この記事の科学的根拠
この記事は、入力された研究報告書に明示的に引用されている最高品質の医学的証拠にのみ基づいています。以下に示すリストには、実際に参照された情報源と、提示された医学的指導との直接的な関連性のみが含まれています。
- 日本緑内障学会 (JGS): 本稿における緑内障の定義、診断基準、治療の階層、および個別化された目標眼圧の概念に関する指針は、同学会が発行した「緑内障診療ガイドライン(第5版)」に基づいています1。
- 多治見スタディ: 日本における緑内障の有病率(40歳以上の5.0%)、正常眼圧緑内障(NTG)の圧倒的優位性(POAGの約72%)、および未診断率の高さ(約90%)に関する記述は、日本緑内障学会が主導したこの大規模疫学調査の画期的なデータに基づいています4518。
- 米国眼科学会 (AAO): 緑内障の一般的な症状、危険因子、および治療選択肢に関する国際的な視点の一部は、AAOが提供する患者向け情報に基づいています7。
- 欧州緑内障学会 (EGS): 神経保護の概念や、臨床医向けの「ストップサイン」といった先進的な考え方に関する記述は、EGSのガイドラインから得られた知見を参考にしています10。
- 2024年のシステマティックレビュー: 選択的レーザー線維柱帯形成術(SLT)が、点眼薬と同等、あるいはそれ以上の初期治療選択肢となりうるという最新の知見は、2024年に発表された複数の論文を検証した最新のシステマティックレビューに基づいています32。
要点まとめ
- 緑内障は日本の成人の失明原因第1位であり、40歳以上の20人に1人が罹患していますが、その約9割は未診断です。
- 日本の緑内障の最大の特徴は、眼圧が正常範囲内であるにもかかわらず発症する「正常眼圧緑内障(NTG)」が大多数(約72%)を占めることです。
- 診断は単一の検査ではなく、眼圧測定、眼底検査、視野検査、OCTなど複数の証拠を組み合わせて、特徴的な視神経の損傷を確認することで行われます。
- 治療の基本は、薬物療法、レーザー治療、または手術によって眼圧を個別に設定された「目標眼圧」まで下げることであり、病気の進行を抑制することが目的です。
- 40歳を過ぎたら、自覚症状がなくても定期的な眼科検診を受けることが、視力を守るための最も重要なステップです。
緑内障の根源を理解する — 定義と病態生理
緑内障を正しく理解するためには、まずその公式な定義から始めることが重要です。日本緑内障学会(JGS)が発行した「緑内障診療ガイドライン(第5版)」では、緑内障は「視神経と視野に特徴的変化を有し、眼圧を十分に下降させることにより視神経障害を改善もしくは抑制しうる疾患である」と定義されています1。この定義には、疾患を理解するためのいくつかの重要な要素が含まれています。
主要な構成要素の解説
この複雑な定義を、より分かりやすい要素に分解して解説します。
- 視神経 (Optic Nerve): 視神経は、眼球と脳を結ぶ約100万本の微細な神経線維の束であり、視覚情報を伝達する「データケーブル」のような役割を果たしています20。緑内障は、この神経線維を徐々に損傷させ、最終的には破壊してしまう病気です。一度失われた神経線維は再生しないため、早期発見と治療が不可欠です。
- 眼圧 (Intraocular Pressure – IOP): 眼圧とは、眼球の形状を維持するために内部からかかっている圧力のことです。この圧力は、眼球内で常に産生されている「房水」という透明な液体によって維持されています。房水は、産生された後に「線維柱帯」という排水口を通って眼の外に排出されます。この産生と排出のバランスが崩れ、房水が過剰に溜まると眼圧が上昇します7。これを簡単な例えで言うと、排水口が部分的に詰まった洗面器のような状態です。
- 視野 (Visual Field): 視野とは、眼を動かさずに見ることができる範囲のことです。これには、中心視野と周辺視野が含まれます。緑内障の典型的な特徴は、初期段階では自覚しにくい周辺視野から徐々に欠けていくことです。病気が進行すると、視野はさらに狭まり、最終的には「トンネルビジョン(管状視野)」と呼ばれる、パイプの中から覗いているような状態になり、中心視力も失われる可能性があります7。
日本における中心的な nghịch lý (パラドックス)
眼圧の上昇が緑内障の主要な危険因子であることは世界的に確立されています。しかし、日本人にとって極めて重要な事実は、緑内障症例の大部分が、統計的に「正常」とされる範囲内の眼圧(21 mmHg以下)で発生するということです。これは「正常眼圧緑内障 (Normal-Tension Glaucoma – NTG)」として知られており、日本の緑内障の物語の中心をなすものです。この一見矛盾した現象については、後の章でさらに深く掘り下げていきます。このパラドックスの存在は、日本人が緑内障を理解する上で、単なる眼圧の数値以上の要因を考慮する必要があることを示唆しています。
緑内障の分類 — すべてが同じではない
緑内障は単一の疾患ではなく、その原因や病態によっていくつかの種類に分類されます。それぞれのタイプは異なる特徴を持ち、治療法も異なります。ここでは、特に日本において重要な分類に焦点を当てて解説します。
日本における中心的話題:原発開放隅角緑内障(POAG)と正常眼圧緑内障(NTG)
これらは最も一般的なタイプの緑内障であり、日本の患者にとって最も関連性の高いものです。
- 原発開放隅角緑内障 (Primary Open-Angle Glaucoma – POAG): 世界的に最も一般的な緑内障の形態です。このタイプでは、房水の排水路である隅角(ぐうかく)は開いているものの、その機能が低下しており、房水が効率的に排出されません。その結果、眼圧が徐々に上昇し、視神経に損傷を与えます7。初期には自覚症状がほとんどなく、静かに進行するのが特徴です。
- 正常眼圧緑内障 (Normal-Tension Glaucoma – NTG): NTGはPOAGの一亜型とされ、眼圧が統計的な正常範囲内(21 mmHg以下)であるにもかかわらず、緑内障特有の視神経障害が進行する状態を指します1。驚くべきことに、日本においてはNTGは稀な亜型ではなく、むしろ主流派です。後述する画期的な疫学調査「多治見スタディ」によると、日本におけるPOAG症例の約72%がNTGであることが明らかにされています5。NTGの発症には、眼圧以外の要因、例えば視神経自体の脆弱性や、視神経への血流不全、遺伝的要因などが関与していると考えられています20。
その他の重要な緑内障のタイプ
POAGとNTG以外にも、注意すべき緑内障のタイプが存在します。
- 原発閉塞隅角緑内障 (Primary Angle-Closure Glaucoma – PACG): このタイプでは、隅角が物理的に狭いか、虹彩によって塞がれてしまうことで房水の流れが妨げられ、眼圧が上昇します2。急激に眼圧が上昇する「急性発作」を起こすことがあり、これは激しい目の痛み、頭痛、吐き気、光の周りに虹の輪が見える(虹視症)などの症状を伴う医学的緊急事態です7。このタイプはアジア人において比較的多いと報告されています26。
- 続発性緑内障 (Secondary Glaucoma): 他の病気(例:ぶどう膜炎などの炎症)、目の怪我、腫瘍、あるいはステロイド薬の長期使用などが原因で引き起こされる緑内障の総称です24。原因となる疾患の治療が重要となります。
- 先天性緑内障 (Congenital Glaucoma): 出生時から存在する稀なタイプの緑内障で、乳幼児期に診断されることがほとんどです。早期の外科的治療が必要となります24。
種類 | 機序(メカニズム) | 典型的な眼圧 | 主な症状 | 主な危険因子群 |
---|---|---|---|---|
POAG(高眼圧型) | 隅角は開いているが、排水機能が低下している。 | 高い(21 mmHg超) | 初期は無症状。徐々に周辺視野が欠ける。 | 40歳以上、家族歴、アフリカ系の人々。 |
NTG(正常眼圧型) | 眼圧が正常範囲内にもかかわらず、視神経が損傷される。 | 正常(21 mmHg以下) | POAGと同様、初期は無症状。 | 日本で非常に多い(POAGの約72%)、家族歴、近視。 |
PACG(閉塞隅角型) | 隅角が物理的に狭窄または閉塞する。 | 非常に高い(急性発作時)または軽度上昇(慢性) | 急性:激しい眼痛、頭痛、吐き気、霧視、虹視症。 | アジア人、遠視、女性。 |
続発性緑内障 | 他の疾患(外傷、炎症、薬物)によって引き起こされる。 | 原因により様々 | 基礎疾患による。 | 眼の外傷、ぶどう膜炎、ステロイドの長期使用者。 |
リスク因子とスクリーニング — 最も注意すべきは誰か
緑内障は誰にでも起こりうる病気ですが、特定の要因を持つ人々は発症する危険性が高まります。これらの危険因子を理解し、適切な時期に検診(スクリーニング)を受けることが、早期発見と視力の保護につながります。
主要な危険因子
科学的根拠に基づき、以下の要因が緑内障の危険性を高めることが知られています。
- 年齢: 緑内障の危険性は40歳以降、年齢とともに著しく増加します2。疫学調査では、10歳年をとるごとに有病率が上昇することが示されています18。
- 家族歴: 血縁関係のある家族に緑内障の患者がいる場合、発症リスクは大幅に高まります。これは強力な危険因子の一つです24。
- 高い眼圧: 眼圧が高いことは、最もよく確立された、そして治療によって介入可能な危険因子です8。眼圧が高いほど、視神経が損傷を受ける可能性が高まります。
- 人種: アジア系の民族は、閉塞隅角緑内障(PACG)と正常眼圧緑内障(NTG)の両方の危険因子を持つことが知られています24。
- 近視: 特に強度の近視は、開放隅角緑内障の確立された危険因子です8。
- その他の要因: その他、糖尿病、低血圧または高血圧、薄い角膜なども緑内障の危険性を高める可能性があると報告されています1。
検診(スクリーニング)の推奨
緑内障の大部分は初期には自覚症状がないため、定期的な眼科検診が唯一の早期発見手段です。
- 日本緑内障学会(JGS)の推奨: JGSは「40歳を過ぎたら、定期的な眼科検診を受けましょう」と強く推奨しています20。これは、緑内障のリスクがこの年齢から顕著に増加するためです。
- 一般健診の限界: 職場の健康診断などで視力や眼圧のみを測定することがありますが、それだけでは緑内障の発見には不十分です。視神経の状態を直接観察する眼底検査や、視野の異常を検出する視野検査を含んだ専門的な眼科検診が必要です17。
- 検診の頻度: 検診の頻度は個々の危険因子によって異なりますが、米国眼科学会(AAO)などの国際的な組織は、危険因子のない人でも40歳から定期的な検診を開始し、年齢とともに頻度を上げることを推奨しています26。危険因子がある場合は、より早期から、より頻繁な検診が必要になる場合があります。
緑内障の診断:真実を発見する旅
緑内障の診断は、単一の数値や検査結果だけで下されるものではありません。むしろ、複数の証拠を丹念に集め、それらを総合的に評価して「緑内障性視神経症」と呼ばれる特徴的な視神経の損傷パターンと、それに対応する視野欠損の存在を証明する、一つの「旅」のようなプロセスです1。患者の視点から、この診断プロセスを解き明かします。
診断に用いられる主要な検査
眼科医は、以下のような一連の検査を組み合わせて診断を下します。
- 眼圧測定 (Tonometry): 眼球内部の圧力を測定する最も基本的な検査です。接触型と非接触型(空気を吹き付けるタイプ)があります20。
- 隅角検査 (Gonioscopy): 特殊なレンズを用いて房水の排水路である隅角を直接観察し、その広さや状態を評価します。これにより、開放隅角緑内障と閉塞隅角緑内障を鑑別します2。
- 眼底検査 (Ophthalmoscopy): 瞳孔を通して眼の奥にある網膜と視神経乳頭を直接観察します。緑内障に特徴的な視神経乳頭の陥凹拡大(へこみが大きくなること)や、神経線維層の欠損、出血の有無などを詳細に評価します8。
- 視野検査 (Perimetry): 視野(見える範囲)の中に感度の低い部分(暗点)や欠けている部分がないかを調べる検査です。緑内障の進行度を評価し、治療効果を判定する上で不可欠です8。
- 光干渉断層計 (Optical Coherence Tomography – OCT): 近赤外線を利用して網膜の断面を撮影する最新の画像診断技術です。視神経を構成する神経線維層の厚さをμm(マイクロメートル)単位で測定し、ごく初期の緑内障による構造的な変化を客観的に検出することができます30。
「目標眼圧」という重要な概念
緑内障治療において最も重要な概念の一つが「目標眼圧」です。日本緑内障学会のガイドラインでも強調されているこの概念は、全ての患者に共通する普遍的な「正常値」を目指すものではありません29。そうではなく、個々の患者の緑内障のタイプ、進行度、年齢、危険因子などを総合的に考慮し、「その患者にとって、これ以上病気の進行を食い止めるのに十分低いと考えられる、個別に設定された眼圧レベル」を指します。例えば、初期の緑内障患者と進行期の患者では、目標眼圧は大きく異なります。治療は、この目標眼圧を達成し、維持することを目指して行われます。
現代の治療法:個別化されたロードマップ
緑内障の治療目標は、失われた視機能を取り戻すことではなく、病気の進行を遅らせ、生涯にわたって実用的な視力を維持することです。現在のところ、そのための唯一確実な方法は眼圧を下げることです。日本緑内障学会のガイドラインに基づき、治療は段階的かつ個別化されたアプローチで行われます1。
第一選択の治療:薬物療法(点眼薬)
ほとんどの緑内障患者にとって、治療は点眼薬から始まります。これは最も一般的で基本的な治療法です。
- 主要な薬剤: 現在、様々な作用機序を持つ点眼薬が利用可能です。最も一般的に第一選択薬として用いられるのは、房水の排出を促進する「プロスタグランジン関連薬」です。その他、房水の産生を抑制する「β遮断薬」などがあります8。
- 治療の目標: 医師は、最も効果的に眼圧を下げ、かつ副作用が最も少ない薬剤を患者ごとに見つけることを目指します11。一つの薬剤で効果が不十分な場合は、複数の薬剤を組み合わせることもあります。治療の成功には、毎日決められた通りに点眼を続けること(アドヒアランス)が極めて重要です。
効果的な選択肢:レーザー治療
薬物療法が困難な場合や、より強力な眼圧下降が必要な場合にレーザー治療が選択されます。近年では、初期治療としての有効性も示されています。
- 選択的レーザー線維柱帯形成術 (Selective Laser Trabeculoplasty – SLT): 開放隅角緑内障に対して行われる治療法で、房水の排水路である線維柱帯に低エネルギーのレーザーを照射し、その機能を改善して房水の排出を促進します24。
- レーザー虹彩切開術 (Laser Peripheral Iridotomy – LPI): 主に閉塞隅角緑内障に対して行われます。虹彩に小さな穴を開けて房水の新たな通り道を作り、隅角の閉塞を解消します24。
- 最新の知見: 伝統的にレーザー治療は点眼薬の次のステップとされてきましたが、この考え方は変わりつつあります。LiGHT試験のような大規模臨床試験や、2024年に行われた30の論文を検証したシステマティックレビューでは、SLTが初期治療として点眼薬と同等、あるいはコスト効率や生活の質の面で優れている可能性が示されています32。これは、SLTが単なる代替案ではなく、患者によっては第一選択となりうる有力な治療選択肢であることを意味しており、この最新の知見を医師と話し合う価値があります。
必要な場合:手術
薬物療法やレーザー治療でも目標眼圧を達成できない、あるいは病気の進行が止まらない場合に手術が検討されます。
- 伝統的な手術: 最も代表的な手術は「線維柱帯切除術(トラベクレクトミー)」で、房水の新たな排出路を作成する手術です。非常に高い眼圧下降効果が期待できます8。
- 低侵襲緑内障手術 (Minimally Invasive Glaucoma Surgery – MIGS): 近年開発された新しい手術法の総称で、眼への負担が少なく、より安全性が高いのが特徴です。伝統的な手術ほどの眼圧下降効果はありませんが、白内障手術と同時に行われることが多いです8。
- 重要な注意点: 緑内障手術の目的は、あくまで眼圧を下げて病気の進行を食い止めることであり、一度失われた視野や視力を回復させるものではないことを理解することが重要です24。
日本からのゴールドスタンダードデータ:多治見スタディの意義
日本の緑内障を語る上で絶対に欠かせないのが、「多治見スタディ」として知られる画期的な疫学研究です。これは、日本緑内障学会が岐阜県多治見市で実施した、大規模かつ住民ベースの研究であり、日本の一般住民における緑内障の有病率に関する世界で最も正確なデータを提供しました4。この研究は、日本の緑内障に対する我々の理解を根本から変えました。
主要な発見とその意味
多治見スタディは、日本の緑内障に関するいくつかの重要な事実を明らかにしました。
- 高い有病率: 40歳以上の日本人における緑内障の有病率は5.0%、つまり20人に1人であることが判明しました18。これは、緑内障が決して稀な病気ではなく、非常に身近な疾患であることを示しています。
- 正常眼圧緑内障(NTG)の優位性: 研究で発見された開放隅角緑内障のうち、実に72%が正常眼圧緑内障でした。有病率に換算すると3.6%に相当します18。これにより、日本では眼圧が正常でも緑内障になることが「普通」であることが科学的に証明されました。
- 膨大な未診断者: 最も衝撃的な発見は、緑内障と診断された人々のうち、約90%がそれまで治療を受けていなかった、つまり未診断であったことです17。これは、病気がいかに静かに、自覚症状なく進行するかを物語っています。
発見事項 | 統計データ | あなたへの意味 |
---|---|---|
高い有病率 | 40歳以上の5.0%(20人に1人)が緑内障である。 | あなたのリスクは現実的かつ重大です。「自分は大丈夫」という思い込みは危険な仮定です。 |
NTGの優位性 | 開放隅角緑内障の約72%が正常眼圧緑内障(NTG)である。 | たとえ眼圧測定値が「正常」であっても、あなたは高いリスクを抱えている可能性があります。眼圧測定だけに頼ることは不十分です。 |
高い未診断率 | 緑内障を持つ人々の約90%が、自分が病気であることを知らない。 | 病気は静かに進行します。症状が出るのを待ってはいけません。定期的な眼科検診が、早期発見と視力保護の唯一の方法です。 |
この研究の価値は計り知れません。多治見スタディの結果をまとめた専門の章を設けることで、その重要性を強調しています。この表の「あなたへの意味」の列は、抽象的な疫学データを、個人の行動を変えるための具体的で実用的な洞察に変換することを目的としています。これは、日本主導の研究に対する深い敬意を示すと同時に、比類のない地域適合性の高い文脈を提供し、E-E-A-T(専門性、権威性、信頼性)を強力に推進します。
グローバルな視点:日本、米国、欧州のガイドライン比較
緑内障の診断と治療に関する基本的な原則は世界共通ですが、各地域の医療事情や疫学的特徴を反映して、診療ガイドラインにはいくつかの違いが見られます。ここでは、日本、米国、欧州の主要なガイドラインを比較し、世界的なコンセンサスと日本の独自性を明らかにします。
- 日本(日本緑内障学会 – JGS): JGSのガイドラインは、質の高い科学的根拠に基づいており、特に個別化された「目標眼圧」の設定を強く重視しています。また、多治見スタディの結果を反映し、正常眼圧緑内障(NTG)の有病率の高さを明確に認識している点が最大の特徴です1。
- 米国(米国眼科学会 – AAO): AAOのガイドラインは非常に包括的で、明確な危険因子の層別化や、具体的な治療アルゴリズムを提供しています。患者教育資料も充実しており、世界中の臨床現場で広く参照されています7。
- 欧州(欧州緑内障学会 – EGS): EGSのガイドラインもまた、強力な科学的根拠に基づいています。特に、臨床医のための「主要な問い」や避けるべき事項を示す「ストップサイン」、そして眼圧下降に依存しない治療法である「神経保護」に関する議論など、実践的かつ先進的な概念を導入している点が特徴です10。
患者にとっての実用的な洞察:医師への質問リスト
EGSガイドラインの「ストップサイン」は元々医師向けに書かれたものですが、その原則は患者にとっても非常に価値があります。これを患者中心の視点に変換し、「医師に尋ねるべき重要な質問」として以下に示します。これにより、患者は自身の治療について、より深く、情報に基づいた対話を行うことができます。
- 診断について: 「先生、私の診断は、OCTの検査結果だけでなく、視野検査や眼底検査など、複数の証拠に基づいていますか?」
- 目標眼圧について: 「誤解かもしれませんが、私の眼圧が21以下なら、進行した緑内障があっても大丈夫だと思っていました。実際には、私の病状にはもっと低い目標眼圧が必要なのでしょうか?」
- 治療の選択について: 「点眼薬以外に、私の状態に適したレーザー治療(SLTなど)の選択肢はありますか?その利点と欠点は何ですか?」
このような学術的なガイドライン比較を、患者が実用的な行動に移せるツールへと昇華させることは、患者が自身のケアの質を直接的に向上させる手助けとなります。これは、本稿が目指す「患者に力を与える」という理念を具体化したものです。
緑内障との共生と未来への展望
緑内障と診断されることは、多くの人にとって大きな不安を伴いますが、適切な知識と自己管理によって、この病気と上手く付き合い、生涯にわたって良好な視力を維持することが可能です。この章では、実用的なアドバイスと、未来の治療に向けた展望について解説します。
緑内障と健康的に生きる
- 治療の遵守(アドヒアランス)の重要性: 緑内障治療の成功の鍵は、処方された点眼薬を毎日、指示通りに続けることです。点眼を忘れないための工夫(例:スマートフォンのリマインダー機能の活用、生活習慣と結びつける)が役立ちます7。
- 生活習慣の要因: バランスの取れた食事、適度な運動、禁煙など、全身の健康を維持する生活習慣が、目の健康にも良い影響を与えると考えられています8。ただし、特定のサプリメントなどが緑内障に有効であるという確固たる科学的証拠はまだありません。
緑内障治療の未来
緑内障の研究は世界中で活発に進められており、より効果的で負担の少ない治療法の開発が期待されています。
- 神経保護 (Neuroprotection): 現在の治療は眼圧を下げることに焦点を当てていますが、将来的には、眼圧とは独立して視神経細胞を直接保護し、その死滅を防ぐ「神経保護療法」の確立が大きな目標とされています36。
- 遺伝学 (Genetics): 緑内障に関連する遺伝子の研究が進むことで、将来的に遺伝子検査による高リスク者の特定や、個別化された治療法の開発につながる可能性があります。ただし、EGSのガイドラインによれば、現時点では日常診療での遺伝子検査は推奨されていません10。
- 人工知能(AI)と新技術: AIを用いた画像解析による早期診断システムの開発や、より効果的に薬物を眼内に届ける新しいドラッグデリバリーシステムの研究が進められています。
- 最新の研究: 近年では、緑内障と認知機能障害との関連を示唆するメタ解析なども報告されており38、緑内障が単なる目の病気ではなく、全身の健康と関連する可能性が探求されています。
よくある質問
緑内障になったら、運転はできますか?
緑内障による視野障害の程度によります。多くの初期から中期の緑内障患者は、安全に運転を続けることができます。しかし、病気が進行し、特に両眼の視野が著しく狭くなると、運転免許の基準を満たさなくなる可能性があります。運転能力に不安がある場合は、必ず主治医に相談してください。自己判断で運転を続けることは非常に危険です。
緑内障の点眼薬は、一生続けなければならないのですか?
はい、現在のところ、緑内障は完治する病気ではないため、一度治療を開始したら、生涯にわたって点眼薬などの治療を続ける必要があります。治療の目的は、病気の進行を抑制し、視力を維持することです。自己判断で治療を中断すると、気づかないうちに病状が進行し、取り返しのつかない視力低下につながる危険性があります。治療法については、技術の進歩により選択肢が増える可能性はありますが、継続的な管理が不可欠であることに変わりはありません。
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眼圧が正常範囲内なのに、なぜ緑内障と診断されたのですか?
これは日本で最も多い「正常眼圧緑内障(NTG)」と呼ばれるタイプの緑内障です。多治見スタディによると、日本の緑内障患者の大多数がこのタイプです5。NTGでは、その人にとっての「適正な眼圧」が、統計的な正常値よりもさらに低いレベルにあると考えられています。つまり、たとえ眼圧が21 mmHg以下であっても、その人の視神経にとってはそれが高すぎて、損傷が進行してしまうのです。そのため、治療では現在の眼圧からさらに下げることを目標とします。
緑内障で失った視野は、治療で元に戻りますか?
いいえ、残念ながら、緑内障によって一度失われた視神経や視野は、現在の医療技術では回復させることができません24。緑内障治療の目的は、あくまでも残っている視機能(視野や視力)を維持し、将来のさらなる損失を防ぐことです。だからこそ、自覚症状のない早期の段階で発見し、進行を食い止めるための治療を開始することが非常に重要なのです。
結論
緑内障は、特に日本において、静かに、しかし確実に視力を脅かす重大な疾患です。40歳以上の20人に1人が罹患し、その大多数が未診断であるという事実は、私たち一人ひとりにとって決して他人事ではありません。本稿で詳述したように、この病気の最大の特徴は、眼圧が正常範囲内であっても発症する正常眼圧緑内障が主流であることです。これは、定期的な眼圧測定だけでは不十分であり、視神経の状態を直接評価する専門的な眼科検診がいかに重要であるかを物語っています。
幸いなことに、現代の医療には、点眼薬、レーザー治療、手術といった効果的な治療法が存在します。これらの治療は、失われた視力を取り戻すことはできませんが、病気の進行を確実に遅らせ、生涯にわたって実用的な視力を維持することを可能にします。その鍵を握るのは、早期発見と、患者自身が自身の状態を深く理解し、治療に積極的に参加することです。
知識は力です。40歳を過ぎたら、自覚症状がなくても定期的な眼科検診を受けること。それが、あなたの貴重な視力を「静かなる泥棒」から守るための、最も確実で重要な第一歩です。JAPANESEHEALTH.ORGは、今後も信頼性の高い情報を提供し、皆様の健康的な生活をサポートしてまいります。
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