【科学的根拠に基づく】上腕二頭筋長頭腱障害のすべて:原因、症状から科学的根拠に基づく治療法、予防策までの完全ガイド
筋骨格系疾患

【科学的根拠に基づく】上腕二頭筋長頭腱障害のすべて:原因、症状から科学的根拠に基づく治療法、予防策までの完全ガイド

肩の前面に生じる痛みは、多くの人々の日常生活に支障をきたす深刻な問題です。その一般的な原因の一つが、上腕二頭筋長頭腱(LHB)の障害です。この状態は単なる「腱の炎症」ではなく、急性炎症から慢性的な組織の変性に至る複雑な病態であり、その背後にはしばしば他の肩関節の問題が隠れています。本記事では、JHO(JapaneseHealth.org)編集委員会が、上腕二頭筋長頭腱障害に関する最新の科学的知見を徹底的に分析し、その解剖学的な特徴、痛みの根本原因、正確な診断方法、そして保存療法から外科手術、さらには予防策に至るまで、治療の全貌を包括的かつ詳細に解説します。この記事を通じて、患者様ご自身はもちろん、医療従事者の方々にも、この消耗性疾患に対する深く、正確な理解を提供し、より良い治療選択の一助となることを目指します。

本記事の科学的根拠

この記事は、引用されている研究報告書に含まれる、最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下に示すリストは、実際に参照された情報源と、提示された医学的指導との直接的な関連性を示したものです。

  • 厚生労働省 国民生活基礎調査: 本記事における日本の肩の愁訴に関する社会的背景の記述は、厚生労働省による公式統計データに基づいています。
  • 日本整形外科学会(JOA): いわゆる「五十肩」とLHB腱炎との鑑別に関する記述は、同学会の公式見解を引用しています。
  • OrthoInfo (AAOS): 症状、原因、保存療法に関する基本的な情報は、米国整形外科学会(AAOS)が提供する患者向け教育資料に基づいています。
  • StatPearls (NCBI): 病態生理、二次性腱障害の優位性、外科的治療の選択肢に関する詳細な医学的記述は、米国国立生物工学情報センター(NCBI)の査読付き出版物を基にしています。
  • PubMed Central掲載論文: 痛みの発生機序、理学療法の国際的コンセンサス、外科的治療の比較に関するメタアナリシスなど、最先端の知見は、PubMed Centralに掲載された複数の査読付き学術論文に基づいています。

要点まとめ

  • 上腕二頭筋長頭腱(LHB)障害は肩前面の痛みの一般的な原因ですが、その約95%は腱板疾患など他の肩の問題に続発する「二次性」のものです3
  • 病態は単なる「炎症(腱炎)」ではなく、腱組織が変性する「腱症」が主であり、治療法も異なります12
  • 治療の第一選択は、活動修正、薬物療法、そして運動療法を中心とした保存療法です。特に、肩全体の力学的問題を是正する理学療法が中核となります24
  • 保存療法で改善しない場合、外科的治療(腱切離術または腱固定術)が有効ですが、両術式間で機能的な回復に差はなく、主に美容上の問題(ポパイ変形)の発生率で選択されます25
  • 予防には、特にデスクワーカーにおいて、適切な姿勢の維持と30分~1時間に一度の定期的なストレッチが重要です1929

臨床的問題の定義と社会的背景

上腕二頭筋長頭腱(Long Head of the Biceps、以下LHB)の腱障害は、肩前面の痛みの一般的な原因であり、しばしば患者の日常生活動作を著しく妨げる消耗性の病態です1。この状態は、単なる腱の「炎症」として捉えられがちですが、実際には急性炎症から慢性的な変性プロセスに至る複雑な病態の連続体であり、その理解と管理には多角的なアプローチが求められます3。力こぶを形成する筋肉として知られる上腕二頭筋の、肩関節に繋がる重要な腱が障害されることで、物を持ち上げる、腕を挙げる、髪を洗うといった基本的な動作が困難になることがあります5

本報告書が扱うLHB腱障害の重要性を理解するためには、まず日本における肩の痛みの社会的背景を概観することが有益です。厚生労働省が実施した2022年(令和4年)国民生活基礎調査によると、日本人が自覚する症状(有訴者率)において、「腰痛」と「肩こり」は男女ともに常に上位を占めています7。特に女性においては、「腰痛」(人口千人あたり111.9)を抑え、「肩こり」(同105.4)が最も多い愁訴の一つとなっています8。この「肩こり」という広範な用語は、特定の診断名ではなく、首から肩にかけての不快感や痛みを包括的に表現するものです。しかし、この一般的な愁訴の背後には、LHB腱障害、腱板断裂、肩関節周囲炎(いわゆる五十肩)といった、明確な治療を要する器質的疾患が隠れている可能性が少なくありません5。したがって、LHB腱障害に関する詳細な医学的知見は、この広範な「肩の痛み」という国民的課題の中から、診断可能な特定の病態を正確に抽出し、適切な治療へと導くための重要な鍵となります。

解剖学と生体力学:脆弱性を運命づけられた腱

LHB腱の特異な走行経路と結節間溝

LHB腱の脆弱性を理解するためには、まずそのユニークな解剖学的構造を把握することが不可欠です。LHB腱は、肩甲骨の関節窩上結節および上方関節唇から起始します3。特筆すべきは、この腱が関節包内にありながら滑膜外に位置するという点です(intra-articular, extrasynovial)3。関節内で起始した後、腱は鋭角に方向を変え、上腕骨の前面にある結節間溝と呼ばれる狭い骨性の溝へと向かいます。

結節間溝は、LHB腱が通過するトンネルであり、その狭い構造ゆえに機械的な刺激や摩擦が生じやすい、病態発生のホットスポットです12。腱は上腕横靱帯によってこの溝の中に保持されていますが、この囲まれた構造自体が、腕の運動に伴う腱の滑走を妨げ、炎症や変性の原因となりうるのです13。この解剖学的特徴は、LHB腱がなぜこれほど頻繁に障害されるのかを説明する根源的な要因の一つです。

機能的役割と生体力学的ストレス

LHB腱が担う機能は多岐にわたるが、それが故に複雑なストレスに晒されます。主たる機能は、肘関節の屈曲(腕を曲げる)と前腕の回外(手のひらを上に向ける)です11。肩関節においては、上腕骨頭を関節窩に押し付ける弱い下方抑制力として、肩関節の安定性に寄与していると考えられています11。しかし、特に野球の投球動作のようなオーバーヘッドアスリートにおいて、腱には特有のストレスがかかります。

  • 「ピールバック」メカニズム: 投球のコッキング後期(腕を振りかぶった最終段階)で、肩関節が最大外転・最大外旋位をとる際、LHB腱の起始部である関節唇後方部に捻れの力が加わり、関節唇が骨から「剥がれる」ようにめくれ上がります。これが「ピールバック」現象であり、腱起始部に甚大なストレスをかけます3
  • 遠心性収縮: 投球のフォロースルー局面では、加速した腕を減速させるために、上腕二頭筋は伸ばされながら力を発揮します(遠心性収縮)。この動きは腱に極めて大きな負荷をかけ、損傷を引き起こしやすくなります6

これらの解剖学的・生体力学的特徴を総合すると、LHB腱の障害は単なる「使いすぎ」という言葉だけでは説明できない、構造的な脆弱性に根差していることが明らかになります。

病態生理:炎症から変性へ

腱炎(Tendinitis)と腱症(Tendinopathy)の連続体

LHB腱障害の病態を正確に理解するためには、「腱炎(tendinitis)」と「腱症(tendinopathy)」という二つの概念を区別することが極めて重要です。これらは独立したものではなく、一つの連続したプロセスとして捉えられます。

  • 腱炎(Tendinitis): 古典的に「炎症」を指す言葉で、しばしば病態の急性期に見られます3。腱が赤く腫脹し、抗炎症薬が効果的な段階です4
  • 腱症(Tendinopathy): より一般的で慢性的な状態を指し、炎症ではなく腱組織そのものの「変性」プロセスです。正常なコラーゲン線維構造が崩壊し、無定形で粘液様の物質に置き換わります1。この段階では、抗炎症薬の効果は限定的となります。

顕微鏡レベルでの腱の変性度合いは、確立された組織学的分類(Grade I〜III)によって評価されますが、この組織学的な重症度が、患者が訴える症状の期間や、MRI・関節鏡での所見と必ずしも相関しないという重要な事実があります3

痛みの発生機序という謎

変性した腱がなぜ痛むのか、そのメカニズムは単純ではありません。近年の疼痛科学の進歩により、侵害受容性疼痛と神経障害性要素の両方が関与することがわかってきました。

  • 侵害受容性疼痛: 腱と骨の摩擦14や、組織損傷に伴い放出される化学物質が痛覚神経線維を直接刺激する、損傷部位からの直接的な「危険信号」です1
  • 神経障害性要素: 痛みが慢性化する過程で、神経系そのものが変化し、痛みを永続させる要因となることがあります。これには、脊髄や脳といった中枢神経系が過敏になり、通常では痛みと感じないような弱い刺激に対しても痛みとして認識してしまう「中枢性感作」というメカニズムが関与します1

この「病理所見と痛みの乖離」は、治療が単に損傷した腱組織の修復を目指すだけでなく、痛みの知覚システムそのものにもアプローチする必要があることを示唆しています。

原因:内的因子と外的因子の複合的要因

二次性腱障害の優位性

LHB腱障害の原因は多岐にわたりますが、臨床的に極めて重要なのは、その約95%が他の肩関節疾患に続発する「二次性」のものであるという事実です3。LHB腱障害は、単独で存在する疾患というよりも、肩関節全体の機能不全の結果として現れることが多いのです。その痛みは、より大きな問題が存在することを示す警告サイン、いわば「炭鉱のカナリア」としての役割を果たします。

LHB腱障害と共存することが非常に多い、代表的な肩関節疾患には以下の三つがあります。

  1. 腱板疾患: 最も一般的な関連病態です。腱板(特に肩甲下筋腱)の変性や断裂は、肩の正常な生体力学を破綻させ、LHB腱にかかる負荷を増大させます3
  2. 肩峰下インピンジメント症候群 (SAIS): 肩峰と上腕骨頭の間のスペースが狭くなることで、LHB腱が機械的に圧迫・摩擦される状態です3
  3. 上方関節唇損傷 (SLAP損傷): LHB腱の付着部である上方関節唇が損傷することで、腱のアンカー機能が直接的に損なわれます3

この事実は、治療の成功のためには、痛みの原因であるLHB腱のみならず、背景に存在するこれらの関連病態を正確に評価し、包括的に治療する戦略が不可欠であることを意味します。

一次性腱障害の原因(残りの5%)

LHB腱障害が単独で発生する場合、その原因は主に以下の要因に集約されます。

  • オーバーユース(過度使用)と反復性負荷: 野球やテニスなどのオーバーヘッドスポーツ6や、重量物を扱う職業、不適切な姿勢での長時間のデスクワーク5など、微細な損傷の蓄積によって引き起こされます。
  • 加齢に伴う変性: 年齢とともに腱は弾力性を失い、弱くなります。特に50歳以降の中高年層に多く見られます46
  • 直接的な外傷と不安定性: 転倒や事故による直接的な打撲5、または背景にある肩関節の不安定性(緩さ)6が原因となります。

臨床評価と診断プロセス

LHB腱障害の診断は、患者の訴え(病歴聴取)、身体診察、そして画像検査を総合的に評価することによって行われます。

症候:患者の物語

患者が訴える症状には特徴的なパターンがあり、肩の前面に限局した痛みが典型的で、時に上腕に放散します4。以下の動作で痛みが増悪することが多いです。

  • 腕を頭より高く上げる動作(例:高い棚の物を取る)4
  • 肘を伸ばした状態で物を持ち上げる動作(例:買い物袋を持つ)12
  • 腕を背中に回す動作(例:上着に袖を通す)4
  • 力を込めて前腕を回外させる動作(例:鍵やドライバーを回す)14

その他、睡眠を妨げる夜間痛5や、腕を動かした際のクリック音、主観的な筋力低下感6などが挙げられます。

身体診察と画像検査

医師は、視診で肩前面の腫脹や、腱が完全に断裂している場合に見られる「ポパイ変形(Popeye deformity)」を確認します5。触診では、結節間溝を直接圧迫した際の圧痛が、本疾患を示唆する信頼性の高い所見です4。スピードテストやヤーガソンテストといった誘発テストも行われますが、診断的特異度は高くないため、所見の解釈には注意が必要です5

画像検査は診断の確定と関連病態の評価に不可欠です。

  • X線(レントゲン)検査: 骨棘や関節炎といった骨の異常を除外します13
  • 超音波(エコー)検査: 腱の肥厚、腱鞘炎、腱断裂などを評価できる強力なツールです13。野球選手を対象とした研究でも、LHB腱の腫脹の同定に活用されています15
  • MRI検査: 軟部組織の描出におけるゴールドスタンダードです。LHB腱、関節唇、腱板の状態を詳細に評価し、症例の95%に存在するとされる関連病態を同定するために不可欠な検査と言えます13

鑑別診断

肩前面の痛みを引き起こす他の疾患と正確に鑑別することが重要です。腱板断裂、肩峰下インピンジメント症候群、肩鎖関節炎などが挙げられます35。特に、あらゆる方向への運動が著しく制限される肩関節周囲炎(いわゆる五十肩)とは明確に区別されるべきです5。日本整形外科学会(JOA)も、LHB腱炎を「五十肩」とは異なる病態として明確に区別しています10

保存的治療の柱:エビデンスに基づくアプローチ

LHB腱障害の治療は、ほとんどの場合、保存療法から開始されます。その目標は、痛みの管理、炎症の抑制、そして正常な肩機能の回復です。

第1段階:急性症状の管理とステロイド注射

最も重要かつ最初のステップは、痛みを引き起こす活動を避ける相対的安静と活動修正です4。急性期には、1回20分程度のアイシングや、イブプロフェンなどの非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)が痛みと炎症の管理に用いられます4

強力な抗炎症作用を持つステロイド注射は、腱鞘内に注射することで短期的な疼痛緩和効果が期待できます4。しかし、反復的な注射や腱実質内への誤った注入は、腱を脆弱化させ、医原性の腱断裂を引き起こす可能性があるため、その適応は慎重に判断されなければなりません22

理学療法:回復の礎

理学療法は保存的治療の中核をなしますが、そのアプローチには未だ確立されたものがないのが現状です。2023年のスコーピングレビューでは、LHB腱障害の保存療法を詳述するエビデンスは「不足している」と結論づけられています23。しかし、2022年の国際的な専門家を対象としたデルファイ研究では、以下の3つの要素を組み合わせた多角的(multimodal)アプローチを推奨することでコンセンサスに達しました2

  1. 患者教育: 病態の理解、負荷管理、活動修正、現実的な回復期待の設定について患者に説明すること。
  2. 徒手療法: 肩関節や胸椎の関節モビライゼーションを行い、正常な関節運動 역学を回復させること。
  3. 運動療法: 最も重要な要素。痛みを管理しながら段階的に負荷をかける負荷管理、肩関節包や周囲筋の柔軟性を改善するストレッチ17、そして根本的な力学的問題を是正するために腱板や肩甲骨周囲筋群を強化すること17が含まれます。

体外衝撃波療法(ESWT)や超音波療法などの物理療法も報告されていますが12、これらは教育と運動というコアプログラムを補完する補助的な位置づけと考えるべきです。

表1:LHB腱障害に対するエビデンスに基づく理学療法介入
介入カテゴリー 主な内容 目的
患者教育 病態説明、活動修正指導、予後の説明 自己管理能力の向上、不安の軽減
徒手療法 肩関節・胸椎モビライゼーション、軟部組織リリース 関節可動域の改善、正常な運動パターンの回復
運動療法 負荷管理、ストレッチ、腱板・肩甲帯筋の強化(特に遠心性) 腱の治癒促進、柔軟性向上、力学的問題の是正
物理療法 体外衝撃波療法 (ESWT)、超音波療法、レーザーなど 疼痛緩和、組織修復の補助(補助的役割)

外科的介入:腱切離術 vs. 腱固定術の徹底分析

手術の適応

外科的治療は、通常3〜6ヶ月間の包括的な保存療法に反応しない難治性の症例や、腱の重大な断裂や不安定性が存在する症例に限られます4。腱板修復術など、他の肩の手術と同時に行われることも多いです25

外科的治療の選択肢と大いなる論争

主な手術方法には、LHB腱を起始部で切離するだけの「上腕二頭筋腱切離術(Biceps Tenotomy)」と、切離した腱を上腕骨に再固定する「上腕二頭筋腱固定術(Biceps Tenodesis)」の二つがあります4。どちらの術式が優れているかについては長年議論が続いてきましたが、近年の質の高いメタアナリシスによって、その答えは明確になりつつあります25

複数の大規模なレビュー研究から得られた圧倒的なエビデンスは、最終的な肩の機能スコアや疼痛緩和の程度、術後の筋力において、腱切離術と腱固定術の間に臨床的に意味のある差はないことを示しています2527。両術式を分ける決定的なトレードオフは、美容的な問題となる力こぶの変形(ポパイ変形)の発生率です。腱切離術は、腱固定術と比較して、このポパイ変形の発生率が有意に高くなります(腱切離術で約23%〜70%、腱固定術で約9%〜25%)3

結論として、術式の選択は機能的な優劣ではなく、主に「手技の簡便さ(腱切離術)」と「美容的な見た目の維持(腱固定術)」との間のトレードオフとなります。したがって、最終的な決定は、患者の年齢、活動レベル、そして美容的な懸念の度合いを考慮した上で、十分な情報提供に基づき、医師と患者が共同で行うべきです(Shared Decision-Making)。

表2:上腕二頭筋腱切離術 vs. 腱固定術の比較(メタアナリシスに基づくデータ325
評価項目 腱切離術 (Tenotomy) 腱固定術 (Tenodesis) 結論
肩機能スコア・疼痛緩和 同等 同等 有意差なし
肘屈曲・前腕回外筋力 同等 同等 有意差なし
ポパイ変形発生率 高い (約23-70%) 低い (約9-25%) 腱切離術で有意に高い
手術時間/侵襲 短い/低い 長い/高い 腱切離術が有利
合併症 筋痙攣(稀) 固定具関連の問題(稀) 特有のリスクあり

新たな治療の地平と予防策

再生医療(Regenerative Medicine)

保存療法に抵抗性で、外科手術以外の選択肢を求める患者にとって、再生医療は新たな希望となる可能性を秘めています。多血小板血漿(PRP)や自己脂肪由来幹細胞などを患部に注入することで、体自身の治癒プロセスを刺激し、変性した腱組織の修復を促すことを目的とします5。しかし、LHB腱障害に対する再生医療は、科学的にはまだ研究段階にあり、その有効性を確立するためには、今後、質の高い大規模な臨床試験が必要です。

予防と長期的な肩の健康

LHB腱障害の再発を防ぎ、長期的な肩の健康を維持するためには、日常生活における意識と工夫が不可欠です。アスリートにとっては、適切な生体力学の習得や十分なコンディショニングが重要です6

特に、長時間の静的姿勢が問題となるデスクワーカーにとっては、人間工学に基づいた環境整備と行動変容が重要です。厚生労働省が策定した「情報機器作業における労働衛生管理のためのガイドライン」も、適切な作業環境の基準を示していますが29、最も重要なのは、同じ姿勢を続けないことです。30分から1時間に一度は立ち上がり、ストレッチをするなどして、姿勢を変える習慣をつけることが、筋肉の血行不良と緊張を防ぎます19。座ったままでもできる首、肩、背中の簡単なストレッチをこまめに行うことも有効です20

よくある質問

Q1: LHB腱障害と「五十肩」はどう違うのですか?

A1: LHB腱障害の痛みは主に肩の前面にあり、特定の動作(腕を上げる、捻るなど)で誘発されるのが特徴です。一方、いわゆる「五十肩」(肩関節周囲炎)は、肩関節全体が炎症を起こし硬くなる状態で、あらゆる方向への腕の動き(自分で動かす自動運動、他人に動かされる他動運動の両方)が著しく制限される「拘縮(こうしゅく)」を伴います510。LHB腱障害単独では、通常このような全体的な可動域制限は見られません。

Q2: ステロイド注射は安全ですか?何度も打てますか?

A2: ステロイド注射は強力な抗炎症作用があり、短期的な痛みの緩和に非常に有効です4。しかし、その効果は一時的であることも多く、最も重要なのはリスクを理解することです。反復的な注射、特に腱そのものへの注入は、コラーゲン組織を弱らせ、腱が切れてしまう「医原性腱断裂」のリスクを高める可能性があります22。そのため、適応は慎重に判断され、通常は回数に制限が設けられます。必ず医師と利益・不利益について十分に相談してください。

Q3: 手術をすれば完全に元通りになりますか?ポパイ変形は必ず起こるのですか?

A3: 外科手術は、保存療法で改善しない痛みに対して非常に信頼性の高い除痛効果が期待できます25。しかし、「完全に元通り」になるかは、LHB腱障害の背景にある腱板損傷などの関連病態の状態にも左右されます。「ポパイ変形」は、腱を切るだけの「腱切離術」で起こりやすい合併症です(約23-70%)3。一方、切った腱を骨に固定し直す「腱固定術」では、その発生率を大幅に低減できます(約9-25%)3。どちらの術式でも機能的な回復(筋力や可動域)に大きな差はないため25、美容上の懸念を医師と相談し、術式を決定することが重要です。

Q4: デスクワークで肩が痛みます。これもLHB腱障害の可能性がありますか?

A4: はい、その可能性はあります。長時間の不適切な姿勢でのデスクワークは、肩周囲の筋肉に持続的な緊張と負担をかけ、血行不良を引き起こします。これが、いわゆる「肩こり」だけでなく、LHB腱障害や肩峰下インピンジメント症候群といった特定の疾患の引き金になることがあります528。モニターや椅子の高さを調整して良い姿勢を保つこと29、そして何よりも30分~1時間に一度は休憩をとり、簡単なストレッチで筋肉をほぐすことが極めて重要です19

結論

上腕二頭筋長頭腱障害は、その特異な解剖学的構造から機械的な摩耗と変性を本質とする複雑な病態であり、その多くは腱板疾患やインピンジメントといった他の肩関節疾患に続発する二次的な問題です。その痛みは、単なる組織損傷の信号ではなく、神経系の感作が関与する多因子的な現象であると理解することが、適切な治療への第一歩となります。

治療への道のりは、LHB腱だけでなく肩関節全体を評価する正確な診断から始まります。治療の基盤は、患者教育、徒手療法、そして根本的な力学的問題を是正するための運動療法を組み合わせた、包括的かつ多角的な理学療法です。保存療法で改善しない場合、外科的治療は信頼性の高い除痛手段を提供します。腱切離術と腱固定術の選択において機能的な優劣は存在せず、その決定は、手技の簡便さと美容的な見た目の維持という明確なトレードオフを患者が理解した上で、医師と共同でなされるべきです。

最終的に、LHB腱障害からの回復への道は、根本的な生体力学を是正し、科学的エビデンスを尊重し、そして患者と臨床チームとの間の情報共有に基づいた共同意思決定を中心とする、全人的なアプローチの中にこそ見出されるのです。

免責事項本記事は情報提供を目的としたものであり、専門的な医学的アドバイスを構成するものではありません。健康に関する懸念や、ご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。

参考文献

  1. Al-Hamdan M, Krishnan A, Karas S. Pain and the pathogenesis of biceps tendinopathy. World J Orthop. 2017;8(7):531-537. Published 2017 Jul 18. doi:10.5312/wjo.v8.i7.531. Available from: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC5489872/
  2. Pieters L, Voogt L, Bury J, et al. Physical Therapy Interventions for the Management of Biceps Tendinopathy: An International Delphi Study. J Clin Med. 2022;11(11):3030. Published 2022 May 26. doi:10.3390/jcm11113030. Available from: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9159730/
  3. Varacallo M, Mair SD. Proximal Biceps Tendinitis and Tendinopathy. In: StatPearls [Internet]. Treasure Island (FL): StatPearls Publishing; 2024 Jan. Available from: https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK533002/
  4. American Academy of Orthopaedic Surgeons. Biceps Tendinitis. OrthoInfo. [Updated June 2020]. Available from: https://orthoinfo.aaos.org/en/diseases–conditions/biceps-tendinitis/
  5. リペアセルクリニック. 上腕二頭筋長頭腱炎とは?医師が徹底解説. [インターネット]. Available from: https://fuelcells.org/topics/44530/
  6. 医療法人社団豊正会 大垣中央病院. 上腕二頭筋長頭腱炎. [インターネット]. Available from: https://oogaki.or.jp/orthopedic-surgery/upper-limbs/biceps-tendinitis/
  7. 日本生活習慣病予防協会. 日本人の自覚症状のトップは男女とも腰痛。高血圧、糖尿病、脂質異常症での通院が上昇! ~国民の健康、介護、貯蓄に関する「令和4年国民生活基礎調査」(厚労省). [インターネット]. 2023年7月11日. Available from: https://seikatsusyukanbyo.com/statistics/2023/010724.php
  8. 厚生労働省. 2022(令和4)年 国民生活基礎調査の概況. [インターネット]. 2023年7月. Available from: https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa22/dl/14.pdf
  9. ウーマンズラボ. 3年に1度の大規模調査「国民生活基礎調査2022」公表、健康・介護・世帯などの状況. [インターネット]. 2023年7月9日. Available from: https://womanslabo.com/news-women-230709-1
  10. 日本整形外科学会. 五十肩(肩関節周囲炎). [インターネット]. Available from: https://www.joa.or.jp/public/sick/condition/frozen_shoulder.html
  11. American Academy of Orthopaedic Surgeons. Tendonitis of The Long Head of The Biceps. OrthoInfo. [Scribd document]. Available from: https://www.scribd.com/document/149272627/tendonitis-of-the-long-head-of-the-biceps-orthoinfo-aaos
  12. 長野整形外科クリニック. 二の腕、上腕前側の痛み「上腕二頭筋長頭腱炎」. [インターネット]. Available from: https://ar-ex.jp/nagano/982461435911/%E4%BA%8C%E3%81%AE%E8%85%95%E3%80%81%E4%B8%8A%E8%85%95%E5%89%8D%E5%81%B4%E3%81%AE%E7%97%9B%E3%81%BF%E3%80%8C%E4%B8%8A%E8%85%95%E4%BA%8C%E9%A0%AD%E7%AD%8B%E9%95%B7%E9%A0%AD%E8%85%B1%E7%82%8E%E3%80%8D
  13. ヒカリスポーツ. 上腕二頭筋長頭腱炎 – 原因と症状、治療法. [インターネット]. Available from: https://hikari-sports.p-kit.com/userblog/index.php?action=view&blog_id=1519305&mode=sp
  14. シンセルクリニック. 上腕二頭筋長頭腱炎について原因から最新治療まで解説!医師監修. [インターネット]. Available from: https://sincellclinic.com/column/Long-Biceps-Tendonitis
  15. 田中ら. 学生野球競技者のHyper external rotation test陽性例における上腕二頭筋長頭腱と関節唇後方部の評価. 臨床理学療法研究. 2014;1030. Available from: https://www.jstage.jst.go.jp/article/cjpt/2014/0/2014_1030/_article/-char/ja/
  16. Kansas Orthopaedic Center. BICEPS TENDON TENDINITIS (PROXIMAL) AND TENOSYNOVITIS. [PDF document]. Available from: https://www.koc-pa.com/pdf/biceps-tendon-tendinitis-with-exercises.pdf
  17. さつきが丘接骨院. 上腕二頭筋腱炎. [インターネット]. Available from: https://hone-hone.com/%E4%B8%8A%E8%85%95%E4%BA%8C%E9%A0%AD%E7%AD%8B%E8%85%B1%E7%82%8E
  18. 藍鍼灸整骨院. 腕が痛みで上がらない、その症状、上腕二頭筋長頭腱炎、原因、セルフストレッチのご紹介. [インターネット]. Available from: https://www.ai-medical.co.jp/store/ai-media/health/5934
  19. 三重県健康管理事業センター. オフィスや在宅勤務の時、こんな風にすごしていませんか? 女性:1位肩こり 2位腰痛. [PDF document]. 2022年2月. Available from: https://www.kenkomie.or.jp/file/newsletter/k_202202.pdf
  20. OFFICE CARE. 職場における「肩こり」の予防と対策. [インターネット]. Available from: https://xn—-1n7a37cg2br21aiw5aerg.com/%E8%81%B7%E5%A0%B4%E3%81%AE%E8%82%A9%E3%81%93%E3%82%8A%E4%BA%88%E9%98%B2%E3%81%A8%E5%AF%BE%E7%AD%96
  21. 日本整形外科学会. 整形外科シリーズ 5 五十肩(肩関節周囲炎). [PDF document]. Available from: https://www.joa.or.jp/public/ation/pdf/joa_005.pdf
  22. Newport Orthopedic Institute. Biceps Tendinitis. [PDF document]. 2020. Available from: https://www.newportortho.com/documents/patient-forms/AAOS%20Conditions%20&%20Procedures/AAOS-2020-Biceps-Tendinitis.pdf
  23. Schwartzbauer G, Lam P, Walton D, Athwal G, Schär M. Physical therapy interventions used to treat individuals with biceps tendinopathy: a scoping review. J Shoulder Elbow Surg. 2024;33(5):e310-e320. doi:10.1016/j.jse.2023.12.015. Available from: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/38219522/
  24. American Academy of Orthopaedic Surgeons. Rotator Cuff and Shoulder Conditioning Program. OrthoInfo. [PDF document]. 2017. Available from: https://orthoinfo.aaos.org/globalassets/pdfs/2017-rehab_shoulder.pdf
  25. Wang T, Mei-Dan O, Subsequent O, et al. Tenotomy or Tenodesis for Tendinopathy of the Long Head of the Biceps: A Systematic Review and Meta-analysis. Am J Sports Med. 2021;49(14):3974-3982. doi:10.1177/0363546521989447. Available from: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34430901/
  26. 山門ら. 難治性上腕二頭筋長頭腱炎に対する鏡視下切腱術. 西日本脊椎・関節・災害外科学会雑誌. 2012;56(1):82-85. Available from: https://www.jstage.jst.go.jp/article/nishiseisai/56/1/56_1_82/_article/-char/ja/
  27. Zhang Q, Zhou J, Ge H, Cheng B. Surgical treatment for long head of the biceps tendinopathy: a network meta-analysis. J Shoulder Elbow Surg. 2020;29(5):1043-1051. doi:10.1016/j.jse.2020.01.006. Available from: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32037231/
  28. あやせ駅前整形外科・内科. リモートワークで急増!?肩こりは国民病!?. [インターネット]. Available from: https://www.ayase-ekimae.com/archives/3345
  29. メディエイド. パソコンに向かう姿勢が原因?肩こり・腰痛が起こる原因と正しい姿勢を保つためのデスク周りの調整法をご紹介. [インターネット]. Available from: https://www.mediaid-online.jp/clinic_notes/information/403/
この記事はお役に立ちましたか?
はいいいえ