫チェックポイント阻害薬)が、この劇症1型糖尿病を引き起こす可能性があることも日本糖尿病学会から注意喚起されています。
緩徐進行1型糖尿病(SPIDDM / LADA):大人の「やせ型」糖尿病
これは、1型糖尿病の中で最も誤解されやすく、診断が難しいタイプの一つです。「LADA(ラーダ)」とも呼ばれます。この病型は、自己免疫によってβ細胞が破壊される点は1型と同じですが、その進行が「緩徐(かんじょ)」、つまり非常にゆっくりであるという特徴があります。
多くの場合、30代以降の成人(時には高齢者)で発症し、肥満でもないのに血糖値が高いことを指摘されます。発症当初は、まだインスリンを分泌する能力が残っているため、食事療法や飲み薬(2型糖尿病の薬)でもある程度コントロールできてしまいます。このため、ほぼ全ての患者さんが最初は「2型糖尿病」と診断されます。
しかし、水面下ではβ細胞の破壊がゆっくりと進行しているため、数年(時には10年以上)かけて、徐々に飲み薬が効かなくなり、インスリン分泌が枯渇し、最終的にはインスリン注射が必要になります。この「最初は2型だと思っていたのに、だんだん薬が効かなくなってインスリンが必要になった」という経過は、多くの患者さんや、時には医療者側にも「治療がうまくいかなかった」という誤解を生むことがあり、非常にもどかしい状況を生み出します。
日本糖尿病学会の2023年の診断基準では、血液検査で膵島関連の自己抗体(例:抗GAD抗体)が陽性であることが診断の鍵となります。「成人発症」「非肥満」「家族に糖尿病患者が少ない」「抗GAD抗体が陽性」といった特徴が揃う場合、たとえ初期症状が軽くても、2型糖尿病ではなく緩徐進行1型糖尿病(SPIDDM)の可能性を疑い、専門医による評価を受けることが重要です。早期に診断することで、インスリン導入のタイミングを適切に判断し、将来の良好なコントロールに繋げることができます。
2型糖尿病:インスリンが「効きにくく」「出にくくなる」タイプ
2型糖尿病は、厚生労働省の報告にもある通り、日本の糖尿病患者さんの90%以上を占める、最も一般的なタイプです。このタイプは、1型とは異なり、β細胞が急速に破壊されるわけではありません。
2型糖尿病の成り立ちには、大きく分けて二つの要因が関わっています。
- インスリン抵抗性:体質(遺伝)や、内臓脂肪の蓄積(肥満)、運動不足、ストレスといった生活習慣の要因が重なり、インスリンの「効き目」が悪くなる状態です。つまり、インスリンは分泌されているのに、細胞の「鍵穴」が錆びついてしまい、鍵(インスリン)を挿しても扉(ブドウ糖の取り込み口)が開きにくくなっています。
 - インスリン分泌不全:インスリン抵抗性が続くと、膵臓は「もっとインスリンを出さなければ!」と無理をして働き続けます。しかし、この状態が長く続くと、β細胞は疲弊してしまい、十分なインスリンを分泌する能力が徐々に低下していきます。
 
この「抵抗性(効きが悪い)」と「分泌不全(出が悪い)」の二つが組み合わさることで、血糖値が慢性的に高い状態が続きます。
日本人における2型糖尿病の重要な特徴
欧米の2型糖尿病患者さんは、その多くが高度な肥満を伴っています。彼らの主な病態は「極度のインスリン抵抗性」であり、それをカバーするために膵臓が大量のインスリンを出し続けます。しかし、日本人の場合、遺伝的に欧米人ほど強力にインスリンを分泌する能力が高くないと考えられています。
そのため、欧米人ほど太っていなくても(非肥満・やせ型でも)、インスリンの分泌能力が追いつかなくなり、2型糖尿病を発症するケースが非常に多いのが特徴です。これは、日本人では「インスリン抵抗性」よりも「インスリン分泌不全」が病態の主体となっている人が多いことを意味します。この違いは、治療薬を選択する上でも非常に重要です。
2型糖尿病は、多くの場合、ゆっくりと進行するため、初期には自覚症状がほとんどありません。健康診断で「血糖値が少し高い」と指摘されても、痛みもかゆみもないため、放置してしまうケースが後を絶ちません。しかし、この「症状のない」期間にも、高血糖は静かに血管を傷つけ、合併症のリスクを高めていきます。「2型糖尿病は治るのか」という問いに対しては、「寛解(かんかい)」という状態を目指すことが治療の目標となります。これは、生活習慣の改善や治療によって、薬なしでも良好な血糖値を維持できる状態を指します。
かつては中高年の病気とされていましたが、近年では食生活の欧米化や運動不足により、小児や若年層での発症も増加しており、社会的な問題となっています。
妊娠糖尿病(GDM):未来の健康への「サイン」
妊娠糖尿病(Gestational Diabetes Mellitus, GDM)は、妊娠という特別な時期に特有の病態です。これは、「妊娠中に初めて発見または発症した、糖尿病には至っていない糖代謝異常」と定義されます。つまり、妊娠前から糖尿病だったわけではなく、妊娠をきっかけに血糖値が上がりやすくなった状態を指します。
妊娠中は、胎盤からインスリンの働きを妨げるホルモンが分泌されるため、誰でも多かれ少なかれ「インスリン抵抗性」の状態になります。ほとんどの妊婦さんは、膵臓がインスリン分泌を増やすことでこれを乗り越えますが、その需要に膵臓が応えきれない場合に妊娠糖尿病が発症します。
妊娠中に高血糖が続くと、ブドウ糖は胎盤を通じて赤ちゃんに移行し、赤ちゃんの高血糖や高インスリン状態を引き起こします。これにより、巨大児、新生児低血糖、黄疸などの周産期合併症のリスクが高まります。そのため、日本産科婦人科学会は、妊娠初期および中期のスクリーニング検査を推奨しています。
最も重要な誤解:「出産したら治る」の落とし穴
多くの妊婦さんが最も心配し、また最も誤解しやすい点がここにあります。「妊娠糖尿病は出産すれば治る」——これは、半分正しく、半分間違っています。
確かに、胎盤が娩出されると、インスリン抵抗性の原因であったホルモンがなくなり、ほとんどの方の血糖値は正常に戻ります。しかし、妊娠糖尿病と診断されたという事実は、「あなたの体は、将来2型糖尿病を発症しやすい体質を持っていますよ」という重要なサイン(警告)なのです。
妊娠糖尿病を経験した女性は、経験しなかった女性と比較して、将来的に2型糖尿病を発症するリスクが約7倍以上も高いことが知られています。これは、妊娠という「負荷試験」によって、あなたの膵臓のインスリン分泌能力の限界が明らかになった、と考えることができます。
日本糖尿病学会および日本糖尿病・妊娠学会は2023年に、妊娠糖尿病既往女性への産後フォローアップの重要性を改めて強調しました。出産したら終わり、ではなく、出産後も定期的に血糖値のチェックを受け、健康的な生活習慣を維持することが、あなた自身の将来の健康を守るために何よりも重要なのです。妊娠糖尿病を含む各タイプの原因については、次のセクションでさらに詳しく掘り下げます。
その他の特定の機序・疾患による糖尿病(特殊なタイプ)
1型、2型、妊娠糖尿病のいずれにも当てはまらない、特殊な原因によって引き起こされる糖尿病も存在します。これらは全体に占める割合は低いものの、診断を見誤ると治療方針が大きく変わるため、専門的な評価が求められます。
MODY(家族性若年発症成人型糖尿病)
これは「Maturity-Onset Diabetes of the Young」の略で、特定の単一遺伝子の異常によって引き起こされる遺伝性の糖尿病です。多くの場合、若年(通常25歳未満)で発症し、家族内で代々受け継がれる(常染色体優性遺伝)という特徴があります。
MODYは、1型のように自己免疫によるものではなく、2型のように肥満や生活習慣が主な原因でもありません。しかし、症状が軽度なことが多く、しばしば「若くして発症した2型糖尿病」や、抗体陰性の「1型糖尿病」と誤診されます。
なぜMODYの診断が重要なのでしょうか。それは、原因となる遺伝子のタイプによって、治療法が劇的に異なるからです。例えば、あるタイプのMODY(HNF1A-MODY)は、インスリン注射よりも特定の飲み薬(SU薬)が非常によく効きます。また、別のタイプ(GCK-MODY)は、血糖値が軽度に高いだけで合併症のリスクが極めて低く、多くの場合、厳格な治療を必要としません。若年発症の糖尿病(MODY)を正しく診断することは、患者さんを不要なインスリン治療から解放し、最適な管理方法を見つけるために不可欠です。
膵性糖尿病(膵外分泌疾患に伴うもの)
これは、膵臓の「インスリンを作る部分(内分泌)」ではなく、「消化酵素を作る部分(外分泌)」が先に病気になることで、二次的に糖尿病が引き起こされる状態です。具体的には、慢性膵炎(アルコール性が最多)、膵臓がん、膵臓の嚢胞、あるいは膵臓の手術で膵臓の大部分を切除した後などが原因となります。
このタイプは、国際的には「Type 3c」と呼ばれることもありますが、日本では「その他の特定の機序」に分類されます。2型糖尿病と大きく異なる点は、インスリン(血糖を下げるホルモン)だけでなく、グルカゴン(血糖を上げるホルモン)を分泌する細胞も同時に破壊されることが多い点です。これにより、血糖値が非常に不安定になり、治療中に重篤な低血糖を起こしやすいという危険性があります。消化吸収能力も低下しているため、食事療法とインスリン治療に加えて、消化酵素の補充が必要になることもあります。
薬剤・化学物質による糖尿病
他の病気の治療のために使用している薬剤が原因で、血糖値が上がることがあります。最も代表的なものは、喘息やリウマチ、アレルギー疾患などで長期間使用するステロイド(グルココルチコイド)です。ステロイドは強力なインスリン抵抗性を引き起こします。
また、統合失調症などの治療に用いる一部の非定型抗精神病薬も、体重増加やインスリン抵抗性を介して糖尿病のリスクを高めます。前述の通り、免疫チェックポイント阻害薬が劇症1型糖尿病を引き起こすことも知られています。これらの薬剤による高血糖は、自己判断で薬を中止すると原疾患が悪化するため、必ず処方医と相談しながら血糖管理を行う必要があります。
その他の内分泌疾患や遺伝的症候群
クッシング症候群や先端巨大症など、インスリンの働きを妨げるホルモンが過剰になる病気によっても糖尿病が引き起こされます。この場合は、原因となっている病気(原疾患)の治療が最優先されます。また、ダウン症候群など、特定の遺伝的症候群に糖尿病が合併しやすいことも知られています。
「どのタイプか」を知ることが治療の第一歩
ここまで見てきたように、「糖尿病」という一つの名前の下には、全く異なる原因と背景を持つ多様な病型が存在します。
- 急速にインスリンが枯渇し、命を守るためにインスリン注射が必須の「1型糖尿病」
 - インスリンの効き目と出が悪くなり、生活習慣の改善と薬物治療で管理する「2型糖尿病」
 - 妊娠中の一時的な異常と捉えられがちだが、将来の2型発症リスクを示す「妊娠糖尿病」
 - 遺伝や他の病気、薬剤が原因で、全く異なるアプローチが必要な「その他の糖尿病」
 
あなたの診断がどのタイプであるかを知ることは、単なる「分類」以上の意味を持ちます。それは、あなたに最適な治療法を選択し、不必要な治療を避け、将来のリスクを正しく理解するための、最も重要で、最初の一歩なのです。
もしご自身の診断に疑問がある場合、例えば「やせ型の2型と言われたが、薬が全く効かない」「家族に若くして糖尿病になった人が多い」といった場合は、一度、糖尿病の専門医に相談し、抗体検査や遺伝子検査なども含めた詳細な評価を受けることを検討しても良いでしょう。次のセクションでは、これらのタイプを引き起こす「発症の原因とリスク要因」について、さらに詳しく見ていきます。
発症の原因とリスク要因(遺伝・肥満・ストレス・生活習慣・薬剤)
前節では、糖尿病には1型、2型、妊娠糖尿病など、いくつかの主要な種類があることを見てきました。では、そもそも「なぜ」人は糖尿病になるのでしょうか?特に、日本の糖尿病患者さんの大多数を占める2型糖尿病と診断された方の中には、「自分の何がいけなかったのだろう」「生活が不摂生だったからだろうか」と、ご自身を責めてしまったり、強い不安を感じたりする方が少なくありません。
まず最も重要なこととして知っておいていただきたいのは、特に2型糖尿病の発症は、決して一つの原因だけで決まるものではない、ということです。それは「多因子疾患」と呼ばれ、まるで複雑なパズルが組み合わさるように、複数の要因が重なり合って発症に至ります。個人の努力だけではどうにもならない要因も多く含まれています。
このセクションでは、糖尿病の発症に関わる主な「リスク要因」について、一つずつ丁寧に解き明かしていきます。具体的には、生まれ持った「遺伝的素因」、生活習慣と密接に関連する「肥満(特に内臓脂肪)」、日々の「食事」や「運動不足」、そして見落とされがちな「ストレス」や「特定の薬剤」の影響まで、どのような要因が、どのように関わり合っているのかを詳しく見ていきましょう。ご自身の状況と照らし合わせながら読み進めることで、不安の正体を明らかにし、今後の予防や管理に向けた第一歩を踏み出すきっかけとなれば幸いです。
遺伝的素因と家族歴──「体質」はどの程度影響するのか
多くの方が最も気にされるのが、「親が糖尿病だと、自分も必ずなってしまうのか?」という遺伝に関する不安でしょう。実際に、米国疾病予防管理センター(CDC)をはじめ、多くの国際機関が「親や兄弟姉妹に2型糖尿病の人がいること」を主要なリスク要因の一つに挙げています。血縁者に糖尿病の方がいる場合、いない場合と比べて発症リスクが有意に高まることは、多くの研究で示されています。
しかし、「リスクが高い」ことと「必ず発症する」ことは同義ではありません。ここで重要なのは、遺伝するのは「糖尿病そのもの」ではなく、あくまで「糖尿病になりやすい体質」であるという点です。専門的には「遺伝的素因」と呼ばれます。例えば、同じ食事や運動習慣を持っていても、この素因を持つ人は持たない人よりも血糖値が上がりやすくなる、といった形で現れます。
特に、私たち日本人を含むアジア系の人々は、欧米の人々と比較して、インスリンを分泌する膵臓のβ細胞の予備能力がもともと低い傾向にあると指摘されています。これは、日本糖尿病学会の小児・思春期ガイドラインでも触れられており、軽度から中等度の肥満であっても、インスリンの分泌が需要に追いつかなくなり、糖尿病を発症しやすいことを意味します。つまり、欧米の人々ほど太っていなくても発症しやすいため、「痩せ型だから大丈夫」とは一概に言えないのが、日本人の糖尿病の難しい特徴の一つです。
遺伝的素因は、自分では変えることのできない「決定された要因」です。しかし、それが全てではありません。遺伝という「土台」の上に、後述する「生活習慣」という要因が積み重なることで、初めて発症のスイッチが押されるケースが非常に多いのです。遺伝的リスクを正しく理解することは、悲観するためではなく、他の誰よりも早くから生活習慣に気を配り、予防行動をとるための「大切な動機づけ」として捉えることが重要です。糖尿病のタイプ別の原因についてさらに知ることも、ご自身の状況を理解する助けになるでしょう。中には、若年層で発症する特殊な遺伝的要因(MODYなど)も存在します。
肥満、特に内臓脂肪とインスリン抵抗性
遺伝的素因と並んで、2型糖尿病の最も強力なリスク要因とされるのが「肥満」です。ただし、ここで問題となるのは、単なる体重の重さや、二の腕やお尻につく「皮下脂肪」よりも、お腹の奥深く、肝臓や腸などの臓器の周りに蓄積する「内臓脂肪」です。この内臓脂肪型肥満が、糖尿病発症の引き金を引く「インスリン抵抗性」という状態を引き起こす中心的な役割を担っています。
「インスリン抵抗性」とは、一体どのような状態なのでしょうか。インスリンは、食事によって血液中に入ってきたブドウ糖(血糖)を、筋肉や脂肪細胞がエネルギーとして取り込むのを助ける「鍵」のようなホルモンです。細胞の表面には「鍵穴」(インスリン受容体)があり、インスリンという鍵が差し込まれると、細胞のドアが開いてブドウ糖が中に入れます。しかし、内臓脂肪が過剰に蓄積すると、そこから「アディポカイン」と呼ばれる様々な物質が分泌されます。これらの物質の中には、この「鍵穴」の働きを邪魔し、鍵(インスリン)が差し込まれてもドアが開きにくくしてしまうものが含まれています。これがインスリン抵抗性です。
ドアが開きにくくなると、血液中のブドウ糖は細胞に入れず、行き場を失って溢れてしまいます(高血糖)。体はなんとかしようと、膵臓にもっと多くのインスリン(鍵)を作るよう命令します。初期の段階では、この「インスリン過剰分泌」によって、なんとか血糖値を正常範囲に保とうとします。しかし、この状態が何年も続くと、インスリンを作り続けてきた膵臓は疲弊し、ついに十分な量のインスリンを分泌できなくなってしまいます。この段階に至って、2型糖尿病は発症します。厚生労働省も、2型糖尿病の予防には体重管理、特に腹部肥満の回避が非常に重要であると国民に呼びかけています。
ご自身の体重管理に不安を感じる方は少なくないでしょう。特に、食事制限をしているつもりでもなかなか体重が減らない、あるいは血糖値が改善しないと感じることもあるかもしれません。糖尿病患者さんのための体重管理法には、単にカロリーを減らすだけではない、血糖コントロールと両立させるためのコツがあります。特に2型糖尿病の方が健康的に体重を管理するためには、食事の質やタイミングが重要になります。また、高齢者や痩せ型の方など、体重を増やす必要がある場合の血糖管理はまた異なるアプローチが必要であり、このH2で扱う「リスクとしての肥満」とは区別して考える必要があります。
生活習慣の要因(食事・運動不足・喫煙・飲酒)
前項の内臓脂肪型肥満と密接に関連するのが、日々の「生活習慣」です。遺伝的素因や加齢は変えられませんが、生活習慣は自らの意識と行動で変えることができる、最も重要なリスク要因です。厚生労働省も、糖尿病対策の柱として生活習慣の改善を強く推奨しています。
- 食事パターン:
単に「食べ過ぎ」という量的な問題だけではありません。高カロリー、高脂肪食(揚げ物、脂身の多い肉など)、そして糖分を多く含む清涼飲料水や菓子の常習的な摂取は、内臓脂肪の蓄積とインスリン抵抗性を直接的に促進します。また、夜遅い時間の食事や朝食の欠食といった不規則な食生活も、体内時計を乱し、糖代謝に悪影響を及ぼすことが知られています。糖尿病の食事に関する科学的ガイド(別H2で詳述)は、これらのリスクを管理するための具体的な方法論を提供します。 - 身体活動の不足:
私たちの体は、動くことを前提に設計されています。特に筋肉は、血液中のブドウ糖を最も多く消費してくれる「貯蔵庫」です。しかし、デスクワーク中心の生活や車移動の増加により、日常的な身体活動が不足すると、筋肉はブドウ糖を効率的に取り込めなくなります。使われなかったブドウ糖は、やがて脂肪として蓄積され、インスリン抵抗性を悪化させます。CDCは、週150分未満の運動習慣が2型糖尿病の明らかなリスクであると指摘しています。どのような運動が効果的かについては、運動療法のガイド(別H2で詳述)で詳しく解説します。 - 喫煙と過度の飲酒:
これらはしばしば見過ごされがちなリスクです。喫煙は、ニコチンが交感神経を刺激し、血糖値を上昇させるホルモンを分泌させるだけでなく、体内に慢性的な炎症を引き起こし、インスリン抵抗性を直接的に悪化させることがわかっています。日本糖尿病学会のガイドラインでも、発症予防の段階から禁煙が強く推奨されています。また、過度のアルコール摂取は、肝臓での糖代謝を妨げるほか、高カロリーなおつまみを伴うことで肥満の原因ともなります。糖尿病とアルコールの関係については、安全な飲み方も含めて慎重な検討が必要です。 
これらの生活習慣は、一つ一つは小さなものに見えるかもしれませんが、長期間積み重なることで、遺伝的素因や肥満といった他のリスク要因と組み合わさり、発症の確率を大きく高めてしまうのです。
心理社会的ストレスの役割
肥満や食事、運動といった「身体的」な要因に加え、近年、2型糖尿病のリスクとして注目されているのが「心理社会的ストレス」です。現代社会で生活する上で、仕事、家庭、人間関係などから生じるストレスを完全に避けることは困難です。「ストレスで血糖値が上がる」という感覚は、多くの方が経験的に知っているかもしれませんが、それが単なる「気のせい」ではないことが、科学的にも解明されつつあります。
強いストレスや慢性的なストレスにさらされると、私たちの体は「緊急事態」と判断します。これに対処するため、脳の視床下部から下垂体、副腎へと伝達が起こり(HPA軸)、コルチゾールやアドレナリンといった「ストレスホルモン」が大量に分泌されます。これらのホルモンは、敵と戦ったり、逃げたりするために、体内に蓄えられたエネルギー(ブドウ糖)を血液中に放出し、血糖値を上昇させる働きがあります。同時に、これらのホルモンはインスリンの働きを妨げる(インスリン抵抗性を高める)作用も持っています。
本来、この反応は一時的なもので、ストレスが去れば収まります。しかし、国際的な研究レビューによれば、職場のプレッシャーや介護の負担などが慢性的に続くと、ストレスホルモンが常に高い状態となり、高血糖とインスリン抵抗性が常態化してしまう可能性が指摘されています。2022年の総説でも、ストレスが代謝と免疫系を介して2型糖尿病の発症プロセスに関与することが示されています。
ただし、現時点での日本の公式な診療ガイドラインでは、ストレスは肥満や運動不足と並ぶ「主要な一次原因」としては明確に位置づけられてはいません。むしろ、ストレスが過食や飲酒、運動不足といった不健康な生活習慣を引き起こし、間接的に肥満を助長する「増悪因子」としての側面が強いと捉えられています。とはいえ、ストレスが体に及ぼす直接的な影響は無視できず、特に糖尿病に伴う不安そのものが血糖コントロールを乱すこともあるため、ストレスマネジメントは糖尿病管理の重要な一部と考えられます。
薬剤性糖尿病とその他の背景(妊娠・疾患)
ここまでは遺伝や生活習慣が中心でしたが、時には特定の「薬剤」の使用や、「他の疾患」「妊娠」といった背景が、糖尿病発症の直接的な引き金となることがあります。これらは「二次性糖尿病」や「薬剤性糖尿病」と呼ばれるカテゴリーに分類されます。
薬剤性高血糖・糖尿病:
最も頻度が高く、注意が必要なのが「グルココルチコイド(ステロイド)」によるものです。関節リウマチ、喘息、膠原病、皮膚疾患など、多くの疾患治療に不可欠な薬剤ですが、2024年の最新レビューでも確認されている通り、特に高用量や長期間の使用、静脈注射などでインスリン抵抗性を強く引き起こし、高血糖や糖尿病を発症させることがあります。
その他にも、一部の抗精神病薬、チアジド系利尿薬(降圧薬)、高用量のスタチン(脂質異常症治療薬)、免疫抑制薬なども、インスリン分泌を抑制したり、抵抗性を高めたりすることで血糖値に影響を与える可能性が報告されています。
これらの薬剤による治療中に高血糖を指摘されると、「薬のせいで糖尿病になった」と強いショックを受けるかもしれません。しかし、多くの場合、治療中の病気をコントロールすることが生命や生活の質にとって最優先されます。自己判断で薬剤を中断することは極めて危険です。必ず処方医に相談し、血糖管理の方法(食事指導、一時的なインスリン使用など)を一緒に検討することが重要です。糖尿病治療薬の副作用とは異なり、これらは「他の病気の薬が血糖に影響する」ケースであると理解する必要があります。
その他の背景(妊娠・疾患):
ライフステージや他の疾患もリスクとなります。
- 妊娠糖尿病の既往: 妊娠中に「妊娠糖尿病」と診断された方は、日本糖尿病学会の指針にもある通り、出産後に血糖値が正常に戻ったとしても、将来的に本格的な2型糖尿病を発症するリスクが非常に高いことがわかっています。
 - 巨大児分娩歴: 4kg以上の大きな赤ちゃんを出産した経験がある場合も、妊娠中に高血糖状態であった可能性があり、同様に将来のリスクとなります。
 - 他の疾患: 多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)、クッシング症候群、甲状腺機能亢進症などの内分泌疾患、あるいは膵臓自体の病気(慢性膵炎や膵臓がん)も、インスリンの分泌や作用を妨げ、二次的に糖尿病を引き起こす原因となります。
 
これらの背景を持つ方は、境界型糖尿病(予備群)の段階から、より注意深い経過観察と生活習慣の管理が求められます。
よくある質問(FAQ)
Q1: 親が糖尿病だと、自分も必ず糖尿病になりますか?
これは最も多く寄せられるご質問の一つであり、そのご不安は当然のことです。結論から申し上げますと、「必ずなる」わけではありません。しかし、前述の通り、親や兄弟姉妹に2型糖尿病の方がいる場合、発症リスクは統計的に高くなります。これは、インスリンの分泌能力やインスリンの効きやすさといった「体質」が遺伝的に似るためです。大切なのは、この事実を「変えられない運命」として悲観するのではなく、「他の人よりも早くから気をつけるべきサイン」として前向きに捉えることです。遺伝的素因はパズルの一つのピースに過ぎません。食生活の見直し、運動習慣の導入、適正体重の維持といった「生活習慣」という他のピースを管理することで、発症のリスクを大幅に下げることは十分に可能です。
Q2: 太っていなくても(痩せ型でも)糖尿病になりますか?
はい、なります。これは特に日本人において重要なポイントです。欧米では糖尿病患者さんの多くが重度の肥満を伴いますが、日本人の場合、それほど太っていなくても(BMIが25未満の「普通体重」や「痩せ型」であっても)2型糖尿病を発症するケースが少なくありません。これは、日本人が遺伝的にインスリンを分泌する能力(膵β細胞の予備能)が欧米人よりも低い傾向にあるためと考えられています。わずかな体重増加や内臓脂肪の蓄積、あるいは加齢による筋肉量の減少だけでも、インスリンの必要量に対して分泌量が追いつかなくなり、血糖値が上昇しやすくなるのです。そのため、「自分は太っていないから大丈夫」と過信せず、家族歴がある方や健康診断で血糖値の異常を指摘された方は、体型に関わらず注意が必要です。
Q3: ステロイド治療を始めてから血糖値が高いと言われました。薬が原因ですか?
その可能性は非常に高いです。ステロイド(グルココルチコイド)は、体内でインスリンの働きを妨げる(インスリン抵抗性を引き起こす)作用と、肝臓での糖の産生を増やす作用を併せ持つため、薬剤性高血糖・糖尿病の最も代表的な原因薬剤です。特に、飲み薬(内服薬)の量が多い場合や、点滴で使用した場合に起こりやすいとされています。これは治療上、避けられない副作用の一つであり、処方医もそのリスクを承知の上で、あなたの元の病気を治療するためにステロイドを使用しています。最も重要なのは、血糖値が上がったからといって、自己判断でステロイドを中止しないことです。元の病気が悪化する方が危険な場合が多いため、必ず処方医に「血糖値が高いと指摘された」と報告してください。食事指導や、一時的にインスリン注射などの血糖降下薬を併用することで、安全に治療を継続する方法を検討します。
Q4: ストレスだけで糖尿病になることはありますか?
現在の医学的コンセンサスでは、心理的ストレス「だけ」が2型糖尿病の唯一の原因となって発症する、とは考えられていません。しかし、ストレスは発症の「強力な誘因・増悪因子」にはなり得ます。前述の通り、慢性的なストレスはコルチゾールなどのホルモンを介してインスリン抵抗性を引き起こし、血糖値を上げやすくします。さらに重要なのは、ストレスが「行動」に与える影響です。ストレスを感じると、つい甘いものや高カロリーなものを「やけ食い」してしまったり、お酒の量が増えたり、運動する気力がなくなったりすることがあります。こうした生活習慣の乱れが肥満、特に内臓脂肪の蓄積につながり、もともと持っていた遺伝的素因と組み合わさることで、発症の引き金を引いてしまうのです。ストレスが直接的な原因とは言えなくとも、糖尿病予防においてストレスマネジメントが重要であることに変わりはありません。
Q5: 妊娠中に「妊娠糖尿病」と診断されました。出産後は治ったのですが、もう安心ですか?
いいえ、安心はできません。これは非常に重要な警告サインと捉えるべきです。妊娠糖尿病は、妊娠という特殊な環境下でインスリンの必要性が増大した際に、ご自身のインスリン分泌能力が追いつかなくなった状態です。出産後に血糖値が正常に戻ったとしても、それは「将来、2型糖尿病を発症するリスクが極めて高い体質である」ことが判明した、という意味を持ちます。統計的にも、妊娠糖尿病の既往がある女性はない女性に比べて、数倍から10倍以上の確率で将来2型糖尿病に移行するとされています。出産後は「治った」と考えるのではなく、「猶予期間が与えられた」と考え、授乳などが落ち着いた後も、定期的な血糖値のチェック(少なくとも年1回)と、健康的な食事・運動習慣を生涯にわたって継続することが、発症予防のために何よりも大切です。
ここまで、糖尿病がどのようにして発症するのか、その複雑な要因(遺伝、肥満、生活習慣、ストレス、薬剤)について詳しく見てきました。これらの「なぜ」を理解することは、予防と管理の第一歩です。しかし、リスクがあることを知るだけでは十分ではありません。次に重要なのは、「では、自分の体は今、どのようなサインを出しているのか?」を知ることです。次のセクションでは、見逃してはならない糖尿病の主な症状と初期サインについて、具体的に解説していきます。
主な症状と初期サイン(多尿・口渇・倦怠感・体重減少・感染)
前節では糖尿病の様々なリスク要因について見てきましたが、ここでは「体が発する警告サイン」に焦点を当てます。糖尿病、特に2型糖尿病は、日本の厚生労働省も指摘するように、初期段階では自覚症状がほとんどない(無症状)ことが多いのが特徴です。多くの場合、健康診断や人間ドックで初めて血糖値の高さを指摘され、驚かれる方が少なくありません。
しかし、これは「症状が出ないから大丈夫」という意味ではありません。むしろ逆で、何らかの症状を自覚した時点では、すでに血糖値がかなり高い状態(高血糖)が続いている可能性が高いことを示しています。体が「もう限界だ」と悲鳴を上げているサインなのです。ここでは、糖尿病が進行すると現れやすい代表的な初期症状について、そのメカニズムと注意点を詳しく解説します。
なぜ症状が出るのか?:多尿と口渇のメカニズム
糖尿病の症状を理解する上で最も重要なのが「多尿(尿がたくさん出る)」と「口渇(のどが渇く)」の関係です。これは高血糖が引き起こす体の防御反応の結果として現れます。
健康な人の場合、腎臓は血液をろ過する際に、体に必要なブドウ糖を再吸収して尿に出さないようにしています。しかし、血糖値が一定のレベル(「腎閾値」と呼ばれ、一般に160~180mg/dL前後)を超えると、腎臓の再吸収能力が追いつかなくなり、尿の中にブドウ糖が漏れ出てしまいます(尿糖)。
問題は、この尿糖が「浸透圧利尿」という現象を引き起こすことです。ブドウ糖は水分を引き寄せる性質があるため、尿糖として排泄される際に、体内の水分も一緒に大量に尿として引っ張り出してしまいます。これが「多尿」の正体です。体の水分がどんどん失われるため、体は脱水状態に陥ります。その結果、脳の渇中枢が強く刺激され、「水を飲め」という指令が出ます。これが「口渇」です。適切な水分補給は必要ですが、根本的な高血糖を解決しない限り、この悪循環は止まりません。
サイン①:多尿(頻尿)と夜間多尿
「最近、トイレが近くなった」「夜中に何度もトイレに起きるようになった」と感じたら、それは多尿のサインかもしれません。特に高齢者の場合、夜間頻尿は加齢によるもの(前立腺肥大など)と思い込みがちですが、糖尿病の可能性も考える必要があります。
注目すべきは「尿の量」です。単に回数が多いだけでなく、一回ごとの尿量が明らかに多い場合は、前述の浸透圧利尿が起きている可能性があります。また、尿の泡立ちが消えにくい(尿糖や尿タンパクの影響)、あるいは「尿が甘酸っぱい匂いがする」といった変化に気づく家族もいます。
サイン②:口渇・多飲(のどが渇く・水分をたくさん飲む)
多尿によって体が水分不足になるため、強烈なのどの渇き(口渇)が現れます。水を飲んでも飲んでも渇きが癒えない、常に口の中がネバネバする、といった感覚です。
ここで特に危険なのは、のどの渇きを癒すために、糖分を多く含む清涼飲料水やジュース、スポーツドリンクを大量に飲んでしまうことです。これにより血糖値がさらに急上昇し、尿糖が増え、さらに多尿になり、ますますのどが渇く…という最悪の悪循環に陥ります。国立国際医療研究センターもこの悪循環を「ソフトドリンク・ケトーシス(ペットボトル症候群)」として警告しています。これは特に若年層の2型糖尿病で見られがちです。適切な飲み物を選ぶ知識が非常に重要です。
サイン③:全身倦怠感・疲れやすさ・集中力の低下
「しっかり寝ているはずなのに、日中いつも眠い」「休んでも疲れが取れない」「仕事や家事に集中できない」といった強い倦怠感も、高血糖のサインです。
これは、血液中にエネルギー源であるブドウ糖が溢れている(高血糖)にもかかわらず、インスリンの作用不足によってブドウ糖が細胞内に取り込まれないため、細胞自身が「エネルギー飢餓」に陥っていることが原因です。車に例えれば、ガソリンタンクは満タンなのに、エンジンにガソリンが供給されないためガス欠を起こしているような状態です。脳や筋肉の細胞がエネルギー不足になるため、だるさ、眠気、集中力の低下、時にはめまいとして現れます。また、高血糖自体が視力の調節障害を引き起こし、「目がかすむ」「ピントが合いにくい」といった症状が出ることもあります。
サイン④:体重減少(食べているのに痩せる)
ダイエットをしているわけでもないのに、食欲はむしろあるのに、体重が数週間から数ヶ月で急に数キログラムも減った場合、特に注意が必要です。これは、前述のエネルギー飢餓がさらに進行した状態です。
細胞がブドウ糖を利用できないため、体は生きるために筋肉(タンパク質)や脂肪を分解してエネルギー源として使い始めます。これにより、適切な体重管理とは異なる、不健康な体重減少が起こります。この症状は、インスリン分泌が枯渇しやすい1型糖尿病の発見時や、2型糖尿病でもインスリン分泌が著しく低下した場合によく見られます。「多飲・多尿・体重減少」の3つが揃った場合は、体が危険な状態(ケトアシドーシス)に近づいている可能性があり、緊急の対応が必要です。
サイン⑤:感染のしやすさ・傷の治りにくさ
「風邪をひきやすくなった」「一度ひくと治りにくい」「切り傷や擦り傷がなかなか治らない」といった免疫力の低下も、高血糖のサインです。高血糖状態が続くと、以下のような理由で感染症にかかりやすくなります。
- 免疫細胞の機能低下:細菌と戦う白血球(特に好中球)の働きが鈍くなります。
 - 血流障害:高血糖は細い血管の血流を悪化させ、必要な免疫細胞や栄養素が感染部位に届きにくくなります。
 - 神経障害:感覚が鈍くなるため、小さな傷に気づかず放置し、悪化させてしまうことがあります(特に足)。
 - 栄養豊富な環境:血液や組織に糖分が多いため、細菌や真菌(カビ)にとって格好の栄養源となります。
 
具体的には、皮膚のおでき(癤)、水虫、歯周病、膀胱炎などを繰り返しやすくなります。特に女性では「膣カンジダ症」、男女ともに「陰部のかゆみ」が続く場合、背景に未診断の糖尿病が隠れているケースは少なくありません。
症状が乏しいケースと健康診断の重要性
これまで述べた症状は、比較的典型的なものですが、日本糖尿病学会も指摘するように、2型糖尿病の多くはゆっくりと進行するため、初期にはこれらの症状を全く感じないか、感じていても「年のせい」「疲れのせい」と見過ごしてしまうことが非常に多いのです。
症状がないまま高血糖が続くと、自覚症状のない水面下で血管がダメージを受け続け、気づいた時には深刻な合併症(網膜症、腎症、神経障害)が進行していることもあります。だからこそ、症状の有無にかかわらず、定期的な健康診断で血糖値やHbA1c(ヘモグロビンA1c)をチェックすることが、糖尿病の早期発見・早期治療のために不可欠なのです。もし健康診断で「境界型」や「予備群」と指摘されたら、それは症状が出る前の重要な警告サインです。次のセクションで解説する診断基準を確認し、生活習慣を見直す絶好の機会と捉えましょう。
こんなときはすぐ受診:危険な高血糖のサイン(レッドフラグ)
以下の症状は、体が深刻なエネルギー不足と脱水に陥っているサインであり、緊急の対応が必要です。放置すると意識障害や昏睡に至る可能性があります。
糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)を疑うサイン(特に1型糖尿病や若年者):
- 上記「多飲・多尿・体重減少・倦怠感」が数日~数週間の単位で急速に出現
 - 吐き気、嘔吐、強い腹痛を伴う
 - 呼吸が深く、速くなる
 - 息がアセトン臭(果物が腐ったような甘酸っぱい匂い)がする
 
高浸透圧高血糖状態(HHS)を疑うサイン(特に高齢者や2型糖尿病):
- 極度ののどの渇き、著しい尿量増加
 - 発熱や感染症を伴うことが多い
 - 意識がもうろうとする、ぼんやりする、呼びかけへの反応が鈍い
 - けいれんを起こすことがある
 
これらの急性合併症の兆候が見られる場合は、夜間や休日であっても、直ちに医療機関(内科または救急外来)を受診してください。自己判断で様子を見ることは非常に危険です。特にHHSは高齢者では脱水が急速に進行するため、家族や周囲の人が変化に気づき、迅速に対応することが命を救うことにつながります。
診断の流れと基準(空腹時血糖・OGTT・HbA1c・随時血糖)
前節では糖尿病の初期症状について学びましたが、実際には自覚症状が全くないまま、健康診断や人間ドックで初めて「血糖値が高い」と指摘されるケースが非常に多いのが糖尿病の特徴です。多くの方が「要精密検査」という結果を手にし、「自分はもう糖尿病なのか」「これからどうなるのか」と大きな不安を抱えることになります。
糖尿病の診断は、その後の人生にわたる治療や管理の第一歩となるため、非常に慎重に行われます。なぜなら、糖尿病治療の目的は「慢性的な高血糖状態が引き起こす合併症を防ぐこと」にあり、そのためには一時的な血糖の上昇ではなく、持続的な高血糖状態を確実に捉える必要があるからです。このセクションでは、日本糖尿病学会の最新ガイドライン(2024年版)に基づき、どのようにして糖尿病と診断されるのか、その具体的な検査項目と数値基準について、詳しく、そして分かりやすく解説していきます。
糖尿病はどの検査で診断されるのか?(日本基準の全体像)
まず最も重要なことは、糖尿病の診断は、家庭用の簡易測定器や持続血糖測定器(CGM)の値ではなく、医療機関で採血した「静脈血漿(じょうみゃくけっしょう)」の値を用いて行われるということです。指先で測る血糖値はあくまで日常の管理指標であり、正式な診断には使えません。
日本の診断基準では、以下の3つのパターンのいずれかに当てはまった場合に「糖尿病」と診断されます。
- 別々の日に検査を受け、2回以上「糖尿病型」が確認された場合。
- これが最も基本的な診断プロセスです。
 - ただし、2回ともHbA1c(後述)だけが高い場合は診断に至らず、必ず1回は血糖値(空腹時、OGTT、随時のいずれか)で「糖尿病型」を確認する必要があります。
 
 - 初回の検査で「糖尿病型」が確認され、同時に以下のいずれかが存在した場合。
- 口渇(のどが渇く)、多飲(たくさん飲む)、多尿(尿が多い)、体重減少といった典型的な糖尿病の症状がある。
 - 確実な糖尿病網膜症(目の合併症)がすでに認められる。
 - この場合、高血糖が慢性的に続いていたことが明らかであるため、1回の検査で診断が確定します。
 
 - 過去に糖尿病と診断された確実な記録がある場合。
- たとえ現在の血糖値やHbA1cが生活習慣の改善などで正常範囲内にあったとしても、一度確立した診断は覆りません。この状態は「糖尿病」として扱われます(寛解と呼ばれることもあります)。
 
 
健康診断などで「糖尿病型」が1回だけ確認されたものの、症状がなく、網膜症もない場合は、「糖尿病疑い」として、3〜6ヶ月以内に再検査を受けることになります。この「診断が確定するまでの期間」は、多くの方が不安を感じる時期ですが、正確な状態を把握するために必要なステップです。また、糖尿病の検査費用は保険適用となる場合がほとんどですので、指摘されたら必ず医療機関を受診してください。
診断に使われる4つの主要な検査(血糖値とHbA1c)
「糖尿病型」かどうかを判断するために、主に以下の4つの検査が行われます。それぞれの検査が「いつ」の「何」を見ているのかを理解することが重要です。
1. 空腹時血糖値(FPG)
これは、健康診断で最も一般的に行われる検査です。10時間以上絶食(水やお茶は可)した状態で採血し、血液中のブドウ糖濃度を測定します。「食事」という最大の血糖変動要因を排除した、その人の基礎的な血糖値を反映します。
- 糖尿病型: 126 mg/dL 以上
 - 正常型: 110 mg/dL 未満
 - 正常高値: 100〜109 mg/dL(この範囲は「正常」ですが、将来糖尿病になりやすいため注意が必要とされます)
 
2. 随時血糖値
食事時間とは関係なく、医療機関を訪れた時点で測定する血糖値です。日常生活の中での血糖値を反映しますが、直前の食事が大きく影響します。
- 糖尿病型: 200 mg/dL 以上
 
この値が200 mg/dL以上で、かつ典型的な症状(口渇、多飲、多尿など)がある場合は、1回の検査で糖尿病と診断される強力な根拠となります。
3. 75g経口ブドウ糖負荷試験(OGTT)
これは「隠れ糖尿病」を見つけるための、より精密な検査です。まず空腹時血糖を測定した後、75gのブドウ糖が入った甘い液体を飲み、その2時間後に再度血糖値を測定します。インスリンを分泌して血糖値を下げる能力(耐糖能)が十分にあるかを評価します。
- 糖尿病型: 2時間値が 200 mg/dL 以上
 - 境界型(予備群): 2時間値が 140〜199 mg/dL
 - 正常型: 2時間値が 140 mg/dL 未満
 
4. HbA1c(ヘモグロビン・エーワンシー)
上記の3つが「その瞬間」の血糖値を見るのに対し、HbA1cは過去1〜2ヶ月間の血糖値の平均点を示す検査です。厚生労働省e-ヘルスネットによると、赤血球中のヘモグロビンがブドウ糖とどれくらい結合しているかを見ており、直前の食事や運動の影響を受けにくいため、信頼性の高い指標とされています。診断だけでなく、治療中のコントロール状態を評価するためにも使われます。
- 糖尿病型: 6.5% 以上(国際標準値)
 
HbA1cの基準値は非常に重要ですが、前述の通り、HbA1cが6.5%以上であっても、必ず血糖値の検査と組み合わせて診断されます。また、血糖値の正常範囲と併せて理解することが大切です。
75g経口ブドウ糖負荷試験(OGTT)が特に推奨される人
空腹時血糖値だけでは正常(110 mg/dL未満)でも、食後に血糖値が急上昇してなかなか下がらない「食後高血糖」の人がいます。これが「隠れ糖尿病」と呼ばれる状態です。OGTTは、このような空腹時血糖値だけでは見逃されてしまう糖尿病や、その一歩手前の「境界型(予備群)」を発見するために非常に有効な検査です。
日本糖尿病学会は、特に以下のようなリスクを持つ人には、OGTTの実施を積極的に検討するよう推奨しています。
- 空腹時血糖値が100〜109 mg/dL(正常高値)の人
 - HbA1cが5.6%〜6.4%の人(糖尿病型ではないがやや高め)
 - 肥満(特に内臓脂肪型肥満)がある人
 - 血縁家族(親や兄弟)に糖尿病の人がいる
 - 高血圧や脂質異常症(悪玉コレステロールや中性脂肪が高いなど)の治療を受けている人
 
糖尿病予備群(境界型)と診断された場合、それはまだ病気ではありませんが、将来的に糖尿病へ移行するリスクが非常に高いという重要なサインです。この段階で気づき、生活習慣を見直すことができれば、糖尿病の発症を防いだり、遅らせたりすることが可能です。
「糖尿病疑い」:血糖値かHbA1c、片方だけが高い場合の再検査
健康診断の結果で最も判断に迷うのが、「空腹時血糖は正常(110未満)だが、HbA1cが6.6%と高い」あるいは「空腹時血糖が130と高いが、HbA1cは5.8%と正常」といった、片方だけが「糖尿病型」を示すケースです。
この場合、診断は「糖尿病疑い」となり、3〜6ヶ月以内に再検査(空腹時血糖とHbA1cの両方、あるいはOGTT)を受けることになります。この期間は非常に不安かもしれませんが、体調の変化(例えば、検査直前に風邪をひいていた、ストレスが強かったなど)による一時的な血糖上昇の可能性も考慮し、慢性的な状態かを慎重に見極めるための重要な期間です。
特に重要なルールとして、「HbA1cが6.5%以上」という結果が2回続いただけでは、糖尿病とは診断されません。診断を確定させるには、必ず1回は血糖値(空腹時、OGTT、随時のいずれか)で糖尿病型(126 mg/dL以上、200 mg/dL以上)であることを確認する必要があります。例えば、HbA1cが7.2%と高い場合でも、血糖値での裏付けが必要なのです。
HbA1cが診断に使えない例外的な状況
HbA1cは非常に優れた検査ですが、万能ではありません。「過去1〜2ヶ月の赤血球の状態」を見ているため、その赤血球自体に異常があると、実際の血糖平均とHbA1cの値がかけ離れてしまう(乖離する)ことがあります。
以下のような状態では、HbA1cを診断の根拠にできない(あるいは慎重に判断すべき)とされています。
- 急速に発症した糖尿病(劇症1型糖尿病など):血糖値は急激に(数日のうちに)悪化しますが、HbA1cはまだ上昇が追いつかず、正常値を示すことがあります。
 - 貧血(鉄欠乏性貧血など):赤血球の寿命が変わるため、HbA1cが高く出たり低く出たりすることがあります。
 - 透析を受けている:腎不全や透析治療の影響でHbA1cは不正確になります。
 - 妊娠中:妊娠中は赤血球の変動が通常と異なるため、HbA1cではなく血糖値(特にOGTT)で診断します(妊娠糖尿病の基準は別に定められています)。
 
これらの場合、診断はHbA1cに頼らず、空腹時血糖値やOGTTといった「血糖値」そのものによって行われます。特に1型糖尿病が疑われる急激な症状がある場合は、HbA1cの値に関わらず、即座に血糖値での診断と治療が必要です。
日本と国際基準(WHO・CDC)の診断基準は同じ?
「日本の基準は世界と違うのでは?」と疑問に思う方もいるかもしれません。結論から言うと、診断の核となる数値基準は、現在ほぼ共通化されています。
- 空腹時血糖値 ≧ 126 mg/dL
 - OGTT 2時間値 ≧ 200 mg/dL
 - HbA1c ≧ 6.5%
 
これらの主要な閾値は、WHO(世界保健機関)やCDC(アメリカ疾病予防管理センター)が用いる基準と一致しています。これは、HbA1cが国際標準化されたことにより、世界中で同じ基準で糖尿病を診断できるようになったためです。
ただし、細かな「正常」の定義には若干の違いがあります。例えば、アメリカなどでは空腹時血糖値が100 mg/dL以上になると「Prediabetes(糖尿病前段階)」として、より早期からの介入が推奨されることがあります。一方、日本では100〜109 mg/dLを「正常高値」と呼び、「正常域」の範囲内ではあるものの、OGTTなどを推奨する、というアプローチを取っています。どちらも「100を超えたら注意が必要」という点では共通しており、糖尿病の原因となるリスク因子を持つ人は、特に注意が必要です。
すぐ受診すべき高血糖のサイン(緊急時)
診断基準を満たすかどうかを待っていられない、緊急性の高い高血糖状態があります。これは「糖尿病ケトアシドーシス(DKA)」や「高浸透圧高血糖症候群(HHS)」と呼ばれる状態で、命に関わることがあります。
もし、以下のような症状が急激に現れた場合は、再検査を待たず、ただちに医療機関を受診してください。
- 極度の喉の渇き、大量の飲水、大量の尿
 - 急激な体重減少(数週間で数キロ単位)
 - 強い全身倦怠感、ぐったりしている
 - 吐き気、嘔吐、腹痛
 - 呼吸が速い、または息が「アセトン臭(果物が腐ったような甘酸っぱい匂い)」がする
 - 意識がもうろうとする、反応が鈍い
 
これらの症状は、体内のインスリンが極度に不足し、体がエネルギー源として脂肪を分解し始めた結果、血液が酸性に傾いている(ケトアシドーシス)危険なサインです。特に1型糖尿病の発見時に見られることがありますが、2型糖尿病でも清涼飲料水の多飲(ペットボトル症候群)などで引き起こされることがあります。これらは糖尿病の急性合併症であり、緊急入院とインスリン治療が必要です。
よくある質問(FAQ)
Q1: 健診で空腹時血糖が128 mg/dLでした。これで糖尿病と確定ですか?
A: いいえ、その1回の結果だけでは「糖尿病確定」とはなりません。126 mg/dL以上ですので「糖尿病型」に該当しますが、診断基準に基づき「糖尿病疑い」となります。症状がなければ、3〜6ヶ月以内に再検査(空腹時血糖とHbA1cなど)を受け、そこでも再び「糖尿病型」が確認された場合に診断が確定します。ただし、放置せず、必ず医療機関で再検査を受けてください。
Q2: HbA1cが6.8%でしたが、空腹時血糖は105 mg/dLで正常でした。糖尿病ですか?
A: このケースも「糖尿病疑い」です。HbA1cは6.5%以上で「糖尿病型」ですが、空腹時血糖は110 mg/dL未満で「正常型」(ただし100〜109 mg/dLは正常高値)です。このように結果が一致しない場合は、3〜6ヶ月以内に再検査となります。隠れた食後高血糖がある可能性もあるため、医師の判断でOGTT(ブドウ糖負荷試験)を行うこともあります。
Q3: 境界型(予備群)と言われたら、必ずOGTTを受けるべきですか?
A: 必須ではありませんが、ご自身のインスリン分泌能力(耐糖能)を正確に知るために、受けることが強く推奨されます。特に空腹時血糖が100〜109 mg/dLの人や、肥満、家族歴など他のリスクがある人は、OGTTによって食後の血糖変動パターンを知ることが、将来の糖尿病発症予防に非常に役立ちます。
Q4: 家で測った血糖測定器で210 mg/dLありました。これで診断されますか?
A: いいえ、家庭用の血糖値測定器(SMBG)やCGMの値は、あくまで日常管理の目安であり、正式な「診断」には用いません。診断には医療機関での静脈採血が必要です。ただし、200 mg/dLを超える高値が出ていることは重要なサインですので、速やかに医療機関を受診し、正式な検査を受けてください。
Q5: 高血糖と一緒に吐き気や強いだるさがあります。3ヶ月後の再検査を待ってもいいですか?
A: 絶対に待ってはいけません。その症状は、上記「すぐ受診すべき高血糖のサイン」で解説した「糖尿病ケトアシドーシス(DKA)」などの緊急事態の可能性があります。再検査の予約を待たず、ただちに(夜間や休日であれば救急外来へ)医療機関を受診してください。
血糖コントロールの基本(目標値・モニタリング・CGMの活用)
前節で糖尿病の「診断」について詳しく見てきました。診断が確定した今、多くの方が「これから何をすればいいのか?」「どの数値を目指せばいいのか?」という不安と疑問を抱えていらっしゃるかもしれません。診断はゴールではなく、ご自身の体を理解し、より良く付き合っていくためのスタートラインです。
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ここから始まるのが「血糖コントロール」です。これは単に血糖値を下げることだけが目的ではありません。将来の合併症(目や腎臓、神経の障害)を防ぐことと、「低血糖」という差し迫った危険を回避すること、この2つのバランスを最適に保つことが本当のゴールです。このセクションでは、そのための「羅針盤」となる血糖コントロールの基本的な考え方、目標値の設定、そして最新の測定技術について、日本糖尿病学会の最新ガイドライン(2024年版)[cite: 1]などを基に、深く掘り下げて解説します。
血糖コントロールのゴール:なぜ「HbA1c 7.0%未満」が基本なのか
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糖尿病の管理について話すとき、必ず「HbA1c(ヘモグロビンA1c)」という言葉が登場します。これは、赤血球の中のヘモグロビンがどれくらい糖と結合しているかを示す数値で、過去1〜2ヶ月間の血糖値の「平均点」のようなものです。健康診断などで測る「空腹時血糖値」がその瞬間の「スナップショット」であるのに対し、HbA1cは長期的なコントロール状態を評価するための最も重要な指標です。 [cite: 1]
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では、なぜ「7.0%未満」が目標とされるのでしょうか。これは、過去の大規模な臨床研究(UKPDSなど)によって、HbA1cが7.0%を超えると、網膜症(目の合併症)や腎症(腎臓の合併症)といった、細い血管の障害が明らかに増え始めることが分かっているからです。[cite: 1] つまり、7.0%未満を保つことは、これらの深刻な合併症の発症・進展を食い止めるための「防衛ライン」なのです。
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ここで一つ注意点があります。糖尿病の「診断基準」はHbA1c 6.5%以上ですが、治療「目標」は7.0%未満とされています。 [cite: 1] この0.5%の差に、「なぜ?」と疑問に思うかもしれません。これは、診断は「病気である」と確定するための線引きであるのに対し、治療目標は「安全に合併症を防ぐ」という、より現実的なラインを設定しているためです。治療によって血糖値を下げすぎると、次に解説する「低血糖」のリスクが伴うため、安全性を考慮した目標が7.0%未満なのです。ご自身のHbA1cが今どの位置にあるのか、まずはHbA1cの基本的な見方を理解することが第一歩となります。
患者さんごとに異なる目標値:なぜ「個別化」が最も重要か
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「7.0%未満」はあくまで基本的な目標であり、現代の糖尿病治療で最も重視されているのは「目標値の個別化」です。[cite: 1] すべての人が同じ目標を目指すわけではありません。なぜなら、患者さん一人ひとりの年齢、罹病期間、持っている合併症、そして「低血糖」のリスクが全く異なるからです。
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日本糖尿病学会は、この個別化を具体的に示すために、大きく3つの目標設定を提示しています。[cite: 1]
- より厳格な目標:HbA1c 6.0%未満
- 対象:比較的若年で、発症して間もない、合併症がまだない方。
 - 目的:血糖値を正常に近づけ、将来にわたって合併症を限りなく予防する。
 - 条件:ただし、これを達成するために低血糖を頻発するようでは本末転倒です。安全に達成できる場合に限られます。
 
 - 基本的な目標:HbA1c 7.0%未満
- 対象:多くの成人2型糖尿病患者さん。
 - 目的:合併症の発症・進展を防ぐための、最も標準的でエビデンス(科学的根拠)のある目標です。
 
 - より緩やかな目標:HbA1c 8.0%未満
- 対象:低血糖を起こしやすい薬剤(インスリンやSU薬)を使用中の方、重い合併症がすでにある方、ご高齢の方、認知機能や身体機能が低下している方など。
 - 目的:これは「諦めの目標」では決してありません。「安全性を最優先する」という非常に重要な戦略的目標です。
 
 
特に高齢者の血糖管理は、若い方とは全く異なる視点が必要です。60歳以上、特に75歳以上の方では、厳格すぎるコントロールは、むしろ低血糖による転倒、骨折、認知機能の悪化、心血管イベントのリスクを高めることがわかっています。 そのため、日本糖尿病学会は高齢者糖尿病ガイドラインで「目標値の下限」も意識し、安全性を最優先するよう強く推奨しています。 ご自身のHbA1cの数値が、ご自身の年齢や健康状態にとって最適な目標なのか、主治医とよく話し合うことが極めて重要です。
血糖値の「測り方」:SMBGとCGM(isCGM)の役割分担
目標値が決まったら、次は「どうやって測るか」です。HbA1cは「平均点」でしたが、日々の生活で変動する血糖値の「動き」を捉えることも同様に重要です。現在、主な測定方法には2種類あり、それぞれ全く異なる役割を持っています。
SMBG(血糖自己測定):その瞬間の「真実の値」を知る
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SMBG (Self-Monitoring of Blood Glucose) は、指先などから微量の血液を採取し、携帯型の測定器で血糖値を測る方法です。[cite: 2] これは、その瞬間の「血液中」のブドウ糖濃度、すなわち「実測値」を直接知るための、最も標準的で正確な方法です。
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 - 役割:インスリン注射の量を決める時、低血糖かな?と感じた時、食後にどれくらい上がったかをピンポイントで確認する時など、「今、この瞬間の正確な値」が必要な場面で不可欠です。[cite: 2]
 
 
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- 対象:特にインスリン治療中の方には、安全な治療継続のために推奨グレードA(強く推奨)とされています。[cite: 2]
 
CGM/isCGM:「血糖値の映画」で生活パターンを可視化する
近年、急速に普及しているのがCGM(持続グルコースモニタリング)です。これには、リアルタイムで常に値を表示し続ける「rtCGM」と、センサーにリーダーをかざした時だけ値を読み取る「isCGM(間欠スキャン式、フラッシュ型とも。代表的な製品にFreeStyleリブレなどがあります)」が含まれます。
これらは指先から採血するのではなく、腕やお腹に装着した小さなセンサーで、血液中ではなく「皮下組織の間質液」のグルコース濃度を測定します。 SMBGが「スナップショット(写真)」なら、CGMは「24時間の映画」に例えられます。
- 役割:CGMの最大の価値は「血糖変動のパターン」を明らかにすることです。例えば、「夜中に自分でも気づかないうちに低血糖が起きていた」「朝食で食べたパンが、昼食のそばよりずっと血糖値を上げていた」といった、SMBGの点と点の間で起きていた「隠れた変動」を可視化します。 これは、夜間高血糖や暁現象の特定に非常に有用です。
 - 対象:インスリン治療中でも血糖変動が大きい方、低血糖を頻発する方、生活が不規則な方、また食事や運動の効果を「見える化」して学習したい方などに適しています。
 
🚨 最も重要な安全上の注意点:
CGM/isCGMは非常に便利ですが、測定しているのは「間質液」であり、「血液」ではありません。そのため、血糖値が急激に変動している時(食後や運動直後など)は、実際の血糖値とセンサーの値に「タイムラグ(ずれ)」が生じます。
もし、冷や汗や動悸など「低血糖」の症状を感じているのに、センサーの数値がまだ「80」などを示している場合、センサーを信じてはいけません。必ずSMBG(指先採血)で実測値を確認してください。これは2024年版の適正使用指針でも繰り返し強調されている、最も重要な安全ルールです。詳しくは血糖値測定器の選び方やCGMの完全ガイドも参照してください。
CGMデータの新しい「読み方」:TIR・TBRとAGPレポート
CGMという「映画」を手に入れたことで、HbA1cという「平均点」だけでは見えなかった、新しい評価指標が国際的に使われるようになりました。 それが「TIR(ティー・アイ・アール)」です。
- TIR (Time in Range / タイム・イン・レンジ):
「24時間のうち、血糖値が目標範囲内(通常 70〜180 mg/dL)に収まっていた時間の割合」です。 - TBR (Time Below Range / タイム・ビロウ・レンジ):
「目標範囲より下(70 mg/dL未満)だった時間の割合」で、低血糖の危険度を示します。 - TAR (Time Above Range / タイム・アバブ・レンジ):
「目標範囲より上(180 mg/dL超)だった時間の割合」で、高血糖の時間を示します。 
HbA1cが同じ7.0%の人でも、一日の血糖値が70〜180の間で安定している人(TIRが高い)と、低血糖(TBR)と高血糖(TAR)をジェットコースターのように繰り返している人(TIRが低い)とでは、体の負担や合併症のリスクが全く異なります。TIRは、血糖値の「質」を評価する指標と言えます。
ここでも日本の状況を踏まえた注意点があります。国際的なコンセンサスでは、「TIR 70%以上、TBR 4%未満」が一般的な目標とされています。しかし、日本糖尿病学会の2024年指針では、「これらの目標値は国外のデータに基づいており、そのまま日本人に当てはめると過大または過小評価になる可能性がある。今後、日本人での適切な目標値を検証する必要がある」と、慎重な立場をとっています。
したがって、現時点でのTIRの活用法としては、「国際目標の70%」という数字に一喜一憂するのではなく、ご自身の現在のTIRを把握し、それを少しでも改善していくこと(特にTBRの時間を減らすこと)が重要です。これらのデータは「AGPレポート」というグラフにまとめられ、食後血糖値のコントロールや生活習慣の見直しに役立てられます。
モニタリングの実践:いつ測り、どう活かすか
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目標値と測定器が揃っても、それを「どう活かすか」がわからなければ宝の持ち腐れになってしまいます。測定は「行動変容」とセットになって初めて意味を持ちます。[cite: 2]
SMBG(指先採血)の活かし方
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インスリン治療中の方は、主治医の指示に従い、食前・食後・就寝前など、必要なタイミングで測定します。[cite: 2] [cite_start]大切なのは、その数値を見て「次のインスリン量をどうするか」「補食(間食)が必要か」を判断することです。また、経口薬のみの方でも、「今日は外食で食べ過ぎた」「激しい運動をした」といった特定のタイミングで測定し、ご自身の生活と血糖値の関連を知る「教育目的」で使うことが推奨されます。[cite: 2]
CGM/isCGMの活かし方
CGMは、まさに「生活習慣の通知表」です。センサー装着中の2週間は、ぜひ食事や運動、睡眠の記録をつけてみてください。「あの時食べたケーキで、血糖値はこんなカーブを描いていたのか」「夜中の2時に低血糖が起きていたとは」と、ご自身の体が何に反応しているのかが手に取るようにわかります。この「気づき」こそが、CGMの最大の教育的効果です。 医師や看護師、栄養士は、そのデータ(AGPレポート)を見ながら、測定頻度も考慮しつつ、あなただけの最適な治療法や生活スタイルを一緒に考えてくれます。
ただし、これらの先進的な機器(特にrtCGM)を保険診療で使用するには、施設基準や医師の研修要件など、日本の医療制度上のルールがあります。 すべての患者さんがすぐに使えるわけではないため、「自分は対象になるか」「費用はどうか」を含め、まずは主治医に相談してみましょう。
よくある質問(FAQ)
HbA1cは必ず7%未満でなければダメですか?
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いいえ、そんなことはありません。「7.0%未満」は標準的な目標ですが、最も重要なのは「個別化」です。前述の通り、ご高齢の方や低血糖リスクが高い方は、安全性を優先して「8.0%未満」を目標にすることもありますし、若年で合併症のない方は「6.0%未満」を目指すこともあります。 [cite: 1] 大切なのは、主治医と相談し、ご自身の年齢や健康状態、生活スタイルに合った「あなただけの目標値」を設定することです。
SMBGとCGM、どちらが良いですか?
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これは「どちらが良いか」ではなく、「役割が違う」と考えるのが適切です。 [cite: 2]
- SMBG(指先採血)は、インスリン量の調整や低血糖の確認など、「今この瞬間の正確な値」が必要な時に不可欠な「判断材料」です。
 - CGM(センサー式)は、24時間の変動やパターンを可視化し、生活習慣のどこに問題が隠れているかを見つけるための「学習・分析ツール」です。
 
多くの場合、これらを組み合わせて使うことで、より安全で質の高いコントロールが可能になります。
CGMのTIRは何%を目指せばいいですか?
国際的には「TIR 70%以上」が目標として示されていますが、2024年5月の日本糖尿病学会の指針では「これは国外のデータであり、日本人で検証が必要」とされています。 現時点では、特定の数字を目指すことよりも、ご自身のTIRを把握し、特に危険なTBR(低血糖の時間)を4%未満、理想は1%未満に減らしていくことを優先するのが現実的なアプローチです。
センサーの数値と体感が合いません。
これは最も重要な安全上の警告です。すぐにSMBG(指先採血)で実際の血糖値を確認してください。
特に、冷や汗、動悸、ふらつきなど「低血糖」の症状(低血糖の全貌はこちら)を感じた場合は、センサーの数値を待たず、ためらわずに指先で確認する習慣をつけてください。センサーが測定しているのは間質液であり、急変動時には血液の値と「ずれ」が生じることがあります。
CGMは保険で使えますか?
使えますが、対象となる患者さんや医療機関には条件があります。2024年の適正使用指針に基づき、1型糖尿病の方、2型糖尿病でもインスリンやGLP-1受容体作動薬を使用中で血糖コントロールが不安定な方などが主な対象です。また、リアルタイムCGMは、所定の研修を受けた医師がいる施設基準を満たした医療機関でのみ処方可能です。 ご自身が保険適用の対象となるかは、主治医にご相談ください。
このセクションでは、血糖コントロールの「目標」と「測定方法」という羅針盤について解説しました。目標が定まり、自分の現在地を知る方法がわかったら、次はいよいよ「どうやってその目標を達成するか」という具体的な行動に移ります。コントロールの3本柱である「食事」「運動」「薬」。次節では、その中でも最も基本的で、毎日関わる「食事療法」について、詳しく見ていきましょう。
食事療法(エネルギー計算・GI/GL・糖質制限・間食・外食の工夫)
前節では、糖尿病管理の根幹である「血糖コントロール」の基本的な考え方について見てきました。本節では、そのコントロールを実現するための最も重要で、すべての方に取り組んでいただく必要がある「食事療法」について、具体的な方法を掘り下げて解説します。
「食事療法」と聞くと、「あれもダメ、これもダメ」といった厳しい制限や、特別な高価な食材が必要だと想像し、憂鬱になる方も多いかもしれません。しかし、日本糖尿病学会が示す現代の食事療法は、決して「我慢大会」ではありません。むしろ、「自分にとっての適量を知り、食べる順番や組み合わせを工夫し、生活の中で無理なく続けること」を最重要視しています。特別な食事ではなく、ご自身の食生活を少し見直すことから始まります。
糖尿病食事療法の目的と基本原則
食事療法の最大の目的は、単に血糖値を下げることだけではありません。最終的なゴールは、食後の高血糖や急激な血糖変動(血糖値スパイク)を抑え、長期的に良好なHbA1c(ヘモグロビンA1c)を維持することです。そして、その先にある「合併症(神経障害、網膜症、腎症、心血管疾患)の発症・進展を防ぎ、健康な人と変わらない生活の質(QOL)と寿命を確保すること」こそが真の目的です。(出典:日本糖尿病学会 糖尿病治療ガイド)
この目的を達成するため、食事療法では以下の3つの基本原則を守ることが推奨されます。
- 適正なエネルギー摂取量を守る:肥満はインスリンの効き目を悪くする(インスリン抵抗性)最大の原因です。まずはご自身の身長や活動量に見合ったエネルギー量を知り、それを超えないようにすることが第一歩です。
 - 栄養バランスを整える:特定の栄養素をゼロにするのではなく、炭水化物・たんぱく質・脂質の三大栄養素、さらにビタミン・ミネラルをバランスよく摂取します。特に日本人の食生活に合ったバランスが重視されます。
 - 規則正しい食生活を心がける:「1日3食」を基本とし、食事を抜いたり(欠食)、夜遅くにまとめ食いをしたりする(どか食い)のを避けます。食事の時間が不規則になると、血糖値が乱高下しやすくなります。
 
これらの原則は、血糖コントロールの全体像の中で、運動療法や薬物療法と並行して、治療の土台として生涯続くものです。
1日の「適正エネルギー量」の計算方法
食事療法の第一歩は、「自分は1日に何キロカロリーまで食べて良いのか」という「指示エネルギー量」を知ることです。これは、医師や管理栄養士が患者さん一人ひとりの体格、年齢、性別、そして日常の活動レベルを考慮して設定します。
計算の基本となるのは「標準体重」です。これは、統計的に最も病気になりにくいとされる体重で、以下の式で計算されます。
標準体重(kg) = 身長(m) × 身長(m) × 22
(例:身長165cmの人の場合 → 1.65 × 1.65 × 22 = 59.9kg)
次に、この標準体重に「身体活動量」を掛け合わせます。身体活動量は、その人の日常生活がどの程度アクティブかを示す数値です。
- 軽労作(デスクワーク中心、主婦など): 25~30 kcal/kg標準体重
 - 普通労作(立ち仕事、営業など): 30~35 kcal/kg標準体重
 - 重労作(力仕事、農業、スポーツ選手など): 35 kcal/kg標準体重~
 
1日の指示エネルギー量(kcal) = 標準体重(kg) × 身体活動量(kcal/kg)
(例:標準体重59.9kgでデスクワーク中心の人の場合 → 59.9kg × 25~30kcal = 約1500~1800kcal)
多くの場合、初診時は男性で1,600~2,000kcal、女性で1,400~1,800kcalの範囲に設定されることが多いです(出典:厚生労働省 e-ヘルスネット)。
ただし、これはあくまで出発点です。大切なのは、このエネルギー量を守りながら体重管理を行い、実際の体重の増減、血糖値やHbA1cの改善度、そして低血糖の有無を見ながら、1~3ヶ月ごとに微調整していくことです。
特に注意が必要なのは高齢者の方です。日本糖尿病学会の高齢者糖尿病ガイドラインでは、エネルギー制限が厳しすぎると筋肉量が減少する「サルコペニア」や虚弱(フレイル)を招くリスクがあると指摘しています。そのため、60歳以上の方では、体重を減らすことよりも、むしろ必要な栄養を確保し、筋肉を維持することを優先する場合もあります。自己判断で極端なカロリー制限を始めるのは危険です。
栄養バランスと「食品交換表」の活用
「1日1600kcal」と決められても、具体的に何を食べればよいか戸惑うものです。そこで重要になるのが「栄養バランス」です。
日本糖尿病学会が提言しているのは、日本人の伝統的な食生活を踏まえたバランスで、総エネルギー量のうち以下の割合で摂取することが基本とされています(出典:厚生労働省資料)。
- 炭水化物: 50~60%
 - たんぱく質: 20%以下(ただし腎症の進行度により制限が必要な場合あり)
 - 脂質: 残り(おおむね25%前後)
 
このバランスを実現するための強力なツールが、日本糖尿病学会が発行する「糖尿病食事療法のための食品交換表」です。これは、食品を栄養素の特徴ごとに6つのグループ(表1~表6)と調味料に分類し、「1単位=80kcal」という共通のモノサシで食品の量を「見える化」したものです。
例えば、1日の指示エネルギー量が1600kcalなら、合計で「20単位」となります。この20単位を、「主食(表1)から10単位、主菜(表3, 5)から5単位、野菜(表6)から3単位…」というように振り分けます。一度この「単位」の感覚を掴めば、「今日はご飯(表1)を少し減らす代わりに、食後の果物(表2)を1単位食べよう」といったように、同じグループ内やグループ間で食品を交換(調整)しても、総エネルギー量と栄養バランスを大きく崩さずに済みます。これは、日々の食事レシピを考える上で非常に実践的な考え方です。
また、適切なご飯の量やおかずの組み合わせを視覚的に学ぶこともできます。最初は難しく感じるかもしれませんが、管理栄養士による栄養指導で具体的に学ぶことで、一生役立つスキルとなります。
食後血糖を抑える「GI/GL」と食べ方の工夫
総エネルギー量と栄養バランスを整えても、食後の血糖値が急上昇してしまうことがあります。この「食後高血糖」を抑えるために注目されているのが「GI(グリセミック・インデックス)」と「GL(グリセミック・ロード)」という考え方です。
- GI (Glycemic Index):その食品が、食後にどれだけ「速く」血糖値を上げるかを示す指標です。ブドウ糖を100として、数値が低いほど血糖値の上昇が緩やかです。
 - GL (Glycemic Load):GIに、その食品に含まれる炭水化物の「量」を掛け合わせた指標です。GIが低くても食べる量が多ければ血糖値は上がるため、GLの方がより現実的な指標とされています。
 
日本糖尿病学会の2024年ガイドラインでは、「低GI/GL食は食後血糖の改善に有用」としつつ、日本の食文化や継続性を考慮して導入する選択肢の一つ、と位置づけています。一方で、国際的な研究ではGI/GLの重要性がより強調されています。2024年に発表された多国籍コホート研究では、高GIおよび高GLの食事が2型糖尿病の新規発症リスクと関連していることが示されました(出典:PubMed 38588684)。また、過去のシステマティックレビューでも同様の傾向が報告されています。
難しい計算をしなくても、日常生活でGI/GLを意識する簡単な工夫があります。これらは国立国際医療研究センターなどの指導でも推奨されています。
- ベジファースト(食べる順番の工夫):食事の最初に、野菜や海藻、きのこ類(食物繊維)から食べ始め、次におかず(たんぱく質・脂質)、最後にご飯やパン(炭水化物)を食べる方法です。食物繊維が糖の吸収を遅らせ、食後血糖の急上昇を抑えます。
 - 主食の選び方:白米や食パンよりも、玄米、麦ごはん、雑穀米、全粒粉パンなど、精製度の低い主食を選ぶとGIが低くなります。GI値に関する理解を深めることも役立ちます。
 - 甘い飲み物を避ける:砂糖や果糖ぶどう糖液糖が入ったジュース、清涼飲料水、スポーツドリンクは、吸収が非常に速く血糖値を急激に上げるため、日常的な飲用は控えます。
 
「糖質制限食」との向き合い方(日本のガイドライン)
近年、「糖質制限食(低炭水化物食)」が体重減少や血糖改善に効果的であるとして注目されています。これについて、日本の糖尿病専門家の間ではどのような見解が示されているのでしょうか。
日本糖尿病学会の2024年ガイドラインでは、糖質制限食を「選択肢の一つ」と位置づけています。日本人を対象とした研究(炭水化物摂取量を1日130g程度に設定)では、体重とHbA1cの短期的な改善効果が報告されています。しかし、同時にエネルギー摂取量も減っていたこと、低血糖が報告されたこと、長期的な安全性や心血管疾患への影響に関するデータがまだ不十分であることから、「すべての人に一律に推奨する」という立場はとっていません。
特に、極端に糖質をゼロに近づけるようなケトジェニック・ダイエットは、腎症がある方、高齢者、インスリン治療中の方にはリスクを伴う可能性があります。日本人の食生活では、炭水化物を50~60%とする標準的な食事バランスが、パンやご飯などの主食を楽しみながら継続しやすいと考えられています。
もし糖質制限を取り入れる場合でも、自己流で極端に行うのではなく、まずは以下のような「ゆるやかな糖質コントロール」から始めることが推奨されます。
- 毎食の主食(ご飯、パン、麺類)の量を、これまでの2/3~1/2程度に減らしてみる。
 - ラーメンとチャーハン、うどんとおにぎりといった「炭水化物の重ね食い」をやめる。
 - 食後血糖の改善度や体調の変化を、主治医や管理栄養士と共有しながら進める。
 
国立国際医療研究センターの資料では、同じエネルギー量でも炭水化物比率を40%, 50%, 60%と変えた場合の献立例が示されており、個々の状況に応じた柔軟な対応が可能であることを示しています。
間食(おやつ)や甘い飲み物の賢い選び方
「糖尿病になったら、おやつは一切禁止」と考えている方も多いですが、これも誤解です。大切なのは、「何を」「いつ」「どれだけ」食べるかを計画することです。
国立国際医療研究センターの実践編では、間食(おやつ)の目安を1回あたり80kcal前後(食品交換表で1単位)とし、以下の工夫を推奨しています。
- 成分表示を見る習慣をつける:クッキー1枚、せんべい2枚でも、種類によっては80kcalを超えることがあります。必ず栄養成分表示の「エネルギー(カロリー)」を確認します。
 - 時間を決めて食べる:テレビを見ながら、仕事をしながらの「だらだら食べ」は、食べた量が分からなくなりがちです。「午後3時」など時間を決め、お皿に出して食べるようにします。
 - 夕食後・夜間は避ける:夜間はエネルギーが消費されにくく、血糖値が下がりにくいため、間食は日中が原則です。
 - 個包装のものを活用する:大袋のまま食べ始めると、つい食べ過ぎてしまいます。小分けになっているものを選びましょう。
 
適切な飲み物を選ぶことが非常に重要です。前述の通り、砂糖や果糖ぶどう糖液糖を含む清涼飲料水は血糖値を急激に上げます。厚生労働省の資料でも、甘い飲み物は控えるよう明示されています。お茶、水、ブラックコーヒーなどを基本としましょう。どうしても甘味が欲しい場合は、ゼロカロリーの甘味料を上手に使うのも一つの方法です。
外食・コンビニ食を続けるための実践テクニック
仕事や生活スタイルによっては、外食やコンビニなどの中食(なかしょく)が中心になることも珍しくありません。「自炊でないと食事療法は無理」と諦める必要はありません。選び方次第で、血糖コントロールは可能です。
日本糖尿病学会の「健康食スタートブック」では、外食や中食を選ぶ際の実践的なコツを紹介しています。
- エネルギー表示・栄養成分表示がある店を選ぶ:まずは「見える化」されていることが重要です。
 - 主食・主菜・副菜を揃える:定食スタイルが理想です。丼ものや麺類(単品)は炭水化物に偏りがちです。
 - 「主食(ご飯)は小さめ」を意識する:定食のご飯を半分にしてもらう、コンビニのおにぎりは1個にするなど、主食の量を調整します。
 - 野菜・海藻・きのこ類を一品追加する:単品料理になりがちな場合、コンビニのサラダ、おひたし、海藻スープなどを必ず一品加えます。
 - 揚げ物+揚げ物を避ける:唐揚げ弁当にコロッケを追加するなど、脂質過多になりやすい組み合わせを避けます。
 - 炭水化物+炭水化物を避ける:ラーメンとライス、うどんとおいなりさん、といった組み合わせは血糖値を急激に上げます。
 
国立国際医療研究センターの献立例でも、コンビニの惣菜(主菜や副菜)と自宅で炊いたご飯(主食)を組み合わせるなど、現代の食生活に即した方法が紹介されています。宴会や会食など、どうしても避けられない場面でも、食べる肉の種類を選んだり、野菜から食べたりする工夫は可能です。完璧を目指すのではなく、できることから一つずつ実践することが継続の鍵です。
食事療法に関するよくある質問(FAQ)
Q1: 糖尿病でもご飯やパンを食べていいですか?
A: はい、食べてはいけないわけではありません。日本糖尿病学会は、指示エネルギー量の範囲内で、総エネルギーの50~60%を炭水化物(主食)から摂ることを標準的なバランスとして推奨しています。大切なのは、食べ過ぎないように「量」をきちんと管理することです。
Q2: 糖質制限は糖尿病に一番いい食事法ですか?
A: 日本のガイドラインでは、低炭水化物食は「選択肢の一つ」とされています。短期的な血糖改善効果は報告されていますが、日本人における長期的な安全性や継続性についてはまだデータが十分ではありません。特に低血糖のリスクもあるため、主治医や管理栄養士と相談の上、個別に導入を検討することが推奨されます。
Q3: おやつは一切ダメですか?
A: 完全禁止にする必要はありませんが、「量」と「時間」を決めて食べることが重要です。国立国際医療研究センターの資料では、1回80kcal(食品交換表で1単位)前後を目安に、栄養成分表示を確認し、日中に食べることを推奨しています。
Q4: 外食が多い仕事でもコントロールできますか?
A: 可能です。学会の教育資料でも、主食を小さめにする、揚げ物を重ねない、野菜や海藻の小鉢を一品足す、といった具体的な工夫が紹介されています。単品(丼もの、麺類)よりも、主食・主菜・副菜が揃った定食を選ぶのがコツです。
Q5: GI値の低い食品だけを食べれば血糖は上がりませんか?
A: GIはあくまで「食後血糖の上がりやすさ」の指標です。GIが低い食品(玄米、そばなど)でも、食べる「量」が多ければ血糖値は上がります(GLが高くなります)。総エネルギー量(総カロリー)の管理と組み合わせて活用することが大切です。(出典:PubMed 38588684)
ここまで食事療法について詳しく見てきましたが、血糖コントロールは食事だけでは完結しません。食事で摂取したエネルギーを効率よく消費し、インスリンの効き目を良くするためには、次のセクションで解説する「運動療法」が不可欠な両輪となります。
運動療法(有酸素運動・筋トレ・頻度とタイミング・低血糖予防)
前節では、糖尿病治療の重要な柱である「食事療法」について詳しく見てきました。しかし、食事だけで血糖コントロールを目指すのは、片方のオールだけでボートを漕ぐようなものです。もう一方の不可欠なオールが、この「運動療法」です。
「運動しなさい」と医師から言われても、「どれくらいやればいいの?」「運動中に倒れたらどうしよう?」「インスリンを打っているから怖い」といった不安や疑問を感じる方は非常に多いでしょう。特に2型糖尿病と診断されたばかりの方にとって、運動のさじ加減は難しい問題です。このセクションでは、なぜ運動が必要なのか、そして最も重要な「どうすれば安全に、効果的に運動できるのか」を、日本のガイドラインに基づいて徹底的に解説します。
糖尿病治療における運動療法の「2つの効果」
運動療法がなぜこれほどまでに重要視されるのか。それには「すぐに効く効果」と「じわじわ効く効果」の2つの側面があります。
- 急性効果(すぐに効く): 運動をすると、筋肉はエネルギー源として血液中のブドウ糖を直接消費します。これにより、運動直後から血糖値が下がりやすくなります。特に食後に運動すると、食事によって上がった血糖(食後高血糖)を直接的に抑えることができます。
 - 慢性効果(じわじわ効く): 運動を継続すると、筋肉細胞の「インスリン抵抗性」が改善します。これは、インスリンという「鍵」が効きにくくなっていた状態(鍵穴が錆び付いていた状態)が、運動によって改善し、少量のインスリンでもスムーズにブドウ糖を取り込めるようになることを意味します。
 
この2つの効果により、運動は血糖コントロールを根本から改善する力を持っています。さらに、体重管理や脂質異常症の改善、心血管疾患のリスク低下にもつながり、糖尿病の合併症を予防するために不可欠な治療法と位置づけられています。
運動療法の基本①:有酸素運動(ウォーキングなど)
運動療法の中心となるのが、ウォーキング、軽いジョギング、水泳、サイクリングなどの「有酸素運動」です。これらは全身の大きな筋肉を使い、長時間継続して行う運動です。
厚生労働省の「健康づくりのための身体活動・運動ガイド 2023」や日本糖尿病学会(JDS)のガイドライン、さらにはWHO(世界保健機関)も一致して推奨している目安は、「中等度の有酸素運動を週に合計150分以上」です。
「中等度」とは、「なんとか会話ができるけれど、歌うのは難しい」くらいの強度を指します。これを「週5日、1回30分」のように分割して行うのが現実的です。重要なのは、「運動を2日以上連続して休まないこと」です。なぜなら、運動によるインスリン抵抗性の改善効果は、残念ながら12時間から最大72時間程度しか持続しないためです。効果が切れる前に次の運動を行い、継続して血糖値を安定させることが重要です。
運動療法の基本②:レジスタンス運動(筋トレ)
有酸素運動と並んで、ぜひ取り入れたいのが「レジスタンス運動」、いわゆる筋力トレーニングです。筋肉は、体の中で最も多くのブドウ糖を消費してくれる「巨大なエンジン」です。このエンジンのサイズが大きければ(=筋肉量が多ければ)、安静にしている時でもより多くのブドウ糖を消費してくれます。
JDSのガイドラインでは、「週に2〜3回、連続しない日」に筋トレを行うことを推奨しています。有酸素運動と筋トレを併用することで、血糖コントロールの改善効果がさらに高まることがわかっています。特に高齢の糖尿病患者さんでは、加齢とともに筋肉が減少する「サルコペニア」が起こりやすく、これが血糖コントロールを難しくする一因となります。スクワットやダンベル体操、ゴムバンドを使った運動など、自宅でできる軽い筋トレから始めることが、将来の健康を守るために非常に重要です。
運動する「タイミング」:食後1時間がゴールデンタイム
運動の効果を最大化し、リスクを最小化するために、日本の専門家が特に推奨しているのが「食後1時間前後」の運動です。これには2つの明確な理由があります。
- 食後高血糖を直接抑えるため:
食事で摂取した糖が血液中に吸収され、血糖値がピークを迎えるのが食後1時間頃です。このタイミングで運動をすると、筋肉がそのブドウ糖を待っていたかのように消費してくれるため、血糖値の急上昇(血糖スパイク)を効果的に抑えることができます。 - 低血糖を予防するため(最重要):
後述しますが、インスリンや一部の飲み薬を使っている方にとって、空腹時の運動は低血糖のリスクを高めます。しかし、食後に運動する場合、食事によるブドウ糖が「燃料」として血液中に供給されているため、運動による血糖値の過度な低下を防ぎやすいのです。 
「食後に運動すると消化に悪いのでは?」と心配されるかもしれませんが、激しい運動でなければ問題ありません。食休みを少しとった後、30分程度のウォーキングに出かける、といった習慣が、血糖管理において非常に合理的で安全な戦略とされています。
最重要:薬物療法中の低血糖予防策
インスリン注射やSU薬(スルホニル尿素薬)などのインスリン分泌を促進する飲み薬を使用している方にとって、最大の不安は「運動誘発性低血糖」です。これは、運動によって筋肉がブドウ糖を消費しすぎた結果、血糖値が下がりすぎてしまう状態です。
運動による低血糖は、運動中だけでなく、運動後数時間経ってから、あるいは夜間や翌朝に起こることもあります(遅発性低血糖)。JDSのガイドラインでは、これを防ぐために以下の4つの安全対策を推奨しています。
- 運動前の血糖値確認:
運動を始める前に血糖値を測定します。もし血糖値が100mg/dL未満と低い場合は、運動を延期するか、先に補食(下記参照)をとります。 - 補食(ブドウ糖など)の準備:
万が一のために、ブドウ糖(10g程度)や糖質を含むジュースなどを常に携帯します。運動時間が長引く場合(1時間以上など)は、運動の途中で補食をとることも検討します。 - 薬剤の調整(医師との相談が必須):
運動の予定に合わせて、運動直前のインスリン単位数を減らすなどの調整が必要な場合があります。これは自己判断せず、必ず主治医と相談して決定してください。 - 体調の確認:
いつもより運動強度が高い日、食事の時間がずれた日、飲酒した後、長時間の入浴後などは低血糖が起こりやすいため、特に注意が必要です。 
運動を控えるべき時(メディカルチェック)
運動は非常に有効な治療ですが、特定の状況下ではかえって健康を害する可能性があります。運動を始める前、特にこれまで運動習慣がなかった中高年の方は、メディカルチェックを受けることが望ましいです。
以下のような「レッドフラグ」がある場合は、運動を禁止または制限し、まず主治医に相談する必要があります。
- 空腹時血糖値が250mg/dL以上で、尿ケトン体が陽性の場合(急性合併症のリスク)
 - 増殖網膜症で、最近眼底出血があった場合(高強度の運動は再出血のリスク)
 - 腎不全が進行している場合
 - 狭心症などの虚血性心疾患が不安定な場合
 - 足に潰瘍や壊疽がある場合(フットケアが優先)
 - 発熱などの急性感染症(シックデイ)の時
 
これらの場合でも「全く動いてはいけない」わけではなく、日常生活レベルの活動は必要ですが、治療としての運動は医師の許可を得てから再開・調整する必要があります。
運動療法に関するよくある質問(FAQ)
Q1: 糖尿病ではどれくらい運動すればいいですか?
A: 日本糖尿病学会と厚生労働省は、ウォーキングなどの中等度の有酸素運動を1週間に合計150分以上行うことを推奨しています。大切なのは、2日以上連続で休まないことです。さらに、週2〜3回の筋トレを組み合わせるとより効果的です。
Q2: 食後すぐ歩くと本当に血糖は下がりますか?
A: はい。食後1時間前後は、食べたものが糖に変わり血糖値が最も上がりやすい時間帯です。このタイミングでウォーキングなどの運動をすると、筋肉がその糖をエネルギーとして消費するため、食後の高血糖を抑えるのに非常に効果的です。また、薬物治療中の方は空腹時に運動するよりも安全です。
Q3: インスリンを使っていますが運動しても大丈夫ですか?
A: 運動は推奨されますが、最大の注意点として「低血糖」を防ぐ工夫が絶対に必要です。運動前に血糖値を測る、ブドウ糖や補食を携帯する、そして運動の強度や時間に合わせてインスリン量を調整する(これは必ず主治医と相談してください)ことが重要です。
Q4: 筋トレは糖尿病でもしていいですか?
A: はい、筋トレは筋肉量を増やし、インスリンの効きを良くするために非常に推奨されます。週2〜3回、無理のない範囲で行いましょう。ただし、重度の網膜症や心臓病がある場合は、いきなり高強度の筋トレを行うと危険なことがあるため、どの程度の筋トレなら安全か、事前に医師に相談してください。
食事と運動は、糖尿病治療の両輪です。しかし、これらを行っても目標の血糖値に届かない場合や、1型糖尿病のようにインスリン補充が必須の場合、薬物療法の助けが必要になります。次のセクションでは、その「薬物療法」について詳しく見ていきましょう。
薬物療法の選び方(経口血糖降下薬・インスリン・GLP-1・SGLT2・併用)
前節までの食事療法や運動療法を基本としながら、それでも血糖コントロールが目標に達しない場合、次のステップとして薬物療法が始まります。「薬を始めなければならない」と聞くと、ショックを受けたり、「生活習慣の改善がうまくいかなかった」とご自身を責めてしまったりする方もいらっしゃるかもしれません。しかし、これは決して失敗ではなく、ご自身の体を守るために必要な、次なる「大切な一手」です。
糖尿病の薬物療法は、ここ数年で劇的に進歩しています。かつては血糖値を下げることだけが目的でしたが、現在は「心臓や腎臓を守る」「体重増加を抑える」「低血糖を起こしにくくする」といった、生活の質(QOL)を保つための様々な選択肢が登場しています。このセクションでは、どのような基準で薬が選ばれ、どのように治療がステップアップしていくのか、日本糖尿病学会(JDS)の最新の考え方を中心に、その「選び方の地図」を詳しく解説します。
薬物療法を始めるタイミング:生活習慣療法では不十分なとき
まず最も気になるのは、「いつから薬を飲み始めるのか?」という点でしょう。医師が薬物療法の開始を判断する基本的な流れは、日本糖尿病学会のガイドラインで示されています。
原則として、まずは食事療法と運動療法を2〜3ヶ月間しっかり行います。それでもHbA1c(ヘモグロビンA1c:過去1〜2ヶ月の血糖値の平均)が、個別に設定された目標値(例:合併症予防のために7.0%未満)に達しない場合に、薬物療法の開始が検討されます。これは、あくまで生活習慣の改善が治療の土台であるという考えに基づいています。
ただし、例外もあります。糖尿病と診断された時点でHbA1cが非常に高い場合(例:8.0%や9.0%を超えている)や、「糖毒性」と呼ばれる高血糖自体がインスリンの分泌を妨げている状態が疑われる場合です。このようなケースでは、生活習慣の改善と同時に、最初から薬物療法(時には一時的にインスリンも)を開始することがあります。これは、まず薬の力で高血糖状態から脱出し、膵臓を休ませてあげることで、その後のコントロールが容易になるためです。決して「重症だからもう手遅れ」という意味ではありません。具体的に血糖値がいくらになったら薬を飲むかについては、年齢や合併症の有無によっても変わってきます。
治療の選択肢は多岐にわたり、経口薬(飲み薬)から注射薬まで、様々な種類の薬が開発されています。主治医は、あなたの体の状態やライフスタイルに最適な薬をパズルのように組み合わせていきます。
最初に選ぶ経口血糖降下薬の考え方(日本の実情)
「では、最初の飲み薬はどのように選ばれるのでしょうか?」—— 欧米では「まずはメトホルミン(ビグアナイド薬)から」という流れが主流ですが、日本の治療アルゴリズムはより柔軟です。日本糖尿病学会が示す「2型糖尿病の薬物療法のアルゴリズム」では、患者さん一人ひとりの病態(体の状態)に合わせて、最初の薬を選ぶことが推奨されています。
このアルゴリズムは、主に以下の4つのステップで構成されています。
- Step 1: 病態に応じた薬剤選択
- 肥満があり、インスリン抵抗性(インスリンが効きにくい状態)が主体の場合: メトホルミンやSGLT2阻害薬が第一選択となりやすいです。
 - インスリン分泌不全(インスリンが出にくい状態)が主体の場合: DPP-4阻害薬、スルホニル尿素(SU)薬、グリニド薬などが考慮されます。
 - 低血糖を特に避けたい(高齢者や一人暮らしの方など): DPP-4阻害薬、SGLT2阻害薬、GLP-1受容体作動薬など、単独では低血糖を起こしにくい薬が優先されます。
 - 体重増加を避けたい場合: SGLT2阻害薬やGLP-1受容体作動薬が選択肢となります。
 
特に日本では、インスリン分泌能が欧米人より低い傾向があるため、インスリン分泌を穏やかに促す「DPP-4阻害薬」が高齢者を含め広く使われています。
 - Step 2: 安全性への配慮
薬を選ぶ上で最も重要なのが安全性です。例えば、腎機能(eGFR)が低下している方には使えない、あるいは量を調節する必要がある薬(メトホルミンや一部のSGLT2阻害薬など)があります。また、SU薬やインスリンのように低血糖のリスクがある薬は、特に慎重に使用されます。
 - Step 3: 追加のベネフィット(心血管・腎保護)を考慮
これが近年の治療における最大の進歩です。後述するSGLT2阻害薬やGLP-1受容体作動薬には、血糖値を下げる効果に加えて、心臓や腎臓を守る「追加のベネフィット」があることが大規模な臨床試験で証明されています。
 - Step 4: 複数薬剤の併用
1剤で効果が不十分な場合、作用機序(薬が効く仕組み)の異なる別の種類の薬を組み合わせていきます。
 
このように、最初の薬は「みんながこれ」というものではなく、あなたの体質、年齢、合併症、ライフスタイルを総合的に判断して「オーダーメイド」で選ばれるのです。
心臓・腎臓を守るためのSGLT2阻害薬・GLP-1受容体作動薬
糖尿病治療のゴールは、単に血糖値を下げることだけではありません。高血糖によって引き起こされる心筋梗塞、脳卒中、心不全、そして腎不全(透析)といった深刻な合併症を防ぎ、健康な人と変わらない生活を長く続けることです。
この「合併症予防」という観点で、近年非常に注目されているのが「SGLT2阻害薬」(飲み薬)と「GLP-1受容体作動薬」(主に注射薬、一部飲み薬)です。これらの薬は、日本糖尿病学会のガイドラインでも「追加の臓器保護効果を考慮すべき」と明記されています。
- SGLT2阻害薬: 尿に糖を排出させることで血糖値を下げます。この作用に伴い、体内の余分な水分や塩分も排出されるため、心臓への負担が減り「心不全」を予防・改善する効果が確認されています。また、腎臓内の圧力を下げることで腎臓のフィルター機能を守り、「腎症」の進行を遅らせる効果も示されています。
 - GLP-1受容体作動薬: 血糖値が高い時だけインスリン分泌を促し、食欲を抑える作用があります。これらに加え、動脈硬化の進行を抑え、「心筋梗塞」や「脳卒中」のリスクを減らす効果が多くの研究で報告されています。
 
そのため、特に以下のような合併症のリスクがすでにある方には、これらの薬が早期から(あるいは2剤目として)積極的に選択されます。
- 心筋梗塞や脳卒中(ASCVD)の既往がある方
 - 心不全(HF)と診断されている方
 - 慢性腎臓病(CKD)がある方(尿アルブミンが出ている、eGFRが低下している)
 
これらの薬は、血糖コントロールだけでなく、将来の健康を守る「お守り」のような役割も担い始めています。飲み薬か注射薬かという違いはありますが、どちらも現代の糖尿病治療において重要な選択肢となっています。
インスリンに切り替えるべきサインと導入手順
「インスリン注射」—— この言葉を聞くと、「糖尿病の最終段階だ」「もう治らないんだ」と強い恐怖や抵抗感を抱く方が非常に多くいらっしゃいます。しかし、その認識は大きな誤解です。インスリンは「罰」ではなく、体内で不足してしまったホルモンを外から安全に補うための、最も強力で確実な「治療ツール」です。
インスリンが必要になる場面は、大きく分けて2つあります。
- インスリンの「絶対適応」
ガイドラインで定められた、命を守るためにインスリンが不可欠な状況です。
- 1型糖尿病(膵臓がインスリンをほぼ作れない)
 - 糖尿病ケトアシドーシス、高浸透圧高血糖状態(重篤な急性合併症)
 - 重い肝障害や腎障害がある場合
 - 重症の感染症、大きな手術の前後(体が強いストレス下にある時)
 - 妊娠中や妊娠糖尿病で、食事療法だけでは血糖管理ができない場合
 
 - 飲み薬やGLP-1では不十分な場合(相対適応)
複数の飲み薬を最大量まで使っても、あるいはGLP-1受容体作動薬を併用しても、HbA1cの目標値が達成できない場合です。これは、ご自身の膵臓が作るインスリンの量が、体の要求量に追いつかなくなってきたサインです。この状態で高血糖を放置する方が、合併症のリスクを高めてしまいます。
 
「でも、一度始めたらやめられないのでは?」という不安も多いでしょう。しかし、高血糖の「糖毒性」が原因で一時的にインスリン分泌が落ちている場合、インスリン治療で血糖値を速やかに下げることで膵臓が回復し、将来的に飲み薬だけに戻せるケースも少なくありません。
導入の手順(Basalから始める)
多くの場合、インスリン治療は「Basal(ベーサル)インスリン」と呼ばれる、1日1回決まった時間に注射する持効型インスリンから開始します。これは、1日中続く基礎的なインスリン分泌を補うものです。飲み薬は継続することが多く、生活への負担は最小限です。現在の注入ペンは非常に針が細く、痛みも最小限になるよう工夫されています。
複数の薬を併用する時の順番と組み合わせパターン
糖尿病治療が「併用療法」になるのはごく一般的です。高血圧の治療で、降圧剤と利尿剤を組み合わせるのと同じです。糖尿病は、①インスリンが出にくい、②インスリンが効きにくい、③糖の吸収が早い、など複数の原因が絡み合っているため、異なる作用機序の薬で多角的にアプローチする方が効果的なのです。
HbA1cが目標より少し高い(0.5〜1.0%程度)場合は、作用の異なる飲み薬をもう1種類追加します。目標よりかなり高い(1.0〜2.0%以上)場合や、体重・低血糖リスクを考慮する場合は、GLP-1受容体作動薬やSGLT2阻害薬の追加が検討されます。
近年、特に有効性が示されている組み合わせがいくつかあります。
- Basalインスリン + GLP-1受容体作動薬:
Basalインスリンで基礎血糖を抑えつつ、GLP-1が食後の高血糖を抑えます。GLP-1には食欲抑制作用があるため、インスリン治療で懸念される「体重増加」を相殺しやすいという大きな利点があります。日本でも推奨される組み合わせです。 - SGLT2阻害薬 + GLP-1受容体作動薬:
国際的な研究では、この2剤を併用することで、心血管イベント(心筋梗塞など)や腎症の進行リスクをさらに強力に抑えられる可能性が示されています。作用機序が全く異なるため、血糖降下作用も相乗効果が期待できます。 - メトホルミン + DPP-4阻害薬 + SGLT2阻害薬:
飲み薬3剤の組み合わせとして、日本でもよく用いられます。インスリン抵抗性の改善、インスリン分泌の促進、糖の排泄という3つの異なるアプローチで血糖を管理します。 
どの薬を組み合わせるかは、コスト、副作用、注射への抵抗感、そして心臓や腎臓のリスクなど、多くの要因を考慮して決定されます。最近では、進化したインスリン製剤(アナログ)も多く、治療の選択肢は増え続けています。
GLP-1/GIP-GLP-1製剤を痩身目的で使ってはいけない理由
近年、GLP-1受容体作動薬やGIP/GLP-1受容体作動薬(マンジャロ®など)が、SNSや一部のクリニックで「奇跡の痩せ薬」として紹介され、美容・痩身目的で使用されるケースが世界的に急増し、深刻な問題となっています。
この状況に対し、日本の規制当局である医薬品医療機器総合機構(PMDA)や日本糖尿病学会は、2023年から2025年にかけて繰り返し、極めて強い注意喚起を行っています。
PMDAの最新の通知(2025年4月)で強調されている核心的な理由は以下の通りです。
- 適応が「2型糖尿病」のみである:
日本国内で承認されているこれらの薬剤は、すべて「2型糖尿病」の治療薬としてのみ承認されています。肥満症の治療薬として承認されているものはありますが(ウゴービ®)、それは厳格な基準(高血圧や脂質異常症を伴うBMI 27以上など)のもとで医師が処方するものであり、美容目的の「痩身」とは全く異なります。 - 痩身目的での安全性・有効性は未確認:
糖尿病ではない人が、美容目的でこれらの薬を使った場合の安全性や有効性は、科学的に一切確認されていません。自己判断での使用は、予期せぬ健康被害(重篤な胃腸障害、膵炎、胆石症など)を招くリスクがあります。 - 本当に必要な患者さんへ薬が届かない:
世界的な需要急増により、これらの薬剤は供給不足が続いています。その結果、血糖コントロールのためにこの薬を本当に必要としている糖尿病患者さんへ薬が届かない、という深刻な事態が発生しています。 
これらの薬剤は、医師が2型糖尿病の病態とリスクを判断した上で、適切に処方・管理すべき医薬品です。安易な情報に惑わされず、適正な使用を守ることが強く求められています。
安全性情報と注意すべき症状(レッドフラグ)
糖尿病の薬は、安全に正しく使えば非常に有効ですが、体質やその日の体調によっては注意すべき副作用が起こる可能性もあります。特に以下の症状は、命に関わる可能性のある「レッドフラグ(危険信号)」であり、自己判断せず直ちに医療機関に相談する必要があります。
- 強い口渇、多尿、急激な倦怠感、吐き気、嘔吐、腹痛、意識がもうろうとする:
これらは「糖尿病ケトアシドーシス(DKA)」や「高浸透圧高血糖状態」という重篤な急性合併症のサインです。
【特に注意】SGLT2阻害薬を服用していると、血糖値がそれほど高くなくてもケトアシドーシス(正常血糖ケトアシドーシス)を起こすことがあります。体調不良時にはSGLT2阻害薬を一時的に休薬(シックデイ・ルール)することが重要です。 - 冷や汗、動悸、強い空腹感、手足の震え、意識が遠のく:
これは「重症低血糖」のサインです。インスリン、SU薬、グリニド薬を使用している場合に起こりやすいです。低血糖の症状を感じたら、すぐにブドウ糖や糖分を含むジュースを摂取してください。もし意識が朦朧として自分で対処できない場合は、家族や周囲の人に救急車を呼んでもらう必要があります。 - GLP-1受容体作動薬を使用中の、持続する激しい腹痛や背中の痛み、嘔吐:
まれですが「急性膵炎」や「胆石症」の可能性があります。薬を中止し、すぐに受診してください。 - SGLT2阻害薬を開始した後の、ふらつき、強い倦怠感、尿量が極端に減る:
特に高齢者や利尿薬を併用している場合、「脱水」や「体液量減少」の可能性があります。水分補給を心がけ、症状が続く場合は主治医に相談してください。 
これらの低血糖や高血糖の緊急時の対応は、糖尿病治療において薬の選択と同じくらい重要です。次節で、これらの対処法についてさらに詳しく解説します。
よくある質問(FAQ)
Q1: 日本では最初にどの糖尿病薬を使うのが一般的ですか?
A: 欧米のように「必ずメトホルミンから」という決まりはありません。日本糖尿病学会のアルゴリズムに基づき、患者さんの病態(肥満の有無、インスリン分泌がどれくらいか)や低血糖リスクを考慮して、メトホルミン、DPP-4阻害薬、SGLT2阻害薬などの中から最適なものが選ばれます。特に高齢者では、低血糖を起こしにくいDPP-4阻害薬が選ばれることも多いです。
Q2: SGLT2阻害薬とGLP-1受容体作動薬は同時に使ってもいいですか?
A: はい、併用されるケースは増えています。特に心臓や腎臓の合併症リスクが高い方において、この2剤の併用は血糖降下作用だけでなく、臓器保護の面でも高い効果が期待されています。ただし、SGLT2阻害薬による脱水リスクや、GLP-1による胃腸症状などの副作用をみながら、段階的に導入するのが安全とされています。
Q3: いつインスリンに切り替えればよいですか?
A: 複数の飲み薬やGLP-1受容体作動薬を使ってもHbA1cの目標が達成できない場合や、高血糖による「糖毒性」を速やかに解除したい場合、あるいは感染症や手術、妊娠といった体に大きなストレスがかかる状況では、インスリンの導入が推奨されます。インスリンは「終わり」ではなく、膵臓を休ませてあげるための積極的な「治療」です。
Q4: GLP-1受容体作動薬をダイエット目的で使ってもいいですか?
A: いいえ、絶対にお勧めできません。PMDAと日本糖尿病学会は、日本で承認されているGLP-1関連薬剤はすべて「2型糖尿病」の治療薬であり、痩身目的での使用は安全性・有効性が確認されていないと強く警告しています。また、不適切な使用が、本当にこの薬を必要とする糖尿病患者さんへの供給不足を招く一因にもなっています。
Q5: 高齢の親にどの薬が安全ですか?
A: 高齢者の糖尿病治療で最も避けたいのは「重症低血糖」です。そのため、SU薬や速効型インスリン分泌促進薬など、低血糖リスクが比較的高い薬は慎重に使われます。DPP-4阻害薬は単独では低血糖を起こしにくく、高齢者にも使いやすいとされています。SGLT2阻害薬も有用ですが、脱水や感染症のリスクがあるため、特に夏場や体調不良時の管理(休薬)が重要になります。
低血糖と高血糖の対応(原因・症状・緊急処置)
前節では、インスリン注射や飲み薬(経口血糖降下薬)など、糖尿病の「薬物療法」について詳しく見てきました。これらの治療は血糖コントロールに不可欠ですが、同時に、治療中の方が最も不安に感じ、そして最も注意すべき「急性トラブル」があります。それが「低血糖」と「高血糖」です。
薬が効きすぎたり、食事や運動とのバランスが崩れたりすると、血糖値が下がりすぎて冷や汗や動悸が起こる「低血糖」。逆に、感染症やストレス、薬の中断によって血糖値が急上昇し、意識障害などにつながる「危険な高血糖」。これらは、糖尿病と共に生活する上で、誰にでも起こり得る緊急事態です。
多くの方が、「自分にも起こるかもしれない」「そうなったらどうしよう」と不安を抱えていることでしょう。このセクションでは、その不安を具体的な知識で解消するために、低血糖と高血糖のそれぞれの原因、見分けるべき症状、そして「いざという時」に自分や家族ができる具体的な応急処置について、日本糖尿病学会や厚生労働省の指針に基づき、深く掘り下げて解説します。
低血糖とは?「おかしい」と感じた時が対応のサイン
低血糖とは、血液中のブドウ糖(血糖)が、脳や体の細胞が活動するために必要な量を下回ってしまった状態を指します。糖尿病の治療中、特にインスリンや一部の飲み薬(SU薬など)を使用している方にとって、最も頻繁に起こり得る急性合併症です。
この状態を理解するには、症状を2つの段階に分けて考えると分かりやすいです。
厚生労働省の資料などによれば、血糖値が約70mg/dLを下回ってくると、体は「エネルギー不足だ!」と警告アラームを鳴らします。これが「交感神経症状(警告症状)」です。
- 強い空腹感
 - 冷や汗が出る
 - 心臓がドキドキする(動悸)
 - 手や指が震える
 - 顔面が蒼白になる
 - 不安な気持ちになる
 
この段階で「あ、低血糖かもしれない」と気づき、すぐに対応(ブドウ糖の摂取)ができれば、ほとんどの場合、速やかに回復します。問題は、この警告を我慢したり、気づかなかったりして、さらに血糖値が下がってしまった場合です。血糖値が約50mg/dLを下回ると、エネルギー不足が脳に直接影響を及ぼし始めます。これが「中枢神経症状」です。
- ぼーっとする、集中力がなくなる
 - 生あくびが頻繁に出る
 - ろれつが回らない、言葉が出にくい
 - 視界がかすむ、二重に見える
 - 普段と違う異常な行動をとる(突然怒り出すなど)
 - めまい、ふらつき
 - 最悪の場合: けいれん、意識消失(昏睡)
 
「血糖値がいくつになったら低血糖ですか?」という質問は非常によくありますが、米国疾病予防管理センター(CDC)は「70mg/dL未満」を対応開始の目安として推奨しています。一方、日本の資料では「60mg/dL以下」や「50mg/dL以下で中枢神経症状」と説明されることもあります。しかし、最も重要なのは数値そのものよりも「患者さん自身が低血糖の症状を感じたかどうか」です。たとえ血糖値が70mg/dL以上あっても、急激に血糖が下がった場合は同様の症状が出ることがあります。逆に、慢性的に高血糖の方は、100mg/dL程度まで下がっただけで低血糖症状を感じることもあります。「おかしい」と感じたら、我慢せずにすぐ対応することが鉄則です。
血糖値の正常範囲を理解しつつも、自分の「体調の変化」に最も敏感であることが重要です。
低血糖が起きやすい6つのシチュエーション
低血糖は「糖尿病の管理がうまくいっていない」から起こるのではなく、日常生活の様々な「ズレ」によって引き起こされます。どのような時に起こりやすいのかを知っておくことが、何よりの予防になります。
日本糖尿病学会の資料などでは、特に以下の6つの場面で注意が呼びかけられています。
- 1. 薬(インスリンや飲み薬)の量やタイミングが合わなかった時
これが最も多い原因です。特にインスリン注射や、SU薬、グリニド薬といった「インスリン分泌を促進する」タイプの飲み薬を使用している場合に起こります。薬の量が多すぎたり、食事の量に対して薬が効きすぎたりすると、血糖値が下がりすぎます。 - 2. 食事の時間が遅れたり、食事を抜いたりした時
薬はいつも通りの時間に効いているのに、エネルギー源である食事が入ってこないと、血糖値は一方的に下がってしまいます。「忙しくて昼食を抜いた」「朝寝坊して朝食と薬の時間がずれた」といった場合に危険性が高まります。
糖尿病の食事療法は、単にカロリーを制限することではなく、薬と食事のバランスを取ることも重要な目的です。 - 3. 予想以上に激しい運動や長時間の運動をした時
運動は筋肉でブドウ糖を消費するため、血糖値を下げる効果があります。しかし、「いつもより長く歩いた」「急に大掃除をした」など、予定外の運動をすると、ブドウ糖が消費されすぎて低血糖になることがあります。
運動療法の基本として、運動前後の補食や薬の調整を主治医と相談しておくことが大切です。 - 4. アルコールを飲んだ時(特に空腹時)
アルコールは肝臓での糖の放出(糖新生)を抑制する作用があります。空腹時に飲酒すると、この作用が強く出て、数時間後に重い低血糖を起こすことがあります。
糖尿病と飲酒の問題は、血糖コントロールを難しくする大きな要因です。 - 5. 高齢者の方や、腎機能が低下している方
高齢になると、食事量が不安定になったり、低血糖の警告症状(冷や汗や動悸)を感じにくくなったりします(無自覚性低血糖)。また、腎機能が低下すると、薬が体内に長く留まり、効きすぎてしまうことがあります。 - 6. シックデイ(体調不良時)
風邪や胃腸炎などで食事がとれない時。「食べていないから」と自己判断で薬を中断すると高血糖(後述)の危険がありますが、逆にいつも通り薬を使って食事がとれないと低血糖になります。 
その場でできる低血糖の応急処置
低血糖の症状(冷や汗、動悸、震えなど)を感じたら、「絶対に我慢しない」ことが最も重要です。
日本糖尿病学会もこの点を強く推奨しています。すぐに行うべき応急処置は、意識があるかないかで大きく異なります。
意識がある場合(自分で飲食できる)
国際的にも推奨されている「15-15ルール」という対処法があります。
- すぐにブドウ糖15g(または砂糖15~20g)を摂取する
最も吸収が速いのはブドウ糖です。市販のブドウ糖タブレット(約10g)なら1.5~2個、スティックシュガー(約3~5g)なら3~5本、またはブドウ糖を含むジュース(果汁100%や清涼飲料水)を約150~200ml飲みます。 - 15分間、安静にして待つ
摂取した糖分が血液中に吸収されるまで時間がかかります。焦って追加で食べ続けないでください。 - 15分後に血糖値を測定する
適切なタイミングでの血糖測定が重要です。症状が改善しない、または血糖値が低いまま(例:80mg/dL未満)であれば、もう一度ステップ1(ブドウ糖15g摂取)を繰り返します。 - 食事が近い場合は食事をとる
症状が改善したら、次の食事が1時間以上先の場合は、おにぎりやビスケット、牛乳など、ゆっくり吸収される炭水化物(補食)をとっておくと、再度の低血糖を防げます。 
注意点:「糖分なら何でもよい」わけではありません。チョコレートやアイスクリーム、クッキーなどは、脂肪分が多く糖の吸収が遅れるため、緊急時の対応には不向きです。また、ゼロカロリー飲料や砂糖の入っていないお茶、コーヒーでは全く効果がありません。
意識がない・飲み込めない場合(重症低血糖)
これは一刻を争う医療緊急事態です。家族や周囲の人がすぐに行動する必要があります。
- 絶対に食べ物や飲み物を口に入れない
意識がない状態で無理に飲ませようとすると、窒息したり誤嚥性肺炎を起こしたりする危険があり、非常に危険です。 - すぐに救急車(119番)を呼ぶ
「糖尿病で低血糖になり、意識がない」と明確に伝えてください。 - (もしあれば)グルカゴン注射キットを使用する
家族が使い方を指導されている場合に限り、グルカゴン(血糖を上げるホルモン)を筋肉注射します。これは医療機関でのブドウ糖静脈注射までの「つなぎ」として非常に有効です。 
【特に注意】SU薬による低血糖
SU薬(グリメピリド、グリベンクラミドなど)は作用時間が長いため、一度ブドウ糖で回復しても、数時間後に再び低血糖を起こす(遷延性低血糖)ことがあります。SU薬を服用中の方が低血糖を起こした場合は、回復後も数時間は注意深く様子を見るか、医療機関に連絡して指示を仰ぐことが賢明です。
低血糖は怖いものですが、
適切な血糖自己測定と、ブドウ糖の常時携行によって「備える」ことが可能です。
高血糖が危険化するサインと「シックデイ」の考え方
次に、血糖値が高くなりすぎる「高血糖」についてです。食後に血糖値が一時的に高くなることは日常的にありますが、ここで問題にするのは「持続的な高血糖」や「急激な高血糖」が命に関わる状態(急性合併症)へと進展するケースです。
その最大の引き金となるのが「シックデイ(Sick Day)」です。シックデイとは、糖尿病の人が風邪、インフルエンザ、胃腸炎、その他の感染症(肺炎や尿路感染症など)にかかり、発熱、下痢、嘔吐、食欲不振などで体調を崩した日を指します。
多くの方が、「食べていないから、インスリンや薬は休んだ方がいいのでは?」と考えがちですが、これは非常に危険な誤解です。体調が悪い時、体は感染やストレスと戦うために、血糖値を上げるホルモン(コルチゾールやアドレナリンなど)を大量に分泌します。
国立国際医療研究センターの情報でも、シックデイ時にはインスリンが効きにくくなる(インスリン抵抗性)と解説されています。つまり、**「食べていなくても、普段以上に血糖値が上がりやすい」**状態なのです。
この状態でインスリンや薬を自己判断で中断してしまうと、血糖値は急上昇し、脱水も加わって、次に説明する「糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)」や「高浸透圧高血糖状態(HHS)」といった深刻な
急性合併症を引き起こしかねません。
シックデイの基本的な対応ルール
体調を崩した時は、以下のルールを思い出してください(シックデイルール)。
- 1. 自己判断で薬やインスリンを中断しない
食事がとれない場合でも、インスリンの基礎分泌(ベーサルインスリン)は必要です。飲み薬も同様です。必ず主治医の指示を仰いでください。事前に「こういう時はどうするか」を主治医と決めておくことが理想です。 - 2. 水分を十分に補給する
発熱や下痢は脱水を引き起こし、高血糖をさらに悪化させます。糖分の入っていない水やお茶、経口補水液などをこまめに飲みましょう。 - 3. 血糖値を頻回に測定する
普段よりもこまめに(例:1日4回以上、またはインスリン使用者は毎食前と就寝前)血糖値を測定し、状態を把握します。 - 4. 食べられるものをとる
固形物が無理なら、おかゆ、スープ、ゼリー、ジュースなど、消化の良い炭水化物をとるように努めます。 - 5. すぐに医療機関に連絡する
「食事が全く摂れない」「嘔吐が続く」「血糖値が300mg/dL以上続く」といった場合は、すぐに主治医に連絡し、指示を受けてください。
糖尿病の放置がいかに危険か、シックデイはその典型例です。 
DKA(ケトアシドーシス)とHHS(高浸透圧高血糖状態)
シックデイの対応が遅れたり、インスリンが極度に不足したりすると、高血糖は「糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)」または「高浸透圧高血糖状態(HHS)」という、命に関わる緊急事態に進展します。
糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)
DKAは、体がエネルギー源としてブドウ糖を使えなくなり、代わりに脂肪を急速に分解し始めた結果、血液が酸性に傾く(アシドーシス)状態です。脂肪が分解される際に「ケトン体」という酸性物質が大量に作られるために起こります。
- 主な原因: 1型糖尿病患者のインスリン中断、重い感染症、ストレス。2型糖尿病でも起こり得ます。
 - 特徴的な症状:
- 著しい口渇、多飲、多尿、体重減少
 - 吐き気、嘔吐、強い腹痛
 - 深く速い呼吸(クスマウル呼吸)
 - 息が甘酸っぱい(アセトン臭、果物が腐ったような匂い)
 - 意識障害、ぐったりする
 
 - 血糖値: 通常250mg/dL以上ですが、後述する薬剤性の場合、それほど高くないこともあります。
 
高浸透圧高血糖状態(HHS)
HHSは、極度の高血糖(しばしば600mg/dL以上)により、血液がシロップのように濃く(高浸透圧)なり、体から大量の水分が失われ(高度脱水)、意識障害などを引き起こす状態です。DKAと異なり、ケトン体はあまり増えず、血液も酸性には傾きにくいのが特徴です。
- 主な原因: 高齢の2型糖尿病患者が、感染症や脱水、利尿薬、手術などをきっかけに発症することが多いです。
 - 特徴的な症状:
- 極度の高血糖(600mg/dLを超えることも多い)
 - 著しい口渇、極度の脱水(皮膚の乾燥、眼球のくぼみ)
 - 頻尿から、やがて尿が出なくなる(乏尿)
 - 意識障害(混乱、傾眠、昏睡)、けいれん
 
 
DKAも
HHSも、自宅での対応は不可能です。これらの症状(特に意識障害、嘔吐、腹痛、異常な呼吸)を疑った場合は、一刻も早く救急車を呼び、専門的な入院治療(大量の輸液、インスリン静脈注射、電解質補正)を受ける必要があります。
薬で起こる高血糖・DKAに注意
近年、新しいタイプの糖尿病治療薬や、他疾患の治療薬によって、特殊な高血糖やDKAが起こることが報告されており、
日本糖尿病学会もガイドラインで注意喚起を行っています。
SGLT2阻害薬と「正血糖ケトアシドーシス」
SGLT2阻害薬(ジャディアンス、フォシーガ、カナグルなど)は、尿中に糖を排出させることで血糖を下げる薬です。この薬を服用中にシックデイになったり、極端な糖質制限をしたりすると、血糖値がそれほど高くない(例:250mg/dL未満)にもかかわらず、ケトアシドーシス(DKA)を起こすことがあります。これを「正血糖ケトアシドーシス」と呼びます。
血糖値が正常範囲に近いため発見が遅れがちですが、吐き気、嘔吐、腹痛、全身倦怠感など、DKA特有の症状が現れます。「血糖値は高くないから大丈夫」と自己判断せず、SGLT2阻害薬を服用中にこれらの体調不良が出た場合は、すぐに主治医に連絡してください。
薬の副作用として、こうした特殊なケースを知っておくことが重要です。
ステロイドとその他のがん治療薬
関節リウマチや喘息などの治療に用いられるステロイド薬は、インスリンの効きを悪くし、高血糖を引き起こす代表的な薬剤です。また、
日本糖尿病学会が2025年に注意喚起を行ったAKT阻害薬(カピバセルチブ)など、一部の最新のがん治療薬も、重篤な高血糖やDKAを引き起こすことが報告されています。
糖尿病の薬以外を服用中に急な高血糖が起きた場合は、それらの薬剤の影響も考慮し、主治医(糖尿病専門医と処方医)に速やかに相談する必要があります。
よくある質問(FAQ)
Q1: 低血糖は何mg/dLから危険ですか?
A: 多くの資料で60~70mg/dL未満が対応の目安とされていますが、数値よりも症状が重要です。冷や汗、動悸、手の震えなど、「おかしいな」と感じる
初期症状が出た時点で、すぐにブドウ糖や砂糖を摂取してください。50mg/dLを下回ると中枢神経症状(意識混濁、異常行動など)が起こり、非常に危険な状態です。
Q2: 低血糖のときに、チョコレートやゼロカロリー飲料を飲んでもいいですか?
A: いいえ、適切ではありません。チョコレートやアイスクリームは脂肪分が多く、糖の吸収を遅らせるため、緊急対応には不向きです。ゼロカロリー飲料、お茶、ブラックコーヒーには糖分が含まれていないため、全く効果がありません。必ずブドウ糖、砂糖、または糖分を含む清涼飲料水やジュースを選んでください。
Q3: 高血糖で吐き気やお腹の痛みがあります。様子をみてもいいですか?
A: いいえ、様子を見るべきではありません。吐き気、嘔吐、腹痛を伴う高血糖は、DKA(糖尿病性ケトアシドーシス)の初期症状である可能性が非常に高いです。これは自宅では治療できず、放置すると命に関わります。すぐに医療機関を受診してください。
Q4: インスリンを打ち忘れて高血糖になりました。気づいた時に2回分まとめて打ってもいいですか?
A: 絶対に自己判断で2回分をまとめて注射しないでください。急激な低血糖や電解質異常を引き起こす可能性があり、非常に危険です。打ち忘れに気づいた時の対応は、インスリンの種類や時間によって異なります。必ず主治医に連絡して指示を仰ぐか、事前に「打ち忘れた時のルール」を確認しておきましょう。
Q5: 風邪をひいて食事がとれないのですが、血糖値はいつもより高いです。どうすればいいですか?
A: それは「シックデイ」と呼ばれる危険な状態です。体は感染と戦うために血糖を上げるホルモンを出しています。食事がとれなくても、自己判断でインスリンや薬を止めると、DKAやHHSに進展する危険があります。まずは水分をしっかりとり、こまめに血糖を測りながら、できるだけ早く主治医に連絡して指示を受けてください。
合併症の予防と管理(慢性合併症・急性合併症)
前節では、血糖値が極端に変動する「低血糖」と「高血糖」への具体的な対処法について見てきました。それは、いわば緊急時の「対応」です。しかし、糖尿病治療の本当の目的は、その先にある「合併症」をいかに防ぎ、管理していくかにあります。
「糖尿病の合併症」という言葉を聞くと、多くの方が漠然とした、しかし深刻な不安を感じるかもしれません。「失明するかもしれない」「透析が必要になるかもしれない」「足を切断することになるかもしれない」——これらはすべて、糖尿病の合併症として起こりうることです。しかし、最も重要なことは、これらの合併症の多くは、適切な知識と日々の管理によって予防・遅延が可能であるということです。
このセクションでは、個別の合併症(腎症、網膜症、神経障害など)の詳細には立ち入らず、それら全体を「予防・管理する」ための横断的な戦略、つまり「合併症を起こさないために何をすべきか」という根本的な枠組みについて、深く掘り下げて解説します。糖尿病と診断された方が、糖尿病を放置することの本当の危険性を理解し、前向きに治療を続けるための羅針盤となることを目指します。
合併症は大きく二つに分類されます。
- 慢性合併症: 高血糖状態が長期間続くことで、全身の血管が徐々に傷ついて発症します。細い血管が障害される「細小血管症(網膜症、腎症、神経障害)」と、太い血管が障害される「大血管症(心筋梗塞、脳卒中、末梢動脈疾患)」があります。
 - 急性合併症: 数時間から数日単位で急激に状態が悪化し、生命に危険が及ぶものです。極端な高血糖(糖尿病ケトアシドーシス、高浸透圧高血糖状態)や、前節で触れた重症低血糖、そして感染症の増悪などが含まれます。
 
これら両方を防ぐ鍵は、「血糖コントロール」を中心としながらも、それだけにとどまらない包括的な管理にあります。
慢性合併症を防ぐ「多因子介入」という最強の盾
「糖尿病なのだから、血糖値だけを下げればよい」——これは、半分正解で、半分間違いです。もちろん血糖コントロールは治療の根幹ですが、近年の研究では、それだけでは不十分であることが明確になっています。2024年の系統的レビューでも示されているように、慢性合併症、特に心筋梗塞や脳卒中といった命に関わる大血管症を防ぐには、**「多因子介入(たしいんしかいにゅう)」**と呼ばれるアプローチが最も強力な盾となります。
これは、糖尿病を取り巻く複数の危険因子(リスクファクター)を、文字通り「すべて同時に」管理する戦略です。ジグソーパズルの一片だけを埋めても絵が完成しないように、合併症予防も全体的な取り組みが必要なのです。具体的には、以下の5つの柱を同時に管理することが求められます。
- 血糖コントロール(HbA1c)
これは言うまでもなく基本です。日本糖尿病学会の「糖尿病診療ガイドライン2024」では、合併症予防のための目標としてHbA1c(ヘモグロビンA1c)7.0%未満を推奨しています。これは過去1〜2ヶ月の血糖の平均値を示す重要な指標であり、この値を維持することが細小血管症(目や腎臓、神経の障害)の予防に直結します。HbA1cの基準値については、年齢や低血糖のリスクに応じて個別設定されますが、7.0%という数値が一つの大きな目安となります。 - 血圧コントロール
高血糖と高血圧が組み合わさることは、血管にとって「二重苦」です。高血糖で脆くなった血管壁に、高血圧という強い圧力が常にかかり続けると、動脈硬化は急速に進行します。特に腎臓は血圧の影響を強く受けるため、腎症の進行予防において血圧管理は血糖管理と同じ、あるいはそれ以上に重要とされています。糖尿病と高血圧の食事管理は、減塩とカロリー制限の両面からアプローチする必要があります。 - 脂質コントロール(コレステロール・中性脂肪)
高血糖は、肝臓での脂質代謝にも異常をきたします。その結果、LDL(悪玉)コレステロールや中性脂肪が増加し、HDL(善玉)コレステロールが減少しやすくなります。この「糖尿病性脂質異常症」は、血管壁にプラーク(粥腫)を蓄積させ、動脈硬化の直接的な原因となります。大血管合併症(心筋梗塞や脳卒中)のリスクを減らすためには、血糖値だけでなく、血液中の脂質のバランスも厳格に管理する必要があります。 - 禁煙
喫煙は、それ自体が血管を収縮させ、血液を固まりやすくし、血管内皮を傷つける最強のリスク因子です。糖尿病患者さんが喫煙を続けることは、例えるなら「火に油を注ぐ」行為に他なりません。血糖、血圧、脂質をどれほど良好に管理していても、喫煙がその努力を無に帰す可能性があります。合併症予防を本気で考えるならば、禁煙は「推奨」ではなく「必須」の項目です。 - 適切な生活習慣(食事・運動)
上記の4つの柱を支える土台となるのが、日々の食事と運動です。これらは血糖値だけでなく、血圧、脂質、体重のすべてに良い影響を与えます。最新の科学的根拠に基づく食事療法や、継続可能な運動ガイドを実践することが、多因子介入の成功に不可欠です。 
これらの管理は、個別のH2セクションでさらに詳しく解説しますが、重要なのは「どれか一つ」ではなく「すべてを同時に」行うことこそが、合併症を防ぐ最も確実な道であると理解することです。
慢性合併症の早期発見スケジュール(「もう遅い」をなくすために)
慢性合併症の最も恐ろしい特徴は、「初期段階では自覚症状がほとんどない」ことです。目が見えにくくなった、足がむくむようになった、しびれが取れない——こうした症状を自覚した時には、すでにある程度進行してしまっているケースが少なくありません。しかし、症状がない初期の段階で発見できれば、進行を食い止めたり、場合によっては改善させたりすることも可能です。
そのためには、症状がなくても定期的に「検査」という名のレーダーを作動させ、小さな変化点を見逃さないことが不可欠です。米国国立糖尿病・消化器・腎疾病研究所(NIDDK)や日本の厚生労働省も、定期検査の重要性を強調しています。
「忙しくて時間がない」「費用が心配」と感じることもあるかもしれませんが、定期検査の費用は、合併症が進行してからの治療(透析や手術など)にかかる費用やQOLの低下とは比較になりません。以下は、合併症の早期発見のために推奨される標準的な検査スケジュールです。
- 毎回の外来受診ごと(1〜3ヶ月ごと)
- 問診: 低血糖の有無、シックデイ(体調不良の日)の対応、服薬状況、足の異変(傷、タコ、靴擦れ)の確認。
 - 身体測定: 血圧、体重、BMI。これらは多因子介入の基本指標です。
 - 足の観察: 医師や看護師による足の視診・触診。ご自身でのセルフケアと合わせて、小さな傷や感染の兆候を早期に発見します。(詳細は「フットケア」のセクションで解説します)
 
 - 3〜6ヶ月ごと
- HbA1c: 血糖コントロールの状態を評価する「成績表」です。
 - 脂質検査: LDLコレステロール、HDLコレステロール、中性脂肪。
 - 尿検査(尿アルブミンまたは尿蛋白): これが非常に重要です。尿中に微量のアルブミンが漏れ出すのは、糖尿病性腎症の最も早いサインです。この段階で発見し、血圧や血糖の管理を強化すれば、透析への進行を大幅に遅らせることが可能です。
 
 - 年1回以上
- 眼底検査: 糖尿病網膜症は、初期には全く自覚症状がありません。散瞳(瞳孔を開く薬)のうえで眼科専門医が目の奥の血管を詳細に調べます。症状がなくても、糖尿病と診断されたら年1回(異常があればより頻回)の検査が必須です。(詳細は「網膜症」のセクションで解説します)
 - 腎機能評価(eGFR): 血液検査(クレアチニン値)から、腎臓が老廃物をろ過する能力(eGFR)を推定します。尿アルブミンと合わせて腎臓の状態を評価します。
 - 歯科検診: 糖尿病と歯周病は相互に悪影響を及ぼします。歯周病菌が血糖コントロールを悪化させたり、心血管疾患のリスクを高めたりすることが知られています。
 - 必要に応じた検査: 心電図、ABI(足の動脈硬化の検査)、神経伝導検査など。
 
 
特に、尿アルブミン検査は、糖尿病性腎症の進行を食い止めるための最初の重要な一歩です。次のセクションでは、この腎症についてさらに詳しく見ていきます。
急性合併症(DKA・HHS)を防ぐための日常管理と「シックデイ・ルール」
慢性合併症が「静かなる脅威」であるのに対し、急性合併症は「突然襲い来る嵐」です。これらは数時間から数日のうちに生命を脅かす状態に陥るため、予防と初期対応の知識が不可欠です。急性合併症の恐ろしさは、その進行の速さにあります。
ここでは、前節の「低血糖」以外の主要な急性合併症である「糖尿病ケトアシドーシス(DKA)」と「高浸透圧高血糖状態(HHS)」を防ぐための日常管理、特に「シックデイ・ルール」に焦点を当てます。
- 糖尿病ケトアシドーシス(DKA): 主に1型糖尿病の方に多いですが、2型でも起こり得ます。インスリンが極端に不足し、体がエネルギー源としてブドウ糖を使えなくなり、代わりに脂肪を分解し始めます。その副産物である「ケトン体」が血液中に増え、血液が酸性に傾く(アシドーシス)状態です。米国疾病予防管理センター(CDC)は、これを「予防可能な緊急事態」と位置づけています。
 - 高浸透圧高血糖状態(HHS): 主に高齢の2型糖尿病の方に多いです。インスリンの作用不足と極端な脱水により、血糖値が600mg/dLを超えるような異常な高血糖状態となります。血液が「濃く」なり、意識障害を引き起こします。高浸透圧による脱水は非常に危険です。
 
これらの引き金となるのが、感染症、薬剤の中断、そして「シックデイ(Sick Day:病気の日)」です。
命を守る「シックデイ・ルール」
シックデイとは、風邪、インフルエンザ、胃腸炎、発熱、その他の感染症などで体調を崩した日のことを指します。多くの方が「食べられないから、インスリン注射や薬はやめよう」と考えがちですが、これがDKAやHHSを引き起こす最大の誤解であり、最も危険な判断です。
体調が悪い時、体はストレスホルモン(コルチゾールやアドレナリンなど)を分泌します。これらのホルモンは血糖値を「上げる」方向に働きます。つまり、食事をしていなくても、体調が悪いだけで血糖値は上昇しやすいのです。
日本糖尿病学会やCDCが推奨するシックデイ・ルールの基本原則は以下の通りです。
- 自己判断で薬(特にインスリン)を絶対に中断しない
これが最も重要です。インスリンを中断すれば、DKAのリスクが飛躍的に高まります。どうすべきか必ず主治医に相談してください。SGLT2阻害薬など、シックデイに中止が推奨される薬もありますので、事前に主治医とルールを決めておくことが不可欠です。 - 水分を十分に摂取する
発熱や下痢は脱水を引き起こし、HHSのリスクを高めます。水分(水、お茶、経口補水液など)をこまめに摂取してください。 - 炭水化物を摂取する(食欲がなくても)
食事がとれない場合でも、低血糖を防ぎ、体のエネルギーを維持するために、おかゆ、うどん、スポーツドリンク、ゼリー、アイスクリームなど、吸収しやすい炭水化物を少量ずつでも摂取するよう努めてください。 - 血糖値を頻回に測定する
体調が安定するまで、いつもより頻繁に(例:3〜4時間ごと)血糖値を測定し、記録してください。 - すぐに医療機関に連絡すべきサインを知る
以下の場合は、自己判断せず、すぐに主治医またはかかりつけの医療機関に連絡してください。- 24時間以上、食事がとれない、または水分がとれない
 - 嘔吐や下痢が続いている
 - 血糖値が300mg/dL以上で下がる気配がない
 - (尿ケトン体試験紙を持っている場合)ケトン体が陽性(++以上)
 - 息苦しい、呼吸が荒い、お腹が痛い、意識がもうろうとする(DKAのサイン)
 
 
あらかじめ「病気になった時のルール」を主治医と話し合っておくことが、急性合併症を防ぐための最大の保険となります。
治療の中断が最も危険:通院を続けるための社会支援と工夫
合併症予防の最大の敵は、実は高血糖そのものよりも「治療の中断」です。糖尿病は、初期には自覚症状がほとんどないため、「忙しいから」「症状がないから大丈夫だろう」「治療費がもったいない」といった理由で、通院や服薬を自己判断でやめてしまう方が少なくありません。
厚生労働省も、特に働き盛りの世代における治療中断が、将来的な合併症(特に腎症による透析導入)の大きな原因となっていることを問題視しています。症状がないまま数年間放置し、久しぶりに受診した時にはすでに合併症がかなり進行していた、というケースは決して稀ではないのです。
なぜ治療を続けることが難しいのでしょうか。それは、糖尿病が「終わり(完治)」のない、生涯にわたる自己管理を必要とする病気だからです。治療へのモチベーションを維持し続けることは、決して簡単なことではありません。
しかし、あなたは一人ではありません。治療を継続するためには、医療機関だけでなく、社会的な支援を活用することも重要です。
- かかりつけ医との信頼関係: 治療に関する不安や、生活上の困難(例:仕事が忙しくて運動時間が取れない、お酒の付き合いが多いなど)を率直に相談できる関係性が、治療継続の鍵となります。
 - 自治体や保健所の支援: 多くの自治体では、「糖尿病性腎症重症化予防プログラム」などを実施しており、保健師による個別相談や受診勧奨を行っています。検査の「うっかり忘れ」を防ぐ助けになります。
 - 職場の理解: 定期通院のための休暇取得や、健康診断結果に基づく産業医との面談など、職場の支援制度を活用することも大切です。
 - 家族や友人のサポート: 糖尿病の管理は孤独な戦いになりがちです。食事や運動に一緒に取り組んだり、悩みを共有したりできる家族や友人の存在は、何よりの支えとなります。
 
糖尿病の進行段階は、治療を継続するかどうかで大きく変わります。「まだ大丈夫」という自己判断が、取り返しのつかない結果を招く前に、定期的な通院と検査を「未来の自分への投資」として続けていくことが、合併症予防の最も確実な道です。
慢性合併症①:糖尿病腎症(検査・進行予防・食塩管理)
前節で糖尿病の合併症全体の概要について触れましたが、ここからは最も注意すべき慢性合併症について、一つずつ詳しく見ていきます。その筆頭が「糖尿病腎症」です。
「糖尿病と診断された」という事実もさることながら、多くの患者さんが本当に恐れているのは、「将来的に透析(とうせき)が必要になるのではないか」という不安ではないでしょうか。その不安は当然のものです。なぜなら、厚生労働省の資料でも示されている通り、現在日本で新たに透析治療を開始する患者さんの原因疾患の第1位は、高血圧や他の腎炎を抑えて「糖尿病腎症」だからです(2025年11月現在)。
しかし、これは運命ではありません。糖尿病腎症は、正しい知識を持って早期に対策すれば、その進行を大幅に遅らせることが科学的に証明されています。このセクションでは、あなたの腎臓を生涯守り抜くために必要な「検査」「進行予防」、そして最も重要な生活習慣である「食塩管理」について、日本の最新ガイドラインに基づき、徹底的に、そして優しく解説します。
糖尿病腎症(DKD)とは?日本の透析原因第1位の現実
糖尿病腎症(Diabetic Kidney Disease、略してDKDとも呼ばれます)とは、長期間にわたる高血糖が原因で、腎臓のフィルター機能が壊れてしまう合併症のことです。
私たちの腎臓には、「糸球体(しきゅうたい)」と呼ばれる、血液をろ過するための微細なフィルター(毛細血管の塊)が、1つの腎臓に約100万個も詰まっています。健康な状態では、このフィルターが血液中の老廃物(クレアチニンなど)を尿として排出し、体に必要なタンパク質(アルブミンなど)は血液中に留めておきます。
しかし、血糖値が高い状態が5年、10年と続くと、血液は「ドロドロ」になり、この繊細なフィルターである毛細血管を傷つけ、硬くしてしまいます(動脈硬化)。その結果、フィルターの網目が壊れ、本来なら体内に留まるはずのアルブミンが尿に漏れ出てしまい、逆に老廃物をうまく排出できなくなっていくのです。
最も恐ろしいのは、この合併症が「沈黙の病」であることです。腎機能が半分近く失われるまで、自覚症状(むくみ、倦怠感、食欲不振など)はほとんど現れません。健康診断で尿に泡立ちを自覚する頃には、すでにある程度進行している可能性があります。そして、最終的に腎機能が失われた状態(末期腎不全)になると、命を維持するために週に数回の透析治療、あるいは腎移植が必要となります。糖尿病の合併症の中で、これが最も生活の質(QOL)に直結する問題の一つです。
症状の出ない「第2期」で見つけるための必須検査
「症状が出ないなら、どうすればいいのか?」——その答えが、定期的な検査です。糖尿病腎症は、症状が出るずっと前の「第2期(早期腎症期)」と呼ばれる段階で発見することが、その後の運命を分ける鍵となります。
健康診断の一般的な尿検査(尿定性蛋白)で「−(マイナス)」だから安心、とはなりません。あの検査で「+(プラス)」が出る頃には、腎症はすでに「第3期(顕性腎症期)」に進んでいます。私たちが目指すのは、それより前の段階です。そのために必要な検査は、以下の2つです。
- 1. 尿アルブミン検査(UACR)
これが最も重要な早期発見マーカーです。一般的な尿蛋白検査では検出できない、ごく微量(マイクロ)のアルブミンが尿に漏れていないかを調べる高感度な検査です。「尿中アルブミン/クレアチニン比(UACR)」として測定され、この数値が「30 mg/gCr」を超えると、「微量アルブミン尿」として第2期のサインと判断されます。風邪や激しい運動、月経などでも一時的に数値が上がることがあるため、異常値が出た場合は再検査を行いますが、糖尿病と診断されたら、診断と同時に少なくとも年1回はこの検査を受けることが強く推奨されます。 - 2. eGFR(推算糸球体濾過量)
これは血液検査(血清クレアチニン値)と年齢・性別から、腎臓のフィルターが1分間にどれくらいの血液をろ過できているか(%)を推定する数値です。いわば「腎臓の元気度スコア」です。e-ヘルスネット(厚生労働省)でも、このeGFRの測定が腎機能評価の基本とされています。健康な人は90以上ありますが、60を下回ると「CKD(慢性腎臓病)」と診断され、腎機能が低下していることを意味します。 
日本糖尿病学会と日本腎臓学会は2023年に病期分類を改訂し、この「尿アルブミン」と「eGFR」の2つの指標を組み合わせて腎症のステージを評価します。重要なのは、HbA1cの管理と並行して、これら腎臓の検査を「中断しないこと」です。
進行を止めるための4つの柱(血糖・血圧・薬物・減塩)
もし検査で「第2期」あるいは「第3期」のサインが見つかったとしても、決して諦める必要はありません。「もう手遅れだ」と考えるのは間違いです。ここからが、腎症の進行を食い止めるための本格的な治療の始まりです。柱となるのは以下の4つです。
- 血糖コントロール(HbA1c 7.0%未満目標)
全ての基本です。高血糖という「根本原因」を断つことで、フィルターへのダメージを最小限に抑えます。日本糖尿病学会のガイドラインでは、腎症の進行抑制のために、HbA1c 7.0%未満を目標とすることが推奨されています。特に、微量アルブミン尿が出始めた早期の段階での集中的な血糖管理が、その後の腎機能の運命を大きく左右します。持続血糖測定(CGM)なども活用し、食後の高血糖スパイクを抑えることが重要です。 - 血圧管理(130/80 mmHg未満目標)
血糖と同じくらい、あるいはそれ以上に重要なのが血圧です。血圧が高いということは、壊れかけたフィルターに無理やり高い圧力で血液を押し込んでいるようなものです。これにより、アルブミンの漏れはさらに悪化します。腎臓を守るための降圧目標は、一般的な目標(140/90)よりも厳しい「130/80 mmHg未満」とされています。高血圧を合併している場合、この管理は必須です。 - 腎保護作用のある薬物療法
近年、糖尿病治療は大きく進歩し、「血糖を下げる」だけでなく「腎臓(と心臓)を守る」薬が登場しています。- ACE阻害薬・ARB: これらは元々血圧の薬ですが、腎臓のフィルターにかかる圧力を直接下げる作用(尿蛋白を減らす作用)があり、腎症治療の第一選択薬として長年使われています。
 - SGLT2阻害薬: 尿から糖を排泄させることで血糖を下げると同時に、腎臓のフィルターへの負担を劇的に軽減し、腎機能の低下を抑制することが大規模臨床試験で証明されました。日本糖尿病学会の2024年ガイドラインでも、アルブミン尿がある患者さんへのSGLT2阻害薬の使用は「推奨グレードA」となっています。
 - GLP-1受容体作動薬: こちらも血糖降下作用に加え、腎保護効果が期待されています。
 
これらの薬をどう使い分けるかは、個々の状態によって専門的な判断が必要です。
 - 減塩(食塩管理)
4つ目の柱であり、患者さん自身が取り組める最も強力な対策の一つが「減塩」です。これは血圧管理と密接に関連しており、非常に重要であるため、次の項目で詳しく解説します。 
腎臓を守る「1日6g未満」の食塩管理(減塩)
なぜ、腎症の管理においてこれほど「減塩」が強調されるのでしょうか。それは、食塩(ナトリウム)の過剰摂取が、血圧上昇の最大の原因であり、腎臓への負担を直接増大させるからです。食塩を減らすこと自体に、血圧を下げる効果と、フィルターからのアルブミン漏れ(尿蛋白)を減らす効果があることが分かっています。
では、具体的にどれくらい減らせばよいのでしょうか。
厚生労働省や日本腎臓学会、日本糖尿病学会が一致して推奨する目標値は、「1日6g未満」です。
「1日6g」と聞いても、ピンと来ないかもしれません。WHO(世界保健機関)の目標である5gよりは少し緩やかですが、それでも日本人の平均摂取量(男性10.9g、女性9.3g ※令和元年国民健康・栄養調査)と比べると、半分近く減らす必要があり、これは決して簡単ではありません。特にラーメンやうどんの汁、味噌汁、漬物、干物など、和食には塩分が多く含まれがちです。
「そんなの無理だ」と感じるかもしれませんが、大切なのは「ゼロ」にすることではなく、「6g未満」に近づける工夫を続けることです。今日からできる具体的な実践方法を見てみましょう。
- 「汁」を残す勇気を持つ: 最大の敵は「汁物」です。ラーメン、そば、うどんのスープには3〜6gの塩分が含まれます。これを全部飲むだけで、1日の目標量に達してしまいます。「スープは味わうもの、飲むものではない」と決め、必ず半分以上残しましょう。
 - 味噌汁・スープは1日1杯まで: 味噌汁1杯には約1.2〜1.5gの塩分が含まれます。1日1杯にし、代わりに野菜やキノコをたっぷり入れた「具だくさん」にすることで、具材の旨味(カリウム)が塩分(ナトリウム)の排出を助けてくれます。
 - 「かける」より「つける」: 醤油やソースを料理に直接「かける」と、思った以上の量を使ってしまいます。小皿に出して「つけて」食べる習慣をつけましょう。
 - 「香り」と「酸味」を活用する: 柚子、レモン、すだちなどの柑橘類、しそや生姜、ネギなどの香味野菜、コショウや七味などの香辛料を上手に使うと、塩味が薄くても美味しく感じられます。
 - 加工食品の「ナトリウム量」をチェックする: ハム、ソーセージ、ちくわ、練り物、加工チーズは塩分の塊です。食品表示の「栄養成分表示」を確認しましょう。「ナトリウム(mg) × 2.54 ÷ 1000 = 食塩相当量(g)」です。最近は「食塩相当量」が併記されているものも多いです。
 - 漬物、佃煮、梅干しは「ごちそう」と心得る: これらは「ご飯のお供」ではなく、特別な日に少量だけ楽しむ「嗜好品」と考え、日常の食卓からは減らしましょう。
 
糖尿病と塩分の関係は、単に血圧を上げるだけでなく、腎臓の保護に直結します。いきなり全てを完璧にこなすのは大変ですが、まずは「汁を残す」ことから始めてみてください。その小さな一歩が、10年後、20年後の腎臓を守る大きな力となります。
よくある質問(FAQ)と受診の目安
最後に、糖尿病腎症に関してよく寄せられる質問と、どのような場合に専門医を受診すべきかについてまとめます。
よくある質問
Q1: 糖尿病腎症は治りますか?
A1: 残念ながら、一度壊れて硬くなってしまった腎臓のフィルター(糸球体)を、完全に元通りに「治す」ことは現代の医学では困難です。しかし、第2期(微量アルブミン尿)の段階で発見し、本セクションで解説した4つの柱(血糖・血圧・薬物・減塩)を徹底すれば、その進行を健常な人と変わらないレベルまで「遅らせる」こと、あるいは「食い止める」ことは十分に可能です。希望を捨てる必要は全くありません。
Q2: SGLT2阻害薬は腎臓に良いと聞きましたが、本当ですか?
A2: はい、本当です。日本糖尿病学会2024年ガイドラインでも、アルブミン尿がある2型糖尿病患者さんに対し、腎症進行抑制のためにSGLT2阻害薬を「強く推奨する(推奨グレードA)」としています。血糖値を下げるだけでなく、腎臓のフィルターにかかる負担を直接減らすなど、多面的な保護効果が確認されています。
Q3: 腎症でも運動して良いですか?
A3: 非常に良い質問です。腎機能が著しく低下している場合(eGFRが30未満など)を除き、適度な運動は強く推奨されます。運動は血糖値と血圧の両方を改善し、腎臓への負担を減らします。ただし、激しい運動による脱水は腎臓に負担をかけるため、水分補給を十分に行いながら、安全な運動療法を心がけましょう。必ず主治医に運動の可否と強度を確認してください。
受診の目安(レッドフラグ)
糖尿病の治療はかかりつけ医で継続することが基本ですが、以下のようなサインが見られた場合は、腎臓内科の専門医への紹介を相談すべきタイミングです。
- 尿アルブミン検査が陽性(30 mg/gCr以上)になった、または増加傾向が続く
 - eGFRが60を下回った、または低下速度が速い(例:1年で5以上低下)
 - 尿に血が混じる(血尿):糖尿病腎症以外の腎炎(IgA腎症など)の鑑別が必要です
 - 血圧の薬を3〜4種類飲んでも、目標の130/80 mmHgを達成できない
 - 急にむくみ(特に顔やまぶた、足のすね)が強くなった
 - 食欲不振、吐き気、全身の強い倦怠感が続く(尿毒症の初期症状の可能性)
 
糖尿病腎症の管理は、急性合併症とは異なり、非常に長い時間軸での戦いです。しかし、腎臓は一度失うと取り戻せない臓器でもあります。腎臓というフィルターが傷むのと同じように、次のセクションで解説する「神経」や「目」も、高血糖によって静かにダメージを受けていきます。定期検査を中断せず、日々の小さな努力を続けることが、未来のあなたを守る最大の力となります。
慢性合併症②:神経障害(末梢・自律神経・しびれ・便秘・勃起不全)
前節では、腎臓という重要なフィルターを侵す「糖尿病腎症」について詳しく見てきました。本節では、糖尿病の三大合併症の中で最も発症頻度が高く、かつ最も早期から現れやすいとされる「糖尿病性神経障害」について、深く掘り下げていきます。
「神経障害」と聞くと、多くの方は「足がしびれる」といった症状だけを想像されるかもしれません。しかし、この合併症の恐ろしさは、手足の感覚を奪う「末梢神経」だけでなく、内臓や血圧、体温調節など、私たちが意識せずに生命を維持している機能を司る「自律神経」にも及ぶ点にあります。そのため、症状は足のしびれや痛みにとどまらず、頑固な便秘や下痢、立ちくらみ、排尿トラブル、そして非常にデリケートな問題である勃起不全(ED)まで、全身のあらゆる場所に現れるのです。
このセクションでは、なぜ高血糖が神経を傷つけるのかという根本的なメカニズムから、具体的な症状、そして進行を食い止めるために何ができるのかまで、日本の国立国際医療研究センター(NCGM)や厚生労働省の情報、そしてMayo Clinicなど国際的な知見を交えて、詳しく解説していきます。
糖尿病性神経障害とは|三大合併症の中で最も早く出やすい理由
糖尿病性神経障害は、高血糖状態が長期間続くことによって、全身の神経細胞がダメージを受ける病態です。腎症や網膜症が「細い血管」の障害であるのに対し、神経障害は神経そのものと、神経に栄養を送るさらに細い血管(神経栄養血管)の両方が障害されることで発症します。
なぜ神経が傷つくのでしょうか。主なメカニズムは2つあると考えられています。
- 1. 代謝的な障害(神経が糖にさらされる)
血糖値が高い状態が続くと、神経細胞の中にブドウ糖が過剰に取り込まれます。細胞内でブドウ糖が処理される過程(ポリオール経路)で「ソルビトール」という物質が蓄積し、これが神経細胞の機能を妨げ、ダメージを与えます。また、高血糖は「AGEs(終末糖化産物)」という老化物質の産生を促し、これが神経組織を変性させ、炎症を引き起こすことも知られています。 - 2. 虚血的な障害(神経の栄養不足)
神経細胞もまた、血液から酸素や栄養を受け取って生きています。しかし、高血糖は神経に栄養を送る毛細血管を傷つけ、血流を悪化させます。これにより神経細胞が酸欠・栄養不足状態(虚血)に陥り、さらに機能が低下するという悪循環が生まれます。 
このように、神経細胞が「内側から糖の毒性にさらされ(代謝障害)」、かつ「外側から栄養不足に陥る(虚血障害)」という二重の打撃を受けるため、神経障害は他の合併症に先駆けて、比較的早期から発症しやすいのです。実際に、境界型糖尿病(糖尿病予備群)の段階ですでに軽度の神経障害が始まっているケースも報告されており、早期からの血糖管理がいかに重要であるかを示しています。
足先から始まる「末梢神経障害」の症状
神経障害の中で最も自覚しやすいのが「末梢神経障害」です。これは手足、特に「足先」の感覚や運動を司る神経が障害されるもので、特徴的なパターンがあります。
多くの場合、症状は「左右対称に」「足の指先から」始まり、徐々に足首、膝へと上行していきます。まるで靴下を履いているかのような範囲で感覚がおかしくなるため、「手袋靴下型感覚障害」とも呼ばれます。手の症状は、通常、足の症状が膝くらいまで進行してから現れ始めます。
具体的な症状には、以下のようなものがあります。
- しびれ・痛み(ピリピリ、ジンジン)
最も多い訴えです。「足の裏に一枚薄い紙が貼ってあるような感じ」「正座の後のようにジンジンする」「砂利の上を歩いているみたい」と表現されることが多いです。 - 灼熱痛・冷感(焼けるような痛み、冷え)
特に夜間、布団に入ると足がカッと熱くなったり、逆に氷水につけているかのように冷たく感じたりすることがあります。これは神経が異常な信号を発しているために起こる「異痛症」の一種です。 - 感覚低下(触った感じが鈍い)
これが最も危険なサインです。障害が進行すると、触覚や痛覚、温度覚が鈍くなります。初期は「何となく鈍い」程度ですが、重症化すると、NCGMの資料にもあるように「画鋲やガラス片を踏んでも気づかない」状態になり得ます。 - 筋力低下・こむら返り
運動神経も障害されると、足の筋肉が痩せたり、力が入りにくくなったりします。頻繁なこむら返りも、神経障害のサインである場合があります。 
多くの方が「ただの疲れ」「年のせい」と見過ごしがちなこれらのサインですが、糖尿病患者さんにとっては重大な警告です。特に「感覚低下」は、痛みを感じないために怪我や火傷を放置し、そこから細菌が感染して重篤な糖尿病性足潰瘍や壊疽(えそ)へと進展する最大の原因となります。このため、後述する「フットケア」のセクションと密接に関連します。
また、皮膚が乾燥しやすくなったり、ひび割れやすくなったりするのも、汗をコントロールする自律神経の障害が関わっており、糖尿病患者さんの皮膚ケアが重要になる理由の一つです。
気づきにくい「自律神経障害」の多彩な症状
末梢神経障害が「自覚しやすい」合併症であるのに対し、「自律神経障害」は非常に気づきにくく、しかし生活の質(QOL)や時には生命予後にも関わる深刻な合併症です。自律神経は、心臓の拍動、血圧、消化、発汗、排尿、性機能など、私たちが意識せずに行っている生命活動のすべてをコントロールしています。高血糖がこの司令塔を侵すと、全身にさまざまな不調が現れます。
消化器症状(胃もたれ・便秘・下痢)
胃や腸の動きは自律神経によってコントロールされています。ここに障害が起こると、「糖尿病性胃不全麻痺」と呼ばれる状態になり、食べた物の排出が極端に遅れることがあります。食後の強い胃もたれ、膨満感、吐き気などが主な症状です。また、腸の蠕動(ぜんどう)運動も乱れるため、頑固な便秘になる一方、逆にコントロールの効かない激しい下痢(特に夜間)を起こすこともあり、便秘と下痢を繰り返すケースも少なくありません。
心血管症状(立ちくらみ・無自覚性低血糖)
これは自律神経障害の中でも特に注意が必要な症状です。
- 起立性低血圧(立ちくらみ)
健康な人では、急に立ち上がると自律神経が瞬時に働き、下半身の血管を収縮させて脳への血流を保ちます。しかし神経障害があるとこの反応が鈍くなり、立ち上がった瞬間に血圧が下がり、強いめまいや立ちくらみ、失神を起こすことがあります(心血管自律神経障害:CAN)。 - 無自覚性低血糖
通常、血糖値が下がりすぎると、自律神経が警告サイン(冷や汗、動悸、手の震え)を発します。しかし、この神経が障害されると、警告サインが出ないまま血糖値が下がり続け、突然意識障害や昏睡に至る「無自覚性低血糖」を引き起こします。米国NIDDKも指摘するように、これは非常に危険な状態で、特にインスリンや一部の経口薬を使用している方、そして高齢の糖尿病患者さんでは命に関わるリスクとなります。低血糖の兆候を感じにくくなった場合は、すぐに主治医に相談が必要です。 
泌尿器・発汗の異常
膀胱も自律神経によって制御されています。障害が起こると、膀胱に尿が溜まっても尿意を感じにくくなったり、逆に頻尿になったり、排尿の勢いが弱くなったり(排尿障害)します。残尿は尿路感染症の原因にもなります。また、発汗の異常も起こりやすく、上半身は異常に汗をかくのに下半身は全く汗をかかない、といった症状も自律神経障害の現れです。
糖尿病と勃起不全(ED)の関係
自律神経障害に関連して、多くの男性患者さんを悩ませるのが勃起不全(Erectile Dysfunction: ED)です。これは非常にデリケートな問題であり、なかなか相談しにくいと感じる方が多いですが、糖尿病の合併症として極めて一般的に見られる症状です。
勃起という現象は、性的興奮によって神経(主に副交感神経)が信号を送り、陰茎の血管が拡張して大量の血液が流れ込むことで起こります。しかし、糖尿病では以下の二重の理由でEDが起こりやすくなります。
- 神経障害:自律神経や末梢神経が障害されると、脳からの「勃起せよ」という信号がうまく伝わらなくなります。
 - 血管障害:高血糖や高血圧、脂質異常症によって陰茎の細い動脈が硬化(動脈硬化)すると、信号が伝わっても血液が十分に流れ込めなくなります。
 
EDは、単に性生活の問題であるだけでなく、全身の動脈硬化が進行しているサインである可能性もあります。陰茎の血管は心臓や脳の血管よりも細いため、心筋梗塞や脳卒中の早期警告と捉えることもできます。日本人男性を対象とした研究でも、糖尿病性神経障害を持つ患者さんでEDの有病率が高いことが示されています。これは恥ずかしいことではなく、治療可能な医学的状態です。決して一人で悩まず、主治医や泌尿器科の専門医に相談することが重要です。
神経障害の検査と進行を抑えるためにできること
「もしかして神経障害かも?」と感じた時、医療機関ではどのような検査が行われるのでしょうか。また、これ以上悪化させないために何ができるのでしょうか。
診察室でできる簡単な検査
神経障害の診断は、必ずしも複雑な機器を必要としません。多くは診察室での簡単なテストで評価できます。
- モノフィラメント検査:柔らかいナイロンの糸(モノフィラメント)で足の裏の数カ所を押し、触れている感覚があるかどうかを調べる検査です。感覚低下の有無を客観的に評価できます。
 - 音叉(おんさ)検査:振動する音叉をくるぶしなどに当て、振動を感じるかどうか、また何秒間感じられるかを調べます。これは太い神経線維の機能を評価します。
 - アキレス腱反射:かかとを叩いてアキレス腱の反射を見る、おなじみの検査です。神経の伝達速度が落ちていないかを確認します。
 
自律神経障害が疑われる場合は、寝た状態と立った状態での血圧と脈拍の変動を測定(起立性低血圧のチェック)したり、心電図で心拍の「ゆらぎ」を解析したりすることもあります。
進行抑制のために最も重要なこと:血糖コントロール
ここで最も強調したいのは、一度障害されてしまった神経を完全に元に戻すことは現代の医学でも難しい一方で、その進行を食い止め、症状を和らげることは十分に可能であるということです。そのために最も強力で、かつ唯一確立された方法は、厳格な血糖コントロールです。
Mayo Clinicをはじめとする多くの専門機関が、HbA1c(ヘモグロビンA1c)を目標値内に維持することが、神経障害の発症リスクを大幅に低減し、すでに発症している場合でもその進行を遅らせることを証明しています。血糖値の変動幅(高い時と低い時の差)を小さくすることも同様に重要です。
食事療法や運動療法、そして必要に応じた薬物療法を組み合わせて血糖値を安定させることが、神経を守るための最大の防御策となります。また、高血圧や脂質異常症の管理、禁煙も、神経への血流を保つために不可欠です。
神経障害は、腎症と同じく高血糖が全身の細い血管や神経を静かに蝕む結果です。しかし、足のしびれや胃もたれ、立ちくらみといった多彩なサインを通じて、体は私たちに警告を送ってくれています。このサインを見逃さず、日々の血糖管理に取り組むことが、将来の深刻な合併症を防ぐ鍵となります。
そして、高血糖がダメージを与えるのは、腎臓や手足の神経だけではありません。もう一つ、非常にデリケートで重要な臓器、それが「目」の網膜です。次節では、三大合併症の最後の一つであり、失明の大きな原因となる「糖尿病網膜症」について詳しく見ていきます。
慢性合併症③:網膜症(検診・治療・失明予防)
前節では、手足のしびれや痛み、立ちくらみなど日常生活に直結する糖尿病性神経障害について詳しく見てきました。次に解説するのは、糖尿病の合併症の中でも特に「失明」という言葉に直結し、多くの患者さんが最も恐れる合併症の一つ、糖尿病網膜症(とうにょうびょうもうまくしょう)です。
「糖尿病になると失明するかもしれない」という不安は、多くの方が抱える深刻な悩みでしょう。そして、その不安は決して大げさなものではありません。事実、糖尿病網膜症は、日本において中途失明原因の上位を占め続けています。しかし、ここで最も強調したい重要な事実は、糖尿病網膜症は「失明の直前まで自覚症状がほとんどない」ということです。見え方がはっきりしているから大丈夫、と自己判断してしまうことが、取り返しのつかない事態を招く最大の原因となります。
このセクションでは、なぜ症状が出ないのか、手遅れになる前にいつ・何をするべきか、そして視力を守るための最新の治療法について、日本糖尿病眼学会の診療ガイドラインや国際的なエビデンスに基づき、徹底的に解説します。
糖尿病性網膜症はなぜ自覚症状が出にくいのか
糖尿病網膜症が「サイレント・キラー(静かなる殺人者)」と呼ばれる理由は、その進行プロセスにあります。この病気は、高血糖の状態が長く続くことで、眼の奥にある光を感じるスクリーン(フィルム)の役割を持つ「網膜」に張り巡らされた、無数の毛細血管がダメージを受けることから始まります。
想像してみてください。細い水道管が、内部から少しずつ錆びて詰まったり、脆くなって水が漏れ出したりする様子です。網膜の血管も同様に、高血糖によって詰まり(閉塞)、血液の成分が漏れ出し(漏出)、小さな出血(点状出血)や「硬性白斑」と呼ばれるシミを作ります。しかし、この変化は、多くの場合、網膜の「周辺部」からゆっくりと始まります。
私たちが「ものを見る」ために最も重要な中心部分、すなわち視力(中心視力)を担う「黄斑部(おうはんぶ)」がダメージを受けない限り、患者さん自身は「見え方がおかしい」と感じることができません。運転免許の更新もパスできますし、新聞の小さな文字も読めてしまいます。この「見えている」という感覚が、眼科受診を遅らせる最大の罠なのです。
この「症状がない」という点が、糖尿病の合併症が持つ最大の危険性の一つと言えます。網膜症が特定の進行段階に達し、黄斑部に水が溜まる「黄斑浮腫」や、網膜が酸欠に陥って生えてきた脆い「新生血管」が破れ、目の中(硝子体)に出血するまで、視力は保たれてしまうのです。
糖尿病と診断されたらいつ眼科に行く?1型・2型・妊娠で違う受診時期
「まだ見えているから大丈夫」という自己判断が最も危険である以上、視力を守る鍵は「症状が出る前の定期的な眼科検診」以外にありません。では、具体的にいつ受診すればよいのでしょうか。これは、糖尿病のタイプによって異なります。
- 2型糖尿病と診断された方:「診断と同時」に受診
最も重要な推奨事項です。2型糖尿病と診断された方は、「診断された時点」ですぐに眼科を受診し、眼底検査を受けることが国際的にも強く推奨されています。なぜなら、2型糖尿病は自覚症状がないまま数年間進行していることが多く、患者さんが初めて診断された時には、すでに網膜症が始まっているケースが少なくないからです。
 - 1型糖尿病と診断された方:「診断から5年以内」に受診
1型糖尿病は、2型と異なり発症時期が比較的特定しやすいため、診断から5年以内に最初の眼底検査を受けることが推奨されます。もちろん、それ以前に何らかの視覚異常を感じれば、すぐに受診が必要です。
 - 妊娠中・妊娠を計画している方:特別な注意が必要
妊娠中はホルモンバランスの変化などにより、網膜症が急激に悪化することが知られています。もともと糖尿病の方が妊娠した場合(糖尿病合併妊娠)はもちろん、妊娠中に「妊娠糖尿病」と診断された場合も、妊娠前または妊娠初期に眼底検査を受け、その後は網膜症の病状に応じて1〜3ヶ月ごとの頻回なフォローアップが推奨されます。
 
糖尿病のタイプによって、このように初期の対応が異なります。また、検査費用は健康保険が適用されますが、失明という取り返しのつかない事態を防ぐための「未来への投資」として、定期検診は不可欠です。
どのくらいの頻度で通院する?病期別のフォローアップ間隔
初回の検査で「異常なし」と言われても、決して安心はできません。糖尿病である限り、網膜症のリスクは常につきまといます。大切なのは、病状のステージに応じた適切な間隔で検査を続けることです。
日本の臨床現場では、以下のような受診間隔が広く目安とされています(これは厚生労働省の啓発資料などでも示されてきた考え方です):
- 正常(網膜症なし)
眼底に全く異常が見られない段階です。この場合でも、最低「年1回」の定期検査が基本です。内科の血糖コントロールが良好でも、眼科検診は別物として必ず受けてください。
 - 単純網膜症
最も初期の段階で、小さな点状出血や硬性白斑(血液成分が漏れ出たシミ)が見られます。まだ自覚症状はありませんが、すでに血管のダメージは始まっています。この段階では「3〜6ヶ月に1回」の眼科受診が目安とされます。
 - 増殖前網膜症
血管が詰まり始め、網膜が酸素不足に陥っている段階です。軟性白斑(酸素不足による神経のむくみ)などが見られます。失明につながる「増殖網膜症」へ移行するリスクが高まるため、「1〜2ヶ月に1回」と、間隔を詰めた厳重なフォローアップが必要です。
 - 増殖網膜症
網膜が深刻な酸素不足に陥り、それを補おうとして非常に脆く破れやすい「新生血管」が生えてくる危険な段階です。この血管が破れると硝子体出血を、縮むと網膜剥離を引き起こします。失明のリスクが非常に高いため、「2週間〜1ヶ月に1回」、あるいはレーザー治療などの計画に沿った密な管理が不可欠です。
 
注意点として、これはあくまで目安です。視力低下のもう一つの原因である「黄斑浮腫」を合併している場合は、病期に関わらず、より頻回な通院が必要になります。また、網膜症が進行している場合、前節で解説した神経障害や、糖尿病性腎症など、他の微小血管合併症も同時に進行している可能性が極めて高く、内科との緊密な連携が求められます。
眼底検査・OCT・蛍光眼底造影の違いと受ける順番
「眼科の検査」と一口に言っても、病期や状態を正確に把握するために、いくつかの異なる検査を組み合わせて行います。それぞれの検査が何を見ているのかを知っておくことは、ご自身の状態を理解する上で非常に重要です。
- 1. 散瞳眼底検査(基本となる「目の奥を見る」検査)
これは網膜症診療の基本中の基本です。目薬で瞳孔を開き(散瞳)、医師が特殊なレンズを使って網膜全体を隅々まで直接観察します。新生血管の有無、出血の範囲、黄斑部の状態などを評価し、網膜症の病期を診断します。検査後は4〜5時間、光が非常に眩しく感じたり、ピントが合いにくくなったりするため、検査当日は車、バイク、自転車の運転は絶対にできません。公共交通機関か、ご家族の送迎で来院する必要があります。
 - 2. OCT(光干渉断層計)検査(黄斑浮腫を調べる「断面図」)
視力に最も重要な黄斑部に水が溜まる「黄斑浮腫(DME)」を調べるために必須の検査です。米国立眼科研究所(NEI)もその重要性を強調しており、網膜の断面図を撮影することで、浮腫の厚さや状態をミクロン単位で正確に測定できます。後述する抗VEGF薬治療の適応を判断したり、治療効果を判定したりするために不可欠です。
 - 3. 蛍光眼底造影(FA)検査(血管の「漏れ」を調べる検査)
腕の静脈から造影剤を注射し、特殊なフィルターを装着した眼底カメラで網膜の血管から血液成分が漏れ出している様子や、血管が詰まっている領域(無灌流領域)を撮影する検査です。特に、増殖網膜症が疑われる場合や、レーザー治療(光凝固)を行う前に、治療すべき範囲を正確に特定するために行われます。
 
通常は、まず散瞳眼底検査を行い、黄斑浮腫が疑われればOCTを、増殖網膜症が疑われればFAを追加する、という流れになります。これらの専門的な検査と並行して、日々の血糖自己管理を徹底することが、網膜症の進行を食い止めるための両輪となります。
レーザーと抗VEGF注射はどちらが効く?病期別の治療選択
もし検診で網膜症の進行が確認された場合でも、現代の医療には視力を守るための強力な治療選択肢があります。どの治療法が選ばれるかは、網膜症の「病期」と「場所」によって決まります。
- 1. レーザー光凝固(PRP:汎網膜光凝固)
主に「増殖網膜症」に対して行われる、失明予防の標準治療です。酸素不足に陥っている網膜の周辺部(中心視力に直接関係ない部分)をレーザーで焼き固めることで、網膜全体の酸素需要を減らし、危険な新生血管の発生を抑え、すでにある新生血管を退縮させます。この治療の目的は「今ある視力をこれ以上悪化させないこと(失明を防ぐこと)」であり、視力を回復させる治療ではありませんが、その失明予防効果は確立されており、日本のガイドラインでも重要視されています。
 - 2. 抗VEGF薬 硝子体内注射
主に「糖尿病黄斑浮腫(DME)」(視力中心部のむくみ)の第一選択となる治療です。黄斑浮腫や新生血管の発生には「VEGF(血管内皮増殖因子)」という物質が関与しています。これは新しいタイプの糖尿病治療薬の一つで、このVEGFの働きを直接抑える薬(抗VEGF薬)を、目の中(硝子体)に直接注射します。レーザー治療と比べて視力改善効果が高いことが2022年の著名な医学雑誌(NEJM)などでも確認されています。ただし、効果を持続させるためには、治療初期には毎月、その後も状態に応じて複数回の注射が必要になることが一般的です。
 - 3. 硝子体手術
増殖網膜症がさらに進行し、硝子体出血が長引いて吸収されない場合や、網膜が新生血管の膜によって引っ張られる「牽引性網膜剥離」を起こした場合に選択されます。目の中の濁った血液や増殖膜を取り除き、網膜を元の位置に戻すための高度な手術です。
 
どの治療を選択するにせよ、その効果を最大限に引き出し、新たな悪化を防ぐためには、内科でのHbA1c(ヘモグロビンA1c)の値を安定させることが、治療の土台として極めて重要です。
失明予防のための全身管理と見逃してはいけないサイン(レッドフラグ)
眼科での専門的な治療と同時に、患者さん自身が日常的に行うべき全身管理は、網膜症の進行を食い止めるための「車の両輪」です。眼科医がいくら高度な治療を行っても、その土台となる全身の状態が悪ければ、網膜症は再び進行してしまいます。
特に重要なのは以下の4点です。
- 1. 血糖コントロール:良好な血糖管理が網膜症の進行を遅らせることは、科学的に確立されています。
 - 2. 血圧管理:高血圧は網膜症の重大な悪化因子です。血圧の管理も血糖と同時に厳格に行う必要があります。
 - 3. 脂質管理:脂質異常症(コレステロールや中性脂肪の異常)も、網膜症、特に黄斑浮腫の悪化に関与します。
 - 4. 禁煙:喫煙は全身の血管を傷つけ、血流を悪化させるため、網膜症を進行させる強力なリスク因子です。禁煙は必須です。
 
特に高齢の患者さんでは、重度の低血糖を避けつつ、これらの目標を個別に設定し、内科医と眼科医が連携して管理することが求められます。
最後に、たとえ定期通院中であっても、以下の症状は網膜症が急速に悪化しているサイン(レッドフラグ)である可能性があり、次回の予約を待たずに、すぐに眼科を受診すべきです。
🚨 緊急受診のサイン(レッドフラグ)
- 急激な視力低下:突然、片目または両目が見えにくくなった。
 - 飛蚊症(ひぶんしょう)の急増:目の前に黒い点やゴミのようなものが急に増えたり、濃くなったりした。(硝子体出血の可能性)
 - 視野欠損:視野の一部が、まるでカーテンで覆われたかのように見えない。(網膜剥離の可能性)
 - ものが歪んで見える:直線のカレンダーや窓枠が波打って見える。(黄斑浮腫の悪化の可能性)
 
これらの症状が現れた時は、すでに病状がかなり進行していることを示します。一刻も早く治療を開始する必要があります。
糖尿病網膜症は、糖尿病が全身の血管に影響を及ぼす「血管の病気」であることを象徴する合併症です。そして、この血管へのダメージは、目の奥の細い血管(微小血管)だけに留まりません。次節では、同じく生命に直結する重大な血管合併症である、心臓や脳の太い血管(大血管)への影響について詳しく解説していきます。
心血管疾患との関係(動脈硬化・高血圧・脂質異常・心不全)
前節まで、糖尿病性腎症や網膜症といった、主に「細い血管(微小血管)」が傷つく合併症について詳しく見てきました。しかし、糖尿病がもたらす脅威はそれだけではありません。高血糖の影響は、心臓や脳に血液を送る「太い血管(大血管)」にも及び、これが心筋梗塞や脳卒中といった、時として命に直結する深刻な事態を引き起こすのです。
この「大血管合併症」の恐ろしい点は、糖尿病という一つの要因だけでなく、高血圧、脂質異常症、そして近年注目される心不全といった複数のリスクが複雑に絡み合い、互いを増悪させながら静かに進行することです。本節では、これらの心血管疾患と糖尿病が、なぜこれほどまでに密接に関連しているのか、その仕組みと対策の鍵について、日本の最新の知見に基づきながら深く掘り下げていきます。
糖尿病が動脈硬化を早める「本当の」仕組み
「動脈硬化」という言葉を聞くと、多くの方が「血管が古くなって硬くなること」をイメージされるでしょう。その認識は間違いではありませんが、糖尿病患者さんの場合、その進行スピードが健常な方とは比較にならないほど早まることが問題です。なぜ、高血糖が血管の老化を加速させてしまうのでしょうか。
その最大の理由は、血液中の過剰なブドウ糖が血管の一番内側にある「血管内皮細胞」を傷つけることにあります。血管内皮は、血液がスムーズに流れるための「滑らかなコーティング」のような役割を担っています。しかし、高血糖にさらされ続けると、このコーティングが傷つき、炎症反応が起こります。さらに、糖が血管壁のタンパク質と結合して「終末糖化産物(AGEs)」という“焦げ”のような物質を作り出し、血管のしなやかさを奪っていきます。
国立国際医療研究センター糖尿病情報センターも指摘するように、このように傷ついて柔軟性を失った血管壁には、血液中の悪玉コレステロール(LDL)が侵入しやすくなります。これが蓄積して「プラーク」と呼ばれるコブを形成し、血管の内腔を狭めていくのです。これが動脈硬化性心血管疾患(ASCVD)の正体です。
このプロセスは、大血管合併症の全体像を理解する上で非常に重要です。細い血管が詰まる微小血管症の進行と並行して、体の根幹をなす太い血管でも静かに異変が起きているのです。
糖尿病と高血圧:なぜ「最悪のタッグ」と呼ばれるのか
糖尿病と診断された方の多くが、同時に「血圧も高めですね」と指摘されます。これは偶然ではなく、両者には深い関連があります。実際、糖尿病患者さんは高血圧を合併する割合が非常に高く、この二つが揃うと、動脈硬化のリスクは単独の場合の数倍に跳ね上がるとされています。
なぜ、これほどまでに相性が悪いのでしょうか。その背景には、両者に共通する「インスリン抵抗性」(インスリンが効きにくくなる状態)や肥満があります。インスリンが効きにくくなると、体は塩分(ナトリウム)を排出しにくくなり、血液の全体量が増えて血圧が上がります。また、交感神経が過剰に緊張し、血管が収縮しやすくなることも一因です。
この「高血糖+高血圧」という状態は、血管にとってまさに「ダブルパンチ」です。高血糖が血管の壁(内皮)を傷つけ、そこに高血圧という強い圧力がかかることで、悪玉コレステロールが血管壁の奥深くまで押し込まれ、動脈硬化のプラーク形成が猛烈なスピードで進みます。
だからこそ、日本循環器学会と日本糖尿病学会の合同ステートメントでは、循環器病予防のために血糖管理と「同等以上に」血圧管理が重要であると強調されています。糖尿病をお持ちの方の降圧目標は、原則として**130/80 mmHg未満**と、一般的な目標よりも厳しく設定されています(ただし、75歳以上の方や他に合併症がある場合は個別に判断されます)。
この目標を達成するためには、塩分の管理(1日6g未満が目標)が不可欠であり、高血圧も考慮した食事療法の実践が強く推奨されます。
糖尿病特有の脂質異常症(高トリグリセリド・低HDL)
健康診断でコレステロール値を気にする方は多いですが、糖尿病の場合、単純な「悪玉(LDL)コレステロールが高い」こと以上に厄介な脂質の問題が隠れています。これを「糖尿病性脂質異常症」と呼び、たとえLDLコレステロール値が基準値内であっても、動脈硬化のリスクが非常に高い状態を指します。
その特徴は、以下の3点に集約されます。
- 高トリグリセリド(中性脂肪)血症: インスリン抵抗性により、肝臓で中性脂肪が過剰に作られ、血液中に放出されます。
 - 低HDL(善玉)コレステロール血症: 体内の余分なコレステロールを回収する「お掃除役」のHDLコレステロールが、通常より早く分解されてしまい、減少します。
 - 小型高密度LDL(small dense LDL)の増加: 同じ悪玉でも、特に小さく高密度な「超悪玉」と呼ばれるLDLが増加します。このタイプは血管壁に侵入しやすく、酸化されやすいため、強力に動脈硬化を引き起こします。
 
検診結果のLDL値だけを見て「自分は大丈夫」と安心してしまうのは危険です。中性脂肪が高く、HDLが低い場合、この「隠れたリスク」が存在する可能性を疑う必要があります。この特有の脂質プロファイルは、高血糖と同じく、インスリン抵抗性が根本的な原因となっています。
幸いなことに、このタイプの脂質異常は、バランスの取れた食事や定期的な運動療法といった生活習慣の改善によって、薬剤以上に大きく改善することが知られています。血糖コントロールと同時に、脂質の「質」にも目を向けることが重要です。
忍び寄る「心不全」—特に高齢者で注意すべきHFpEF
「最近、少し動くと息切れがする」「足がむくみやすくなった」——これらを「年のせい」と片付けていないでしょうか。実はこれ、糖尿病患者さんに忍び寄る「心不全」の初期サインかもしれません。近年、日本では心不全患者が爆発的に増加しており「心不全パンデミック」とも呼ばれますが、その発症の最大の危険因子の一つが糖尿病です。
心不全とは、心臓のポンプ機能が低下し、全身に必要な血液を送れなくなった状態を指します。糖尿病患者さんの場合、心筋梗塞によるポンプ機能の低下(HFrEF)も多いのですが、それ以上に問題視されているのが、心臓の「ポンプの力は保たれているのに、うまく動けない」タイプの心不全です。これを HFpEF(ヘフペフ:左室駆出率の保たれた心不全)と呼びます。
これは、心臓の筋肉自体が硬くなり、しなやかに「拡張する(広がる)」ことができなくなる状態です。長年の高血糖や高血圧、肥満などが原因で、心筋に線維化(硬くなること)や糖化産物(AGEs)が蓄積し、心臓が“カチカチ”になってしまうのです。うまく広がれないため、血液を十分に取り込めず、結果として全身に送り出す血液量も減ってしまいます。
2025年改訂版の心不全診療ガイドラインでも、このHFpEFは特に高齢の糖尿病患者さんに多いことが指摘されています。短期間での急な体重増加(2~3日で2kg以上)、足のむくみ、夜間に息苦しくて目が覚める、といった症状は、心不全が悪化しているサインかもしれません。これらは急性合併症にもつながるため、見逃さずに早期に受診することが重要です。
治療の鍵:「血糖だけ」でなく「多因子管理」
ここまで見てきたように、糖尿病患者さんの心血管リスクは、高血糖、高血圧、脂質異常、心機能低下が複雑に絡み合って高まっています。この事実は、私たちに非常に重要な教訓を与えてくれます。それは、**「血糖値(HbA1c)だけを下げても、心筋梗塞や脳卒中は十分に予防できない」**ということです。
過去の大規模な臨床試験(UKPDSやACCORD試験など)では、血糖値を厳格にコントロールしても、大血管合併症の予防効果は、微小血管合併症(網膜症など)ほど明確ではありませんでした。一方で、日本循環器学会のガイドラインなどが示すように、血圧や脂質をしっかり管理することは、心血管イベントを確実に減らすことが証明されています。
したがって、現在の糖尿病治療における心血管対策の主流は、「多因子リスク管理(Multifactorial Risk Management)」です。これは、以下のすべての危険因子に同時に介入することを意味します。
- 血糖管理: 低血糖を避けつつ、個々の目標値を目指す
 - 血圧管理: 130/80 mmHg未満を厳格に目指す
 - 脂質管理: LDLコレステロールだけでなく、中性脂肪やHDLも考慮する
 - 禁煙: 動脈硬化の最大のリスク因子の一つであり、必須
 - 体重管理: 肥満の解消は、上記すべて(血糖・血圧・脂質)の改善につながる
 
この考え方は、最近の糖尿病の薬物治療にも反映されています。SGLT2阻害薬やGLP-1受容体作動薬といった一部の薬剤は、血糖を下げるだけでなく、心臓や腎臓を保護する効果(心血管イベントや心不全入院を減らす効果)が示されており、日本糖尿病学会のガイドラインでも心血管リスクの高い患者さんへの使用が推奨されています。これは、単に血糖を下げるだけでなく、血圧や体重にも良い影響を与え、多因子管理に貢献するためです。
心血管疾患の予防は、血糖値という一つの指標だけを追う「点」の治療ではなく、血圧・脂質・体重・生活習慣全体を見据えた「面」の治療、すなわち包括的な治療戦略が不可欠であることを、ぜひご理解ください。
よくある質問
Q1: 糖尿病があると、本当に心筋梗塞や脳卒中になりやすいのですか?
A: はい、その通りです。厚生労働省などの公的資料でも示されているように、糖尿病患者さんは、そうでない方と比べて心筋梗塞や脳卒中を発症するリスクが約2~3倍高いと報告されています。これは、本節で解説したように、高血糖が動脈硬化を直接促進するだけでなく、高血圧や脂質異常症といった他の強力なリスク因子を合併しやすいためです。
Q2: 血糖コントロール(HbA1c)さえ良ければ、心臓の病気は防げますか?
A: 血糖コントロールは非常に重要ですが、残念ながらそれだけでは不十分です。日本の学会合同ステートメントでも、血糖管理だけでは大血管合併症を十分に抑制できないことが示されています。心筋梗塞や脳卒中を本気で予防するためには、血糖(HbA1c)に加えて、血圧(130/80 mmHg未満)、脂質(特にLDLコレステロール)、そして禁煙といった「多因子」を同時に達成することが不可欠です。
Q3: 境界型(糖尿病予備群)と言われただけですが、それでも心血管のリスクはありますか?
A: 非常に重要なご質問です。答えは「はい、リスクはすでに高まっています」です。国立国際医療研究センターのデータによれば、糖尿病予備群(境界型)の段階であっても、心血管疾患による死亡リスクは健常な人の2倍以上になることが示されています。動脈硬化は、明らかな糖尿病と診断される前から静かに始まっています。予備群と診断された時点で生活習慣の改善に取り組むことが、最も効果的な予防策となります。
Q4: 糖尿病で心不全が多いと聞きましたが、なぜですか?
A: 糖尿病患者さんは、心筋梗塞による心不全(ポンプ機能低下)が多いことに加え、心臓の筋肉自体が硬くなる「HFpEF(ヘフペフ)」というタイプの心不全を非常に起こしやすいことがわかっています。これは、長年の高血糖による糖化産物(AGEs)の蓄積や、高血圧、腎機能の低下などが複合的に関与し、心筋をしなやかに拡張できなくするためと考えられています。特に高齢の患者さんでは、息切れやむくみといった初期症状に注意が必要です。
フットケア(潰瘍・壊疽予防・靴の選び方・皮膚管理)
前節では、心筋梗塞や脳卒中といった生命に関わる太い血管の合併症について見てきました。しかし、糖尿病の合併症はそれだけではありません。次は、一見「小さな問題」に見えて、実は下肢切断という深刻な結果につながりかねない「足病変」と、それを防ぐための最も重要な日常習慣、「フットケア」について詳しく解説します。
「糖尿病と足?」と、すぐには結びつかないかもしれません。しかし、日本糖尿病学会の診療ガイドライン[1]でも、足病変は「患者のQOL(生活の質)と生命予後に重大な影響を及ぼす」と強く警鐘が鳴らされています。足を失う原因の多くは、この足病変から始まります。だからこそ、フットケアは血糖コントロールと同じくらい重要な「治療の一環」なのです。
なぜ糖尿病で足のケアが重要なのか?
糖尿病の方が「ちょっとした靴擦れ」や「小さなタコ」を放置してはいけない理由は、大きく分けて3つあります。これらが複雑に絡み合うことで、健康な人なら数日で治るはずの傷が、数ヶ月経っても治らず、ついには壊疽(えそ)に至ることがあるのです。
- 神経障害(感覚が鈍くなる):高血糖が続くと、足先の細い神経がダメージを受けます。これを糖尿病性神経障害と呼びます。症状が進むと、痛みや熱さ、冷たさを感じにくくなります。靴の中に小石が入っていても気づかず歩き続けたり、熱いお風呂で火傷をしても気づかなかったりします。これが「傷の入り口」になります。
 - 血流障害(PAD:末梢動脈疾患):前節で触れた動脈硬化は、足の細い血管でも起こります。血流が悪くなると、傷を治すために必要な酸素や栄養素、免疫細胞が傷口に届きにくくなります。その結果、一度できた傷がなかなか治りません。
 - 感染への抵抗力が落ちる:高血糖の状態は、細菌にとって格好の「栄養源」となります。また、体を守る免疫細胞の働きも鈍くなります。そのため、小さな傷口から細菌が入り込みやすく、一度入ると一気に感染が広がってしまいます。
 
つまり、「傷ができやすい(神経障害)」うえに、「傷が治りにくい(血流障害)」、さらに「感染しやすい(高血糖)」という、足にとって非常に過酷な状況が生まれるのです。フットケアの目的は、この悪循環の最初のステップである「傷の入り口」を徹底的に防ぐことにあります。包括的な(足を含む)皮膚ケアは、まさに命を守る行動と言えます。
リスクの層別化:あなたの足はどのレベル?
「自分はどのくらいフットケアに気をつければいいのか」を知るために、医療機関では定期的に足のリスク評価を行います。英国NICEのガイドライン[8]などに基づき、リスクは以下のように分類されます。
- 低リスク群:感覚(神経)も血流も正常で、足の変形もない状態。
- → 推奨されるチェック頻度:年に1回、医療機関で足の評価を受ける。
 
 - 中リスク群:感覚が鈍くなっている、または血流が悪い、または足に変形(外反母趾やタコなど)がある状態。
- → 推奨されるチェック頻度:3~6ヶ月に1回、医療機関で足の評価を受ける。
 
 - 高リスク群:過去に潰瘍や切断の経験がある、感覚と血流の両方が悪い、重度の足の変形がある、透析中である、など。
- → 推奨されるチェック頻度:1~3ヶ月に1回、専門のフットケア外来などで評価を受ける。
 
 
主治医は、モノフィラメントという細い糸で足の感覚を調べたり、足首の脈拍や血圧(ABI検査)を測ったりして、あなたの足のリスクを判断します。自分がどのリスク群に属するのかを知っておくことは、セルフケアの「本気度」を決めるうえで非常に重要です。糖尿病の検査の一環として、定期的に「足も見せてください」と声をかける習慣をつけましょう。
毎日行うセルフフットケア:7つのステップ
足病変の予防は、医療機関でのみ行われるものではありません。最も大切なのは、患者さん自身が毎日、自分の足を慈しむように観察し、ケアすることです。CDC(米国疾病予防管理センター)[10]や厚生労働省の資料[4]などを参考に、今日から実践できる7つのステップを紹介します。
- 【見る】毎日、足の裏まで観察する
- お風呂上がりなど、時間を決めて足全体をチェックします。
 - 特に、指の間、足の裏、かかと、爪の周りを重点的に見ます。
 - 小さな傷、靴擦れ、水ぶくれ、赤み、タコや魚の目、色の変化がないか確認します。
 - 足の裏が見えにくい場合は、手鏡を使うか、ご家族に協力してもらいましょう。
 
 - 【洗う】優しく洗い、熱いお湯を避ける
- お湯の温度は38℃以下のぬるま湯にします。感覚が鈍くなっていると火傷に気づかないため、必ず手で温度を確認してください。
 - 低刺激の石鹸をよく泡立て、手で優しく洗います。軽石や硬いブラシでこすってはいけません。
 
 - 【乾かす】指の間までしっかり乾かす
- 洗い終わったら、柔らかいタオルで押さえるように水分を拭き取ります。
 - 特に指の間は湿気が残りやすく、水虫(白癬)の原因になるため、一本一本丁寧に乾かします。
 
 - 【保湿する】乾燥を防ぐ(指の間を除く)
- かかとや足の甲など、乾燥しやすい部分には保湿クリームを塗ります。
 - ただし、指の間に塗ると湿りすぎてしまうため、指の間は避けてください。皮膚の乾燥やひび割れは、それ自体が傷の入り口になります。
 
 - 【爪を切る】深爪をせず、まっすぐ切る
- 爪は「スクエアカット」が基本です。まっすぐ横に切り、両端の角はヤスリで少し丸める程度にします。
 - 深爪や、角を斜めに切り込む「バイアスカット」は、巻き爪や陥入爪の原因になるため厳禁です。
 
 - 【靴下を履く】足を保護する
- 清潔で、吸湿性の良い綿などの素材を選びます。
 - ゴム口のきついものや、縫い目が足に食い込むものは避けます。
 - 家の中でも裸足で歩かず、必ず靴下を履いて足を保護しましょう。
 
 - 【靴を履く】履く前に中を確認する
- 靴を履く前は、必ず手を入れて中に小石や砂、釘、縫い目のほつれなどが入っていないか確認します。
 - これは合併症を防ぐための非常に重要な習慣です。
 
 
靴と靴下の正しい選び方
フットケアにおいて「靴は治療具である」という認識が重要です。合わない靴は、たった一日で潰瘍の原因となり得ます。高リスクの方の場合、足底の圧力を減らす治療用の履物(靴やインソール)が潰瘍の再発予防に有効であることが、日本糖尿病学会のレビュー[2]でも示されています。
日常生活で新しい靴を選ぶ際は、以下のポイントをチェックしてください(厚生労働省資料[4]参考)。
- 買う時間帯:足が最もむくんでいる午後に選びます。
 - 試着時:必ず両足に、普段履いている靴下(冬用の厚手ならそれ)を履いた状態で試着します。
 - つま先:指先が当たらず、1cm程度の「捨て寸」があること。指を自由に動かせるか確認します。
 - 横幅:足の最も広い部分(親指と小指の付け根)がきつくないこと。
 - かかと:歩行時にかかとが浮いたり、ずれたりしないこと。
 - 素材:通気性が良く、柔らかい天然皮革や布製が望ましいです。
 - 靴底:ある程度の厚みとクッション性があり、滑りにくいもの。
 
避けるべき靴:
- 先の尖ったハイヒールや、足が前に滑るサンダル。
 - ゴム長靴や、口の狭いブーツ(蒸れや擦れの原因になりやすく、長時間の使用は避けます)。
 
靴下について:
- 吸湿性・保温性に優れた綿やウールが推奨されます。
 - 縫い目が内側にないもの、ゴム口がゆったりしているものを選び、血流を妨げないようにします。
 - 冬場に寒いからといって、血流を妨げるほど靴下を重ね履きするのは逆効果になることもあります。運動時も同様に、適切な靴と靴下を選ぶことが重要です。
 
皮膚・爪・胼胝(たこ)の専門的管理
日常のセルフケアで対応できない足の問題、特に「タコ(胼胝)」や「巻き爪」、「水虫(白癬)」は、専門家による管理が必要です。これらは「自分で処置しない」ことが鉄則です。
- 胼胝(たこ)・魚の目:
- 絶対に自分で削らないでください。また、市販のスピール膏(角質溶解剤)は絶対に使用しないでください。感覚が鈍っていると、健康な皮膚まで溶かしてしまい、そこから一気に潰瘍に発展するケースが後を絶ちません。
 - タコは「その部分に過剰な圧力がかかっている」というサインです。医療機関(フットケア外来や皮膚科)で、安全に削ってもらう(デブリードマン)とともに、原因となっている靴や歩き方を見直す必要があります。
 
 - 水虫(足白癬):
- 指の間のじゅくじゅくした水虫は、細菌の格好の侵入口となります。そこから細菌感染(蜂窩織炎)を起こすと、急性合併症として急速に悪化することがあります。
 - 市販薬でごまかさず、必ず皮膚科を受診し、完治するまで治療を続けてください。
 
 - 巻き爪・陥入爪:
- 爪が皮膚に食い込んで痛みや赤みが出た場合、自分で深く切り込んではいけません。そこから感染が起こりやすくなります。専門のフットケア外来や皮膚科、形成外科に相談してください。
 
 
これらの小さなトラブルを放置することが、末期の合併症である壊疽への第一歩となり得ます。「このくらい」と甘く見ないことが重要です。
専門的フットケアと多職種チーム
足病変のリスクが高い方や、すでにタコや爪の問題を抱えている方は、セルフケアだけでは不十分です。この分野では「多職種連携」が非常に重要とされています。英国NICE[8]は、専門の「足病変チーム」による集学的なケアを強く推奨しています。
日本でも「糖尿病フットケア外来」などを設置している病院が増えています。そこでは、以下のような専門家が連携してあなたの足を守ります。
- 糖尿病専門医:血糖、血圧、脂質など、全身のコントロールを担当します。
 - 看護師(皮膚・排泄ケア認定看護師など):安全な爪切り、タコの処置、皮膚の保湿指導、セルフケア教育など、最も身近なケアを担当します。
 - 血管外科医:血流が悪い(PAD)と判断された場合、カテーテル治療やバイパス手術で血流を再建します。
 - 皮膚科医・形成外科医:水虫の治療、潰瘍ができてしまった場合の専門的な処置(デブリードマン)や皮膚移植などを行います。
 - 装具士:足の圧力を測定し、潰瘍を予防するための治療用インソール(中敷き)や靴を作成します。
 
あなたは一人で足の問題と戦う必要はありません。これらの専門家チームに定期的にかかわり、あなた専用のケアプランを立ててもらうことが、足を切断から守る最も確実な方法です。
危険なサイン(レッドフラグ)と受診の目安
フットケアの最後の砦は、「いつ医療機関を受診すべきか」という危険なサイン(レッドフラグ)を知っておくことです。以下の症状を見つけたら、「様子を見よう」とは決して思わず、ただちに医療機関を受診してください(CDC資料[11]参考)。
ただちに救急外来を受診すべきサイン
- 足が赤く、熱を持ち、パンパンに腫れている(蜂窩織炎の可能性)
 - 傷口から悪臭がする、膿が出ている、または傷の周りが黒っぽく変色してきた(壊疽の可能性)
 - 足が急に冷たくなり、紫色になり、安静にしていても激しく痛む(急性下肢虚血の可能性)
 - 広範囲の水ぶくれや、皮がむけている
 24~48時間以内に主治医または皮膚科を受診すべきサイン
- 小さな靴擦れや切り傷が、2日経っても治る気配がない、または悪化している
 - 赤みや腫れが24時間以上続いている
 - 新しい水ぶくれができた
 - 爪が皮膚に食い込んで赤く腫れてきた(陥入爪)
 
糖尿病の足のケアにおいて、「このくらい大丈夫だろう」という自己判断は最も危険です。「いつもと違う」と感じたら、それはあなたの足が発しているSOSのサインです。初期症状を見逃さず、勇気を出して受診することが、あなたの未来の歩行を守ることに直結します。
妊娠と糖尿病(妊娠糖尿病・既往糖尿病妊婦の管理)
前節のフットケアのように、糖尿病管理は足先といった特定部位のケアから、人生の大きな節目に至るまで、非常に幅広い知識を必要とします。その中でも「妊娠」は、お母さん(母体)と新しい命(胎児)の両方にとって、最も重要かつ専門的な管理が求められる時期の一つです。
「妊娠中に血糖値が高いと言われた」「もともと糖尿病があるけれど、無事に出産できるだろうか」——。こうした不安は、多くの妊婦さんとそのご家族が抱えるものです。妊娠中の高血糖は、お母さん自身だけでなく、お腹の赤ちゃんの発育にも大きな影響を与える可能性があるため、正確な知識に基づいた早期の対応が不可欠です。このセクションでは、妊娠と糖尿病に関する最新の知識を、日本のガイドラインに基づき、不安や疑問に答える形で詳しく解説していきます。
妊娠糖尿病と糖尿病合併妊娠の違いとは?
妊娠中に「血糖値が高い」と指摘されたとき、まず戸惑うのがその「呼び名」かもしれません。「妊娠糖尿病」「妊娠中の明らかな糖尿病」「糖尿病合併妊娠」——。これらは似ているようで、リスクのレベルや管理の方法が異なります。日本の日本糖尿病学会(JDS)や日本産科婦人科学会(JSOG)のガイドラインでは、主に以下の3つに分類して対応を決めます[1, 3]。
- 妊娠糖尿病(GDM – Gestational Diabetes Mellitus)
- 定義: 妊娠中にはじめて発見された、または発症した「糖尿病には至らない」糖代謝異常です。
 - ポイント: あくまで「糖尿病の手前の段階」ですが、放置すると母体や胎児に影響が出るため、厳格な管理が必要です。
 
 - 妊娠中の明らかな糖尿病(Overt Diabetes in Pregnancy)
- 定義: 妊娠中の検査で、通常の「糖尿病の診断基準」そのものを満たした場合です。妊娠前から見逃されていた糖尿病である可能性が高い状態です。
 - ポイント: GDMよりも血糖値が著しく高く、合併症のリスクも高いため、より強力な治療介入が必要となります[1]。
 
 - 糖尿病合併妊娠(Pregestational Diabetes)
- 定義: 妊娠前から「1型糖尿病」または「2型糖尿病」と診断されている方が妊娠した場合です。
 - ポイント: 妊娠前から計画的に血糖をコントロールすることが、赤ちゃんの先天異常や母体の合併症増悪を防ぐ鍵となります。
 
 
この区別は非常に重要です。なぜなら、国立国際医療研究センター(NCGM)の情報にもあるように、妊娠前から糖尿病がある場合や「明らかな糖尿病」と診断された場合は、GDMの方と比べて赤ちゃんの先天異常や周産期死亡のリスクがより高いことがわかっているからです[4]。
GDMの診断は、75gOGTT(経口ブドウ糖負荷試験)という甘いサイダーのような検査飲料を飲んで、血糖値の推移を調べます。日本では、以下の3点のうち1点でも満たせばGDMと診断されます[1, 2]。
- 空腹時血糖値: 92 mg/dL 以上
 - 1時間後の血糖値: 180 mg/dL 以上
 - 2時間後の血糖値: 153 mg/dL 以上
 
この基準値は、通常の血糖値の正常範囲や、HbA1c(ヘモグロビンA1c)の基準とは異なる、妊娠特有のものです。これは、通常の基準では見逃されてしまうようなわずかな高血糖でも、胎児の過剰な発育(巨大児)などを引き起こすリスクがあることが研究でわかってきたため、より厳しい基準が設定されています。
妊娠初期と24〜28週に行う2回の糖負荷スクリーニング
「なぜ妊娠中に何度も血糖検査をするのだろう」と疑問に思うかもしれません。これには明確な理由があります。日本のガイドラインでは、見逃しを防ぐために、原則としてすべての妊婦さんを対象に「妊娠初期」と「妊娠中期」の2回、スクリーニング(ふるい分け検査)を行うことを推奨しています[1]。
1. 妊娠初期(初診〜16週頃)のスクリーニング
目的: この時期の検査は、主に「妊娠中の明らかな糖尿病」や「妊娠前から見逃されていた糖尿病」を早期に発見することが目的です。
方法: 妊婦健診の採血時に「随時血糖値」(食事と関係なく測定する血糖値)やHbA1cを測定します。国立成育医療研究センターなどの施設では、随時血糖が95mg/dL以上、またはHbA1cが高値の場合などをスクリーニング陽性と判断し、精密検査(75gOGTT)に進みます[6]。この段階で高い空腹時血糖値が確認された場合、より厳重な管理が早期から必要となります。
2. 妊娠中期(24〜28週)のスクリーニング
目的: 妊娠初期の検査で問題がなかった方でも、この時期になると「妊娠糖尿病(GDM)」を発症することがあります。なぜなら、妊娠24週を過ぎると、胎盤からインスリンの働きを妨げるホルモン(インスリン抵抗性を高めるホルモン)の分泌がピークになるためです[1]。
方法: 一般的には「50gGCT(グルコースチャレンジテスト)」という検査が行われます。これは、予約や食事制限(絶食)の必要がなく、外来で50gのブドウ糖が入った甘い飲み物を飲み、1時間後に採血して血糖値を測る簡単な検査です。この値が多くの施設で140mg/dL以上だった場合[6]、または随時血糖で基準値を超えた場合に陽性と判定され、後日、診断を確定するための75gOGTTに進みます。
このように2段階で検査を行うのは、母体と胎児の健康を守るために、高血糖のリスクを確実にとらえる日本の医療体制の工夫です。最初の検査で陽性と言われても、それは「GDM確定」ではなく、あくまで「精密検査が必要」というサインですので、落ち着いて次の検査を受けてください。
妊娠前に糖尿病がある人のプレコンセプションケア
すでに1型糖尿病や2型糖尿病と診断されている女性にとって、「無事に健康な赤ちゃんを産めるだろうか」という不安は、何よりも大きいものかもしれません。その答えは、「はい、可能です。ただし、そのためには『妊娠前の準備』が決定的に重要です」となります。
これを「プレコンセプションケア(妊娠前管理)」と呼びます。日本糖尿病学会のガイドラインでは、思春期以降のすべての糖尿病女性に対し、この妊娠前管理の重要性を繰り返し説明するよう医療者に求めています[1]。
なぜ妊娠「前」がそれほど重要なのでしょうか。それは、赤ちゃんの体の大切な器官(心臓、神経、手足など)は、妊娠のごく初期(妊娠4週〜10週頃)に作られるからです。この時期は、お母さん自身がまだ妊娠に気づいていないことも多い時期です。もし、この最も重要な時期に血糖コントロールが非常に悪い(特にHbA1cが高すぎる)と、流産や、赤ちゃんに先天異常(心臓の奇形など)が起こるリスクが数倍に高まってしまうことがわかっています[1]。
安全な出産のために、妊娠を計画する(「計画妊娠」)ことが強く推奨され、以下の準備を行います。
- 血糖コントロールの最適化: 妊娠前からHbA1cをできる限り正常値に近づける(例:6.5%未満など、個々の状態に応じて主治医と目標を設定)
 - 合併症の評価: 糖尿病網膜症や腎症、高血圧などの合併症がないか、ある場合は悪化していないかを妊娠前に評価し、必要なら治療しておきます。特に網膜症は妊娠中に悪化することがあります。
 - 薬剤の見直し: 妊娠中に安全に使用できない糖尿病の経口薬(SGLT2阻害薬など)や、特定の降圧薬(RA系薬剤)は、妊娠前にインスリンや安全な薬剤に変更します[1]。
 - 葉酸の摂取: 赤ちゃんの神経管閉鎖障害のリスクを減らすため、妊娠計画中から葉酸(400µg/日)を摂取します[1]。
 
これらの管理は一人で抱え込むものではありません。産科医、糖尿病内科医、管理栄養士、眼科医などがチームとなってサポートします。妊娠を考え始めたら、まずは主治医にその意思を伝えることが、母子ともに健康な出産を迎えるための第一歩です。
インスリンはなぜ妊娠中の第一選択なのか
妊娠糖尿病(GDM)と診断され、食事療法だけでは血糖値が下がらない場合、または糖尿病合併妊娠の場合、治療の基本は「インスリン療法」となります。これを聞いて、「注射は怖い」「一度始めたらやめられないのでは」と不安に思う方も多いでしょう。
しかし、日本のガイドラインでインスリンが第一選択とされているのは、「お母さんと赤ちゃんにとって最も安全性が確立された薬」だからです[1]。
インスリンは、もともと私たちの体で作られているホルモンであり、分子量が大きいため胎盤をほとんど通過しません。つまり、お母さんの血糖値を下げる一方で、お腹の赤ちゃんに直接作用して低血糖などを起こす心配がありません。一方、多くの経口血糖降下薬は胎盤を通過することが知られており、妊娠中の長期的な安全性に関するデータが不足しているため、日本では原則として使用が推奨されていません[1]。
妊娠中にインスリン治療を始めることは、決して「管理がうまくいかなかった」ということではありません。インスリン抵抗性がピークになる妊娠後期は、食事療法だけではどうしてもコントロールが難しくなる時期です。これは、お母さんのせいではなく、胎盤ホルモンによる生理的な変化です。インスリンは、この時期を安全に乗り切るための「最も確実で安全なツール」なのです。
妊娠中の血糖コントロール目標
妊娠中の血糖管理は、非妊娠時よりも厳格な目標が設定されます。これは、わずかな高血糖でも胎児の発育に影響を与える可能性があるためです。多くの施設で、以下の数値が目安とされています[1]。
- 空腹時・食前: 95 mg/dL 未満
 - 食後2時間: 120 mg/dL 未満
 
この目標を達成するために、自己血糖測定(SMBG)を行い、食事やインスリン量を細かく調整していきます。
また、NCGMの情報にもあるように、出産後は注意が必要です[7]。胎盤が娩出されると、インスリン抵抗性の原因だったホルモンが一気になくなるため、インスリンの必要量が急激に減少します。特に授乳はエネルギーを消費するため、産後は低血糖を起こしやすくなります。インスリン量の速やかな調整と、授乳前の補食などが重要になります。
赤ちゃんへのリスク(巨大児・低血糖・黄疸)を減らすには
厳格な血糖コントロールが求められる最大の理由は、お腹の赤ちゃんを守るためです。お母さんの血糖値が高いと、ブドウ糖は胎盤を通して直接赤ちゃんに送られます。すると、赤ちゃんはどう対応するでしょうか。
赤ちゃんの膵臓は、その豊富なブドウ糖を処理するために、インスリンを通常より多く分泌し始めます。この「高インスリン状態」が、赤ちゃんに様々な影響を及ぼします[3]。
- 巨大児(Macrosomia): 赤ちゃんにとってインスリンは強力な「成長ホルモン」として作用します。過剰なブドウ糖が脂肪として蓄積され、体が通常より大きく育ち(例:4,000g以上)、巨大児となるリスクが高まります。
 - 肩甲難産(Shoulder Dystocia): 赤ちゃんが大きすぎると、出産の際に肩がお母さんの骨盤に引っかかってしまい、難産(肩甲難産)になることがあります。これは、赤ちゃんに骨折や神経麻痺、脳へのダメージなどを引き起こす可能性のある、非常に危険な状態です。結果として、帝王切開での分娩が選択される率も高くなります[9]。
 - 新生児低血糖: お腹の中で常に高インスリン状態に慣れていた赤ちゃんは、生まれてお母さんからのブドウ糖供給が途絶えた後も、インスリンを過剰に分泌し続けてしまうことがあります。これにより、生後まもなく深刻な低血糖を起こすリスクがあります。新生児の低血糖は、脳の発達に影響を与える可能性があるため、出生後すぐに厳重な監視とブドウ糖の補給が必要になります[3]。
 - その他のリスク: その他にも、多血症(赤血球が過剰に作られる)、高ビリルビン血症(黄疸)、呼吸障害、心筋症、まれに原因不明の胎児死亡といった合併症のリスクが上がります。
 
これらのリスクは、お母さん自身の高血圧や妊娠高血圧症候群のリスクとも連動します。しかし、これらのリスクは「妊娠中の血糖値を目標範囲内に厳格にコントロールする」ことによって、大幅に減らすことができると報告されています[3]。日々の地道な食事管理やインスリン注射は、すべて赤ちゃんのこれらのリスクを減らすために行っているのです。
産後6〜12週の75gOGTTを忘れないためのポイント
無事に出産を終えると、多くの方の血糖値は急速に正常に戻ります。育児に追われる日々が始まり、妊娠中の厳格な食事制限やインスリン注射から解放され、ほっと一息つくことでしょう。妊娠糖尿病だった方の多くは、インスリンも不要になります。
しかし、「治ったから、もう大丈夫」と考えるのは、少し早いかもしれません。妊娠糖尿病を経験したということは、「あなたの体質は、将来2型糖尿病になりやすい」という重要なサインを受け取ったことを意味します。米国CDC(疾病対策センター)は、妊娠糖尿病だった女性の約半数が、産後5〜10年以内に2型糖尿病を発症するというデータを公表しています[9]。
だからこそ、日本のガイドライン[1]やNCGMなどの専門機関[7]は、産後6〜12週の間に、必ずもう一度75gOGTTを受けるよう強く推奨しています。この検査の目的は、血糖値が本当に正常に戻ったか、あるいは「糖尿病予備群(境界型)」になっていないか、まれに「糖尿病」に移行していないかを確認するためです。
産後の慌ただしい時期に、この検査を忘れないようにするためには、以下のことをお勧めします。
- 退院前に、産後の75gOGTTの予約を(産科または内科で)入れてしまう。
 - スマートフォンのカレンダーに、産後2ヶ月後の日付でリマインダーをセットする。
 - 1ヶ月健診の際に、医師や助産師に「次のOGTT検査はいつ受ければよいか」と再確認する。
 
この検査は、あなたの将来の健康を守るためのスタートラインです。たとえ産後の検査で「正常」と判定されても、一度GDMを経験した方は、その後も年に1回は健康診断で血糖値をチェックし続けることが推奨されます。バランスの取れた食生活や運動習慣を続けることは、将来の2型糖尿病の発症予防に直結します。
このように、妊娠と糖尿病の管理は、妊娠前から始まり、妊娠中、そして出産後まで続く、母子両方の生涯にわたる健康管理へと繋がっていきます。特に、妊娠中の高血糖は新生児にも影響を及ぼしますが、糖尿病の管理は成人や妊婦さんだけのものではありません。次のセクションでは、小児期や思春期に発症する糖尿病の管理について詳しく見ていきましょう。
小児・若年糖尿病(1型・思春期管理・学校生活)
前節では妊娠と糖尿病という、特定のライフステージにおける血糖管理の課題について見てきました。しかし、もし糖尿病が「子ども」に、あるいは「思春期の若者」に発症した場合、それは成人とは全く異なる、非常に繊細な管理と支援体制を必要とします。
お子さんが糖尿病と診断されたとき、多くの保護者様は「なぜこの子が?」「何か食べさせ方が悪かったのか?」「生活習慣が原因なのか?」と、ご自身を責めたり、深い混乱と不安に陥ったりします。ここでまず知っていただきたい最も重要なことは、日本の小児・若年期に発症する糖尿病のほとんどは1型糖尿病であり、これはWHO(世界保健機関)も明記するように、現在の医学では予防不可能な自己免疫疾患であるということです。決して、ご本人やご家族の生活習慣が原因ではありません。
このセクションでは、小児・若年糖尿病、特に1型糖尿病に焦点を当て、その管理の難しさ、特に「思春期」という嵐の時期、そして「学校・園生活」という社会生活の場で、本人と家族、そして周囲がどのように連携していくべきか、日本の日本糖尿病学会の最新ガイドラインや公的資料に基づき、深く掘り下げて解説します。
なぜ日本で「まれ」なことが、学校での困難につながるのか
日本の小児・思春期における1型糖尿病の発症率は、10万人あたり年間約2.0〜2.5人と報告されており、欧米諸国の10分の1から30分の1程度と非常に「まれ」な病気です。この「まれ」であるという事実こそが、社会生活における最初の大きな壁となります。
最も深刻な問題は、厚生労働省の専門委員会資料でも指摘されているように、多くの教育現場や地域社会で、1型糖尿病が成人(特に中高年)に多い2型糖尿病と混同されてしまうことです。2型糖尿病は生活習慣や肥満が関与することが多いため、1型糖尿病の子どもが「お菓子ばかり食べていたからだ」「運動しないからだ」といった心ない誤解や偏見、時にはいじめの対象にさえなり得ます。
この誤解を解くことが支援の第一歩です。改めて整理すると、糖尿病の原因はタイプによって全く異なります。
- 1型糖尿病:自己免疫(自分の免疫が間違って自分を攻撃する)によって、インスリンを出す膵臓の細胞が破壊されてしまう病気です。インスリンが体内で作れなくなるため、生きるために生涯にわたるインスリン注射が不可欠です。
 - 2型糖尿病:遺伝的な要因に、食べ過ぎ、運動不足、肥満といった生活習慣が加わり、インスリンの効きが悪くなる(インスリン抵抗性)か、インスリンの出が悪くなる病気です。2型糖尿病の管理は食事や運動が中心となりますが、1型はインスリン補充が治療の根幹です。
 
この違いを本人、家族、そして学校関係者が正確に理解し、子どもが「インスリン注射は生きるために必要な医療行為である」と堂々と(あるいは安心して)行える環境を整えることが、何よりも重要です。
思春期に血糖コントロールが「荒れる」3つの理由
「診断直後は頑張っていたのに、中学生・高校生になったら急にHbA1c(ヘモグロビンA1c:過去1〜2ヶ月の血糖平均値)が悪化した」——これは、小児糖尿病の管理において非常によく見られる、しかし非常に深刻な課題です。日本糖尿病学会のガイドラインでも、この時期の管理の難しさは特記されています。その背景には、大きく分けて3つの理由があります。
1. 体の変化(ホルモンの嵐)
思春期は、第二次性徴を促すために「成長ホルモン」や「性ホルモン」が大量に分泌されます。これらのホルモンは、体を成長させる一方で、インスリンの働きを邪魔する(インスリン抵抗性を高める)作用も持っています。つまり、本人は以前と同じように食事をし、同じ単位のインスリンを注射していても、血糖値が上がりやすくなるのです。これは本人の「怠慢」ではなく、生理的な体の変化であり、多くの場合、一時的により多くのインスリン量を必要とします。
2. 心の変化(「普通」でありたいという葛藤)
思春期は、「自分は他人とどう違うのか」という自己意識が芽生える時期です。友人が自由に間食をし、部活動に打ち込む中で、自分だけが食事のたびに血糖値を測り、インスリンを注射しなければならない現実は、「自分は普通ではない」という疎外感や劣等感につながりやすくなります。結果として、以下のような行動が起こることがあります。
- 友人の前で注射を見られるのが嫌で、隠れて注射を省略する(打ち忘れ)。
 - 血糖測定を面倒に感じ、測定しない(カーボカウントが不正確になる)。
 - 「自分だけ食べられない」というストレスから、隠れて過食してしまう。
 - (特に女子において)インスリンを打つと太るという誤解や、体重を減らしたい思いから、意図的にインスリン注射を減らす(これは「ダイアブリミア」と呼ばれる非常に危険な摂食障害の一形態です)。
 
こうした心理的な葛藤は、糖尿病に伴う不安障害や抑うつと密接に関連しており、血糖コントロールの悪化と心の不調が悪循環に陥るケースが少なくありません。
3. 環境の変化(不規則な社会生活)
友人との外食、塾通いによる夕食時間の遅れ、部活動での激しい運動、甘いジュースやスナックの誘惑など、生活が不規則になりがちなのも思春期の特徴です。これらすべてが血糖コントロールを難しくする要因となります。この時期は、本人を責めるのではなく、医療者、家族、学校が連携し、「どうすれば本人が自立して安全に管理できるようになるか」を一緒に考えるチーム医療が不可欠です。
学校・園生活で不可欠な3つの「環境づくり」
子どもが1日の大半を過ごす保育園・幼稚園・学校は、治療の場であると同時に、安全を守る砦でもあります。しかし、日本糖尿病学会の入園ガイドでは、病気を理由に入園を拒否されたり、対応に難色を示されたりする事例が報告されています。これは多くの場合、前述した「誤解」と「前例がないことへの不安」が原因です。この不安を解消し、安全な環境を整えるために、保護者と医療機関が学校側に具体的に働きかけるべきポイントが3つあります。
1. 安全な「医療的ケア」の場所と理解
1型糖尿病の子どもは、多くの場合、1日に何度も血糖値を測定し、毎食前にインスリンを注射する必要があります。これらの行為は「医療的ケア」です。
- 血糖測定:指先に針を刺して血液を出す行為です。衛生的な場所(保健室など)で、手を洗ってから行う必要があります。友達のいる教室で測定したがる子もいますが、衛生面とプライバシーの観点から、保健室の利用が推奨されます。血糖測定器の操作は本人ができても、その数値の意味を理解し、次の行動(補食、インスリン量の調整)を判断するには、大人のサポートが必要な場合があります。
 - インスリン注射:注射器(インスリンペン)やインスリンポンプを用います。これも衛生的な環境が必要です。「トイレの個室でこっそり打つ」といった行為は、感染症のリスクがあり絶対に避けるべきです。学校側には、保健室のベッドをカーテンで仕切るなど、プライバシーが守られ、清潔な場所の提供を依頼する必要があります。
 
2. 「低血糖」への統一した対応
学校生活で最も注意すべき緊急事態が「低血糖」です。インスリンが効きすぎたり、食事量が少なかったり、運動量が多かったりすると発生します。低血糖は迅速な対応が必要であり、対応が遅れると意識障害やけいれんを引き起こし、命に関わります。
担任の教師だけでなく、体育の教師、養護教諭、部活動の顧問など、関わる全ての教職員が「低血糖のサイン」と「具体的な対処法」を知っておく必要があります。米国CDC(疾病予防管理センター)は、学校向けの糖尿病管理計画(DMMP)の整備を推奨していますが、日本でも同様の「個別支援計画書」を作成し、学校と共有することが極めて重要です。
- サイン:あくび、生あくび、冷や汗、手の震え、顔面蒼白、ぼんやりする、イライラする、普段と違う言動。
 - 対処法(本人の意識がある場合):すぐにブドウ糖(ラムネや専用ゼリー)を摂取させる。(注意:アメやチョコレートは吸収が遅いため、緊急時にはブドウ糖が最適です)
 - 対処法(意識がない・けいれん):すぐに救急車を要請し、医療機関の指示(グルカゴン注射など)に従う。
 
低血糖は夜間の高血糖と同じく、血糖コントロールの大きな課題であり、学校での安全確保の最優先事項です。
3. 「特別な日」の事前共有
普段と生活リズムが変わる日は、血糖コントロールが最も乱れやすい日です。
- 運動会、体育祭、マラソン大会
 - 遠足、社会科見学
 - 試験(緊張による血糖上昇、または低血糖による集中力低下)
 - 修学旅行(食事時間、活動量、インスリンの保管など全てが課題)
 
これらの行事が決まったら、必ず事前に主治医と相談し、「その日専用のインスリン量や補食の計画」を立て、学校側と詳細に共有・依頼しておく必要があります。「なんとなく」で臨むと、重大な低血糖や高血糖(ケトアシドーシス)を引き起こすリスクがあります。
家族の負担と公的支援(通院中断を防ぐために)
小児1型糖尿病の管理は、24時間365日続きます。夜中の低血糖アラームで起こされる、食事のたびに炭水化物量を計算する、学校との複雑な調整を行う…その負担は、想像を絶するものがあり、保護者様が疲弊してしまうことも少なくありません。ガイドラインでも、患児・家族の心理的支援の重要性が強調されています。
知っておいていただきたいのは、「一人で抱え込む必要はない」ということです。日本には、こうした慢性疾患を持つ子どもと家族を支える制度があります。
- 小児慢性特定疾病医療費助成制度:厚生労働省が定める制度で、1型糖尿病も対象です。認定されると、医療費の自己負担が軽減されます。また、医療費助成だけでなく、地域社会での相談支援や自立支援といった事業も含まれています。詳しくは、お住まいの自治体の窓口(保健所や子ども家庭センターなど)にご相談ください。
 - 心理カウンセリング:診断によるショック、管理の疲れ、思春期の反発など、家族だけで解決するのが難しい問題は、専門の臨床心理士やソーシャルワーカーに相談することが非常に有効です。
 
若年層の糖尿病管理において最も避けたいことの一つが、思春期後半から成人期にかけての「通院中断」です。管理の難しさや心理的な理由から医療から離れてしまうと、数年で深刻な合併症(腎症、網膜症など)が進行するリスクがあります。早期発見と継続的な治療を支えるためにも、家族が社会資源とつながり、孤立しないことが大切です。
このように、小児・若年期の糖尿病管理は、本人と家族、学校、医療機関が密接に連携する「チーム」としての取り組みが不可欠です。次のセクションでは、また別の特定の集団である「高齢者」の糖尿病管理について、その特有の課題と目標設定を見ていきます。
高齢者糖尿病(目標設定・低血糖リスク・認知機能)
前節では小児・若年層の糖尿病管理について触れましたが、そこでは多くの場合、人生の早い段階で発症するため、長期にわたる合併症を防ぐための厳格な血糖コントロールが目指されます。しかし、ご高齢の方の糖尿病管理は、その哲学が根本から異なります。
高齢者糖尿病の治療では、「HbA1c(ヘモグロビンA1c)の数値をどこまで下げるか」ということよりも、「いかに重症低血糖を起こさずに安全な生活を維持するか」という点が最優先されます。なぜなら、高齢者にとっての一度の重症低血糖は、単なる一時的な不調ではなく、転倒による骨折、心血管イベント(心筋梗塞や脳卒中)、そして認知機能の悪化といった、生活の質(QOL)を不可逆的に低下させる重大な事態に直結するからです。本節では、この高齢者特有の糖尿病管理、すなわち「個別化された目標設定」「低血糖の重大なリスク」、そして「認知機能との密接な関係」について、日本のガイドラインに基づき深く掘り下げて解説します。糖尿病の発症原因は様々ですが、特に加齢に伴う2型糖尿病の管理において、この考え方は非常に重要です。
高齢者糖尿病の「個別化」目標:なぜ「下げすぎ」が危険なのか
ご家族が糖尿病と診断されたとき、「HbA1cは7.0%未満を目指しましょう」という一般的な目標を聞いたことがあるかもしれません。しかし、この目標はあくまで自立した成人の場合であり、高齢者、特に75歳以上の方には当てはまらない可能性があります。
この点を明確にしたのが、2016年に日本糖尿病学会(JDS)と日本老年医学会(JGS)が合同で発表した提言です(この提言は『高齢者糖尿病診療ガイドライン2023』でも踏襲されています)。この提言の革新的な点は、「目標の上限(ここまでには抑えたい)」だけでなく、「目標の下限(これ以上下げてはいけない)」を明記したことです。
なぜ「下げすぎ」を恐れるのでしょうか。それは、血糖値を下げる力が強い薬(一部の経口薬やインスリン)を使っている場合、血糖値が下がりすぎると「重症低血糖」に陥るリスクが高まるためです。若年者であれば、低血糖の初期症状(冷や汗、動悸、手の震え)を自覚し、すぐにブドウ糖を摂取するなどの対応が取れます。しかし、高齢になると、こうした自律神経の反応が鈍くなり、初期症状を感じないまま、突然意識障害やけいれんといった重症低血糖に至ることがあります。これは「無自覚低血糖」と呼ばれ、非常に危険な状態です。HbA1cの数値だけを追い求める治療は、こうした命に関わるリスクを増大させる可能性があるのです。
厚生労働省の資料でも、「高齢者糖尿病においては低血糖に対する脆弱性を有するため、症状の有無を問わず血糖が下がりすぎていないか確認すべき」と明記しており、国の方針としても「下げすぎの回避」が重要視されています。
したがって、高齢者の治療目標は「7.0%未満」という一律の数値ではなく、「その人にとって最も安全な血糖値の範囲」を主治医と相談して個別に設定することが、現在の日本の標準的な考え方となっています。低血糖のリスクを正しく理解することが、安全な治療の第一歩です。
ADLと認知機能による3つの目標カテゴリー:DASC-8の活用
では、「その人にとって安全な目標」は、具体的にどのように決めるのでしょうか。日本のガイドラインでは、患者さんの状態を以下の3つの視点で評価し、カテゴリーに分類します。
- 認知機能: 認知症の有無や、薬の管理が自分でできるか。
 - ADL(日常生活動作): 食事、入浴、着替え、トイレなど、身の回りのことが自分でできるか。(IADL:買い物や服薬管理など、より高度な動作も含む)
 - 低血糖リスク: 重症低血糖を起こしやすい薬剤(インスリン、SU薬、グリニド薬)を使用しているか。
 
この評価に基づき、患者さんは以下の3つのカテゴリーに分類され、それぞれ異なるHbA1c目標が設定されます。
- カテゴリー I: 認知機能が正常で、ADLも自立している方。
- 比較的健康な高齢者であり、合併症予防の意義も考慮されます。目標は7.0%未満を目指しますが、低血糖リスク薬を使っている場合は安全性を重視し、下限を6.5%とすることもあります。
 
 - カテゴリー II: 軽度の認知機能低下またはADL低下を認める方。
- 例えば、「薬の飲み忘れが時々ある」「一人での外出や買い物が少し不安になってきた」といった状態です。この段階では、厳格なコントロールよりも低血糖回避が優先されます。目標は8.0%未満に設定されます。
 
 - カテゴリー III: 中等度以上の認知機能低下(認知症など)またはADL低下(介助が必要)を認める方。
- ご自身での服薬管理やインスリン注射が困難で、家族や介護者のサポートが必須の状態です。この段階では、高血糖による脱水や感染症を防ぐことが主目的となり、HbA1cの数値目標は8.5%未満と、さらに緩やかに設定されます。多剤併用(ポリファーマシー)を避け、治療薬の種類をできるだけ簡素化することも重要です。
 
 
この分類を行うために、医療現場では「DASC-8(認知・生活機能質問票)」という8項目の簡単な質問票が用いられることがあります。これは、患者さんやご家族への聞き取りを通じて、認知機能や生活機能の低下を早期に把握し、適切な治療目標(カテゴリー)に振り分けるためのツールです。ご本人やご家族が「最近もの忘れが…」と感じる場合、それを隠さずに主治医に伝えることが、危険な合併症を避けるために極めて重要になります。
最大の敵「重症低血糖」:転倒・骨折・心血管イベントを防ぐ管理
なぜここまで低血糖を恐れるのか、その理由をさらに深く理解する必要があります。高齢者にとっての重症低血糖は、QOLを著しく損なう「引き金」となるからです。
想像してみてください。もし80代の方が低血糖で意識を失い、転倒したとします。若年者であれば打撲で済むかもしれませんが、高齢者の場合は大腿骨(太ももの付け根)や背骨の圧迫骨折につながることが少なくありません。手術が必要となれば、長期の入院とリハビリが避けられず、そのまま寝たきりや要介護状態になってしまうケースは非常に多いのです。ある研究[14]では、重症低血糖を経験した高齢の糖尿病患者さんは、転倒リスクが約1.7倍に増加すると報告されています。
さらに、低血糖は心臓や脳にも大きな負担をかけます。血糖値が急激に下がると、体はそれを元に戻そうとしてアドレナリンなどのホルモンを分泌し、心拍数を上げ、血管を収縮させます。これが引き金となり、心筋梗塞や不整脈、脳卒中を誘発する危険性があるのです。特に低血糖によるめまいやふらつきは、転倒への直接的な前兆となります。
このため、高齢者の薬物治療では、低血糖リスクの高い薬剤(SU薬やインスリンなど)の使用は慎重に判断されます。ガイドラインでも、これらの薬剤を「特に慎重な投与が必要な薬剤」と位置づけ、可能な限り低血糖リスクの低い薬剤(DPP-4阻害薬など)への変更や、治療の単純化を推奨しています。ご家族も、食事がとれていない時に薬だけを飲ませていないか、注意深く見守る必要があります。
糖尿病と認知機能の悪循環:自己管理の破綻を防ぐ家族のサポート
最後に、高齢者糖尿病管理で最も難しい問題の一つが「認知機能との関係」です。これは「鶏が先か、卵が先か」のような、非常に厄介な双方向の関係にあります。
流れ1:糖尿病が認知症のリスクを高める
長期間の高血糖は全身の血管を傷つけ、脳の血流を悪化させます。また、インスリンの作用が脳で低下することも、アルツハイマー病などの認知症の発症に関与すると考えられています。さらに、前述の「重症低血糖」を繰り返すことは、脳の神経細胞に直接的なダメージを与え、認知機能を低下させる強力なリスク因子となります。ある報告[11, 15]では、低血糖の既往がある2型糖尿病患者さんでは、認知機能障害のリスクが約1.5倍に高まるとされています。
流れ2:認知症が糖尿病管理を破綻させる
こちらが、ご家族にとってより深刻な問題かもしれません。認知機能が低下し始めると、以下のような自己管理の「破綻」が起こりやすくなります。
- 薬を飲んだか忘れてしまい、二重に飲んでしまう(→重症低血糖)
 - 薬を飲むこと自体を忘れてしまう(→高血糖)
 - インスリン注射の単位を間違える、または打ったことを忘れて再度打ってしまう(→重症低血糖)
 - 食事を摂ったことを忘れ、薬だけを飲んでしまう(→重症低血糖)
 - 血糖測定をすること自体が難しくなる
 
このように、自己管理が破綻すると、高血糖や低血糖が頻発します。そして、その血糖の乱高下が、さらに認知機能を悪化させるという「負のスパイラル」に陥ってしまうのです。
この悪循環を断ち切るためには、ご家族や介護者のサポートが不可欠です。「最近、薬の管理が怪しいな」と感じたら、それはご本人の意欲の問題ではなく、認知機能低下のサインかもしれません。すぐに主治医に相談し、お薬カレンダーの導入、訪問看護の利用、治療薬を「1日3回」から「1日1回」や「週1回」のタイプに変更するなど、管理を「簡素化」する対策を講じることが重要です。また、ご本人が測定できなくても、ご家族が持続血糖測定器(CGM)などの新しいツールを活用して、気づかないうちの低血糖がないかを確認することも、次のセクションで解説するような自己管理の重要な戦略となります。
検査と自己管理ツール(血糖計・HbA1c測定・尿糖・連続測定)
これまでのセクションでは、糖尿病の基本的な管理方法や、高齢者の方といった特定の状況での注意点について詳しく見てきました。しかし、どのような状況であれ、糖尿病管理の基盤となるのは「ご自身の状態を正確に知る」ことです。そのために不可欠なのが、日々の血糖変動を把握するための「検査・自己管理ツール」です。
「毎日、指に針を刺すのが憂鬱だ」「数字に一喜一憂してしまう」「どの機械が自分に合っているのか分からない」——こうした悩みや疑問を抱えている方は少なくありません。このセクションでは、糖尿病と向き合う上での強力なパートナーとなる4つの主要な測定ツールについて、それぞれの役割、正しい使い方、そして日本における最新の指針を、一つひとつ丁寧に解説していきます。
自己血糖測定(SMBG)の基本と日本のガイドライン
自己血糖測定(SMBG: Self-Monitoring of Blood Glucose)は、ご自身で指先などから少量の血液を採取し、専用の小型機器(血糖計)でその瞬間の血糖値を測定する方法です。これは、日々の血糖変動を把握する上で最も基本的かつ重要な「スナップショット」と言えます。
このSMBGの重要性については、日本糖尿病学会の「糖尿病診療ガイドライン2024」[1]でも明確に言及されています。特に、1型糖尿病の方や、インスリンを1日に複数回注射している2型糖尿病の方にとっては、低血糖を回避し、インスリン量を適切に調整するためにSMBGが強く推奨されています(推奨グレードA)。
一方で、インスリンを使用していない2型糖尿病の方(食事療法のみ、または飲み薬のみで治療中の方)におけるSMBGの効果については、「一定の見解が得られていない」とされ、推奨グレードはU(不確定)となっています[1]。これは「SMBGが不要」という意味ではありません。むしろ、ご自身の食事が血糖値にどう影響するか(食後高血糖の有無)、運動の効果はどうか、といったことを確認するために、医師の指導のもとで一時的に測定することは非常に有益です。ただし、インスリン使用者とは異なり、「毎日必ず測定し続ける」必要性は個々の病状によって異なる、ということです。
SMBGを有効に活用するためには、正しい手順で行うことが何よりも大切です。
- 測定前の準備:必ず石鹸で手を洗い、よく乾かします。指先に果物の糖分などが残っていると、驚くほど高い数値が出ることがあります。
 - 穿刺(せんし):指先の真ん中ではなく、少し横(指の腹の側面)を穿刺すると痛みが少ないとされています。
 - 試験紙の管理:試験紙(センサー)には有効期限があります。期限切れのものは正確な値が出ないため使用しないでください。また、湿気に弱いため、ケースから出したらすぐに使用しましょう。
 - 記録:測定した数値だけでなく、「いつ(食前、食後2時間、就寝前など)」「何をしていたか(食事内容、運動、体調不良など)」を併せて記録することが、治療方針を決める上で非常に重要です。
 
測定した値が高いか低いかだけでなく、なぜその値になったのかを振り返ることが、自己管理の第一歩となります。血糖値の正常範囲や目標値については、主治医とよく相談しましょう。
HbA1c(ヘモグロビンA1c):「過去1〜2か月の成績表」の役割
SMBGがその瞬間の「スナップショット」であるのに対し、HbA1c(ヘモグロビンA1c)は、過去1〜2か月の血糖値の平均を反映する「長期的な成績表」です。HbA1cは、赤血球の中のヘモグロビンにブドウ糖がどれくらいの割合で結合しているかを示す数値で、血糖値が高いほどこの割合が増えます。
この検査は、日々の血糖変動に左右されにくいため、長期的な血糖コントロールの状態を評価するのに最適です。多くの医療機関では、3か月に1回程度この数値を測定し、治療方針がうまくいっているかを確認します。
ここで非常に重要な注意点があります。最近では、薬局や自宅で簡単にHbA1cを測定できる簡易測定器(POCT: Point of Care Testing)も登場していますが、日本糖尿病学会の「糖尿病診療ガイドライン2024」[3]や厚生労働省の資料[4]では、これらの簡易測定器の値を「糖尿病の診断」に用いてはならないと明確に定められています。
なぜなら、糖尿病の診断には高い精度が求められ、医療機関で行う静脈からの採血による測定値(NGSP値)が国際的な標準となっているからです。簡易測定器は、あくまでも医療機関での次回の検査までの間の傾向を把握するための「補助的なツール」と考えるべきです。健康診断などで「HbA1cが高め」と指摘された場合は、必ず医療機関で精密検査を受けてください。
また、HbA1cは「平均値」であることの限界も知っておく必要があります。例えば、血糖値が常に150mg/dLで安定している人も、100mg/dLの低血糖と200mg/dLの高血糖を繰り返している人も、HbA1cは同じような値になる可能性があります。後者は非常に危険な状態であり、この「血糖変動の幅」はHbA1cだけでは見抜けません。だからこそ、日々のSMBGや後述するCGMとの併用が重要なのです。HbA1cの基準値や意味については、糖尿病の診断基準と合わせて理解を深めておきましょう。
尿糖・尿ケトン検査の位置づけと限界
かつては糖尿病管理の主流でしたが、現在、尿糖検査は「補助的な手段」として位置づけられています[12, 13]。尿糖スティックは安価で非侵襲的(痛みを伴わない)ですが、大きな限界があります。
それは、血糖値が一定以上(一般的に180〜200mg/dL程度、個人差あり)に達しないと尿に糖が漏れ出さない「腎の糖閾値」という仕組みがあるためです[13]。つまり、尿糖検査が「陰性」であっても、血糖値が150mg/dLや170mg/dLといった「高め」の状態である可能性を否定できません。したがって、日々の細かな血糖コントロールの調整には不向きです。
しかし、尿糖検査が全く無意味になったわけではありません。血糖測定が困難な環境でのスクリーニングや、著しい高血糖(200mg/dL以上が続いている状態)の有無を大まかに知る上では役立ちます。尿の泡立ちや匂いが気になる場合のセルフチェックとしても使えます。
一方で、同じ尿検査でも「尿ケトン体」の測定は、現在でも非常に重要な役割を持っています。ケトン体とは、体がエネルギー源としてブドウ糖をうまく利用できず、代わりに脂肪を分解する際に産生される物質です。これが血液中に増えすぎると、血液が酸性に傾く「糖尿病ケトアシドーシス(DKA)」という命に関わる状態を引き起こすことがあります。
SMBGで300mg/dL以上の高血糖が続く、あるいは感染症や発熱、嘔吐などで体調が著しく悪い時には、尿ケトン体を測定することが推奨されます。もし尿ケトンが陽性で、高血糖と体調不良が重なっている場合は、危険な急性合併症のサインである可能性があるため、直ちに医療機関に連絡してください。
持続血糖測定(CGM):24時間の血糖変動を「見える化」する
持続血糖測定(CGM: Continuous Glucose Monitoring)は、近年急速に普及している新しい技術です。皮下に挿入した細いセンサーが、血液中ではなく「間質液」中のグルコース濃度を24時間連続して(通常5分ごとなど)測定・記録します。
CGMの最大の利点は、SMBGでは捉えきれない「血糖変動の全体像」を“見える化”できることです。「あのラーメンを食べた後、血糖値はどこまで上がったのか」「夜中に気づかない低血糖が起きていないか」「運動の効果はどれくらい続いているのか」といった、指先測定だけでは“点”でしかわからなかった情報が“線”として把握できます。これにより、血糖コントロールの質を劇的に高めることが可能になりました。
日本で利用可能なCGMには、主に以下のような種類があります[2]。
- isCGM (間欠スキャン式CGM): 「FreeStyleリブレ」が代表的です。センサーにリーダー(読み取り機)やスマートフォンをかざす(スキャンする)ことで、その時点での値と過去の変動グラフが表示されます。
 - rtCGM (リアルタイムCGM): センサーが測定した値を自動的にスマートフォンや専用受信機に送信し続けます。血糖値が設定した上限・下限を超えそうになるとアラート(警告音)で知らせてくれる機能が特徴です。
 - プロフェッショナルCGM: 医療機関でのみ使用され、患者さんには値が見えない状態で数日〜2週間装着し、日常生活での血糖変動パターンを医師が分析するために用います。
 
特に注目すべきは、2024年5月に改訂された日本糖尿病学会の適正使用指針[2]で、2024年3月に国内発売された「FreeStyleリブレ2」が、アラート機能により実質的なrtCGMとして機能することが明記された点です。
日本におけるCGMの保険適用については、厚生労働省の2022年度診療報酬改定[7]などに基づき、主に「インスリンなどの自己注射を1日1回以上行っている」患者さんが対象となります。残念ながら、現在のところ食事療法や飲み薬のみで治療中の方は、保険適用外となるのが一般的です。
最後に、CGMは指先のSMBGを完全に置き換えるものではありません。PMDA(医薬品医療機器総合機構)の添付文書[9]にも明記されている通り、センサーが示す値とご自身の体感(低血糖症状など)が一致しない時や、インスリン投与量の決定など重要な判断をする前には、必ずSMBGで血糖値を確認する必要があります。CGMの費用や機種比較については、主治医とよく相談してください。
CGMが拓く新しい指標:TIR・TBR・TARとは
CGMの登場により、HbA1cという「平均点」だけでは評価できなかった血糖コントロールの「質」を見ることができるようになりました。それが、TIR、TBR、TARという新しい指標です。
- TIR (Time in Range / 範囲内時間): 血糖値が目標範囲内(一般的に70〜180mg/dL)に収まっていた時間の割合です。このTIRが高いほど、血糖値が安定しており、合併症のリスクが低いことを示します。治療の第一目標は、このTIRをできるだけ長くすること(多くのガイドラインで70%以上を推奨)です。
 - TBR (Time Below Range / 範囲未満時間): 血糖値が目標範囲の下限(70mg/dL未満)を下回っていた時間の割合です。これは危険な低血糖を示しており、このTIRをできるだけ0%に近づけること(特に重症低血糖とされる54mg/dL未満は1%未満)が最優先されます。
 - TAR (Time Above Range / 範囲超時間): 血糖値が目標範囲の上限(180mg/dL超)を上回っていた時間の割合です。これが高血糖状態であり、合併症の進行に関わります。
 
HbA1cが同じ7.0%の人でも、一方はTIRが80%で安定している(TBRもTARも少ない)、もう一方はTIRが50%で高血糖と低血糖を激しく繰り返している(TBRもTARも多い)、という可能性があります。CGMは、この「血糖変動の質」を明らかにし、HbA1cだけでは見えなかった夜間低血糖の発見や、より安全で効果的な治療調整を可能にします。
測定の「落とし穴」とトラブルシューティング
毎日測定していると、「えっ?」と驚くような数値が出ることがあります。しかし、慌てる前に、それが本当に体調の変化なのか、それとも測定エラーなのかを確認する習慣が大切です。
SMBG(指先測定)の場合:
- 手を洗いましたか?:測定前に果物や甘い飲み物を触った手で採血すると、実際よりもはるかに高い数値が出ます。必ず石鹸で手を洗い、しっかり乾かしてから測定してください。
 - 試験紙は期限内ですか?:期限切れや、湿気を含んだ試験紙は正確な値を返しません。
 - 血液量は十分でしたか?:血液量が不足するとエラーになったり、不正確な値が出たりします。
 
CGM(センサー)の場合:
- センサーは正しく装着されていますか?:装着が浅かったり、剥がれかかったりすると、値が不正確になることがあります。
 - 圧迫されていませんか?:センサーを装着している腕を下にして寝るなど、圧迫がかかると一時的に低い値(圧迫低血糖)が出ることがあります。
 - 脱水状態ではありませんか?:CGMは間質液のグルコースを測るため、脱水は測定値に影響を与える可能性があります。
 - 高濃度のビタミンCを摂取していませんか?:一部のCGMセンサーは、ビタミンCのサプリメントなどにより影響を受け、実際より高い値を示す可能性が指摘されています。
 
最も重要なルールは、「測定値と体感が一致しない場合は、その数値を鵜呑みにしない」ことです。例えば、センサーが「80mg/dL」と示していても、明らかに冷や汗や動悸といった低血糖症状を感じる場合は、すぐにSMBGで再測定してください。それでも判断に迷う場合は、ご自身の体感を優先し、ブドウ糖を補給するなどの対応を取り、主治医に連絡しましょう。
検査ツールに関するよくある質問
Q1: 家庭用のHbA1c測定器で糖尿病の診断はできますか?
A: いいえ、できません。日本糖尿病学会[3]や厚生労働省[4]の指針により、糖尿病の診断には医療機関で採取した静脈血漿を用いた高精度な検査が必要です。家庭用測定器は、あくまでも日々のコントロール状態の「傾向」を知るための補助的なものと位置づけられています。
Q2: インスリンを使っていない2型糖尿病でも毎日血糖を測るべきですか?
A: 必ずしもそうとは限りません。日本のガイドライン[1]では、インスリン非使用の2型糖尿病の方におけるSMBGの血糖改善効果は「不確定(推奨グレードU)」とされています。ただし、食事内容や運動が血糖値にどう影響するかをご自身で確認するため、あるいは治療薬を変更した時期など、目的を絞って測定することは非常に有用です。どのタイミングで測るべきか、主治医と相談してみましょう。
Q3: CGMを付けていれば指先での血糖測定(SMBG)はもう不要ですか?
A: いいえ、不要にはなりません。PMDAの添付文書[9]にもある通り、CGMのセンサー値とご自身の体感(低血糖症状など)が一致しない時、センサーがアラートを発した時、またはインスリン投与量を決める時などには、必ずSMBGで指先の血糖値を確認する必要があります。
Q4: 尿糖検査が陰性なら、糖尿病の心配はありませんか?
A: いいえ、心配がないとは言い切れません。尿糖検査は、血糖値がかなり高く(180mg/dL以上)ならないと陽性に出ないため、陰性であっても軽い高血糖(境界型)や糖尿病の初期段階である可能性は否定できません[12, 13]。口渇や多尿といった気になる症状がある場合は、尿糖が陰性でも医療機関で血液検査(血糖値やHbA1c)を受けることをお勧めします。
これらの測定ツールを正しく理解し、ご自身の状態を「見える化」することは、糖尿病管理の第一歩です。しかし、測定したデータをどう活かすかがさらに重要です。次のセクションでは、そのデータ活用の中核となる「食事と栄養サポート」について詳しく解説していきます。
食事と栄養サポート(たんぱく質・脂質・ビタミン・アルコール)
前節では血糖自己測定(SMBG)や持続血糖測定(CGM)といった、ご自身の血糖変動を「知る」ためのツールについて詳しく見てきました。しかし、日々の測定結果を良好に保つためには、ツールの活用と並行して『何を食べるか』の質を見直すことが不可欠です。
これまでの「食事療法」の章では、主に総エネルギー(カロリー)と糖質量という食事の“柱”について解説しました。本章では、その柱を支えるさらに重要な栄養素、すなわち、たんぱく質、脂質、ビタミン・ミネラル、そしてアルコール(お酒)との付き合い方について、一歩進んだ栄養サポートの知識を詳しく解説します。これらは血糖コントロールだけでなく、糖尿病の最も恐ろしい合併症である心血管疾患や腎症の予防に直結する大切な知識です。
たんぱく質(プロテイン)の賢いとり方
「糖質を減らす分、たんぱく質を増やせばよい」と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、注意が必要です。たんぱく質は筋肉や臓器の重要な材料ですが、とりすぎは腎臓に負担をかける可能性があります。
日本の糖尿病治療では、たんぱく質の摂取量は総エネルギーの15〜20%の範囲内、または体重1kgあたり約1.0g/日を一つの目安とします(例:体重60kgなら60g)[1]。これは、多くの日本人の現在の平均摂取量と大きく変わらない範囲です。
ただし、注意すべき点が2つあります。
- 糖尿病腎症が進行している場合
すでに糖尿病性腎症(CKD)があり、医師からたんぱく質制限の指示が出ている場合は、そちらが最優先されます。自己判断でたんぱく質を増やすことは絶対に避けてください。 - 高齢者や筋肉量が減っている場合
一方で、高齢の糖尿病患者さんでは、過度な食事制限がサルコペニア(筋肉減少症)やフレイル(虚弱)を招くリスクが指摘されています[7]。筋肉が減ると血糖コントロールも悪化しやすいため、むしろ必要なたんぱく質をしっかり確保することが重視されます。 
たんぱく質の「質」も重要です。赤身肉や加工肉(ハム、ソーセージ)の過剰摂取は2型糖尿病リスクを高める可能性が指摘されています[8]。できるだけ、魚(特に青魚)、大豆製品(豆腐、納豆)、低脂肪の乳製品(牛乳、ヨーグルト)、卵などをバランスよく選ぶことが推奨されます。
脂質は「量」より「質」で選ぶ時代
糖尿病の食事というと「油=悪」と考え、極端に避けてしまう方がいますが、これも間違いです。脂質は細胞膜やホルモンの材料となる重要なエネルギー源であり、問題なのはその「質」と「量」のバランスです。
厚生労働省の指針でも、脂質摂取の目安は総エネルギーの25%前後とされており、極端に減らす必要はありません[5]。糖尿病管理で最も重要なのは、血糖値だけでなく、動脈硬化を進めないことです。
そのために、以下の2点を心がけましょう。
- 減らすべき脂質(飽和脂肪酸)
肉の脂身、バター、ラード、生クリームなどに多く含まれます。これらは血液中の悪玉コレステロール(LDL)を増やし、動脈硬化のリスクを高めます[6]。 - 増やすべき脂質(不飽和脂肪酸)
サバやイワシなどの青魚に含まれるn-3系脂肪酸(EPA, DHA)や、オリーブオイル、ナッツ類、大豆に含まれる植物性の油です。これらは悪玉コレステロールを下げたり、動脈硬化を防いだりする働きが期待できます[9]。 
脂質を「ゼロ」にするのではなく、「悪い油(飽和脂肪酸)」を「良い油(不飽和脂肪酸)」に置き換えるという意識が、心血管疾患の合併症予防には極めて重要です。間食に菓子パンやスナック菓子を選ぶ代わりに、少量のナッツを選ぶことも良い選択です。また、マーガリンやショートニングに含まれるトランス脂肪酸は、できるだけ避けるようにしましょう。
ビタミン・ミネラルとサプリメントの考え方
「糖尿病によい」とされるサプリメントの広告を目にすることがありますが、特定のビタミンやミネラルをサプリメントで補給することが、糖尿病の予防や治療に直接役立つという高いレベルの科学的根拠は、現時点では確立されていません[2]。
米国国立衛生研究所(NIH)なども、「ビタミンC、E、マグネシウムなどのサプリメントが血糖値を改善するという証拠は乏しいか、あってもわずかである」としており、日常的な摂取を推奨していません[10]。
糖尿病管理の基本は、あくまで「食事から」バランスよく栄養素をとることです。野菜、海藻、きのこ類をしっかり食べることで、必要なビタミンやミネラルは多くの場合満たされます。もし極端な食事制限や偏食、あるいは特定の薬剤(メトホルミンによるビタミンB12欠乏など)によって栄養不足が疑われる場合にのみ、医師の判断のもとで個別に補充を検討します。自己判断での高用量サプリメント摂取(特にビタミンCなど)は、かえって健康を害する可能性もあるため注意が必要です。
アルコール(お酒)との危険な関係と正しい付き合い方
糖尿病患者さんから最も多く寄せられる質問の一つが「お酒は飲んでもよいか?」です。かつて欧米の研究で「少量の飲酒はむしろ糖尿病リスクを下げる」というJ字カーブが報告されたことがありますが、これはすべての人に当てはまるわけではありません。
日本糖尿病学会の2024年の見解では、アジア人(日本人を含む)においてはこのJ字カーブは明確ではなく、特に痩せ型の男性では少量から中等量の飲酒でも糖尿病発症リスクを高める可能性を指摘しています[2]。また、がんや脳萎縮のリスクは少量からでも高まるため、「健康のために飲む」ことは推奨されません[2]。
糖尿病の方が飲酒する場合、最大の危険は「低血糖」です[11]。特にインスリン注射や特定の飲み薬(SU薬など)を使用している方が、空腹のまま飲酒すると、アルコールが肝臓での糖の放出を妨げ、夜間や翌朝に重篤な低血糖発作を起こす危険があります。これは命に関わることもあるため、飲む場合は必ず食事と一緒にとり、量を厳密に管理する必要があります。
一方で、砂糖の入っていない飲み物、例えばコーヒーや緑茶は、糖尿病リスクを低下させると関連が報告されています[2]。甘いジュースや清涼飲料水をこれらに置き換えることは、良い生活習慣のサポートとなります。
よくある質問(FAQ)
Q1: 糖尿病でも筋肉をつけるためにプロテインを飲んでいいですか?
A: 腎機能に問題がない(腎症がない)場合は、運動と合わせて適量のたんぱく質をとることは筋力維持に有効です。ただし、サプリメントで一度に大量にとるよりも、まずは魚・大豆・卵・乳製品など通常の食事から確保することを目指しましょう。特に高齢者の方は、筋肉減少(サルコペニア)予防が重要です。腎機能が不明なまま高たんぱく食を続けるのは危険ですので、主治医や管理栄養士にご相談ください。
Q2: 糖尿病の合併症予防のため、油(脂質)はゼロにした方がいいですか?
A: ゼロにする必要はありませんし、かえって健康を害する可能性があります。脂質は総エネルギーの25%前後を目安にし、肉の脂身やバターを減らし、魚や植物性の油(オリーブオイルなど)に置き換える「質の改善」が最も重要です。良質な脂質は、心血管疾患の予防に役立ちます。
Q3: ビタミン剤を飲めば、血糖値は下がりますか?
A: 残念ながら、ビタミン剤や特定のサプリメントを飲むだけで血糖コントロールが良くなるという確かな証拠はありません。基本は、バランスの取れた食事から必要な栄養素をとることです。不足が明らかな場合にのみ、医師の指示で補給します。
Q4: お酒は1日どれくらいまでなら大丈夫ですか?
A: 健康な人向けの「適量(純アルコールで20g程度)」が、糖尿病の方にそのまま当てはまるわけではありません。「予防のために飲む」ことは推奨されず、飲む習慣がある方でも最小限にとどめるべきとされています。特にインスリンなどを使っている方は、重い低血糖のリスクがあるため、必ず主治医に飲酒の可否と安全な飲み方を確認してください。
ここまで、たんぱく質や脂質の「質」、そしてアルコールとの向き合い方といった、食事内容の具体的なサポートポイントを見てきました。しかし、血糖コントロールは食事だけで完結するものではありません。次節では、食事と並んで重要なもう一つの柱である「生活習慣の改善」、特に禁煙、睡眠、ストレスとの向き合い方について詳しく解説します。
生活習慣の改善(禁煙・睡眠・ストレスマネジメント・社会支援)
前節では、血糖コントロールの重要な柱である食事と栄養サポートについて詳しく見てきました。しかし、糖尿病との長い付き合いを安定させ、合併症を予防するためには、食事や運動、薬物療法と同じくらい、あるいはそれ以上に重要ないくつかの「土台」となる生活習慣があります。
それが、「禁煙」「睡眠」「ストレス管理」そして「社会的な支援」です。これらはしばしば「頑張ればできること」と個人の努力の問題とされがちですが、実際には血糖値に直接影響を与える医学的な要因です。食事制限や運動を続けることが難しいと感じる背景に、これらの問題が隠れていることも少なくありません。このセクションでは、糖尿病管理の質を根本から支える、これら4つの重要な生活習慣について、なぜそれらが重要なのか、そして具体的にどう改善していけばよいのかを深く掘り下げていきます。
糖尿病と喫煙の関係:1.4倍になる発症リスクを下げるには
「ストレスが多いから、タバコだけはやめられない」「禁煙すると太って、かえって血糖値が悪くなるのでは?」——こうした不安から、禁煙に踏み切れないと感じている方は非常に多いのではないでしょうか。その気持ちは十分に理解できます。しかし、糖尿病と喫煙の関係は、私たちが想像する以上に深刻であり、禁煙は治療において最も優先度の高い行動の一つです。
なぜ喫煙がそれほど問題なのでしょうか。厚生労働省のe-ヘルスネットが紹介する国内外の研究によれば、喫煙者は非喫煙者に比べて2型糖尿病の発症リスクが約1.4倍にもなると報告されています[3]。これは、タバコに含まれる有害物質が体内に炎症を引き起こし、インスリンの働きを妨げる「インスリン抵抗性」を悪化させることが主な原因です。すでに糖尿病と診断されている方が喫煙を続けると、必要なインスリン量が15〜20%も多くなるという報告もあり[3]、治療そのものの難易度を上げてしまいます。
喫煙を続けることの最大のリスクは、心筋梗塞や脳卒中、糖尿病性腎症といった重篤な合併症を急速に進行させることです。糖尿病と喫煙は、どちらも血管を傷つける最大の要因です。二つが重なることで、血管へのダメージは足し算ではなく「掛け算」で大きくなります。糖尿病を放置することの危険性は知られていますが、喫煙はそれを加速させる最も確実なスイッチの一つなのです。
冒頭の「禁煙すると太る」という不安についてですが、これは医学的にも確認されています。実際に、禁煙後に一時的に体重が増加し、短期的には血糖値が悪化する可能性があることは、海外の大規模な研究でも示されています[13]。しかし、日本の厚生労働省もこの研究を紹介した上で、「禁煙による健康改善効果は、体重増加による血糖上昇の影響をはるかに上回る」と明言しています[3]。つまり、一時的な体重増加を恐れて喫煙を続けることは、心血管疾患や死亡リスクという、はるかに大きなリスクを見逃すことになるのです。
幸い、日本では保険適用で禁煙治療を受けることができます。ニコチンパッチや内服薬を使いながら、医師や看護師のサポートを受けることで、離脱症状のストレスを最小限に抑えながら禁煙に取り組むことが可能です。自己流で我慢するのではなく、専門家の力を借りることも検討してください。禁煙後の体重増加が心配な場合は、運動療法のガイドや食事療法の専門家と連携して対策を立てることができます。また、受動喫煙も2型糖尿病のリスクを高めることが指摘されており、ご家族の健康を守るためにも家庭内での禁煙は重要です。
「7時間の質のよい睡眠」が血糖コントロールを助ける理由
「仕事や家事が忙しくて、どうしても睡眠時間が削られてしまう」「夜中に何度も目が覚める」「しっかり寝たつもりでも、日中のだるさが抜けない」——。日本人は世界的に見ても睡眠時間が短いことが知られており、糖尿病管理においても「睡眠」は後回しにされがちな問題です。
しかし、日本糖尿病学会の2024年版ガイドラインでは、2型糖尿病予防のために「質のよい睡眠を7時間とるよう心がけるべき」と具体的に言及されています[1]。なぜ睡眠がこれほど重要なのでしょうか。それは、睡眠不足がホルモンバランスを直接的に乱し、インスリン抵抗性を高めるからです。
睡眠時間が不足すると、私たちの体は「非常事態」だと感じ、ストレスホルモンである「コルチゾール」を過剰に分泌します。コルチゾールは血糖値を上げる働きがあります。同時に、食欲を増進させるホルモン「グレリン」が増加し、食欲を抑えるホルモン「レプチン」が減少します。つまり、睡眠不足の翌日は、理性の力とは関係なく、高カロリーで高糖質なものを強く欲するように脳がプログラムされてしまうのです。これは「意志が弱い」からではなく、純粋なホルモンの影響です。この状態で食事や運動の管理を続けるのは、非常に困難です。
特に注意が必要なのが、睡眠時無呼吸症候群(OSAS)です。「家族から大きないびきや、睡眠中に呼吸が止まっていることを指摘された」「8時間以上寝ても日中の眠気が取れない」「肥満傾向がある」——。これらに当てはまる場合、OSASの可能性があります。OSASは睡眠中に低酸素状態を繰り返し、交感神経を極度に緊張させるため、インスリン抵抗性が著しく悪化し、2型糖尿病のリスクを2倍以上にするという報告もあります[1]。これは心血管系の合併症にも直結するため、放置せずに耳鼻咽喉科や呼吸器内科、睡眠専門外来で相談することが強く推奨されます。
質の良い睡眠を得るためには、具体的な「睡眠衛生」の実践が役立ちます。例えば、「寝室を暗く、涼しく、静かに保つ」「就寝1時間前からはスマートフォンやPCの画面を見ない(ブルーライトを避ける)」「日中に適度な運動(特に有酸素運動)を行う」といった習慣です。夜勤やシフト勤務の方は、体内時計の乱れが血糖管理に影響しやすいことがわかっています。勤務パターンをなるべく固定化する、日中に睡眠をとる場合は遮光カーテンを使う、勤務の後半にはカフェインを避ける、といった工夫が推奨されます。
「7時間」という目標が難しくても、まずは「今より30分長く寝る」ことから始めてみてください。睡眠の質が改善すれば、日中の食欲コントロールが容易になり、血糖値の安定につながる可能性があります。睡眠は糖尿病管理の常識として、食事や運動と同等に重要視すべき要素なのです。
ストレスや職場環境が糖尿病リスクになるときの対処法
「毎日、血糖値の数字に一喜一憂して疲れてしまった」「食事も運動も頑張っているのに、仕事のストレスがたまると途端に数値が悪化する」「低血糖が怖くて、積極的になれない」——。糖尿病の自己管理は、それ自体が大きなストレス源(糖尿病疲弊:Diabetes Distress)になり得ます。
ストレスが血糖値に与える影響は、精神論ではありません。私たちが強いストレスを感じると、体は「戦うか逃げるか」のモードに入り、コルチゾールなどのストレスホルモンを分泌します。これらのホルモンは、肝臓に蓄えられたブドウ糖を血液中に放出させ、血糖値を急上昇させます。これは、危険から逃れるためのエネルギーを確保するという、人間の原始的な防衛反応です。しかし、現代社会の慢性的なストレス(仕事のプレッシャー、人間関係の悩みなど)では、この反応が裏目に出て、血糖コントロールを著しく困難にします。
さらに深刻なのは、ストレスと糖尿病の「負の連鎖」です。日本糖尿病学会のガイドライン[1]でも、うつ傾向のある人は2型糖尿病の発症リスクが高く、逆に糖尿病患者もうつ病を併発しやすいという、双方向の関連が指摘されています。ストレスが多いと、自己管理(食事、運動、服薬)そのものがおろそかになりがちで、それが血糖悪化を招き、さらに自己嫌悪に陥る…という悪循環です。
特に日本の研究では、職場でのいじめ、雇用不安、長時間労働といった劣悪な労働環境が、糖尿病の発症リスクを高めることが示されています[1]。これは個人の努力だけではどうにもならない、社会的なストレス要因です。糖尿病に伴う不安は、病気そのものだけでなく、性生活や夫婦関係など、生活のあらゆる側面に影響を与えます。
もしあなたが強いストレスを感じているなら、それは「心が弱い」からではありません。まずは、深呼吸や趣味の時間、短時間の散歩など、自分に合ったセルフケアでストレスを発散させることが大切です。そして何より、一人で抱え込まないこと。米国CDCは、糖尿病管理に伴うストレスを感じた場合、速やかに医療チームに相談し、専門的な教育・支援(DSMES)を受けることを推奨しています[12]。これは日本の「糖尿病療養指導」に相当します。主治医や療養指導士、臨床心理士に「ストレスで辛い」と伝えることは、治療の重要な一歩です。職場環境が原因であれば、産業医や人事部門に相談し、「治療と仕事の両立支援ガイドライン」に基づいた配慮(受診時間の確保、勤務シフトの調整など)を求めることも選択肢となります。
家族・職場・自治体に支えてもらう糖尿病セルフマネジメント
「糖尿病は自己責任の病気だ」「自分が頑張るしかない」——。こうした孤独感は、長期にわたる糖尿病管理の最大の敵です。糖尿病管理は個人の努力だけで完結するものではなく、家族、職場、地域社会といった「サポートチーム」の存在が不可欠です。
厚生労働省や国立国際医療研究センター(NCGM)は、糖尿病対策において、患者本人だけでなく「患者とその家族への教育」や「就労支援」「多職種連携」を一体として推進する重要性を繰り返し強調しています[5][8][9]。
家族のサポートは、最も身近で強力な支えとなります。しかし、その関わり方は時に難しく、「あれもダメ、これもダメ」という「監視」になってしまうと、かえって本人のストレスとなり、隠れて食べてしまうといった行動につながりかねません。NCGMの糖尿病教室が家族の参加も歓迎しているように[9]、理想的なのは、家族も一緒に糖尿病について学び、「制限する」のではなく「一緒に健康的な食生活を楽しむ」という視点を持つことです。「糖尿病の食事」は、実は家族全員にとって健康的な食事であることが多いのです。また、低血糖の兆候や対処法を家族が知っておくことは、本人の「万が一の不安」を和らげ、安心して治療に取り組むための基盤となります。
職場のサポートも同様に重要です。前述の「治療と仕事の両立支援」は、定期的な通院時間の確保や、インスリン注射・血糖測定の場所への配慮、体調に応じた勤務調整などを企業に求めるものです。これは特別な要求ではなく、安全に働き続けるために必要な配慮です。上司や同僚に病気のことをどこまで話すかはデリケートな問題ですが、少なくとも産業医や人事部門には相談し、必要なサポート体制を整えることが望まれます。
さらに、特に高齢の方や一人暮らしの方にとっては、地域の医療・福祉資源が重要なセーフティネットとなります。糖尿病性腎症の重症化予防プログラムなどでは、地域の保健師が家庭訪問し、生活状況や家族背景を踏まえた支援を行ったり、医療機関への橋渡しを行ったりする取り組みが進んでいます。経済的な問題(検査費用や治療費など)が管理の妨げになっている場合も、社会福祉士や地域の窓口に相談することで利用できる制度があるかもしれません。
糖尿病管理は、医療者、患者、そしてその周囲のサポートチーム全員で取り組む「協働作業」です。一人で完璧を目指す必要はありません。禁煙、睡眠、ストレス、そして社会的支援という土台を整えることが、結果として食事や運動の管理を続けやすくする近道となることを、ぜひ覚えておいてください。
最新治療・テクノロジー(人工膵臓・センサー療法・アプリ)
前節まで、食事や運動といった日々の生活習慣の改善について詳しく見てきました。しかし、糖尿病管理のもう一つの側面、すなわち「血糖値をいかに正確に把握し、いかに精密に対応するか」という分野は、テクノロジーの力で劇的に進化しています。
かつては1日に何度も指を刺して採血し、その瞬間の血糖値(点)で判断するしかありませんでした。しかし現在は、持続的に血糖を測定するセンサーや、AIがインスリン投与量を自動調整する「人工膵臓」に近いシステムまで登場しています。これらのテクノロジーは、特に1型糖尿病の方や、インスリン治療を行う2型糖尿病の方の生活の質(QOL)を大きく変える可能性を秘めています。
このセクションでは、日本国内で利用可能になりつつある最新の糖尿病テクノロジー、特に「センサー(CGM)」「ポンプと連携した自動投与(AID)」「自己管理を助けるアプリ」に焦点を当て、その仕組み、メリット、そして安全に使うための注意点を深く掘り下げていきます。
センサー療法の中核:CGMの種類・保険適用・適正使用指針
糖尿病テクノロジーの進化の「心臓部」と言えるのが、CGM(Continuous Glucose Monitoring:持続グルコースモニタリング)です。これは、従来の指先穿刺による血糖自己測定(SMBG)が「点」の測定であるのに対し、CGMは皮下の間質液中のグルコース濃度を(機種によりますが)5分ごとなど連続的に測定し、「線」で血糖変動を可視化する技術です。
「なぜ線で見ることが重要なのか」と疑問に思うかもしれません。例えば、食後の血糖値が160mg/dLだったとしても、それが「急上昇のピーク」なのか、「すでに下がり始めている途中」なのか、あるいは「120mg/dLからゆっくり上がってきた」のかによって、次にとるべき行動(インスリンの追加、補食の必要性など)は全く異なります。CGMは、この「血糖の勢い(トレンド)」を矢印で示してくれるため、低血糖や高血糖を「予測」し、先回りして対処することを可能にします。
CGMには、大きく分けて2つのタイプがあります。
- rtCGM (real-time CGM):
測定値が自動的にスマートフォンや専用受信機に送信され続けるタイプです。血糖値が設定した上限・下限を超えたり、急激に変動したりするとアラート(警告音)で知らせてくれるため、特に夜間の低血糖や無自覚性低血糖が心配な方に有用です。 - isCGM (intermittently scanned CGM):
センサーにリーダー(読み取り機)やスマートフォンをかざした(スキャンした)時に、それまでのデータ(例:過去8時間分)が表示されるタイプです。「FreeStyleリブレ」がこの代表です。アラート機能は限定的ですが、指先穿刺の回数を大幅に減らせるメリットがあります。 
[cite_start]
日本では、これらの機器の使用が急速に普及しています。背景には、日本糖尿病学会が2024年5月に更新した「持続グルコースモニタリングデバイス適正使用指針」[cite: 2][cite_start]があります。この指針では、デクスコムG7やガーディアンTM4スマートCGM(rtCGM)、FreeStyleリブレ2(isCGM)といった最新機種が、どのような患者さんに、どの保険区分(C150-7やC152-2など)で適用されるかが具体的に明記されました[cite: 2]。
これにより、インスリン治療が必須の1型糖尿病患者さんだけでなく、インスリン治療中の2型糖尿病患者さんや、一部の妊娠糖尿病など、より多くの方が保険診療でCGMの恩恵を受けられる道が広がっています。CGMで得られるデータは、血糖コントロールの基本である「TIR(Time in Range:目標範囲内時間)」の評価にも不可欠であり、従来のHbA1c(過去1〜2ヶ月の平均血糖値)だけでは見えなかった「血糖の質」を評価する新しい標準となっています。
ポンプと連動させた“ほぼ自動”のインスリン投与(AID)
CGMが「目」の役割を果たすなら、次なる進化は「目」で得た情報を「脳(アルゴリズム)」で判断し、「手(インスリンポンプ)」で自動的にインスリンを調整することです。これが AID(Automated Insulin Delivery:自動インスリン投与)システム、俗に「人工膵臓」とも呼ばれる技術の核心です。
「インスリン注射を自分で計算して打つのは大変だ」と感じている方は多いでしょう。特に1型糖尿病の方にとって、食事の炭水化物量、運動の予定、体調、ストレスなど、多くの要因を考慮してインスリン量を決める作業は、24時間365日続く精神的な負担となります。AIDは、この負担を大幅に軽減することを目指しています。
現在、日本で利用可能なシステムは、完全な自動運転ではなく、「ハイブリッド・クローズドループ(HCL)」と呼ばれる段階のものが主流です。これは、以下のような仕組みで動作します。
- 基礎インスリンの自動調整:rtCGMが測定した血糖値に基づき、アルゴリズムが「このままだと血糖が上がりすぎる/下がりすぎる」と予測します。その予測に基づき、インスリンポンプからの基礎インスリン(持続的に少量注入されるインスリン)の量を自動的に増やしたり、減らしたり、一時停止したりします。
 - 食事インスリンの手動入力(ハイブリッドの理由):食事(特に炭水化物)を摂る際のインスリン(ボーラスインスリン)は、依然として患者さん自身が「今からこれくらい食べる」とポンプに入力する必要があります。これが「ハイブリッド(混成)」と呼ばれる理由です。
 
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日本糖尿病学会のCGM指針[cite: 2]でも、メドトロニック社の「ミニメドTM780Gシステム」などが、CGMとポンプが一体となったシステムとして言及されています。こうしたHCLシステムは、特に夜間の低血糖を効果的に防ぎ、日中の血糖変動を小さくすることで、合併症の予防に重要なTIR(目標範囲内時間)を大幅に改善することが多くの研究で示されています。
従来のインスリンペン型注射や、CGMと連動しない従来のポンプ療法と比べ、AIDは「血糖管理の自動化」を一歩進めた治療法であり、日本糖尿病学会の「対糖尿病5ヵ年計画 第5次」においても、こうした自動インスリン投与アルゴリズムの臨床実装が日常的に行われていると認識されています。
NIHが紹介する人工膵臓システム(Bionic Pancreas)の全貌
さらに一歩進んだ「人工膵臓」の研究も世界中で進んでいます。米国のNIH(米国国立衛生研究所)の一部であるNIDDK(国立糖尿病・消化器・腎疾病研究所)などが紹介する次世代のシステムは、HCLの「食事の入力」という手間さえも自動化しようとしています。
例えば、2022年にNIHが報告した「Bionic Pancreas(バイオニック・パンクレアス)」の研究では、ユーザーは食事の際に「通常量」「多め」「少なめ」といった大まかな情報を入力するだけで、アルゴリズムがインスリン投与量を自動で計算・実行します。この研究では、標準的な治療法(従来のポンプやCGMの組み合わせ)と比較して、HbA1cが有意に改善し、低血糖のリスクを増やすことなくTIRが向上したと報告されています。
こうした「完全クローズドループ」に近いシステムは、CGMセンサー、制御アルゴリズム(AI)、インスリンポンプの3つが高度に連携することで成り立っています。アルゴリズムは、過去の血糖データと現在のトレンドから、「このユーザーは朝食後にこれくらい血糖が上がりやすい」といった個人のパターンを学習していきます。
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ただし、ここで重要な注意点があります。海外で報告されている最新のシステムが、そのまま日本国内ですぐに、同じ性能で、保険適用のもと使用できるとは限らない、ということです。医療機器の承認プロセスや保険制度は国によって異なります。日本でAIDシステムを導入する際は、必ず主治医と相談し、現在日本糖尿病学会の指針[cite: 2]などで認められている、実績のある機器とアルゴリズムを選択することが最も安全かつ確実です。
これらの技術は、主に1型糖尿病の方を対象に開発が進んできましたが、インスリン治療が複雑化する2型糖尿病の方への応用も研究されています。特に小児・若年層の糖尿病管理において、学校生活などでの負担を軽減する技術として大きな期待が寄せられています。
厚労省も推進:アプリ・PHR・ICTを用いた自己管理支援
テクノロジーの進化は、CGMやポンプといった「ハードウェア」だけにとどまりません。スマートフォンアプリやPHR(Personal Health Record:個人健康記録)、オンライン診療といった「ソフトウェア」や「ICT(情報通信技術)」の活用も、糖尿病管理を支える重要な柱となっています。
日々の食事内容や運動量、血糖値を手書きのノートに記録するのは大変な作業です。また、その記録が次の受診日まで誰の目にも触れないのでは、リアルタイムの改善につながりません。
そこで活用されているのが、糖尿病管理アプリです。これらのアプリは、以下のような機能を提供します。
- 記録の簡易化:食事の写真を撮るだけでAIがカロリーや栄養素を推定したり、歩数計と連携して運動量を自動記録したりします。
 - データの可視化:CGMや血糖測定器からデータを取り込み、グラフやレポートとして「見える化」します。
 - 教育・コーチング:記録に基づき、「食後の血糖が上がりやすいようです」「運動が足りません」といったフィードバックやアドバイスを自動で提供します。
 - データ共有:記録したデータをクラウド経由で医療機関と共有し、オンライン診療や遠隔での療養指導に役立てます。
 
こうしたICTの活用は、厚生労働省も積極的に推進しています。例えば、特定保健指導においてアプリ導入を支援する群とそうでない群を比較した実証事業では、アプリ支援によって生活習慣の改善効果が高まる可能性が示唆されています。
また、神奈川県の「マイME-BYOカルテ」のようなPHR(個人健康記録)アプリを活用し、糖尿病の治療中断者や未受診者にアプローチする先進的な取り組みも報告されています。CGMで測定したデータをPHRで共有し、オンラインで保健指導を行うことで、受診への動機付けや自己管理の意識向上を図っています。
国際的なシステマティックレビュー(複数の研究をまとめた分析)でも、糖尿病アプリがHbA1cの低下に寄与する可能性が示されていますが、その多くは教育、記録、フィードバックといった機能を併せ持つものです。重要なのは、アプリはあくまで「補助ツール」であるということです。アプリの自動アドバイスだけに頼るのではなく、そこで得た「気づき」をもとに、主治医や管理栄養士と具体的な改善策を相談することが、治療成功の鍵となります。
デバイス使用時に必ず押さえる安全チェックリスト
CGMやAIDシステムは非常に強力なツールですが、同時に「機械」であり「医療機器」です。正しく安全に使いこなすためには、利用者が知っておくべき「レッドフラグ(危険信号)」があります。万が一の事態を避けるため、以下の点を必ず理解しておきましょう。
1. センサー(CGM)の信頼性を過信しない
- 「体感」とのズレ:センサーが「100mg/dL」と示していても、明らかに低血糖の症状(冷や汗、動悸、手の震え)を感じる場合は、必ず指先穿刺(SMBG)で実測の血糖値を確認してください。センサー値と実測値が大きく乖離(かいり)することがあります。
 - センサーエラー:「センサーエラー」や「データなし」の表示が続く場合、センサーの装着不良や故障が考えられます。その間はSMBGで血糖を補完測定する必要があります。
 - キャリブレーション(較正):機種によっては、指先穿刺の値でセンサーを「較正(こうせい)」する作業が必要です。これを怠ると、測定値のズレが大きくなる原因となります。
 
2. ポンプ(注入)部位の感染に注意する
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- 留置針(カニューレ)の定期交換:インスリンを皮下に注入するカニューレは、メーカーの指示通り(例:2〜3日ごと)に交換が必要です。
 
 
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- 感染のサイン:注入部位が「赤く腫れる」「触ると痛い」「熱を持っている」「膿が出る」といった場合は、すぐにカニューレを抜き、新しい部位に交換してください。皮膚感染を放置すると重症化するリスクがあるため、症状が改善しない場合は速やかに医療機関を受診しましょう[cite: 1]。
 
3. ポンプ停止によるケトアシドーシス(DKA)のリスクを知る
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- 最も危険なトラブル:特に1型糖尿病の方が知っておくべき最大の危険性です。インスリンポンプは、基礎インスリンとして「超速効型」インスリンを少量ずつ持続注入しています。もしポンプが故障、バッテリー切れ、あるいはチューブの閉塞(詰まり)などで停止した場合、体内から基礎インスリンが急速に枯渇します。
 
 
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- 急速な高血糖:ペン型の中間型・持効型インスリンとは異なり、ポンプが止まると数時間で高血糖になり、ケトアシドーシス(生命に危険が及ぶ状態)に陥る可能性があります [cite: 1]。
 - バックアッププラン:ポンプにアラーム(警告)が表示されたら、絶対に見逃してはいけません。原因がすぐに解決できない場合に備え、必ずバックアップ用のインスリンペン(超速効型と持効型)を常に携帯し、緊急時の注射方法を主治医と確認しておきましょう。
 
4. アプリのアドバイスを鵜呑みにしない
- 主治医の指示が最優先:アプリが「インスリンを増やしましょう」と提案しても、それはあくまで一般的なアルゴリズムに基づいたものです。自己判断でインスリン量を大幅に変更する前に、必ず主治医の指示を仰いでください。
 
これから普及が期待されるテレメディシン・PHR連携の方向性
これまで見てきたCGM、AID、アプリといった個々のテクノロジーは、今後さらに連携を深め、よりシームレスな糖尿病管理へと進化していくことが期待されます。
その鍵となるのが、「テレメディシン(遠隔医療)」と「PHR(個人健康記録)」の統合です。想像してみてください。あなたが自宅で装着しているCGMのデータが、リアルタイムで病院の電子カルテと連携します。医師は、あなたが受診する前からあなたの血糖トレンドを把握し、PHRに記録された食事や運動のデータと照らし合わせることができます。
そして、次回の受診はオンラインで行われ、医師は具体的なデータに基づき「先週の木曜の夜、血糖が下がっていますが、何かありましたか?」と、的確な指導を行うことができます。これにより、多忙な方や遠隔地に住む方でも、質の高い医療へのアクセスが容易になります。
厚生労働省の実証事業や、日本糖尿病学会の5ヵ年計画が目指すのも、まさにこうした「データに基づいた継続的な医療介入」です。テクノロジーは、患者さんと医療者をつなぐ新しい「橋」となり、糖尿病管理を「時々行うイベント」から「常に見守られるプロセス」へと変えつつあります。
これらの最新技術は、糖尿病と共に生きる多くの方々にとって、間違いなく大きな希望となります。しかし、同時に多くの新しい疑問も生まれることでしょう。次のセクションでは、糖尿病に関してよく寄せられる質問(FAQ)にお答えしていきます。
よくある質問(FAQ)・受診準備チェックリスト(食事・血糖記録・服薬状況)
これまで糖尿病の定義、診断、治療法、そして最新のテクノロジーについて詳しく見てきました。しかし、どれほど良い治療法があっても、日々の診療がスムーズに進まなければ効果は半減してしまいます。特に糖尿病のような慢性疾患の管理では、医師とのコミュニケーションが治療の質を大きく左右します。
最後のセクションとして、患者さんやご家族が外来受診の際に抱きがちな疑問(FAQ)と、診察の質を高めるために「これだけは準備しておきたい」というチェックリストをまとめました。万全の準備をして、主治医との限られた診察時間を最大限に活用しましょう。
外来前に必ずそろえたい「6つの持ち物」チェックリスト
糖尿病の外来では、医師は「最近の血糖コントロール」「食事や運動のパターン」「薬の実施状況」「合併症のサイン」などを短時間で把握しようとします。情報が不足していると、正確な判断ができず、場合によっては「教育入院」を勧められることもあります。以下の6点を準備しておくと、診察が非常にスムーズになります。
- 1. 保険証・診察券・各種医療証:
基本的な持ち物ですが、月が変わったときや転職した際は特に忘れがちです。紹介状がある場合は必ず持参しましょう。
 - 2. お薬手帳(他科の薬も含む):
現在使用中のすべての薬を確認するために不可欠です。糖尿病以外の薬(高血圧、脂質異常症、ステロイド、抗がん剤など)も血糖値に影響を与えるため、糖尿病治療薬との飲み合わせを確認する上で重要です。
 - 3. 血糖自己測定(SMBG)の記録・CGMデータ:
紙の記録ノート、血糖測定器本体、またはスマートフォンのアプリ画面など、最新の血糖データがわかるものを持参します。特に低血糖が起きた日時は、その時の状況(食事内容、運動量など)も一緒にメモしておくと役立ちます。血糖値測定のタイミングやCGMのデータは、治療方針を決める最も重要な情報源です。
 - 4. 食事・生活の記録(直近3日~1週間分):
何時に何を食べたか、外食や間食の頻度、運動した日などをメモしておくと、管理栄養士の指導にも役立ちます。詳細は次のFAQで解説します。
 - 5. 他科の検査結果・妊娠中の場合は母子健康手帳:
眼科(網膜症)、腎臓内科(腎症)、循環器科などで受けた最新の検査結果があれば持参しましょう。合併症の進行度を共有できます。
 - 6. 質問したいことのメモ:
診察室に入ると緊張して聞きたいことを忘れがちです。「薬を飲み忘れたらどうするか」「次の旅行での注意点」など、小さなことでもメモにしておきましょう。
 
食事に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 診察当日の朝食は抜くべきですか? 採血は空腹時ですか?
A. 病院からの個別指示を最優先してください。
採血項目に「空腹時血糖」や「脂質(中性脂肪など)」が含まれている場合、絶食の指示が出ることがあります。しかし、HbA1cや随時血糖のみを測定する場合、絶食は不要なこともあります。施設によって方針が異なるため、事前の指示を必ず確認してください。もし指示がなければ、普段通りの食事をとり、「何時に何を食べたか」を正確にメモして持参するほうが、日常の血糖変動を評価する上で有益な場合があります。
Q2. 食事記録はアプリでもいいですか? どこまで詳しく書くべき?
A. はい、アプリでも全く問題ありません。
重要なのは「時間」「具体的な内容(写真があれば最適)」「量(例:ごはん茶碗1杯、コンビニ弁当1個)」がわかることです。管理栄養士や医師は、完璧な栄養計算値よりも、「どのような食生活パターンか」「食事療法の原則が守れているか」を知りたいのです。もし可能なら、アプリの集計画面を印刷したり、スクリーンショットを撮っておくと、医師がカルテに記録しやすくなります。
Q3. 外食や間食で食べすぎた日は、恥ずかしくて書きたくありません…
A. そうした日こそ、ぜひ記録してください。
治療の目的は、血糖値を完璧にすることではなく、「変動の幅」を管理することです。食べすぎた日のデータ(食事内容と血糖値)を一緒に見ることで、「この食事パターンだと、これくらい血糖が上がる」「次はこう工夫しよう」という具体的な対策を立てることができます。隠してしまうと、医師は「普段から血糖が高い」と誤解し、不必要な薬の増量につながる可能性もあります。間食や外食のパターンを共有することは、現実的な治療計画に不可欠です。
血糖記録・自己管理ツールに関するよくある質問(FAQ)
Q1. 血糖記録は、何日分くらい持っていけばいいですか?
A. 最低でも直近2週間分、可能なら1ヶ月分あると理想的です。
特に、薬を変更した直後や、血糖コントロールが不安定な時期は、データが多いほどパターンが読みやすくなります。数日分だけだと、それが「たまたま良かった日」なのか「いつも通りの日」なのか判断がつきません。CGM(持続血糖測定器)を使っている場合は、14日間や30日間の概況(TIR、平均血糖、GMIなど)がわかる画面を提示してください。
Q2. 値が高かったり低かったり、バラバラすぎて恥ずかしいのですが…
A. その「バラつき」こそが、医師が最も知りたい診断情報です。
血糖値が安定していない場合、その原因を探る必要があります。「飲み会で食べすぎた」「薬を飲み忘れた」「ストレスが強かった」「シックデイ(体調不良)だった」など、原因がわかれば対策が立てられます。HbA1cは過去1~2ヶ月の「平均点」しか分かりませんが、日々の記録は「どの時間帯に問題があるか」を教えてくれる詳細な答案用紙なのです。
服薬・インスリン使用状況に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 薬を飲み忘れたことや、インスリンを打ち忘れたことを言うと怒られませんか?
A. 怒られることよりも、低血糖のリスクを隠すほうがはるかに危険です。必ず正直に伝えてください。
もし飲み忘れを隠したまま「血糖値が高い」というデータだけを見せると、医師は「今の薬では効果が弱い」と誤解し、薬を増量する可能性があります。その結果、患者さんが指示通りに服薬した日に、薬が効きすぎて重篤な低血糖を起こすことがあります。これは治療上、最も避けたい事態です。「週に2回ほど飲み忘れる」といった情報を共有することで、医師は「生活パターンに合った、忘れにくい薬(例:週1回の注射薬など)」を提案することもできます。
Q2. インスリンの注射部位を変えたら血糖値が変わった気がします。これも伝えるべきですか?
A. ぜひ伝えてください。
インスリンは、注射する部位(お腹、太もも、腕など)や、同じ部位でも硬くなっている場所(硬結)によって吸収速度が変わることがあります。もし注射部位が赤くなったり、しこりができたりしている場合は、診察時に医師に触診してもらいましょう。オンライン診療の場合は、スマートフォンのカメラで注射部位を撮影しておくと状況が伝わりやすくなります。
受診が必要な症状(緊急時のレッドフラグ)
糖尿病の管理は基本的に予約診療で進めますが、以下のような「レッドフラグ(危険な兆候)」が現れた場合は、予約日を待たずに速やかに医療機関に電話相談するか、受診してください。これらは急性合併症のサインである可能性があります。
- 高血糖が続き、ケトン体が検出された:
血糖値が240mg/dL以上(施設によっては300mg/dL以上)の状態が続き、市販の試験紙で尿ケトン体が中等度(++)以上、または血中ケトン値が高い場合。糖尿病ケトアシドーシス(DKA)の前兆です。
 - 急激な高血糖の症状がある:
1~2日の間に、異常な口渇、多飲、多尿、急な体重減少、嘔吐、腹痛、速く深い呼吸(果物のような甘酸っぱい匂いがすることも)が現れた場合。これらはDKAの典型的な症状です。
 - 対処しても回復しない低血糖、または意識障害:
血糖値が70mg/dL未満で、ブドウ糖やジュースを摂取しても回復しない、または短時間で何度も低血糖を繰り返す場合。特に意識がもうろうとする、ろれつが回らない、けいれんが起きた場合は救急車の要請も必要です。
 - 食事が全くとれない(シックデイ):
高熱、嘔吐、下痢などで食事が2食以上とれず、インスリンや経口薬の調節が自分で判断できない場合。
 - 足の傷が悪化している:
足にできた小さな傷が赤く腫れている、膿が出ている、または色が変わっている(黒ずんでいる)場合。これは足潰瘍や壊疽の始まりかもしれません。
 
自己判断せず、「いつもと違う」「おかしい」と感じたら、まずはかかりつけの医療機関に電話で指示を仰ぐことが重要です。
まとめ
この長いガイドを最後までお読みいただき、ありがとうございます。糖尿病は「一度なったら終わり」の病気ではなく、「正しく理解し、生涯付き合っていく」病気です。最後に、最も重要なポイントをまとめます。
- 糖尿病管理は「チーム戦」である:
医師、看護師、管理栄養士、そして何よりも患者さん自身がチームの一員です。このガイドで得た知識を武器に、積極的に治療に参加してください。
 - 管理の基本は「食事」「運動」「薬」のバランス:
どれか一つだけを完璧にしても、他が崩れれば血糖は乱れます。自分の生活スタイルの中で、無理なく続けられるバランスを見つけることが成功の鍵です。
 - 血糖値は「敵」ではなく「道しるべ」:
血糖測定は、今の自分の行動が正しかったかを教えてくれる「コンパス」です。高い・低いという結果に一喜一憂せず、その「理由」を考え、次の行動に活かしましょう。
 - 最大の目標は「合併症の予防」:
血糖コントロールの最終目的は、腎症、網膜症、神経障害、そして心血管疾患を防ぎ、健康な人と変わらない生活の質(QOL)を維持することです。
 - 「予備軍」は「正常」に戻れるチャンス:
 
早期発見、早期治療、そして日々の自己管理が、あなたの未来を守ります。不安な点は抱え込まず、このガイドの準備リストを活用して、主治医に相談することから始めてください。
本コンテンツはJHO編集部が医学文献に基づき作成しました。詳細は編集ポリシーをご覧ください。
診療ガイドライン・エビデンスの出典(日本糖尿病学会・国際基準)
これまで、糖尿病の基本的な知識から症状、診断、治療法、そして日常生活の疑問(FAQ)に至るまで、包括的に解説してきました。この長いガイドの最後に、本記事群がどのような医学的根拠(エビデンス)に基づいているか、その出典を明確にすることが重要だと考えています。
医療情報は、個人の体験談や古い常識ではなく、信頼できる専門機関が公開する最新の診療ガイドラインに基づいていなければなりません。JapaneseHealth編集部では、読者の皆様に正確で信頼性の高い情報をお届けするため、以下の国内外の主要なガイドラインを一次情報として参照しています。
日本国内の中核ガイドライン(JDS)
日本における糖尿病診療の最も重要な基盤となるのが、日本糖尿病学会(JDS)が発行する「糖尿病診療ガイドライン2024」です[1]。この文書は、日本の医療環境と日本人患者のデータを基に作成されており、本ガイドの記述内容(診断基準、治療薬の選択、管理目標など)の大部分はこのガイドラインに準拠しています。
また、ガイドラインがどのようにして作られるか(どの研究を「エビデンスレベルが高い」と判断するか)は、「診療ガイドライン策定の方法論」[2]で定義されています。私たちはこの方法論を尊重し、科学的根拠の強さに基づいた情報提供を心がけています。
さらに、特定の患者層、例えば高齢者については、「高齢者糖尿病診療ガイドライン2023」[3]といった個別の指針も参照しています。高齢者の場合は、重度の低血糖を避けつつHbA1cの管理目標を個別設定することが重視されており、本ガイドでもその点を反映しています。ご自身の血糖値の正常範囲と照らし合わせながら、主治医と相談することが大切です。
国際的な診療基準(ADA・NICE・WHO)
糖尿病研究は世界中で進められており、国際的な基準を把握することも重要です。特に米国糖尿病学会(ADA)が毎年更新する“Standards of Care in Diabetes”[8](2025年版)は、最新の薬剤やテクノロジー(CGMなど)の評価が早く反映されるため、世界のトレンドを知る上で欠かせません(詳細はプライマリケア向け要約版[9]も参照)。
同様に、英国のNICEガイドライン(NG28)[10]や、世界保健機関(WHO)の“Global Diabetes Compact”[11]なども参照しています。ただし、WHOの文書は個別の治療法よりも「インスリンへのアクセスを世界的に改善する」といった公衆衛生上の目標設定が中心であり、日本の読者にとってはJDSやADAの指針の方がより臨床現場に近い情報となります。本ガイドの最新の薬物療法に関する記述も、これらの国際的コンセンサスと日本の保険診療の状況を照らし合わせて作成しています。
日本の公的プログラム(重症化予防)
学会のガイドラインに加え、日本の行政機関が推進するプログラムも重要な情報源です。特に厚生労働省は「糖尿病性腎症重症化予防プログラム」[5](令和6年度改定[6])を推進しています。
これは、糖尿病の合併症の中で特に生活の質(QOL)と医療費に大きな影響を与える糖尿病性腎症を早期に発見し、人工透析への移行を防ぐことを目的としています。本ガイドが「糖尿病予備群」の段階からの早期介入や、定期的な尿検査の重要性を強調しているのは、こうした国の大きな方針とも一致しています。
受診が必要な症状(緊急時の対応)
本ガイドで解説した内容の多くは、長期的な管理に関するものですが、中には緊急の対応が必要な状態(急性合併症)もあります。以下の症状は、命に関わる危険なサインである可能性があり、自己判断せず直ちに医療機関を受診するか、救急車を呼ぶことを検討してください。
- 糖尿病ケトアシドーシス(DKA)が疑われる症状: 強い口渇、多尿、急激な倦怠感に加え、吐き気、嘔吐、腹痛、息苦しさ、呼気のアセトン臭(甘酸っぱい匂い)がある場合。インスリンが極端に不足しているサインです。[4]
 - 高浸透圧高血糖状態(HHS)が疑われる症状: 特に高齢者で、極端な高血糖(600mg/dL以上など)とともに、強い脱水症状、意識が朦朧とする、痙攣(けいれん)が起きる場合。
 - 重度の低血糖: 血糖値が極端に下がり、冷や汗、動悸、強い空腹感だけでなく、意識障害や痙攣をきたした場合。ブドウ糖や砂糖を摂取させても意識が戻らない場合は救急車が必要です。
 - SGLT2阻害薬服薬中の体調不良: 血糖値がそれほど高くない(正常範囲内のことも)にもかかわらず、強い吐き気、食欲不振、倦怠感が続く場合。「正常血糖ケトアシドーシス」の可能性があり、専門医の判断が必要です。[4]
 
まとめ(糖尿病と向き合うあなたへ)
この総合ガイドを最後までお読みいただき、ありがとうございます。糖尿病は「一度なったら終わり」の病気ではなく、「長く上手に付き合っていく」病気です。このガイドを通じて、多くの情報を得られたことと思いますが、最後に最も大切なことをまとめます。
- 早期発見が何より重要です。糖尿病の初期症状は非常にわかりにくいため、「おかしいな」と思ったら放置せず、健康診断や医療機関での検査を受けてください。
 - 治療の基本は「食事」と「運動」です。薬物療法が必要になったとしても、この2つの柱が治療の土台であることに変わりありません。無理なく続けられる食事療法や、楽しみながらできる運動療法を見つけることが、長く付き合う秘訣です。
 - 最大の目標は「合併症の予防」です。糖尿病そのものよりも、合併症(腎症、網膜症、神経障害、心血管疾患)が生活の質を大きく左右します。血糖値だけでなく、血圧、脂質、体重の管理も同時に行うことが非常に重要です。
 - 一人で抱え込まないでください。糖尿病の管理は時に孤独で、ストレスがかかるものです。主治医、看護師、管理栄養士、そして家族や友人のサポートを得て、チームで取り組んでいきましょう。
 
このガイドが、糖尿病という病気を正しく理解し、不安を和らげ、より良い自己管理への一歩を踏み出すための一助となれば幸いです。
本コンテンツはJHO編集部が医学文献に基づき作成しました。詳細は編集ポリシーをご覧ください。












