この記事の科学的根拠
この記事は、引用元として明示された最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下に示すリストは、実際に参照された情報源と、それらが提示する医学的指導との直接的な関連性を示したものです。
- 世界保健機関(WHO): この記事におけるリーシュマニア症の世界的流行状況、危険因子、および公衆衛生上の重要性に関する指針は、WHOが公表したファクトシートに基づいています4。
- 米国疾病予防管理センター(CDC): 臨床症状、感染経路、予防策に関する詳細な記述は、CDCが発行する旅行者向け健康情報「Yellow Book」および専門家向け臨床概要に基づいています67。
- 米国感染症学会(IDSA)/米国熱帯医学会(ASTMH): 診断および治療に関する推奨事項は、IDSAとASTMHが共同で策定した臨床実践ガイドラインに基づいています11。
- 国立感染症研究所(NIID): 日本国内における輸入症例の実態や媒介昆虫の生息状況に関する記述は、NIIDの病原微生物検出情報(IASR)および関連研究報告に基づいています516。
- 東京大学: 内臓リーシュマニア症の母子感染メカニズムや、国際的な疫学研究に関する知見は、東京大学の研究チームが学術誌で発表した研究成果に基づいています1822。
要点まとめ
- リーシュマニア症はサシチョウバエに刺されることで感染し、主に皮膚、粘膜、内臓に症状を引き起こす「顧みられない熱帯病」です。
- 病型は3つあり、皮膚に潰瘍を作る「皮膚型」、顔面を破壊する「粘膜型」、放置すれば致死率が95%を超える「内臓型」に分類されます。
- 日本国内での流行はありませんが、海外渡航者が感染して帰国後に発症する「輸入感染症」として報告されており、他人事ではありません。
- 予防ワクチンや予防薬はなく、流行地では虫除け剤の使用や長袖・長ズボンの着用など、サシチョウバエに刺されないための対策が唯一の予防法です。
- 治療は病型や原因原虫種に応じて個別化され、日本では保険承認薬のほか、専門研究班を通じて未承認薬を用いた世界標準の治療も可能です。
リーシュマニア症の3つの顔:病型別の特徴と症状
リーシュマニア症は単一の病態ではなく、感染した原虫の種、そして感染者の免疫応答によって、臨床像が大きく異なる3つの主要な病型に分類されます2。ここでは、それぞれの病型がどのように発症し、進行するのかを詳細に解説します。
皮膚リーシュマニア症(Cutaneous Leishmaniasis, CL):最も一般的だが、瘢痕を残す
皮膚リーシュマニア症(CL)は、全病型の中で最も発生頻度が高い形態です1。主な症状は皮膚に現れ、サシチョウバエに刺された部位、特に顔、腕、脚といった体の露出部に生じることが多いです。初期症状として、小さな赤い丘疹や結節が出現します1。この丘疹は数週間から数ヶ月かけて徐々に大きくなり、中心部が壊死して陥没し、その周囲が堤防のように盛り上がった、特徴的な潰瘍を形成します。この外観は「火山の噴火口」のようだと形容されることもあります2。通常、この潰瘍は痛みを伴わないが、細菌による二次感染を起こした場合は痛みを伴うことがあるとCDCは報告しています2。原因となる原虫種は地理的に異なり、旧世界(アジア、アフリカ、中東、南欧)では主にLeishmania majorやL. tropicaが、新世界(中南米)ではL. mexicana、L. amazonensis、L. braziliensisなどが原因となります5。多くの症例では、数ヶ月から2年程度で自然に治癒しますが、整容的に問題となる永続的な瘢痕を残すことが多いです2。しかし、国境なき医師団の報告によれば、特に中南米に分布するL. braziliensisなどの特定の原虫種に感染した場合、後述する重篤な粘膜リーシュマニア症へ移行する危険性があるため、安易に自然治癒を期待することは危険です78。
粘膜リーシュマニア症(Mucocutaneous Leishmaniasis, ML):顔貌を破壊する深刻な病態
粘膜リーシュマニア症(ML)は、皮膚リーシュマニア症の最も恐ろしい合併症の一つであり、原虫が皮膚病変から血流やリンパ流に乗って鼻、口、喉の粘膜へ転移し、組織を進行性に破壊する病態です2。この病型は、主に中南米で流行するLeishmania (Viannia)亜属、特にL. braziliensisによって引き起こされます5。初感染である皮膚の病変が治癒した後、数ヶ月から数年、時には数十年という長い潜伏期間を経て発症することがあります2。初期症状は、治りにくい鼻づまり、鼻血、鼻汁など、一般的な鼻炎と区別がつきにくい場合があるため注意が必要であるとCDCは警告しています7。病状が進行すると、鼻の左右を隔てる壁である鼻中隔に穴が開く「鼻中隔穿孔」や、口蓋の破壊、唇や喉の組織崩壊など、不可逆的で深刻な顔貌の変形をきたします1。これにより、摂食困難、発声障害、呼吸困難などが引き起こされ、患者のQOL(生活の質)と社会生活は著しく損なわれます。さらに、破壊された組織への二次的な細菌感染が原因で死に至ることもあります14。
内臓リーシュマニア症(Visceral Leishmaniasis, VL):「カラアザール」として知られる致死的疾患
内臓リーシュマニア症(VL)は、最も重篤な病型であり、「カラアザール(Kala-azar)」という名でも知られています。この病型では、原虫が骨髄、脾臓、肝臓といった内臓の諸臓器にまで広がり、全身性の疾患を引き起こします2。主な症状として、数週間から数ヶ月にわたる不規則で持続的な高熱、著しい脾臓と肝臓の腫大(特に脾腫が顕著)、そして「悪液質」と呼ばれるほどの進行性の体重減少と消耗が挙げられます1。また、骨髄機能が抑制されることによる汎血球減少(貧血、白血球減少、血小板減少)も特徴的な所見であり、これが易感染性(他の感染症にかかりやすくなること)や出血傾向の原因となります2。内臓リーシュマニア症の最も恐ろしい点はその致死率の高さであり、WHOによれば、適切な治療が行われない場合、95%以上の患者が死に至ります4。この事実は、早期診断と迅速な治療開始の絶対的な重要性を示しています。世界の症例の大部分は、インド亜大陸(インド、バングラデシュ、ネパール)、東アフリカ(スーダン、エチオピアなど)、そしてブラジルに集中しています2。また、治療後に皮膚に色素が抜けた斑点や結節が現れる「カラアザール後皮膚リーシュマニア症(PKDL)」という合併症が起こることがあり、この皮膚病変は他者への感染源となりうるため、公衆衛生上の観点からも重要視されています2。
表1:リーシュマニア症の病型別 症状・特徴の比較
3つの異なる臨床像を読者が一目で理解し比較できるよう、以下にその特徴をまとめます。
項目 | 皮膚リーシュマニア症 (CL) | 粘膜リーシュマニア症 (ML) | 内臓リーシュマニア症 (VL) |
---|---|---|---|
主な症状 | 皮膚の無痛性潰瘍、結節 | 鼻・口・喉の粘膜破壊、鼻中隔穿孔 | 長期の発熱、肝脾腫、体重減少、汎血球減少 |
原因原虫(代表例) | L. major, L. tropica, L. mexicana | L. braziliensis | L. donovani, L. infantum |
主な流行地域 | 中東、中南米、地中海沿岸 | 中南米(特にボリビア、ブラジル、ペルー) | インド亜大陸、東アフリカ、ブラジル |
予後(未治療) | 自然治癒するが瘢痕が残る | 進行性で不可逆的な組織破壊 | 致死率95%以上4 |
感染のメカニズムと危険性を高める要因
感染経路:主役は体長2-3mmの「サシチョウバエ」
リーシュマニア症の主要な感染経路は、感染した雌のサシチョウバエ(Phlebotomine sand fly)による吸血です1。この昆虫は、蚊よりもはるかに小さく(体長約2-3mm)、飛行時に羽音を立てないため、刺されても気づきにくいという特徴があるとCDCは指摘しています6。主に夕暮れから夜明けにかけての薄暗い時間帯に活動が活発になります。感染のサイクルは、まずサシチョウバエがリーシュマニア原虫を保有する動物(イヌやネズミなどの哺乳類)やヒトを吸血することから始まります。サシチョウバエの消化管内で原虫は増殖し、感染力を持つ形態に変化します。その後、この感染したサシチョウバエが別のヒトを吸血する際に、唾液と共に原虫が皮下に注入され、感染が成立します2。サシチョウバエによる媒介が主たる経路ですが、極めてまれなケースとして、輸血、臓器移植、あるいは汚染された注射針の共有によって感染が成立した例も報告されています12。さらに、東京大学の研究チームは、マウスを用いた動物実験モデルにおいて、内臓リーシュマニア症に感染した母親から胎盤を通じて胎児へ感染する「垂直感染(母子感染)」が起こりうることを世界で初めて組織学的に証明しました18。
世界の流行地域と感染の危険性を高める要因
リーシュマニア症は、WHOやCDCの報告によると、アジア、アフリカ、中南米、中東の約90カ国で流行が確認されています34。特にブラジル、インド、スーダン、コロンビア、ペルーなどは症例数が多い国として知られています4。感染の危険性は、環境的・社会的な要因と、個人が持つ要因の両方によって高まります。
環境・社会的危険因子:
- 貧困: 粗末な住居や不十分な衛生環境は、サシチョウバエの繁殖地となりやすく、感染の危険性を増大させるとWHOは指摘しています3。
- 環境変化: 森林伐採、ダム建設、灌漑事業、都市化といった人間活動は、サシチョウバエの生息域や、宿主となる動物との接触機会を変化させ、新たな感染の温床となることがあります3。
- 栄養不良: タンパク質、鉄、ビタミンA、亜鉛といった栄養素の欠乏は、体の免疫力を低下させ、感染から重篤な発症へと至る危険性を高めることが指摘されています4。
個人的危険因子:
- 免疫不全: ヒト免疫不全ウイルス(HIV)との重複感染は、特に内臓リーシュマニア症の発症危険性、重症化の危険性、そして死亡の危険性を著しく高めます。WHOによると、HIV感染者は、リーシュマニア症の治療効果が出にくく、再発率も高いことが知られています4。
- 職業・活動: CDCの「Yellow Book」によれば、流行地において、農業、建設作業、軍事活動、エコツーリズムといった屋外での活動に長時間従事する人々は、サシチョウバエとの接触機会が多くなるため、感染の危険性が高くなります6。
日本におけるリーシュマニア症:身近に迫る輸入感染症の実態
日本国内の状況:流行はないが「対岸の火事」ではない
日本はリーシュマニア症の流行国ではありません。しかし、これは決して日本国内でこの疾患に遭遇する可能性がないことを意味しません。国立感染症研究所(NIID)などの報告によれば、日本におけるリーシュマニア症は、海外で感染した人々が帰国後に発症する「輸入感染症」として、継続的に確認されています。その歴史は古く、1950年にはブラジルのコーヒー農園で働いていた帰国者が皮膚粘膜型の症状を呈した症例が報告されています16。1980年代以降は、日本の経済成長とグローバル化に伴い、中東やアフリカへ赴任した企業関係者や国際協力関係者の間での感染報告が目立つようになりました5。近年では、紛争地域であるシリアからの難民や、南米からの帰国者における症例も報告されており、感染源となる地域が多様化していることがわかります16。これらの事実は、日本国内の医療機関がリーシュマニア症の患者を診察する可能性が現実のものであることを示しており、特に原因不明の皮膚潰瘍や長期発熱を訴える患者に対しては、渡航歴の聴取がいかに重要であるかを物語っています。一方で、日本国内の感染環の有無については、媒介昆虫であるサシチョウバエが日本に生息しているかどうかが鍵となります。環境衛生薬品の専門機関による調査によると、日本にもサシチョウバエ(Sergentomyia属)は本州から沖縄まで広く生息していることが確認されています16。しかし、現時点では、これらの日本在来のサシチョウバエが、ヒトに病原性を持つリーシュマニア原虫を媒介するという科学的証拠は見つかっていません。したがって、日本国内で感染サイクルが成立し、土着の感染症として定着している可能性は極めて低いと考えられています。また、リーシュマニア症は人獣共通感染症であり、ヒトだけでなく動物も感染します。日本でも、流行地から輸入されたイヌにおいてリーシュマニア症が発症した事例が報告されており、ペットの輸入検疫の重要性も示唆されています16。
日本の研究機関による世界への貢献
日本はリーシュマニア症の非流行国でありながら、その制圧に向けた国際的な研究開発において重要な役割を果たしています。疫学および生態学の分野では、東京大学の三條場千寿准教授らの研究チームが、トルコにおける媒介昆虫の分布調査や、モンゴルのゴビ砂漠に生息する動物宿主(オオスナネズミ)の感染状況を明らかにするなど、感染環の全体像を解明するための国際的なフィールド研究を精力的に行っています22。基礎医学の分野でも、日本の研究は世界をリードしています。同じく東京大学の後藤康之教授らの研究グループは、動物モデルを用いて内臓リーシュマニア症の母子垂直感染のメカニズムを解明し、その成果を国際的な学術誌に発表しています18。さらに、治療薬や診断技術の開発においても、日本は貢献しています。アステラス製薬などの日本の製薬企業は、顧みられない熱帯病の新薬開発を目指す国際的なコンソーシアムに参画しています2425。また、日本の研究者によって開発された診断手法が、現地の検査キットとして製品化され、流行地での迅速診断に役立てられている例もあります26。これらの活動は、日本がグローバルな健康課題の解決に積極的に貢献していることを示しています。
診断:正しい診断が命を救う
診断への第一歩:渡航歴の聴取と臨床所見
日本のような非流行国においてリーシュマニア症を正しく診断するためには、臨床症状の評価以上に、患者の流行地域への渡航歴や滞在歴を詳細に聴取することが最も重要なステップとなります1。治りにくい皮膚潰瘍や原因不明の長期にわたる発熱といった症状が見られる患者が、中南米、中東、アフリカ、地中海沿岸などの流行地への渡航歴を持つ場合、医療従事者は鑑別診断のリストにリーシュマニア症を強く加える必要があるとCDCは強調しています。同様に、患者自身も、これらの地域への渡航経験がある場合は、診察時に必ず医師に申告することが、診断の遅れを防ぐために極めて重要です6。
確定診断のための検査法
米国感染症学会(IDSA)のガイドラインによれば、確定診断の標準的な方法は、病変部から採取した組織検体を用いて、リーシュマニア原虫そのもの(アマスチゴートと呼ばれる形態)を顕微鏡で確認するか、あるいは原虫の遺伝子(DNA)を検出することです112。
皮膚・粘膜リーシュマニア症の検査:
- 顕微鏡検査: 潰瘍の活動的な辺縁部から組織を少量採取(生検または擦過)し、スライドガラスに塗抹してギムザ染色を行います。これを顕微鏡で観察し、マクロファージ(免疫細胞の一種)の内部に存在する、卵円形のアマスチゴート(無鞭毛型)を探します16。
- 培養: 採取した検体をNNN培地などの特殊な培地で培養し、運動性のある鞭毛を持つプロマスティゴート(前鞭毛型)が増殖してくるかを確認します16。
- 分子生物学的検査(PCR法): 検体から抽出したDNAを用いて、原虫に特異的な遺伝子を増幅して検出します。IDSAのガイドラインは、PCR法が感度・特異度ともに最も高く、感染の有無を確実に診断できるだけでなく、原因となっている原虫の種を同定することも可能であるとしています。種の同定は、粘膜型へ移行する危険性の評価や治療方針の決定に不可欠であり、現在の標準的な検査法とされています11。
内臓リーシュマニア症の検査:
- 検体採取: 骨髄穿刺によって得られる骨髄液が、安全性と感度のバランスから最も標準的な検体とされます。脾臓からの穿刺吸引は感度がより高いですが、致死的な大出血の危険性を伴うため、実施には細心の注意が必要となります11。
- 検査: 採取された検体に対して、皮膚型と同様に顕微鏡検査、培養、PCR法が行われます。
- 血清抗体検査: 患者の血液を採取し、血清中のリーシュマニア原虫に対する抗体の有無を調べます。特にrK39という組換え抗原を用いた迅速診断テスト(RDT)は、侵襲性が低く、迅速に結果が得られるため、有用な補助診断法として広く用いられています。ただし、HIVとの重複感染者など、免疫機能が低下している患者では抗体が十分に産生されず、偽陰性となることがあるため、結果の解釈には注意が必要です2。
治療:最新の国際標準治療と日本の選択肢
治療の基本原則
リーシュマニア症の治療は画一的ではなく、(1)病型(皮膚、粘膜、内臓)、(2)原因となっている原虫の種、(3)感染した地域(その地域の薬剤耐性の状況を反映するため)、そして(4)患者自身の免疫状態(特にHIV感染の有無)という4つの要素を総合的に評価し、治療方針を個別化する必要がある、と専門家は指摘しています1011。合併症のない単純な皮膚リーシュマニア症の一部では、無治療で経過を観察することも選択肢となりうる。しかし、顔貌に深刻な後遺症を残す粘膜リーシュマニア症や、放置すれば致死率が極めて高い内臓リーシュマニア症は、迅速かつ完全な薬物治療が必須です2。
国際的標準治療薬(IDSA/ASTMHガイドライン準拠)
ここでは、世界の感染症治療において最も権威のある指針の一つである、米国感染症学会(IDSA)と米国熱帯医学会(ASTMH)の共同診療ガイドラインで推奨されている主要な治療薬を解説します2930。
- リポソーム化アムホテリシンB(Liposomal Amphotericin B, L-AmB): 内臓リーシュマニア症に対する第一選択薬であり、重症の皮膚リーシュマニア症や粘膜リーシュマニア症の治療にも用いられる、最も重要な薬剤の一つです11。静脈内投与で用いられ、主な副作用として腎機能障害、低カリウム血症、投与時関連反応(発熱、悪寒など)が知られています31。投与スケジュールは病態や免疫状態により異なり、例えばHIV感染を合併した免疫不全患者には、より高用量・長期間の治療が必要です29。
- ミルテホシン(Miltefosine): リーシュマニア症に対して初めて有効性が示された経口治療薬であり、皮膚型、粘膜型、そして一部地域の内臓型に有効です29。しかし、強い催奇形性があるため、妊婦への投与は絶対禁忌です。妊娠可能な女性は、治療中および治療終了後5ヶ月間は確実な避妊が必須となります29。
- 五価アンチモン製剤(スチボグルコン酸ナトリウムなど): かつては第一選択薬でしたが、多くの地域で薬剤耐性が広まっており、また不整脈などの心毒性や膵炎といった重篤な副作用のため、現在では使用が限定されています2。
- その他の薬剤: 硫酸パロモマイシン(外用薬または注射薬)や、一部のアゾール系抗真菌薬も、特定の状況で用いられることがあります29。
日本国内における治療の実際
国際的な標準治療を理解した上で、日本の読者にとって最も重要かつ実用的な情報は、日本国内で実際にどのような治療が受けられるかです。ここには、海外とは異なる日本特有の事情が存在します。
- 保険承認薬: 2024年現在、日本国内においてリーシュマニア症の治療薬として薬事承認され、保険診療下で使用できる薬剤は、リポソーム化アムホテリシンB(製品名:アムビゾーム®点滴静注用)のみです3134。これは、日本の医師が標準的に選択できる治療の基盤となります。
- 国内未承認薬へのアクセス(熱帯病治療薬研究班): 国際ガイドラインで推奨されているミルテホシンや五価アンチモン製剤は、日本では未承認薬です。しかし、これらの薬剤が臨床的に必要と判断された場合、患者は治療を諦める必要はありません。日本では、「熱帯病治療薬研究班」(事務局:国立研究開発法人 国立国際医療研究センター)という公的な研究組織が存在します。この研究班は、国内で必要とされる未承認の熱帯病治療薬を輸入・保管し、専門医の判断のもと、臨床研究に参加するという形で患者に供給する体制を整えています36。これは、日本の患者が世界標準の治療を受けるための重要なセーフティネットとなっており、専門医は患者の病状に最適な治療法を、承認薬・未承認薬の双方から検討することが可能です。
表2:リーシュマニア症の主要治療薬の概要と日本でのアクセス
国際標準薬と日本での入手可能性を一覧にすることで、治療の選択肢とアクセス方法を視覚的に示し、読者が専門医に相談する際の一助とします。
薬剤名 | 主な適応(国際標準) | 日本での状況 | 主な副作用・注意点 |
---|---|---|---|
リポソーム化アムホテリシンB | 内臓型(第一選択)、重症皮膚・粘膜型 | 保険承認あり(アムビゾーム®)31 | 腎毒性、注入時反応、低カリウム血症 |
ミルテホシン | 皮膚・粘膜型、一部の内臓型(経口) | 未承認(熱帯病治療薬研究班から供給)36 | 消化器症状、肝機能障害、妊婦禁忌 |
五価アンチモン製剤 | 一部の皮膚・内臓型(耐性少ない地域) | 未承認(熱帯病治療薬研究班から供給)36 | 心毒性、膵炎、筋肉痛、薬剤耐性 |
予防:ワクチンなき時代の最善策
2024年現在、IDSAのガイドラインによると、リーシュマニア症を予防するためのヒト用の有効なワクチンや、感染を未然に防ぐための予防内服薬は存在しません11。したがって、感染予防は、病原体を媒介するサシチョウバエに刺されることを物理的に避ける「個人的防護策」が唯一かつ最善の方法となります。流行地へ渡航する際は、以下の対策を徹底することが強く推奨されます。
具体的な防虫対策(CDC Yellow Book準拠)
- 活動時間帯への注意: サシチョウバエは主に夕暮れから夜明けにかけての薄暗い時間帯に活動が最も活発になります。この時間帯の不必要な屋外活動は可能な限り避けるべきです6。
- 服装による防御: 長袖、長ズボン、靴下を着用し、肌の露出を最小限に抑えます。淡い色の衣服は虫を寄せ付けにくいとされています6。
- 虫除け剤(忌避剤)の使用: DEET(ジエチルトルアミド)やピカリジンといった有効成分を含む虫除け剤を、露出している皮膚にムラなく塗布します。衣服の上からスプレーすることも効果を高めます2。
- 就寝環境の整備: 宿泊施設は、空調が完備されているか、窓やドアに破れのない網戸が設置されている場所を選ぶことが望ましいです。それが不可能な屋外や簡易的な施設で就寝する場合は、殺虫剤(ペルメトリンなど)で処理された目の細かい蚊帳を使用し、その裾をマットレスの下にしっかりとたくし込んで、隙間から虫が侵入しないようにすることが極めて重要であるとCDCは強調しています6。
よくある質問
リーシュマニア症はヒトからヒトへうつりますか?
通常の社会生活における接触(握手、会話、同室での滞在など)で、ヒトからヒトへ直接感染することはありません。感染は、あくまで病原体を持つサシチョウバエの吸血を介して起こります。ただし、MSDマニュアルによれば、極めてまれな経路として、輸血、臓器移植、汚染された注射器の共有、母子感染などが報告されています12。
一度かかったら、もう二度とかかりませんか?
一度感染して回復すると、その原因となった特定のリーシュマニア原虫種に対しては、ある程度の免疫が成立すると考えられています。しかし、リーシュマニア原虫には多くの種類が存在するため、異なる種類の原虫に新たに感染する可能性はあります。また、HIV感染や免疫抑制剤の使用などによって免疫力が著しく低下した場合には、体内に潜んでいた原虫が再び活動を始める「再発」の危険性もあります2。
流行地へ旅行しますが、何か予防のための薬はありますか?
残念ながら、マラリアのような予防内服薬は、リーシュマニア症には存在しません。IDSAのガイドラインが示すように、現時点で有効な予防法は、第7章で解説した通り、サシチョウバエに刺されないようにするための防虫対策を徹底することのみです11。
専門家への相談
本疾患の診断と治療は高度な専門知識を要します。特に日本のような非流行国では、診断の遅れが重症化につながる危険性があります。したがって、流行地域への渡航歴があり、治らない皮膚のできもの、原因不明の長期にわたる発熱などの疑わしい症状がある場合は、ためらわずに、そして必ずその渡航歴を医師に伝え、感染症専門医や熱帯病を専門とする医療機関を受診してください。
表3:日本国内で相談可能な主要専門機関・学会
診断や治療について、より専門的な情報を得たり、相談したりできる日本の主要な機関や学会を以下に示します。
機関・学会名 | 役割 | ウェブサイト |
---|---|---|
国立研究開発法人 国立国際医療研究センター(NCGM) | 日本における輸入感染症・熱帯病診療の中核拠点。専門外来を設置。 | https://www.ncgm.go.jp/ |
熱帯病治療薬研究班(NCGM内) | ミルテホシンなど国内未承認薬の供給と管理を行う研究組織。 | https://www.nettai.org/ |
一般社団法人 日本感染症学会 | 感染症専門医・指導医の認定を行い、専門医リストを公開。 | https://www.kansensho.or.jp/ |
日本寄生虫学会 / 日本臨床寄生虫学会 | 寄生虫症に関する学術研究と臨床情報の交換を行う専門学会。 | https://jsparasitol.org/ / http://clipara.kenkyuukai.jp/ |
結論
リーシュマニア症は、皮膚、粘膜、内臓と多様な病態を示し、特に内臓型は致死的となりうる、世界の公衆衛生における重大な課題です。しかし、この疾患は、正しい知識に基づいて行動すれば予防可能であり、万が一感染しても、早期に診断されれば治療可能な疾患です。日本においては輸入感染症として扱われますが、グローバル化が進む現代社会では、その危険性は決してゼロではありません。流行地への渡航者は、サシチョウバエから身を守るための具体的な予防策を講じることが最も重要です。そして、医療従事者と渡航者双方が、渡航歴の重要性を認識し、疑わしい症状があれば速やかに専門医療機関へ繋ぐ体制が、重症化を防ぐ鍵となります。気候変動が媒介昆虫の生息域に影響を与える可能性も指摘されており、将来的には日本国内の感染症リスクの構図が変化することも考えられます。そのため、国内のサシチョウバエの動向を含め、継続的な監視と研究が不可欠です。グローバル社会の一員として、我々一人ひとりがこの「顧みられない病」に関心を持ち、科学的根拠に基づいた正しい知識を身につけること。それが、リーシュマニア症という地球規模の課題と正しく向き合うための第一歩です。
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