近年の医療技術の進歩により、心疾患による年齢調整死亡率は減少傾向にあります1。これは、急性期の治療が向上し、多くの命が救われるようになったことを意味します。しかしその一方で、心疾患の総患者数は依然として多く2、病気を抱えながら生活する人や、再発の危険性と向き合う人が増え続けているという現実も浮き彫りになっています。
この記事は、胸痛に不安を抱えるすべての方々に向けて、その原因から最新の診断・治療法、そして何よりも重要な「予防と管理」に至るまで、信頼できる情報を網羅的にお届けすることを目的としています。日本循環器学会(JCS)3、米国心臓協会(AHA)4、欧州心臓病学会(ESC)5といった国内外の主要な医学会の最新指針や科学的根拠に基づき、あなたの胸痛に関するあらゆる疑問に答える「決定版」資料となることを目指します。
この記事の科学的根拠
本記事は、提示された研究報告書に明示的に引用されている、最高品質の医学的根拠にのみ基づいて作成されています。以下は、参照された情報源と、提示された医学的指針との直接的な関連性を示したものです。
- 厚生労働省: 日本における心疾患の死亡率、医療費、患者数の統計に関する記述は、厚生労働省の公式報告書に基づいています。
- 日本循環器学会(JCS): 異型狭心症の診断、機能的虚血評価の重要性(FFR/iFR)、安定冠動脈疾患の治療方針、および日本人に特化した生活習慣改善の目標値に関する記述は、同学会の最新ガイドラインやフォーカスアップデート版に準拠しています。
- 米国心臓協会(AHA)/米国心臓学会(ACC): 胸痛の評価における「非典型的(atypical)」という用語の不使用や、検査前確率(PTP)の概念に関する記述は、2021年に発表されたこれらの組織の合同ガイドラインに基づいています。
- 欧州心臓病学会(ESC): 心血管疾患予防、特に危険因子の管理と地中海食の推奨に関する記述は、同学会のガイドラインを参考にしています。
- ISCHEMIA試験: 安定冠動脈疾患における至適薬物療法(OMT)と侵襲的治療の比較に関する重要な考察は、この大規模臨床試験の結果に基づいています。
要点まとめ
- 胸痛は心臓だけでなく消化器、呼吸器、精神的な要因など多様な原因で起こりますが、「危険なサイン」を伴う場合は心筋梗塞や大動脈解離の可能性があり、直ちに救急要請が必要です。
- 冠動脈疾患(狭心症・心筋梗塞)の根本原因は動脈硬化です。高血圧、脂質異常症、糖尿病、喫煙などの危険因子が重なると発症の危険性が高まります。
- 最新の診断では、冠動脈CTやFFR/iFRなどを用いて、血管の「見た目の狭さ」だけでなく「実際の血流障害の程度」を評価し、過剰な治療を避ける傾向にあります。
- 安定した狭心症の治療の基本は、薬物療法(至適薬物療法)です。薬で症状が管理できない場合にカテーテル治療(PCI)やバイパス手術(CABG)が検討されます。
- 治療後も動脈硬化が治るわけではなく、再発予防には減塩、脂質管理、適度な運動、禁煙といった生涯にわたる生活習慣の改善が最も重要です。
その胸の痛み、どこから?- 胸痛の多様な原因と危険なサイン
胸痛と一言でいっても、その原因は心臓だけとは限りません。実際には、消化器、呼吸器、骨や筋肉、さらには精神的な要因まで、実に多岐にわたります6。
- 心臓・血管に由来するもの: 狭心症、心筋梗塞、大動脈解離、心膜炎など
- 消化器に由来するもの: 逆流性食道炎、食道痙攣、胃・十二指腸潰瘍、胆石症など
- 呼吸器・胸膜に由来するもの: 肺炎、気胸、胸膜炎、肺塞栓症など
- 筋骨格・神経に由来するもの: 肋間神経痛、肋軟骨炎、胸壁の打撲、帯状疱疹など
- 精神的な要因に由来するもの: パニック障害、不安障害など
新しい胸痛の考え方:「非典型的」という言葉の危険性
かつて、心臓発作の典型的な症状(胸の中央が締め付けられる痛み)に当てはまらない痛みを「非典型的(atypical)胸痛」と呼ぶことがありました。しかし、2021年に米国心臓協会(AHA)と米国心臓学会(ACC)が発表した最新の胸痛評価に関する指針では、この「非典型的」という言葉の使用を推奨しない方針が打ち出されました7。
なぜなら、「非典型的」という言葉が、医師に「心臓が原因ではないだろう」という先入観を与え、特に女性や高齢者、糖尿病患者などで見られがちな、あごの痛み、背中の痛み、吐き気といった症状が心臓発作のサインであることを見逃す一因になっていたからです8。現在では、より慎重に原因を探るため、痛みを「心臓性(cardiac)」「心臓性の可能性あり(possibly cardiac)」「非心臓性(noncardiac)」と分類する考え方が主流になっています。あなたの感じる「いつもと違う不快感」も、決して軽視してはならない重要なサインかもしれないのです。
見逃してはいけない「危険なサイン(レッドフラッグ)」
多様な原因がある中で、以下の症状が伴う胸痛は、心筋梗梗塞や大動脈解離といった、一刻を争う病気の可能性があります。直ちに救急車を要請(日本では119番)するか、医療機関に連絡してください9。
- 突然始まった、今までに経験したことのない激しい胸の痛み
- 「象が乗っているような」「万力で締め付けられるような」強い圧迫感
- 痛みが30分以上続いている
- 安静にしていても痛みが治まらない、または悪化する
- 痛みが左腕、肩、首、顎、背中に広がる(放散痛)
- 冷や汗、吐き気、嘔吐、極度の息切れ、意識が遠のく感じを伴う
国立循環器病研究センターも、医師から処方されたニトログリセリンを5分おきに3回使用しても痛みが治まらない場合は、緊急受診の目安としています10。
胸痛の原因鑑別セルフチェック表
以下の表は、ご自身の症状を客観的に整理し、医師に正確に伝えるための参考としてご活用ください。自己診断のためのものではありません。
疾患名(可能性) | 痛みの特徴 | 主な随伴症状 | 悪化・軽快する因子 |
---|---|---|---|
急性心筋梗塞 | 締め付けられる激痛、圧迫感、灼熱感。突然発症し持続する。 | 冷や汗、吐き気、息切れ、左腕や顎への放散痛、死の恐怖感。 | 安静にしても改善しない。ニトログリセリンが効かない10。 |
労作性狭心症 | 運動時(坂道、階段など)の圧迫感、絞扼感。 | 軽い息切れ。 | 運動や興奮で誘発され、安静にすると数分で軽快する11。 |
逆流性食道炎 | 胸骨の後ろが焼けるような感じ(胸焼け)。 | 呑酸(酸っぱいものが上がってくる感じ)、げっぷ。 | 食後、前かがみ、横になると悪化しやすい6。 |
肺塞栓症 | 突然発症する鋭い胸の痛み。 | 強い呼吸困難、頻呼吸、時に血痰。 | 深呼吸や咳で痛みが強まる12。 |
肋間神経痛 | 肋骨に沿った、チクチク、ピリピリする鋭い痛み。 | 特になし。 | 体をひねる、深呼吸、咳などで誘発・悪化する13。 |
大動脈解離 | 胸から背中にかけての、突然の引き裂かれるような激痛。 | しばしば血圧の左右差、失神。 | 痛みが移動することがある13。 |
パニック発作 | 突然の動悸、息苦しさ、めまい。強い不安感や恐怖感を伴う。 | 手足のしびれ、発汗、震え。 | 特定の状況やストレスで誘発されることがある6。 |
冠動脈疾患とは何か – 心臓を養う血管の病
胸痛の最も警戒すべき原因の一つが「冠動脈疾患」です。これを理解するためには、まず心臓の仕組みを知る必要があります。
心臓は1日に約10万回も拍動し、全身に血液を送り出す強力なポンプです。しかし、その心臓の筋肉(心筋)自身も、活動するための酸素と栄養を必要とします。この心筋に血液を供給しているのが、心臓の表面を冠のように覆っている「冠動脈」です14。冠動脈は、まさに心臓自身を養うための「命のパイプライン」と言えます。
このパイプラインに問題が生じるのが冠動脈疾患です。その主な原因は「動脈硬化(アテローム硬化)」です。動脈硬化とは、血管の内側の壁にコレステロールなどの脂質が沈着し、お粥のようなドロドロした塊(プラーク)が形成される状態です。このプラークが徐々に大きくなると、血管の内腔が狭くなり、血液の流れが悪くなります11。
この動脈硬化によって冠動脈の血流が不足し、心筋が酸素不足(虚血)に陥ることで起こる病気を総称して「虚血性心疾患」と呼び、狭心症や心筋梗塞がこれに含まれます14。
重要なのは、動脈硬化が非常に長い年月をかけて、自覚症状なく静かに進行する「静かなる殺人者」であるという点です。血管の老化は20代、30代から始まっているとも言われ、胸痛などの症状が現れた時には、すでに病状がかなり進行しているケースが少なくありません。今日の食事が、10年後、20年後のあなたの心臓の運命を左右する可能性があるのです。
狭心症と心筋梗塞 – 危険度の異なる胸痛の正体
虚血性心疾患は、冠動脈の狭窄や閉塞の程度によって、主に「狭心症」と「心筋梗塞」に分けられます。
労作性(安定)狭心症
冠動脈の動脈硬化が進行し、血管が慢性的に狭くなっている状態です。安静にしている時は心筋に必要な血流が何とか保たれていますが、階段を上る、重い物を持つといった運動(労作)によって心臓の仕事量が増えると、酸素の需要に供給が追いつかなくなり、一時的な心筋虚血が起こります。これにより、胸の圧迫感や痛みが生じます。この痛みは、数分間安静にすることで治まるのが特徴です11。
不安定狭心症
これは、労作性狭心症が急に悪化した状態や、安静にしていても胸痛が起こるようになった状態を指します。血管内のプラークが破れやすくなり、その表面に血の塊(血栓)ができて血管を塞ぎかけている、非常に危険な状態です。心筋梗塞に移行する一歩手前の段階であり、緊急の対応が必要です7。
異型狭心症(冠攣縮性狭心症)
動脈硬化による狭窄が軽度であっても、冠動脈自体が痙攣(けいれん)を起こして一時的に強く収縮し、血流が途絶えることで胸痛が起こるタイプです。特に夜間から早朝にかけての安静時に発作が起こりやすいのが特徴で、喫煙やストレスが大きな誘因とされています。2023年に改訂された日本循環器学会の焦点更新版でも、診断と治療の重要性が強調されています3。
心筋梗塞
不安定狭心症の状態からさらに血栓が大きくなり、冠動脈が完全に閉塞してしまうと、その先の心筋に血液が全く届かなくなり、心筋細胞が死んでしまいます(壊死)。これが心筋梗塞です。症状は狭心症よりもはるかに激しく、30分以上続く締め付けられるような激痛、冷や汗、吐き気などを伴います。安静にしても痛みは治まらず、処方されたニトログリセリンも効きません15。壊死した心筋は二度と元に戻らないため、発症後は一刻も早く血流を再開させる治療が必要です。
「安定」狭心症は安全ではない:心臓からの最後の警告
労作性狭心症は、症状が安静にすると治まるため「安定」狭心症と呼ばれます。しかし、これは決して「安全」という意味ではありません。むしろ、「破局(心筋梗塞)に向かって、病状が安定して進行している」と捉えるべきです。これは心臓が発する「最初の、そして最後の警告」かもしれません。この警告を「休めば治るから大丈夫」と軽視してしまうと、次には警告なしに、突然の心筋梗塞という破局が訪れる可能性があるのです。
あなたの危険性は?- 日本人に合わせた冠動脈疾患の危険因子
冠動脈疾患は、特定の生活習慣や体質を持つ人に発症しやすいことがわかっています。これらを「危険因子」と呼びます。欧州心臓病学会(ESC)の指針などでも、これらの管理が予防の基本であると強調されています5。
主要な危険因子:
- 脂質異常症(高コレステロール血症など)
- 高血圧
- 糖尿病
- 喫煙
- 肥満(特に内臓脂肪型肥満)
- 加齢
- 家族歴(近親者に若くして心臓病になった人がいる)
- 慢性的なストレス
- 運動不足
日本の状況に合わせた危険性の理解
これらの危険因子は、日本人のデータや生活習慣に当てはめて考えることが重要です。
- 脂質異常症: 日本で行われた約5万人の大規模臨床研究「J-LIT」では、LDL(悪玉)コレステロール値が高いほど、またHDL(善玉)コレステロール値が低いほど、冠動脈疾患の発症危険性が高まることが明確に示されています16。
- 肥満とメタボリックシンドローム: 日本の基準では、肥満はBMI(体格指数)25以上と定義されます。さらに、ウエスト周囲径が男性85cm以上、女性90cm以上で、高血圧、高血糖、脂質異常のうち2つ以上を合併するとメタボリックシンドロームと診断され、動脈硬化が急速に進行する危険性が高い状態とされます17。
- 高血圧と塩分: 日本食は醤油や味噌、漬物など塩分を多く含む傾向があり、高血圧になりやすい環境です。予防のためには、1日の塩分摂取量を6g未満に抑えることが推奨されています17。
- ストレス: 日本の職場環境など、慢性的な精神的ストレスが心筋梗塞の危険性を高めることも報告されています17。
危険因子の連鎖
これらの危険因子は、それぞれが独立しているわけではありません。多くの場合、互いに影響し合い、「負の連鎖」を生み出します。例えば、運動不足や不健康な食生活が「肥満」という最初の駒を倒すと、それが引き金となって「高血圧」「糖尿病」「脂質異常症」といった駒が次々と倒れていくのです。
しかし、これは逆もまた然りです。一つの生活習慣を改善すること、例えば「運動を始める」という最初の駒を正しく立て直すことで、体重が減り、血圧や血糖値も改善し、他の駒が倒れるのを防ぐ「正の連鎖」を生み出すことができます。一つの良い習慣が、連鎖的に心臓の健康を守る力になるのです。
最新の診断法 – あなたの心臓をどう調べるか
胸痛で医療機関を受診すると、原因を特定するために体系的な検査が行われます。診断過程は、患者さんの過度な負担を避け、最も効率的に正確な診断に至るよう設計されています。
段階1:問診と検査前確率(PTP)の評価
まず、どのような痛みが、いつ、何をきっかけに、どのくらいの時間続くのかといった詳細な問診が行われます。そして、最新の指針では、年齢、性別、症状の性質などから、冠動脈疾患である可能性がどのくらいあるかという「検査前確率(Pre-Test Probability, PTP)」を評価します7。これにより、すべての人に同じ検査をするのではなく、一人ひとりの危険性に応じた最適な検査計画を立てることが可能になります。
段階2:非侵襲的検査(体を傷つけない検査)
PTPの評価に基づき、以下のような検査が行われます。
- 心電図(安静時・負荷時): 心筋虚血が起きると心電図に特有の変化が現れます。労作性狭心症が疑われる場合は、歩行機械などで心臓に負荷をかけながら心電図を記録する運動負荷試験が行われます11。
- 血液検査: 心筋梗塞を発症すると、壊死した心筋細胞から特定の酵素(高感度心筋トロポニンなど)が血液中に漏れ出します。これを測定することで、心筋梗塞を迅速かつ正確に診断できます7。
- 冠動脈CT(CCTA): 造影剤を注射してCT撮影を行うことで、冠動脈の形状を3次元画像で詳細に観察できます。血管がどの程度狭くなっているか(解剖学的狭窄)を評価するのに非常に強力な検査です11。
- 負荷心エコー・心筋シンチグラフィ: 薬や運動で心臓に負荷をかけ、心臓の動きや血流に異常が出現するかを調べる検査です。血管の見た目だけでなく、その狭窄が実際に心筋の血流不足(機能的虚血)を引き起こしているかを評価します11。
段階3:侵襲的検査(カテーテル検査)
非侵襲的検査で重度の冠動脈疾患が強く疑われる場合や、診断を確定させる必要がある場合に、最終的な診断法として行われます。
- 心臓カテーテル検査(冠動脈造影): 手首や足の付け根の動脈から細い管(カテーテル)を心臓の冠動脈まで挿入し、造影剤を直接注入してX線撮影を行います。これにより、冠動脈の狭窄部位や程度を最も正確に評価できます。診断と同時に、後述するカテーテル治療(PCI)を行うことも可能です11。
- FFR / iFR(冠血流予備量比 / 瞬時血流予備量比): カテーテル検査の際に、狭窄部位の前後で圧力差を測定する特殊な検査です。これにより、見た目の狭さ(解剖学的狭窄)だけでなく、その狭窄が実際にどの程度血流を妨げているか(機能的虚血)を客観的な数値で評価できます。2022年の日本循環器学会の指針でも、この機能的評価に基づいて治療方針を決定することの重要性が強調されています18。
「見た目の狭さ」と「実際の悪さ」の違い
近年の診断における大きな進歩は、この「機能的評価」の重視にあります。例えば、冠動脈CTで「75%の狭窄」が見つかったとします。多くの人はその数字に大きな不安を感じるでしょう。しかし、最新の医学では、その75%の狭窄が本当に心筋への血流を悪くしているのかをFFRなどで評価します。
これを交通渋滞に例えるなら、冠動脈CTは「道路が1車線に狭くなっている」という事実(解剖学的狭窄)を見るものです。一方、FFRは「その狭い道路で、実際に渋滞が起きているか」という機能(機能的虚血)を測定します。交通量が少なければ、道が狭くても車は円滑に流れるかもしれません。FFRの値が良好であれば、75%の狭窄があってもすぐに治療せず、薬物療法で慎重に経過を見るという選択肢が十分にあり得るのです。この考え方を理解することは、医師からの説明を深く理解し、過度な不安を和らげる上で非常に重要です。
冠動脈疾患の治療法 – 最新の科学的根拠に基づく選択肢
冠動脈疾患の治療は、「薬物療法」「カテーテル治療(PCI)」「冠動脈バイパス手術(CABG)」の三本柱で構成されます。どの治療法を選択するかは、病状の安定度、病変の場所や数、そして患者さん自身の希望などを総合的に考慮し、医師と患者が共に決定します(共同意思決定)18。
1. 至適薬物療法(OMT: Optimal Medical Therapy)
薬物療法は、すべての冠動脈疾患治療の根幹をなす最も重要な治療法です。特に、症状が安定している狭心症(安定冠動脈疾患)においては、多くの場合、これが第一選択となります。
- 抗血小板薬(アスピリン、クロピドグレルなど): 血液を固まりにくくし、血栓ができるのを防ぎ、心筋梗塞を予防します。
- スタチン系薬剤: LDL(悪玉)コレステロールを強力に下げ、動脈硬化の進行を抑制し、プラークを安定化させます。LDL-Cを50%以上、かつ70mg/dL未満に制御することが目標とされます18。
- 降圧薬(β遮断薬、Ca拮抗薬、ACE阻害薬など): 血圧を下げ、心臓の負担を軽減します。β遮断薬やCa拮抗薬は、心拍数を抑えたり血管を広げたりすることで、狭心症発作を予防する効果もあります。
- 硝酸薬(ニトログリセリンなど): 狭心症発作が起きた時に使用する薬です。冠動脈を拡張させ、一時的に心筋への血流を増やして痛みを和らげます。
- 最新の薬剤: 糖尿病を合併している患者さんには、心血管事象を抑制する効果が証明されているSGLT2阻害薬やGLP-1受容体作動薬の使用が推奨されることがあります18。
2. カテーテル治療(PCI: Percutaneous Coronary Intervention)
薬物療法を行っても狭心症の症状が改善しない場合や、不安定狭心症、心筋梗塞などの急性期に行われる治療です。カテーテルを用いて、狭くなった冠動脈を内側から広げます。風船(バルーン)で狭窄部を拡張した後、再狭窄を防ぐためにステントと呼ばれる金属製の網状の筒を留置するのが一般的です11。近年は、再狭窄をさらに抑制する薬剤を塗布した薬剤溶出性ステント(DES)が主流です。
3. 冠動脈バイパス手術(CABG: Coronary Artery Bypass Grafting)
冠動脈の狭窄が複数箇所に及ぶ場合(多枝病変)や、心臓の入り口の重要な血管(左主幹部)に病変がある場合など、カテーテル治療が困難または不向きなケースで選択されます。患者さん自身の胸や足の血管を採取し、冠動脈の狭窄部を迂回する新しい血流路(バイパス)を作成する外科手術です11。
なぜすぐにカテーテル治療をしないのか? – ISCHEMIA試験の衝撃
「血管が詰まっているなら、すぐに広げた方が良いのでは?」と考えるのは自然なことです。しかし、2019年に発表された大規模臨床試験「ISCHEMIA試験」は、その常識を覆す結果を示しました。この試験では、症状が安定している冠動脈疾患患者において、「至適薬物療法(OMT)に加えて早期にカテーテル治療やバイパス手術を行う群」と、「まずOMTのみで治療し、症状が悪化した場合にのみ侵襲的治療を行う群」とを比較したところ、心筋梗塞や死亡といった主要な心血管事象の発生率に差はなかったのです18。
これは、「安定した狭窄」に対しては、必ずしも急いで侵襲的な治療を行う必要はなく、まず薬物療法で血圧やコレステロール、血糖を徹底的に管理し、動脈硬化の進行そのものを抑えることが極めて重要であることを示しています。家の水道管が少し錆びて細くなっている(安定狭心症)場合、すぐに壁を壊して管を交換する(PCI/CABG)のではなく、まずはフィルターを付け、錆止め剤を流し、水圧を調整する(OMT)のが賢明です。それでも水の出が悪くて生活に困る(症状が強い)場合に、初めて大掛かりな工事を検討する、という考え方に近いと言えるでしょう。
再発させない、ならないために – 日本人のための生活習慣改善 完全手引書
冠動脈疾患の治療を受けた後も、その原因である動脈硬化が治ったわけではありません。再発を防ぐ(二次予防)ため、そしてまだ発症していない人が発症しないようにする(一次予防)ためには、生活習慣の改善が不可欠です。ここでは、「知っている」を「できる」に変えるための具体的な方法を提案します。
1. 食事療法:賢く、美味しく、心臓を守る
減塩: 目標は1日6g未満です17。
- 続けるヒント:
- 味噌汁やスープは具沢山にして、汁の量を減らす。
- 醤油やソースは「かける」のではなく「つける」。
- 昆布や鰹節の「出汁」の旨味を最大限に活用する。
- レモン、酢、生姜、香草、香辛料などの酸味や香りで風味を補う。
- 加工食品や即席食品の栄養成分表示で「食塩相当量」を確認する習慣をつける。
脂質管理: 欧州心臓病学会が推奨する「地中海食」の考え方を取り入れます19。
- 減らすべきもの: 肉の脂身、バター、生クリームなどの「飽和脂肪酸」、マーガリンやショートニングに含まれる「トランス脂肪酸」。
- 増やすべきもの: 青魚(サバ、イワシなど)に含まれるEPA・DHA、オリーブ油やナッツ類に含まれる「不飽和脂肪酸」。
- 続けるヒント:
- 週に2〜3回は魚料理の日を作る。
- 調理油をオリーブ油に変えてみる。
- おやつをスナック菓子から無塩のナッツに変える。
バランス:
- 野菜、果物、海藻、きのこ類を積極的に摂り、ビタミン、ミネラル、食物繊維を補給する17。
- 主食は白米や白いパンだけでなく、玄米や全粒粉パンも取り入れる。
2. 運動療法:無理なく、楽しく、継続する
目標: 「ややきついが、楽に会話ができる程度」の有酸素運動(歩行、軽いジョギング、自転車、水泳など)を、1回30〜60分、週に3〜5回行う17。
- 続けるヒント:
- 完璧を目指さない。まずは週1回からでも始める。
- 「通勤時に一駅手前で降りて歩く」「エレベーターを階段に変える」など、日常生活に組み込む。
- 歩数計やスマートウォッチで成果を「見える化」し、意欲を維持する。
- 運動前後の準備運動と整理運動、こまめな水分補給を忘れない17。
3. 禁煙:最も確実な投資
喫煙は動脈硬化を強力に促進し、血管を傷つける最大の危険因子の一つです。禁煙は、心臓の健康にとって最も効果的で確実な投資と言えます5。自力での禁煙が難しい場合は、禁煙外来などで専門家の支援を受けることが成功への近道です。
4. 適正体重の維持
肥満は高血圧、脂質異常症、糖尿病の元凶です。目標は、最も病気になりにくいとされるBMI 22です。ご自身の標準体重は [身長(m)] × [身長(m)] × 22 で計算できます17。
よくある質問
Q1: 労作性狭心症と診断されました。すぐにカテーテル治療が必要ですか?
A1: 必ずしもそうとは限りません。最新の大規模臨床試験(ISCHEMIA試験)の結果から、症状が安定している労作性狭心症の場合、まずは薬物療法(至適薬物療法)で血圧やコレステロールをしっかり管理することが第一選択となります18。薬物療法を最大限に行っても胸痛などの症状が改善せず、生活の質が損なわれる場合に、カテーテル治療やバイパス手術が検討されます。まずは主治医と相談し、薬物療法と生活習慣の改善を徹底することが重要です。
Q2: 胸の痛みが時々ありますが、数分で治まります。病院に行くべきですか?
A2: はい、医療機関の受診を強くお勧めします。数分で治まる胸痛は労作性狭心症の典型的な症状である可能性があります11。これは「安全」な状態ではなく、将来の心筋梗塞の前触れかもしれません。また、心臓以外の病気(逆流性食道炎など)の可能性もあります。原因を正確に診断し、適切な対策を早期に始めるために、循環器内科などの専門医にご相談ください。
Q3: 冠動脈CTで狭窄が見つかりましたが、治療は不要と言われました。なぜですか?
A3: 冠動脈CTで見つかるのは、血管の「見た目の狭さ(解剖学的狭窄)」です。しかし、治療が必要かどうかを判断する上でより重要なのは、その狭窄が「実際に心筋への血流を妨げているか(機能的虚血)」です。FFR/iFRといった特殊な検査で機能的な問題がないと判断された場合、見た目上は狭くても、急いでカテーテル治療などを行う利益は少ないと考えられています18。この場合、薬物療法と生活習慣の改善で動脈硬化の進行を抑えながら、慎重に経過観察するのが標準的な方針です。
結論
胸痛は、ありふれた症状であると同時に、心臓からの重大な警告サインでもあります。この記事で解説してきたように、その原因は多岐にわたりますが、特に冠動脈疾患が疑われる「危険なサイン」を見逃さないことが何よりも重要です。
自己判断は禁物です。 経験したことのない激しい胸痛や、安静にしても治まらない圧迫感、冷や汗などの症状があれば、躊躇なく救急車を要請してください。
医療は進化しています。 診断技術の進歩により、血管の見た目だけでなく、その機能まで評価できるようになりました。治療法も、薬物療法を土台とし、患者さん一人ひとりの状態に合わせてカテーテル治療やバイパス手術を組み合わせる、個別化医療が主流です。
本当の主役はあなた自身です。 最新の医療をもってしても、病気の根源である動脈硬化を完治させることはできません。冠動脈疾患は、治療して終わりではなく、生涯にわたる自己管理が求められる「生活習慣病」です。食事、運動、禁煙といった日々の積み重ねこそが、再発を防ぎ、健康な心臓を維持するための最も強力な「薬」となります。
この記事が提供した知識を武器に、ご自身の健康状態への理解を深め、かかりつけ医や専門医との良好な共同関係を築いてください。そして、あなた自身が健康の主導権を握り、より豊かで健やかな人生を歩まれることを心から願っています。
参考文献
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