本記事の科学的根拠
この記事は、引用されている信頼性の高い医学研究および専門機関のガイドラインに完全に基づいています。提示される医学的指導の根拠となる主要な情報源は以下の通りです。
- 日本緑内障学会「緑内障診療ガイドライン」: 本記事における緑内障の定義、分類、診断基準、および日本国内の標準的な治療方針に関する記述は、日本の眼科診療における最高権威の指針である本ガイドラインに基づいています3。
- 米国眼科学会(AAO)「優先診療パターン(PPP)」: 薬物療法、レーザー治療、手術の選択肢や目標眼圧の設定など、国際的な標準治療に関する記述は、世界的に参照されるAAOのガイドラインを参考にしています4。
- 世界保健機関(WHO)および国内外の疫学研究: 世界および日本における緑内障の有病率、リスク因子、失明に関する統計データは、WHOの報告や多治見スタディを含む大規模な疫学調査の結果に基づいています51。
要点まとめ
- 緑内障は視神経が障害される病気であり、日本の成人の失明原因第1位ですが、早期発見と適切な治療継続により失明は防げます。
- 日本の緑内障の最大の特徴は、眼圧が正常範囲内である「正常眼圧緑内障」が患者の約7割を占めることです。したがって、眼圧検査だけでは不十分です。
- 治療の基本は、進行を遅らせる効果が証明されている唯一の方法である「眼圧を下げること」です。これは正常眼圧緑内障にも当てはまります。
- 治療法には点眼薬、レーザー、手術があり、病状や患者個々の状態に合わせて最適なものが選択されます。一度失われた視野は回復しません。
- 40歳以上の方、近親者に緑内障患者がいる方、近視が強い方はリスクが高いため、自覚症状がなくても定期的な眼底検査を含む眼科検진を受けることが最も重要です。
第1部:緑内障の本質 ― 静かなる視力の危機を理解する
緑内障とは、単に眼圧が高い病気としてではなく、より複雑な病態として理解する必要があります。その本質は、眼から脳へ視覚情報を伝達する視神経が進行性に障害される「進行性視神経症」です3。眼球内部では、房水と呼ばれる液体が絶えず産生され、排出されることで眼圧(眼内圧)が一定に保たれています。この房水の排出経路が何らかの理由で妨げられると、眼圧が上昇し、繊細な視神経線維に物理的な圧迫や血流障害などの負荷がかかり、神経が徐々に死滅していきます2。この視神経の損傷が、緑内障に特徴的な視野(見える範囲)の欠損を引き起こすのです6。
この疾患の最も警戒すべき特徴は、その「静かなる進行」にあります。特に最も一般的な病型である原発開放隅角緑内障は、初期から中期にかけて自覚症状がほとんどありません2。多くの場合、周辺視野からゆっくりと欠けていきますが、もう片方の眼や脳が無意識のうちに見えない部分を補完するため、患者自身が視野の異常に気づく頃には、病状がかなり進行してしまっていることが少なくありません7。このため、緑内障はしばしば「静かなる視力の泥棒」と表現されます。一度失われた視神経は、現在の医療技術では再生させることができず、それによって生じた視野欠損も永久的なものとなります2。この不可逆性こそが、失明を防ぐために早期発見と治療継続がいかに重要であるかを物語っています。
日本および世界における緑内障の深刻な実態
緑内障の影響は、個人的なレベルにとどまらず、公衆衛生上の大きな課題となっています。世界的に見ても、白内障に次いで不可逆的失明の主要原因とされています5。特に日本では、後天的な失明原因の第1位を占めており、その社会的影響は甚大です1。世界保健機関(WHO)の報告によれば、2020年時点で世界の緑内障患者数は約8000万人にのぼり、高齢化の進展に伴い2040年には1億1200万人に達すると予測されています5。米国では約422万人が罹患していますが、その半数近くは自身が緑内障であることに気づいていないと推定されています58。この「未発見・未治療」の問題は日本でも深刻で、40歳以上の日本人における有病率は約5%(20人に1人)と報告されていますが、そのうち治療を受けているのはわずか2割程度に過ぎず、残りの8割は自覚症状がないまま放置されているのが現状です19。この膨大な未治療患者層の存在が、緑内障を日本の失明原因第1位たらしめている大きな要因です。
概念の転換:「高眼圧の病気」から「視神経の病気」へ
緑内障の理解において、その概念が「高眼圧の病気」から「視神経の病気(視神経症)」へと根本的にシフトした点を認識することが極めて重要です。歴史的に、緑内障は高い眼圧とほぼ同義に扱われてきました。しかし、特に日本で行われた大規模な疫学調査(多治見スタディなど)により、統計的に「正常」とされる範囲の眼圧であるにもかかわらず、典型的な緑内障性の視神経障害と視野欠損が進行する「正常眼圧緑内障(NTG)」が非常に高い割合で存在することが明らかになりました3。この発見は、緑内障の定義を根底から見直す契機となり、日本緑内障学会の診療ガイドラインでは、緑内障を「緑内障性視神経症」の存在によって定義し、眼圧はその主要なリスク因子の一つであると位置づけています3。これは、視神経がダメージを受ける「脆弱性」が個々人によって異なり、ある人にとっては耐えられる眼圧でも、別の人にとっては視神経障害を引き起こすレベルになり得ることを意味します。この概念の転換は、患者教育においても不可欠です。なぜ「眼圧が正常です」と言われた患者でも眼圧を下げる治療が必要なのかを説明する論理的基盤となり、診断の焦点を単一の数値(眼圧)から、視神経の構造と機能の包括的な評価へと移行させるものなのです。
第2部:緑内障のスペクトラム ― 多様な病型とその特徴
緑内障は単一の疾患ではなく、多様な病態を含む症候群であり、その原因や特徴によっていくつかの種類に分類されます。日本緑内障学会の診療ガイドラインに基づくと、緑内障は大きく「原発緑内障」「続発緑内障」「小児緑内障」に大別されます3。この分類を理解することは、適切な治療方針を決定する上で不可欠です。
原発緑内障
他の明らかな原因がなく発症する緑内障で、隅角(房水の出口)の状態によってさらに二分されます。
- 原発開放隅角緑内障 (Primary Open-Angle Glaucoma: POAG): 隅角は解剖学的に「開放」されているにもかかわらず、その奥にあるフィルター組織である線維柱帯が目詰まりを起こし、房水の排出効率が低下することで、眼圧がゆっくりと上昇するタイプです2。世界的に最も一般的な病型であり2、通常は痛みを伴わず、初期段階では自覚症状がないまま進行します2。
- 正常眼圧緑内障 (Normal-Tension Glaucoma: NTG): 日本緑内障学会のガイドラインでは、POAGのうち、眼圧が常に統計的正常範囲(一般に10~21 mmHg)にとどまるサブタイプと定義されています3。これが日本人における緑内障の最大の特徴であり、日本の緑内障患者全体の約72%を占める、最も多い病型です1。眼圧が正常範囲内であるにもかかわらず視神経が障害されるため、眼圧以外の要因、例えば視神経への血流不全、遺伝的脆弱性10、低い眼灌流圧などが病態に深く関与していると考えられています311。
- 原発閉塞隅角緑内障 (Primary Angle-Closure Glaucoma: PACG): 隅角が狭い、あるいは虹彩(茶目)によって物理的に塞がれてしまうことで房水の流れが妨げられ、眼圧が上昇するタイプです3。この閉塞が急激に起こると「急性緑内障発作」となり、激しい眼痛、頭痛、吐き気、霧視(かすみ目)、虹視症(光の周りに虹の輪が見える)といった劇的な症状を呈します2。これは眼科的な救急疾患であり、迅速な治療が行われないと、短時間で重篤な視力障害に至る危険性があります2。
続発緑内障
他の眼疾患、全身疾患、外傷、あるいは薬物の副作用などが原因で二次的に眼圧が上昇し、発症する緑内障です。原因となる疾患の治療が優先されることもあります7。主な原因としては、落屑症候群、ぶどう膜炎、ステロイド薬の長期使用、糖尿病網膜症などに伴う血管新生、外傷などが挙げられます3。
小児緑内障
生まれつき隅角の発達に異常があることなどが原因で、乳幼児や小児期に発症する稀な緑内障です5。
日本人における疫学的特徴の重要性
日本人における緑内障の疫学的特徴、すなわち正常眼圧緑内障(NTG)が圧倒的多数を占めるという事実は、日本の緑内障診療および公衆衛生戦略の方向性を決定づける重要な要素です。欧米では高眼圧を伴うPOAGが古典的な緑内障として認識されることが多いのに対し、日本では眼圧が正常範囲内の患者が大多数を占めます1。この違いは、二つの重要な意味を持ちます。第一に、眼圧測定のみに依存した検診は、日本の緑内障患者の大部分を見逃す運命にあります。したがって、眼底検査による視神経乳頭の直接観察や、光干渉断層計(OCT)などの高度な画像診断を検診に組み込むことの重要性が格段に高まります。第二に、一般市民に対して「緑内障は眼圧が高いだけの病気ではない」「健康診断で眼圧が正常でも安心はできない」というメッセージを伝え、正しい知識を啓発することが極めて重要となるのです。
第3部:リスク評価と確定診断 ― あなたは大丈夫か?
緑内障の発症リスクは単一の要因ではなく、複数の遺伝的・環境的要因が複雑に絡み合って決定されます。そして、確定診断は一つの検査結果だけで下されるものではなく、複数の検査所見を総合的に評価して行われる臨床判断です。
緑内障の包括的なリスク因子
国内外の診療ガイドラインや最新の研究から、以下のようなリスク因子が同定されています12。
- 確立された主要なリスク因子: 日本緑内障学会および米国眼科学会(AAO)のガイドラインで共通して挙げられている因子です34。
- 注目される全身性・生活習慣関連リスク因子: 近年の系統的レビューにより、全身状態との関連も明らかになってきました16。
確定診断に至るまでの多角的なアプローチ
緑内障の診断は、以下の検査を組み合わせて、特徴的な視神経障害とそれに対応する視野欠損を確認することで行われます2。
- 眼圧検査(トノメトリー): 眼球の硬さ(眼圧)を測定します。
- 眼底検査・視神経および網膜神経線維層(RNFL)評価: 診断の根幹をなす検査です。検眼鏡で視神経乳頭の形状(陥凹の拡大など)を直接観察するほか、近年では光干渉断層計(OCT)が広く用いられます。OCTは、網膜の神経線維層の厚さをミクロン単位で測定し、緑内障による菲薄化を定量的に捉えることができるため、極めて早期の構造的変化を検出するのに有用です2。
- 視野検査(ペリメトリー): 患者の見える範囲と感度を測定し、緑内障に特徴的な視野欠損の有無やパターンを明らかにします2。
- 隅角検査(ゴニオスコピー): 特殊なコンタクトレンズを用いて、房水の出口である隅角を直接観察します。これにより、緑内障のタイプを正確に分類し、治療方針を決定します2。
- 中心角膜厚測定: 眼圧測定値の解釈やリスク評価に影響するため、測定が推奨されます3。
臨床現場における重要な課題として、エビデンスに基づいた診療ガイドラインと実際の診療行為との間に存在するギャップが挙げられます。米国眼科学会(AAO)などが推奨する標準的な診療手順では、隅角検査や定期的な視神経の記録が必須とされています4。しかし、複数の調査から、これらのガイドラインが十分に遵守されていない実態が浮かび上がっており18、結果として診断の遅れや不適切な治療につながる可能性が指摘されています19。この事実は、エビデンスを臨床現場に浸透させることの難しさと、継続的な医師教育の重要性を示唆しています。
第4部:緑内障治療の基本原則 ― なぜ眼圧を下げるのか?
緑内障治療を理解する上で、その目的と限界を正確に把握することは極めて重要です。治療の根幹をなす原則は、科学的根拠に裏打ちされたものであり、すべての治療戦略の基盤となります。
眼圧下降という中心的な治療原則
日本緑内障学会の診療ガイドラインは、「緑内障治療の原則は眼圧下降である」と明確に断言しています3。これは、数多くの大規模臨床試験によって有効性が証明されている、唯一確実な治療法です2021。眼圧を十分に下げることによって、視神経への負荷を軽減し、病気の進行速度を遅らせる、あるいは停止させることが治療の主目的となります。患者の生活の質(QOL)と視機能を生涯にわたって維持することが、最終的なゴールです20。
損傷の不可逆性と治療の目標
患者が理解すべき最も重要な事実の一つは、緑内障による視神経の損傷は不可逆的であるという点です。一度死滅してしまった視神経線維は現在の医療では再生させることができず、それによって生じた視野の欠けを元に戻すことはできません2。したがって、緑内障治療は「失われた視機能を取り戻す」ことではなく、「残された視機能を守り抜く」ことを目的とします。
「目標眼圧」という個別化されたアプローチ
治療は、全ての患者を一律に「正常眼圧」の範囲内に収めることを目指すわけではありません。眼科医は、個々の患者に対して「目標眼圧」を設定します。これは、その患者の緑内障の進行を抑制できると期待される眼圧の上限値です。一般的な初期目標として、治療前のベースライン眼圧から20%~30%下降させることが推奨されています4。しかし、この目標値は固定的なものではありません。病気の重症度、視野障害の進行速度、年齢、家族歴、角膜の厚さといった個別のリスク因子を総合的に勘案して、より低く、あるいは状況によってはより高く設定されることもあります4。
正常眼圧緑内障(NTG)における眼圧下降の意義
眼圧下降の原則は、眼圧がもともと正常範囲内にある正常眼圧緑内障(NTG)の患者にも同様に適用されます3。一見矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、NTG患者においても、その「正常な」眼圧をさらに下げることで、病気の進行リスクが有意に低下することが臨床試験で証明されています。これは、「個々の視神経が耐えられる許容範囲を超えた圧力が、その視神経を傷つける」という「圧力脆弱性モデル」で説明できます。NTG患者の視神経は、遺伝的要因や血流の問題などにより、正常範囲の眼圧にさえ耐えられないほど脆弱であると解釈できます。したがって、治療の目的は、その脆弱な視神経にとって「より安全な」環境を作り出すために、眼圧をさらに低いレベルまで下げることにあるのです。
第5部:治療法の詳細な検討 ― あなたに最適な選択肢は?
緑内障の治療は、日本緑内障学会のガイドラインが示すように、「薬物療法」「レーザー治療」「手術療法」の三つの柱で構成されます3。どの治療法を選択するかは、緑内障の病型と病期、目標眼圧、そして患者個々の背景を総合的に考慮して決定されます3。
1. 薬物療法(点眼薬)
多くの場合、特に原発開放隅角緑内障(POAG)の初期治療として選択されます7。治療の原則は、必要最小限の薬剤で最大の効果を得ることです20。主な薬剤クラスには、房水の排出を促進するプロスタグランジン(PG)関連薬やRhoキナーゼ(ROCK)阻害薬、房水の産生を抑制するβ遮断薬や炭酸脱水酵素阻害薬などがあります722。最大の課題は「アドヒアランスの不良」であり、点眼を怠ることが病状進行の重大なリスク因子となります323。
2. レーザー治療
特定のタイプの緑内障に対して非常に有効な治療選択肢です。
- 選択的レーザー線維柱帯形成術 (SLT): 開放隅角緑内障が対象です。房水の排水口である線維柱帯に低エネルギーのレーザーを照射し、排水機能を改善します7。2024年のメタアナリシスでは、SLTは薬物療法単独よりも有意に高い眼圧下降効果を示すことが確認されており24、初期治療の選択肢としての地位を確立しつつあります。
- レーザー虹彩切開術 (LI): 閉塞隅角緑内障、またはそのリスクが高い狭隅角眼が対象です。レーザーで虹彩の根部に小さな穴を開け、房水の新たな通り道を作ることで隅角の閉塞を解除・予防します3。急性緑内障発作の予防に極めて重要です。
3. 手術療法(観血的手術)
薬物療法やレーザー治療で目標眼圧を達成できない場合や、視野障害が進行する場合に検討されます20。
- 線維柱帯切除術 (Trabeculectomy): 古くから行われている標準的な手術で、「ゴールドスタンダード」とされています。結膜の下に房水の新たなバイパスを作成し、強力に眼圧を下げます7。英国の大規模臨床試験では、進行緑内障において初期治療として手術を行った方が、薬物治療から始めた場合よりも良好な結果が得られたと報告されています25。
- チューブシャント手術: 小さなチューブを眼内に留置し、房水を排出させる手術で、難治例などで行われます20。
- 低侵襲緑内障手術 (MIGS): 近年急速に普及している新しい手術群です。従来の術式よりも侵襲が低く安全性が高い一方、眼圧下降効果は比較的マイルドで、多くは白内障手術と同時に行われます26。
治療法/クラス | 作用機序 | 主な利点 | 主な欠点/リスク | 主な適応 |
---|---|---|---|---|
【薬物療法】PG関連薬 | ぶどう膜強膜流出路からの房水流出を促進 | 強力な効果、1日1回点眼 | 虹彩の色素沈着、まつ毛の変化 | POAGの第一選択薬 |
【レーザー治療】SLT | 線維柱帯の機能を改善し、流出を促進 | 低侵襲、繰り返し可能、副作用が少ない | 効果の持続期間に個人差 | POAGの初期治療または追加治療 |
【レーザー治療】LI | 虹彩に穴を開け、瞳孔ブロックを解除 | 急性発作を予防、根治的 | 角膜内皮障害、一過性の炎症 | 閉塞隅角緑内障、狭隅角眼 |
【手術療法】線維柱帯切除術 | 房水の新たなバイパスを作成 | 最も強力な眼圧下降効果 | 創傷治癒による効果減弱、感染症、低眼圧 | 薬物/レーザーで進行する中等期〜末期緑内障 |
【手術療法】MIGS | 房水流出路の抵抗を低減 | 非常に高い安全性、低侵襲 | 眼圧下降効果がマイルド | 軽症〜中等症緑内障、多くは白内障手術と同時 |
第6部:生活習慣、食事、補完代替医療の役割
緑内障と診断された患者が、日々の生活の中で何に気をつければよいのか、という疑問を持つのは自然なことです。いくつかの因子が病状に影響を与える可能性が研究によって示唆されていますが、科学的根拠に基づかない情報に惑わされないことが重要です。
食事とサプリメント
まず重要な点として、日本緑内障学会の診療ガイドラインでは、「現時点においては眼圧下降以外のいわゆる補完療法や代替療法、漢方薬やサプリメントが緑内障治療に有効とする信頼性の高いエビデンスはない」と明記されています27。これは、標準治療である眼圧下降を最優先すべきであるという専門家からの強いメッセージです。特定の食品やサプリメントが緑内障に劇的な効果をもたらすという主張には、懐疑的な姿勢で臨む必要があります。
運動
ウォーキングや軽いジョギングなどの適度な有酸素運動は、全身の血行を促進し、視神経への血流を改善する可能性があるため、一般的に推奨されています28。しかし、重量挙げのように強く息む運動や、頭が心臓より下になるヨガの逆転のポーズなどは、一時的に眼圧を上昇させる可能性があるため、避けるべきとされています7。
アルコールとカフェイン
これらの嗜好品と緑内障の関係は複雑です。2023年に発表された日本人を対象とした大規模研究では、飲酒の頻度と量の両方が緑内障の有病率上昇と関連していました2930。一方、カフェインについては、その影響は個人の遺伝的背景によって大きく異なることが示唆されています。英国の大規模研究で、高い眼圧になりやすい遺伝的素因を持つ人々においては、カフェインの多量摂取が、より高い眼圧と緑内障有病率の大幅な上昇と関連していました。しかし、遺伝的リスクが低い人々では、その影響はほとんど見られませんでした31。これは、生活習慣に関するアドバイスが、将来的に個別化されていく可能性を示しています。
睡眠
質の良い睡眠は全身の健康に不可欠ですが、特に注意すべきは「閉塞性睡眠時無呼吸症候群(OSA)」です。OSAは、睡眠中に繰り返し呼吸が止まる病気で、体内の低酸素状態を引き起こし、視神経にダメージを与える可能性があります。OSAは緑内障の独立した有意なリスク因子であることが、複数の研究で確立されています16。
第7部:緑内障と共に生きる ― 患者のための実践ガイド
緑内障と診断されることは大きな不安を伴いますが、正しい知識を持ち、適切に行動することで、病気と上手く付き合い、生涯にわたって良好な視機能を維持することが可能です。
予後と失明への不安について
「緑内障になると必ず失明するのでしょうか?」という問いに対する答えは、明確に「いいえ」です32。確かに緑内障は日本の失明原因の第1位ですが、それは患者数が非常に多く、また未治療の人が多いためです33。早期に発見され、処方された治療をきちんと継続している患者の大多数は、生涯にわたって失明を免れることができます。現代の進んだ治療法により、重篤な視力低下に至ることは、今や稀なケースと考えられています5。
治療の継続(アドヒアランス)の重要性
患者自身がコントロールできる最も重要な要素は、治療を中断しないことです。緑内障は慢性疾患であり、治療は基本的に生涯にわたって続きます32。自覚症状がないからといって、自己判断で点眼薬をやめたり、定期的な通院を怠ったりすることは、視野を守る上で最も危険な行為です。処方された薬を指示通りに使用し、指定された間隔で検査を受けることが、視機能を守るための生命線となります。
注意すべき他の薬剤(禁忌薬)
緑内障のタイプによっては、他の病気のために使用する薬が緑内障に悪影響を及ぼすことがあります。特に注意が必要なのは、「狭隅角」あるいは「閉塞隅角緑内障」と診断されている場合です。市販の風邪薬やアレルギー薬、一部の抗うつ薬などに含まれる「抗コリン作用」を持つ成分は、瞳孔を広げ、急性緑内障発作を引き起こす危険性があります634。これらの患者は、薬を使用する前に必ず医師や薬剤師に相談する必要があります。一方で、日本人の大多数を占める「開放隅角緑内障」の患者では、通常これらの薬剤に関する制限はありません35。ご自身の緑内障のタイプを正確に把握しておくことが非常に重要です。
結論 ― あなたの視力を守るための最も重要な行動
本記事を通じて繰り返し強調してきたように、緑内障はその「静かなる進行」が最大の特徴です2。日本においては、緑内障患者の約8割が未診断・未治療の状態にあると推定されています9。そして、一度失われた視野は二度と戻りません2。
これらすべての事実が導き出す結論は一つです。症状が出てから眼科を受診するという受け身の姿勢では、緑内障による失明を防ぐことはできません。40歳を過ぎた方、近視が強い方、血縁者に緑内障患者がいる方など、リスク因子を持つ人々にとって、生活習慣の改善以上に重要なことは、自覚症状がなくても定期的に、眼圧測定だけでなく視神経の状態を直接評価する眼底検査を含む、包括的な眼科検診を受けることです。これこそが、この静かなる病に打ち克つための、最も確実で強力な戦略なのです。この公衆衛生上の最重要課題を広く社会に浸透させることが、日本の緑内障による失明を減らすための不可欠な一歩と言えるでしょう。
よくある質問
緑内障と診断されたら、必ず失明しますか?
いいえ、必ずしも失明するわけではありません32。早期に発見し、医師の指示に従って治療を継続すれば、多くの人は生涯にわたって生活に支障のない視機能を維持することができます。治療の目標は、病気の進行をコントロールし、残された視野を守ることです。
眼圧が正常と言われましたが、それでも緑内障の可能性はありますか?
はい、あります。日本人で最も多いタイプの緑内障は「正常眼圧緑内障」と呼ばれ、眼圧が正常範囲内でも発症・進行します1。眼圧だけでなく、視神経の状態を調べる眼底検査などが不可欠です。健康診断で眼圧が正常でも安心せず、40歳を過ぎたら一度は眼科での詳しい検診をお勧めします。
緑内障の治療はずっと続けなければいけませんか?
はい、緑内障は高血圧や糖尿病のような慢性疾患であり、現在の医療では完治させることができません。そのため、治療は基本的に生涯にわたって継続する必要があります32。自覚症状がないからといって自己判断で治療をやめてしまうと、気づかないうちに病気が進行してしまうため、定期的な通院と治療の継続が非常に重要です。
緑内障と診断されたら、日常生活で何か特別な制限はありますか?
ほとんどの日常活動は、これまで通り続けることができます。車の運転も、視野に関する法的な基準を満たしていれば問題ありません。ただし、重量挙げのように強く息む運動、うつぶせでの長時間の読書、きついネクタイの着用など、眼圧を一時的に上げる可能性のある行動は避けた方がよいでしょう7。
患者同士で情報交換できる場所はありますか?
はい、日本には「緑内障フレンド・ネットワーク」のような患者支援団体が存在します36。こうした団体は、最新の情報提供、電話相談、交流会などを通じて、患者やその家族に精神的な支えと実践的なアドバイスを提供しています。同じ病気を持つ仲間と経験を分かち合うことは、大きな力になります。
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