【専門家による徹底解説】脳貧血:その正体と、見過ごしてはいけない危険なサイン
血液疾患

【専門家による徹底解説】脳貧血:その正体と、見過ごしてはいけない危険なサイン

立ち上がった瞬間にクラっとする、満員電車で気分が悪くなり目の前が暗くなる――。こうした経験をした際に、「脳貧血を起こした」という言葉を耳にしたり、使ったりすることは少なくありません。この「脳貧血」という言葉は日常的に広く浸透していますが、日本の医療現場において、これは正式な医学用語ではありません1。この言葉が一般的に指し示しているのは、医学的には「脳への一時的な血液供給不足」という状態であり、その背景には様々な原因が存在します2。この一般的な呼称と医学的な実態との間にあるギャップは、単なる言葉の違い以上の意味を持ちます。なぜなら、「脳貧血」という言葉で検索してたどり着く情報の多くは、比較的心配のいらない良性の状態、主に「起立性低血圧」に関するものだからです。しかし、似たような症状の中には、緊急の医療介入を必要とする、はるかに危険な病態、特に「一過性脳虚血発作(TIA)」が隠れている可能性があるのです。これは脳梗塞の前触れであり、見過ごせば深刻な後遺症や生命の危機に繋がりかねません3。良性の立ちくらみと、脳梗塞の警告サインとを自己判断で区別することは極めて困難であり、時に危険を伴います。もし、TIAの症状を「いつもの脳貧血だ」と誤解して放置してしまえば、本格的な脳梗塞を防ぐための貴重な機会を失うことになりかねません。本稿では、医学研究者およびサイエンスコミュニケーターの視点から、この重要な問題に取り組みます。まず第1部と第2部では、一般的に「脳貧血」と呼ばれる状態、その大部分を占める起立性低血圧のメカニズム、原因、そして具体的な対処法や予防策を科学的根拠に基づいて詳しく解説します。そして、本稿で最も重要となる第3部以降では、命に関わる危険なサインである一過性脳虚血発作(TIA)とは何か、良性の立ちくらみとどう見分けるべきかを徹底的に解説します。この記事を通じて、読者の皆様がご自身の症状を正しく理解し、安心して対処できるケースと、一刻も早く医療機関を受診すべき危険なサインとを明確に見分けるための知識を身につけていただくこと。それが本稿の最大の目的です。

この記事の科学的根拠

この記事は、原典レポートで明示的に引用された、最高品質の医学的エビデンスにのみ基づいています。以下は、参照された情報源とその医学的ガイダンスへの関連性を示すものです。

  • Medical DOC, アプリコA型 島立 就労支援事業所, ドクターズ・ファイル: 本記事における「脳貧血」の一般的な定義、それが医学用語ではないこと、そして一過性脳虚血発作(TIA)との根本的な違いに関する記述は、これらの情報源で提供された専門家の解説に基づいています。
  • 国立循環器病研究センター病院, 日本脳卒中学会: 脳卒中の危険因子、特に高血圧の管理目標や減塩の重要性に関するガイダンスは、日本の主要な医療機関および学会が発行する『脳卒中治療ガイドライン』などの指針を基にしています。
  • 厚生労働省, 生命保険文化センター: 日本における脳血管疾患の患者数、死亡率、要介護に至る原因としての統計データは、これらの公的機関が発表した最新の調査結果に基づいています。

要点まとめ

  • 一般的に使われる「脳貧血」は医学用語ではなく、多くは「起立性低血圧」を指します。血液の病気である「貧血」とは根本的に異なります。
  • 良性の脳貧血(立ちくらみ)の主な症状は、ふらつき、目の前が暗くなる、冷や汗などで、全身に現れます。安静にすることで数分で改善します。
  • 水分補給、ゆっくりとした動作、下半身の筋トレなどのセルフケアで予防・対処が可能です。
  • 最も危険なのは、脳梗塞の前触れである「一過性脳虚血発作(TIA)」との混同です。
  • 顔の片側の麻痺、片腕の脱力、ろれつが回らない(FAST)などの「片側性の症状」はTIAのサインです。症状がすぐ消えても、ためらわずに救急車を呼んでください。

第1部:「脳貧血」の正体 – 起立性低血圧と自律神経の働き

多くの人が「脳貧血」と呼ぶ症状の正体を探るには、まず、それが医学的な「貧血」とは全く異なるものであることを理解する必要があります。その上で、主な原因である「起立性低血圧」と、自律神経の働きについて知ることが不可欠です。

1.1 「脳貧血」と「貧血」は全くの別物

「脳貧血」と「貧血」は、名称が似ているため混同されがちですが、その病態は根本的に異なります4

  • 脳貧血(一般的な呼称): これは、脳への血流が一時的に不足し、脳が酸欠状態になる「循環の問題」です2。血圧の急激な変動などが原因で、脳に十分な量の血液が送り届けられなくなることで発生します。そのため、血液検査を行っても、血液そのものに異常は見つかりません5
  • 貧血(医学的な病名): これは、血液中の赤血球に含まれる「ヘモグロビン」というタンパク質が減少した状態を指す「血液の質の問題」です1。ヘモグロビンは全身の細胞に酸素を運ぶ役割を担っているため、これが不足すると脳だけでなく全身が慢性的な酸素不足に陥ります。主な症状は、息切れ、動悸、倦怠感、顔面蒼白などです。

このように、両者は発生のメカニズムが全く異なります。ただし、重度の貧血状態にある人が立ちくらみを起こしやすくなるなど、間接的に関連する場合もありますが、基本的には別の状態として理解することが重要です2

1.2 脳貧血の主な原因:起立性低血圧

「脳貧血」と呼ばれる症状の最も一般的な原因は、「起立性低血圧」です6。これは、寝た状態や座った状態から急に立ち上がった際に、血圧が適切に維持できずに低下し、脳への血流が減少する状態を指します。

そのメカニズムは、物理の法則と体の調節機能によって説明できます。

  • 重力の影響: 立ち上がると、重力によって約500mlから1000mlの血液が急速に下半身(腹部や脚)へと移動します。
  • 心臓への血流減少: これにより、心臓に戻ってくる血液の量が一時的に減少します。
  • 脳への血流低下: 心臓から送り出される血液量も減るため、心臓より高い位置にある脳への血流が不足し、一時的な酸欠状態に陥ります。これが、立ちくらみ、めまい、目の前が暗くなるなどの症状を引き起こすのです7

健康な人であれば、この血圧低下を感知した自律神経(特に交感神経)が瞬時に働き、下半身の血管を収縮させて心臓へ血液を戻し、血圧を正常に保ちます8。しかし、何らかの理由でこの調節機能がうまく働かない、あるいは反応が遅れると、起立性低血圧の症状が現れます。医学的には、立ち上がってから3分以内に収縮期血圧(最高血圧)が20mmHg以上、または拡張期血圧(最低血圧)が10mmHg以上低下する場合に診断されます1

1.3 もう一つの原因:血管迷走神経反射

起立性低血圧と並んで、特に失神を伴うようなケースで見られるのが「血管迷走神経反射」です。これは、強い痛み、精神的ストレス、恐怖、極度の疲労、睡眠不足、あるいは長時間の立位や満員電車のような特定の状況が引き金となって起こります1

これらの強い刺激によって自律神経のバランスが崩れ、体をリラックスさせる働きを持つ副交感神経(特に迷走神経)が過剰に興奮します。その結果、心拍数が減少し、全身の血管が拡張して血圧が急激に低下。脳への血流が著しく減少し、めまいや吐き気、冷や汗といった症状から、重い場合には意識を失って倒れてしまう(失神)のです9。これは、もともとの血圧が高くても低くても起こりうる反応です4

1.4 脳貧血になりやすい人の特徴とその他の要因

以下のような特徴や要因を持つ人は、起立性低血圧や血管迷走神経反射を起こしやすい傾向があります。

  • 低血圧の人: 普段から血圧が低いと、わずかな血圧の変動でも脳血流が不足しやすくなります2
  • 脱水状態の人: 発汗や水分摂取不足により体内の水分が減ると、循環する血液量そのものが減少し、低血圧を招きやすくなります1
  • 長時間立っている職業や状況: 教師や販売員、あるいは朝礼や満員電車など、長時間立ち続けると重力で血液が下半身に滞留しやすくなります1
  • 自律神経が乱れやすい人: 睡眠不足、過労、強いストレスは自律神経の調節機能を低下させます6
  • 特定の薬を服用している人: 降圧薬、狭心症の薬、一部の抗うつ薬や精神安定剤、前立腺肥大の治療薬などは、副作用として起立性低血圧を引き起こすことがあります1
  • その他: 食後(消化のために血液が胃腸に集中するため)、運動後、入浴後なども血圧が変動しやすく、症状が出やすいタイミングです。また、体質的に若い女性や、加齢により血圧調節機能が低下した高齢者にも多く見られます2

第2部:症状の理解とセルフケア

良性の「脳貧血」は、そのメカニズムを理解し、適切な対処法と予防策を講じることで、多くの場合コントロールが可能です。ここでは、具体的な症状から応急処置、日常生活でのセルフケアまでを解説します。

2.1 典型的な症状とセルフチェック

良性の脳貧血(主に起立性低血圧)でみられる症状は、脳への血流が一時的に不足することに起因します。以下のような症状が典型的です。

  • 立ち上がった瞬間の立ちくらみ、めまい、ふらつき2
  • 視界がぼやける、目の前が真っ暗になる、白くなる、チカチカする10
  • 気が遠くなるような感覚、意識を失いそうになる。
  • 冷や汗をかく、顔面が蒼白になる4
  • 吐き気、気分が悪くなる9
  • 頭痛や耳鳴りを伴うこともある。

これらの症状は、立ち上がったり、長時間立っていたりしたときに誘発され、数秒から数分で治まることがほとんどです。ご自身の症状がこれらに当てはまるか、以下の項目でセルフチェックしてみましょう6

  • 急に立ち上がると、クラっとすることが頻繁にあるか?
  • 朝礼や満員電車など、長時間立っていると気分が悪くなることがあるか?
  • 入浴後や飲酒後に立ちくらみを起こしやすいか?
  • 最近、睡眠不足や疲労、強いストレスを感じていないか?
  • 普段から血圧が低いと言われているか?
  • 食事や水分を十分に摂れていないと感じるか?

これらの項目に多く当てはまる場合は、起立性低血圧を起こしやすい状態にあると考えられます。

2.2 症状が現れた際の応急処置

症状が現れた際に最も重要なことは、転倒して頭を打つなどの二次的な怪我を防ぐことです。慌てず、以下の行動をとりましょう。

  • すぐに安全な体勢をとる: その場でしゃがみ込むか、座り込みましょう。可能であれば、壁や手すりなど、体を支えられる場所の近くで行います1
  • 横になる: 周囲に安全なスペースがあれば、すぐに横になるのが最も効果的です。その際、クッションやカバンなどを足の下に入れ、足を心臓より少し高く上げると、重力によって脳へ血液が戻りやすくなります。
  • 安静にする: 症状が治まるまで、楽な姿勢で安静にします。ベルトやネクタイなど、体を締め付けているものがあれば緩めましょう。
  • ゆっくりと動き出す: 症状が完全に回復しても、急に立ち上がってはいけません。まず座った状態でしばらく様子を見て、問題がなければ壁や椅子に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がりましょう。

2.3 日常生活でできる予防と対策

症状を繰り返さないためには、日常生活での予防が重要です。食事、運動、生活習慣の3つの側面から対策を講じましょう。

食事:

  • 十分な水分補給: 脱水は循環血液量を減らし、低血圧の直接的な原因となります。のどが渇く前に、こまめに水分を摂る習慣をつけましょう。特に夏場や運動時は意識的に補給が必要です6
  • バランスの取れた食事: 1日3食、規則正しく食べることが自律神経のリズムを整えます。特に、血液の材料となる鉄分やビタミンB12を多く含む食品(赤身の肉、レバー、魚介類、大豆製品など)を意識して摂ることは、貧血の予防にもつながり、体調全般を整える上で有益です6
  • 塩分について: 一般的に高血圧予防のため減塩が推奨されますが、血圧が低く、医師から特に指導がない場合には、極端な減塩は避けた方が良い場合もあります。ただし、自己判断での塩分過剰摂取は危険です。必ず医師に相談してください。

運動:

  • 適度な運動習慣: ウォーキングや軽いジョギングなどの有酸素運動は、全身の血流を改善し、心肺機能を高め、自律神経のバランスを整える効果が期待できます6
  • 下半身の筋力トレーニング: 「足は第二の心臓」とも言われます。ふくらはぎや太ももの筋肉を鍛える(スクワット、かかとの上げ下ろし運動など)ことで、下半身に溜まった血液を心臓に送り返すポンプ機能が強化され、立ちくらみの予防に繋がります。

生活習慣:

  • ゆっくりとした動作: 朝、布団から起き上がる時、椅子から立ち上がる時など、急な体勢の変化を避け、常に「ゆっくり」を心がけましょう。一度座ってから立ち上がるなど、ワンクッション置くことも有効です1
  • 十分な睡眠と休養: 睡眠不足や過労は自律神経の乱れの大きな原因です。質の良い睡眠を確保し、疲れを溜めないようにしましょう6
  • ストレス管理: 自分なりのリラックス法(趣味、入浴、瞑想、ヨガなど)を見つけ、ストレスを上手に発散させることが大切です6
  • 長時間の立位を避ける: やむを得ず長時間立つ場合は、足踏みをしたり、足を交差させたりして、下半身の筋肉を動かすように意識しましょう。

これらのセルフケアは、良性の脳貧血に対して有効ですが、後述する危険な病気のサインが見られる場合には、これらの対処に頼らず、直ちに医療機関を受診する必要があります。

第3部:最も重要な知識 – 危険な「脳の貧血」を見分ける

これまでに解説した良性の「脳貧血」は、多くの場合、命に別状はありません。しかし、その症状の背後に、脳梗塞の前触れである「一過性脳虚血発作(TIA)」が隠れていることがあります。この二つを混同することは極めて危険です。ここでは、その違いを明確に理解し、見過ごしてはならない警告サインについて詳述します。

3.1 警告サイン:「一過性脳虚血発作(TIA)」とは

一過性脳虚血発作(Transient Ischemic Attack: TIA)は、文字通り「一時的に脳が虚血(血流不足)に陥る発作」です。これは「ミニ脳卒中」や「脳梗塞の前触れ」とも呼ばれ、極めて危険な状態です3

  • TIAのメカニズム: TIAの原因は、自律神経の不調や低血圧ではありません。動脈硬化によって狭くなった脳や首の血管、あるいは不整脈(特に心房細動)によって心臓の中にできた血栓(血の塊)が剥がれて血流に乗り、脳の動脈を一時的に詰まらせることで起こります11。血栓が短時間で自然に溶けたり、移動したりすることで血流が再開し、症状が消失するため「一過性」と呼ばれます。しかし、血管が詰まったという事実は、脳梗塞と全く同じメカニズムであり、脳が危険に晒されたことに変わりはありません12
  • TIAの重大性: TIAの症状は数分から1時間程度で消えてしまうため、「治ったから大丈夫」と軽く考えがちですが、これが最大の落とし穴です。TIAを発症した人のうち、かなりの割合がその後、本格的な脳梗塞を発症することが知られています。特に、発症後48時間以内のリスクは非常に高く13、この「警告」を無視することは、重い後遺症を残す脳梗塞を招き入れることに等しいのです3

3.2 TIAを疑うべき危険な症状:「FAST」を覚えよう

TIAや脳卒中を疑うべき典型的な症状を覚えるために、国際的に「FAST(ファスト)」という標語が用いられています。これは、確認すべき3つの症状と、取るべき行動の頭文字をとったものです。一つでも当てはまれば、すぐに救急車を呼ぶ必要があります14

  • F (Face) – 顔の麻痺
    確認方法: 「イー」と笑ってみてください。顔の片側が歪んだり、口の片方の端が上がらなかったりしませんか?
  • A (Arm) – 腕の麻痺
    確認方法: 両腕を肩の高さまで前に伸ばし、手のひらを上に向けて10秒間維持してみてください。片方の腕だけが力なく下がってきませんか?
  • S (Speech) – 言葉の障害
    確認方法: 「今日は天気が良い」「太郎が花子にリンゴをあげた」のような簡単な文章を声に出して言ってみてください。ろれつが回らなかったり、言葉がうまく出てこなかったり、意味の通じないことを言ったりしませんか?
  • T (Time) – 発症時刻の確認と救急要請
    行動: 上記のF・A・Sのうち、一つでも症状が見られたら、発症した時刻を正確に記憶・記録し、ためらわずに119番通報してください。治療開始は一刻を争います。

これらに加え、以下のような症状もTIAや脳卒中の重要なサインです3

  • 片方の目だけが突然見えなくなる、またはカーテンがかかったように暗くなる(一過性黒内障)。
  • 視野の半分が欠けて見える。
  • 片側の手足や顔の感覚が鈍くなる、しびれる。
  • 力はあるのに立てない、歩けない、ふらついてバランスが取れない。
  • これまでに経験したことのないような、突然の激しい頭痛。

3.3 脳貧血とTIAの症状比較

良性の脳貧血と危険なTIAの違いを明確に理解するために、以下の比較表を参考にしてください。これは、あなたやあなたの家族の命を守るための重要なチェックリストです。

項目 良性の脳貧血(主に起立性低血圧) 危険なサイン(一過性脳虚血発作: TIA)
主な原因 自律神経の乱れ、低血圧、脱水など1 脳血管の詰まり(血栓、動脈硬化)3
きっかけ 急な立ち上がり、長時間の立位、疲労、ストレスなど、特定の状況で誘発されることが多い1 きっかけなく突然起こることが多い
めまいの感覚 ふわふわする感じ、気が遠くなる感じが中心6 回転性のことも非回転性のこともあり、他の神経症状を伴うことが特徴
伴う症状 全身の症状(冷や汗、吐き気、顔面蒼白)が中心4 片側性の症状(顔の片側、片方の手足の麻痺・しびれ)、ろれつが回らない、言葉が出ない、片方の目が見えないなど3
持続時間 数秒~数分。横になるなど体勢を変えると速やかに改善する 数分~1時間程度。症状が消えても油断は禁物3
回復後 症状は完全に消え、後遺症はない 症状は消えるが、脳梗塞のリスクが極めて高い危険な状態3
取るべき行動 安全な場所で安静にする1 症状が消えても、直ちに救急要請または医療機関を受診する3

この表からわかる最も重要な鑑別点は、「片側性の神経症状」の有無です。良性の立ちくらみでは、症状は体全体に起こりますが、TIAでは脳の特定の領域がダメージを受けるため、その領域が支配する体の片側に症状が現れるのです。

3.4 迷わず救急車を呼ぶべき状況

TIAの症状は、その性質上、短時間で消えてしまいます。そのため、「治ったから大丈夫」「様子を見よう」と自己判断してしまうことが、最悪の結果を招きます3

TIAは、本格的な脳梗塞が起こる前の「最後の警告」です。この警告を真摯に受け止め、直ちに医療機関で原因を特定し、治療を開始することが、後の人生を左右する後遺症を防ぐ唯一の道です。

「いつもと違う」「これまでに経験したことのない」めまい、しびれ、頭痛。そして、FASTのサインが一つでも見られた場合。たとえ症状がすぐに消えたとしても、それは決して安心のサインではありません。それは、時間との戦いが始まった合図です。ためらわず、直ちに専門医のいる医療機関を受診するか、救急車を呼んでください10

第4部:背景にある大きなリスク – 脳卒中の予防と現状

TIAを見過ごすことがなぜそれほど危険なのか。それは、その先に「脳卒中」という、日本の医療における極めて重大な疾患が待ち構えているからです。ここでは、脳卒中の現状と、その発症を防ぐための具体的な知識について解説します。

4.1 なぜ脳卒中の知識が必要なのか

脳卒中は、決して他人事ではありません。そのインパクトは個人と社会全体に及びます。

  • 深刻な現状: 2021年の人口動態統計によれば、脳卒中(脳血管疾患)は日本人の死因の第4位を占めています14。また、命は助かったとしても、麻痺や言語障害などの後遺症により、介護が必要となる原因(要介護状態の原因)としては第1位であり、多くの人々の生活の質(QOL)を著しく低下させています15。厚生労働省の2023年の患者調査によれば、脳血管疾患で治療を受けている患者数は約189万人にのぼり、その中でも血管が詰まる「脳梗塞」が約131万人と大半を占めています16
  • 若年層にも忍び寄るリスク: 脳卒中は高齢者の病気というイメージが強いですが、10代や20代、30代といった若い世代でも発症する「若年性脳梗塞」も存在します17。若年層の場合、一般的な生活習慣病が原因となるケースもありますが、それに加えて、首の血管が裂ける「脳動脈解離」、脳の特殊な血管異常である「もやもや病」、心臓に生まれつき小さな穴が開いている「卵円孔開存」など、高齢者とは異なる特有の原因が関わっていることがあります1819。若いがゆえに症状が見過ごされやすく、診断が遅れる危険性も指摘されています20

TIAのサインを知り、迅速に対応することは、これらの深刻な事態を未然に防ぐための重要な第一歩なのです。

4.2 脳卒中を防ぐための生活習慣

脳卒中の発症リスクは、日々の生活習慣と密接に関連しています。特に、TIAを経験した後の二次予防はもちろん、TIAや脳卒中を一度も起こさないための一次予防が極めて重要です。

最大の敵、高血圧の管理:

高血圧は、脳卒中の最大の危険因子です14。血圧が高い状態が続くと、血管の壁に常に強い圧力がかかり、血管が硬く脆くなる「動脈硬化」が進行します。これが脳の血管で起これば、血管が詰まったり(脳梗塞)、破れたり(脳出血)するリスクが飛躍的に高まります。

日本の『脳卒中治療ガイドライン』では、患者の年齢や合併症に応じて、具体的な降圧目標値を設定しています。例えば、75歳未満の方や糖尿病、冠動脈疾患などを合併している場合は130/80mmHg未満、75歳以上の方などでは140/90mmHg未満といった目標が推奨されています2122

この血圧管理において、日本人が特に注意すべきなのが「減塩」です。日本人の平均食塩摂取量は1日あたり約10gであり、世界保健機関(WHO)が推奨する5g未満や、日本の厚生労働省が目標とする男性7.5g/日未満、女性6.5g/日未満を大幅に上回っています2324。食塩の過剰摂取は血圧を上昇させる直接的な原因であり25、意識的な減塩は最も効果的な脳卒中予防策の一つです。

その他の主要なリスク管理:

  • 脂質異常症: 血液中の悪玉(LDL)コレステロールが高いと動脈硬化を促進します。特にアテローム血栓性脳梗塞のリスクと強く関連しており、スタチン系の薬剤による脂質管理は脳梗塞予防に有効であることが示されています22
  • 糖尿病: 血糖値が高い状態は血管を傷つけ、動脈硬化を進行させます。血糖コントロールはもちろん、血圧や脂質などを含めた包括的な管理が重要です22
  • 喫煙: 喫煙は血管を収縮させて血圧を上げ、動脈硬化を悪化させる強力なリスク因子です。禁煙は脳卒中予防に不可欠です22
  • 過度の飲酒: 大量の飲酒習慣は、特に脳出血やくも膜下出血のリスクを著しく高めます22
  • 過重労働: 近年の研究では、長時間労働も脳卒中の独立したリスク因子となることが示されています。週35-40時間の労働に比べ、週55時間以上働いている人では脳卒中リスクが33%高まるというデータもあり26、働き方の見直しも重要です。

ここで重要なのは、良性の脳貧血と危険な脳卒中とでは、リスク因子や予防策が正反対になる場合があるという点です。例えば、低血圧が原因の脳貧血では適度な塩分摂取が勧められることがありますが、脳卒中の最大の原因である高血圧に対しては厳格な減塩が求められます。この根本的な違いを理解せず自己判断で対処することは、リスクを増大させることになりかねません。だからこそ、専門家による正確な診断が全ての基本となるのです。

4.3 医療機関での相談

症状に応じて、適切な医療機関を受診することが重要です。

  • 良性の脳貧血が疑われる場合: 立ちくらみが頻繁に起こる、日常生活に支障が出ているなど、起立性低血圧が疑われる症状で悩んでいる場合は、まずはお近くの一般内科や循環器内科に相談しましょう。原因となっている生活習慣や、服用中の薬の影響などを総合的に診断してもらえます1
  • TIAや脳卒中が疑われる場合: 「FAST」のサインや、これまでにない片側性のしびれ・麻痺、激しい頭痛など、TIAを疑う症状が少しでも見られた場合は、一刻を争います。様子を見るのではなく、直ちに救急車を呼ぶか、脳神経内科や脳神経外科のある救急病院を受診してください。
  • 予防のための受診: 特に自覚症状がなくても、高血圧、糖尿病、脂質異常症などの生活習慣病を指摘されている方や、家族に脳卒中になった人がいる方は、定期的な健康診断を受けることが重要です。また、脳ドックなどの専門的な検査は、自覚症状のない脳動脈瘤や血管の狭窄といったリスクを早期に発見する上で非常に有効です27

よくある質問

Q1: 立ちくらみが起きたら、どの科を受診すればよいですか?

A1: まず、最も重要なのは症状の見極めです。「FAST」のサイン(顔の麻痺、腕の麻痺、言葉の障害)や片側性のしびれなど、脳卒中を疑う症状があれば、すぐに救急車を呼び、脳神経内科や脳神経外科を受診してください。もし症状が、急な立ち上がり時に起こる典型的な「立ちくらみ」で、数分で治まるようであれば、まずはかかりつけの内科や循環器内科に相談するのが一般的です。原因が自律神経の乱れ、脱水、服用中の薬など多岐にわたるため、総合的に診てもらうことができます。

Q2: 「脳貧血」と医学的な「貧血」は薬で治せますか?

A2: それぞれ原因が異なるため、治療法も全く違います。医学的な「貧血」は、鉄分不足が原因であれば鉄剤の服用で改善が期待できます。一方、一般的な「脳貧血」(起立性低血圧)には、特効薬というものは少なく、まずは水分補給や生活習慣の改善が基本となります。症状が重い場合には、血圧を上げる薬が処方されることもありますが、これは医師の厳密な診断のもとで行われます1

Q3: 子供や若い人でもTIAになる可能性はありますか?

A3: はい、可能性はあります。頻度は高齢者に比べて低いですが、「若年性脳梗塞」という病態が存在します。原因は、一般的な動脈硬化だけでなく、首の血管が裂ける「脳動脈解離」や、心臓の構造上の問題(卵円孔開存など)といった、若年層に特有のものもあります1819。若いからといって脳卒中の可能性を否定せず、「FAST」のサインが見られたら、年齢に関わらず迅速な医療機関の受診が不可欠です。

Q4: TIAの症状がすぐ消えた場合でも、本当に救急車を呼ぶ必要がありますか?

A4: はい、絶対に必要です。 これが本稿で最も伝えたいメッセージの一つです。TIAの症状が消えるのは「治った」からではなく、一時的に血流が再開したに過ぎません。血管を詰まらせた原因(血栓など)は体内に残っており、いつ本格的な脳梗塞を引き起こすかわからない「時限爆弾」のような状態です。特に発症から48時間以内はリスクが非常に高いとされています13。症状が消えたとしても、それは治療を開始するための貴重な「猶予期間」を得たと考えるべきです。ためらわずに救急車を呼ぶか、専門の医療機関を直ちに受診してください。

結論:自己判断せず、正しい知識で賢明な対処を

本稿では、「脳貧血」という日常的な言葉の裏に隠された医学的な真実と、それに関連するリスクについて多角的に解説してきました。ここで、最も重要な要点を改めて確認します。

第一に、一般的に「脳貧血」と呼ばれる症状の多くは、生命に直接の危険が少ない「起立性低血圧」などの良性な状態であり、そのメカニズムを理解し、水分補給や動作の工夫といった生活習慣の改善によって、多くは対処・予防が可能であるということです。

しかし、第二に、そしてこれが最も強調すべき点ですが、その症状の背後には「一過性脳虚血発作(TIA)」、すなわち脳梗塞の前触れという、極めて重大な病気が隠れている可能性があるということです。良性の立ちくらみが全身の症状(冷や汗、吐き気など)を伴うのに対し、TIAは「顔の片側の麻痺」「片方の腕の麻痺」「ろれつが回らない」といった「片側性の神経症状」を特徴とします。この違いを認識することが、運命の分かれ道となり得ます。

「FAST」に代表されるTIAのサインが見られた場合、たとえ症状が数分で消え去ったとしても、それは決して「治った」わけではありません。それは、本格的な脳梗塞という破局が迫っていることを知らせる、最後の警告です。この警告を無視し、「いつものことだ」と自己判断で放置することほど危険なことはありません。

クラっとする、ふらつく。もしその症状が「いつもと違う」と感じたら、あるいはTIAを疑うサインが一つでも見られたら、どうかためらわないでください。自己判断という最も危険な選択を避け、直ちに専門医に相談するか、救急車を呼んでください。現代の医療では、迅速な対応によって脳梗塞の発症を防いだり、後遺症を最小限に食い止めたりすることが可能です。

あなた自身、そしてあなたの大切な人の未来を守るために、本稿で得た知識が、いざという時の賢明な行動に繋がる最も有効な「処方箋」となることを心から願っています。

免責事項本記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医学的アドバイスを構成するものではありません。健康に関する懸念や、ご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。

参考文献

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