【科学的根拠に基づく】虫が媒介する感染症のすべて:デング熱・SFTSから身を守る日本のリスクと対策完全ガイド
感染症

【科学的根拠に基づく】虫が媒介する感染症のすべて:デング熱・SFTSから身を守る日本のリスクと対策完全ガイド

夏の訪れとともに気になる「虫刺され」。しかし、その一口が、単なるかゆみでは済まない深刻な感染症の入り口になる可能性を、私たちはどれだけ認識しているでしょうか。この記事は、あなたの身近に潜む「見えない脅威」から、あなたと大切な家族を守るための羅針盤です。世界保健機関(WHO)によると、世界で発生する全感染症の17%以上を蚊やダニなどが媒介する感染症が占め、年間70万人以上がそのために命を落としています1。これはもはや、熱帯地方だけの問題ではありません。地球温暖化による媒介昆虫の生息域北上2、そしてグローバルな人の往来と物流の活発化5により、日本の感染症リスク地図は静かに、しかし確実に書き換えられています。2014年に東京の代々木公園を中心に発生したデング熱の国内感染7は、都市部における新たなリスクを浮き彫りにしました。また、西日本を中心に拡大し、致死率が時に30%にも達する重症熱性血小板減少症候群(SFTS)8は、身近な自然に潜む脅威の深刻さを示しています。これらの現実は、私たち一人ひとりが正しい知識を持ち、備えることの重要性を物語っています。この記事は、厚生労働省、国立感染症研究所(NIID)、世界保健機関(WHO)、米国疾病予防管理センター(CDC)といった国内外の権威ある機関の最新データと診療ガイドラインに基づいています。科学的根拠に基づいた正確な知識と、今日から実践できる具体的な行動計画を提示することで、読者が「知らなかった」から「知って、備える」へと移行できるよう、専門家の視点から徹底的に解説します。

医学監修:
この記事で言及されている重症熱性血小板減少症候群(SFTS)に関する記述は、本疾患研究の国内第一人者であり、「SFTS診療の手引き」の作成を主導した国際医療福祉大学医学部感染症学講座教授、加藤康幸医師の研究成果と指針に基づいています。また、ウイルス性疾患に関する専門的知見は、日本大学生物資源科学部獣医学科の越後谷裕介准教授の研究領域を参考にしています。


この記事の科学的根拠

本稿は、研究報告書で明示的に引用された最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下は、参照された実際の情報源と、提示された医学的指針との直接的な関連性を示したリストです。

  • 世界保健機関(WHO): 本記事におけるベクター媒介感染症の世界的状況、定義、およびデング熱やマラリアなどの主要疾患の疫学に関する記述は、WHOが公表するファクトシートおよび公式報告に基づいています15
  • 米国疾病予防管理センター(CDC): 個人の予防策、特に虫除け剤(ディート、ペルメトリン)の有効性と使用方法、および国の公衆衛生戦略に関する指針は、CDCの推奨事項を引用しています6374144
  • 日本の厚生労働省および国立感染症研究所(NIID): 日本国内の各感染症(日本脳炎、SFTS、つつが虫病など)の発生状況、リスク評価、および治療法に関する記述は、これらの機関が発行する「蚊媒介感染症の診療ガイドライン」71622や各種報告書、サーベイランスデータに準拠しています。
  • 学術論文: 気候変動がベクター媒介感染症に与える影響に関する分析は、査読付き学術雑誌に掲載された複数の研究論文に基づいています234

要点まとめ

  • 日本は、デング熱のような「輸入感染症」と、SFTSのような「国内土着感染症」という2種類のリスクに直面しています。
  • 蚊やマダニに「刺されない」ことが最も重要です。服装の工夫に加え、皮膚には「ディート」や「イカリジン」、衣類には「ペルメトリン」を含む製品を正しく使用することが最強の予防策です。
  • 山林や草地への立ち入り後、または海外渡航後に原因不明の発熱や発疹が出た場合は、その行動履歴を必ず医師に伝えてください。これが早期診断の鍵です。
  • 地球温暖化により、これまで安全とされた地域でも感染症のリスクが高まる可能性があります。継続的な情報収集と対策が不可欠です。

第1部:虫媒介感染症の基礎知識 – 世界と日本の現状

1-1.「ベクター媒介感染症」とは? – 科学的定義と感染のメカニズム

「虫が媒介する病気」は、専門的には「ベクター媒介感染症(Vector-Borne Diseases)」と呼ばれます。ここでいう「ベクター(Vector)」とは、病原体(ウイルス、細菌、原虫など)をある宿主(人間や動物)から別の宿主へと運ぶ役割を担う「媒介生物」を指します5。これらの多くは、私たちの血を吸う蚊、ダニ、ノミなどの節足動物です1

感染のメカニズムは、巧妙かつ効率的に行われます。まず、ベクターが病原体に感染している人間や動物の血を吸う際、血液と共に病原体を体内に取り込みます。ベクターの体内で病原体は増殖・成熟し、感染力を持つ状態になります。その後、このベクターが別の健康な人間を吸血する際に、唾液などを通じて病原体を注入し、新たな感染を引き起こすのです1

このプロセスを通じて運ばれる病原体は多岐にわたります。デング熱や日本脳炎を引き起こす「ウイルス」、ライム病やつつが虫病の原因となる「細菌(ボレリアやリケッチアなど)」、そしてマラリアを引き起こす「原虫」など、様々な種類の微生物がベクターを介して私たちの体に侵入します1

1-2. 世界が直面する脅威:WHOが警鐘を鳴らす主要な疾患

ベクター媒介感染症がもたらす健康への影響は、地球規模で極めて深刻です。WHOの報告によれば、これらの疾患は全感染症の17%以上を占め、毎年70万人以上の命を奪っています1

その中でも特に甚大な被害をもたらしているのがマラリアです。主にハマダラカによって媒介されるこの寄生虫感染症は、世界で年間2億4900万人が罹患し、60万人以上が死亡しています。その犠牲者の多くは、抵抗力の弱い5歳未満の子供たちです1。また、ネッタイシマカやヒトスジシマカが媒介するデング熱は、世界で最も急速に拡大しているウイルス性疾患の一つであり、132カ国以上、39億人を超える人々が感染のリスクに晒されています1

その他にも、南米で問題となるシャーガス病(サシガメが媒介)、アフリカや中東、アジアで広がるリーシュマニア症(サシチョウバエが媒介)、淡水生の巻貝が媒介する住血吸虫症など、多くの疾患が世界中の人々の健康と生活を脅かしています5。これらの疾患の多くは、公衆衛生サービスへのアクセスが限られた貧困層に特に大きな打撃を与えることから、「顧みられない熱帯病(Neglected Tropical Diseases)」とも呼ばれ、国際社会が一体となって対策に取り組むべき重要な課題とされています2

1-3. 日本における虫媒介感染症の全体像

日本国内で私たちが注意すべき虫媒介感染症は、その感染経路とリスクの源泉から、大きく二つのカテゴリーに分類して理解することが極めて重要です。この分類を理解することで、個々人が自身の生活様式に合わせて、どのようなリスクに特に注意を払うべきかが明確になります。

輸入感染症(Imported Diseases)

これは、海外の流行地で感染し、帰国後に国内で発症するケースです。デング熱、チクングニア熱、ジカウイルス感染症、マラリアなどが代表例です。グローバル化が進んだ現代において、海外渡航者がこれらのウイルスや原虫を国内に持ち込むことは避けられません。そして、国内にこれらの病気を媒介できる蚊(特にヒトスジシマカ)が生息しているため、持ち込まれたウイルスが「国内の蚊」を介して限定的な地域流行(アウトブレイク)を引き起こすリスクが常に存在します6。2014年のデング熱の国内流行は、まさにこのシナリオが現実となった事例です。したがって、海外渡航の予定がある人はもちろん、都市部に住むすべての人々がこのリスクを認識する必要があります。

国内土着感染症(Endemic Diseases)

これは、日本国内に常在する病原体を、国内に生息するベクターが媒介することで感染が成立するケースです。日本脳炎、つつが虫病、日本紅斑熱、重症熱性血小板減少症候群(SFTS)、ダニ媒介脳炎などがこれに該当します11。これらのリスクは、主に山林や草地、畑といった自然環境に存在します。農作業や林業に従事する人々、あるいはハイキングやキャンプなどのアウトドア活動を好む人々は、特に高いリスクに晒されることになります。

このように、日本の虫媒介感染症のリスクは、「海外から持ち込まれる脅威」と「国内の身近な自然に潜む脅威」という二つの側面から捉える必要があります。このフレームワークを念頭に置くことで、次章以降で解説する各疾患のリスクが、より自分事として理解しやすくなるでしょう。

表1: 日本で注意すべき主な虫媒介感染症一覧

この記事で詳しく解説する疾患の全体像を把握するため、以下の表に主要な情報をまとめます。この表は、各疾患の基本的な特徴を比較し、理解を深めるためのロードマップとして機能します。

疾患名 病原体の種類 主な媒介生物 潜伏期間 主要な症状 国内の主な発生・注意地域
デング熱 ウイルス 蚊(ヒトスジシマカ等) 3~7日 発熱、頭痛、関節痛、発疹 主に輸入感染症だが、国内媒介蚊の生息域(東北南部以南)で国内感染リスクあり7
日本脳炎 ウイルス 蚊(コガタアカイエカ) 6~16日 発熱、頭痛、嘔吐、意識障害、けいれん 西日本を中心に全国(特に養豚場の周辺)17
重症熱性血小板減少症候群(SFTS) ウイルス マダニ 6~14日 発熱、消化器症状、血小板減少 西日本を中心に発生地域が拡大中11
つつが虫病 細菌(リケッチア) ツツガムシ 5~14日 高熱、発疹、特徴的な刺し口(痂皮) 北海道を除く全国14
日本紅斑熱 細菌(リケッチア) マダニ 2~8日 高熱、発疹、刺し口 関東以西の温暖な地域12
ダニ媒介脳炎 ウイルス マダニ 7~14日 発熱、頭痛、髄膜炎・脳炎症状 北海道11
ジカウイルス感染症 ウイルス 蚊(ヒトスジシマカ等) 2~7日 微熱、発疹、結膜炎、関節痛、小頭症リスク 主に輸入感染症7
チクングニア熱 ウイルス 蚊(ヒトスジシマカ等) 3~7日 発熱、激しい関節痛、発疹 主に輸入感染症1

第2部:【日本で特に注意すべき疾患①】蚊が媒介する感染症

蚊は、私たちにとって最も身近な吸血昆虫ですが、同時に世界で最も多くの人間を死に至らしめる生物でもあります。日本においても、蚊が媒介する感染症は公衆衛生上の重要な課題です。

2-1. 日本脳炎:ワクチンで制御されたが、今なお残るリスク

日本脳炎は、かつて日本で猛威を振るった深刻な感染症です。1960年代には年間1,000人を超える患者が報告されていましたが、1954年にワクチン接種が開始され、その後の普及により患者数は劇的に減少しました。1992年以降、年間の患者報告数は10人以下で推移しています17

しかし、この「成功」はウイルスが日本からいなくなったことを意味するわけではありません。日本脳炎ウイルスは、主にブタの体内で増殖し、そのブタを刺した蚊(コガタアカイエカ)を介して人に感染するという感染環を維持しています。この感染環は、特に養豚が盛んな西日本を中心に今なお存在しており、ウイルスを持つ蚊は日本中に分布しています17

現在の主なリスクグループは、加齢により免疫が低下した高齢者です。また、2005年から2009年にかけて、当時のワクチン(マウス脳由来ワクチン)の副反応への懸念から、国が積極的な接種勧奨を一時的に差し控えた時期がありました。この期間に生まれた世代(現在10代後半から20代前半)は、ワクチン接種率が低く、抗体を持っていない可能性があり、潜在的なリスクグループと考えられています17

日本脳炎の恐ろしさは、その重篤さにあります。感染しても多くの場合は症状が出ない不顕性感染に終わりますが、発症した場合の致死率は20~40%と非常に高く、命を取り留めても生存者の45~70%に麻痺や精神障害などの重い後遺症が残るとされています17。ワクチンによる予防が極めて重要な疾患です。

2-2. デング熱:都市部でも発生した「輸入感染症」の脅威

2014年夏、日本中に衝撃が走りました。東京の代々木公園を中心に、約70年ぶりとなるデング熱の国内感染例が160例以上報告されたのです7。これは、海外の流行地でデングウイルスに感染した人が帰国し、その人を国内に生息するヒトスジシマカが吸血し、その蚊が公園を訪れた別の人を吸血することで感染が広がったと考えられています。

この事例が示す重要な点は、デング熱のリスクがもはや「海外」だけのものではないということです。デング熱を媒介するヒトスジシマカ、通称「ヤブ蚊」は、日本の広範囲(東北地方南部以南)に生息しています。彼らは、森林のような自然環境だけでなく、私たちが暮らす都市部の人工的な環境に巧みに適応しています。ベランダの植木鉢の受け皿、放置された空き缶やペットボトル、雨どいの詰まりなど、ごくわずかな水たまりがあれば、そこで幼虫(ボウフラ)が発生し、繁殖することができるのです21

この事実は、デング熱のリスクが「都市型災害」としての側面を持つことを意味します。リスクの核心は、山林の奥深くではなく、人口が密集し、人と蚊との接触機会が多い都市環境そのものにあります。これは、後述するSFTSのような「自然環境型」のリスクとは質的に異なります。したがって、デング熱対策は、個人の予防策に加えて、地域社会全体で蚊の発生源となる水たまりをなくしていくという公衆衛生活動が不可欠となります。

デング熱の典型的な症状は、3日から7日の潜伏期間の後、突然の38℃以上の高熱、目の奥が痛むほどの激しい頭痛、関節痛、筋肉痛で発症します。熱が下がり始める頃に、体に赤い発疹が現れることも特徴です16

しかし、最も警戒すべきは、一部の患者にみられる重症化です。解熱期に、血管から血漿(血液の液体成分)が漏れ出し、循環不全やショック状態に陥る「デングショック症候群」や、血小板の減少による出血傾向が著しくなる「デング出血熱」を発症することがあります。激しい腹痛、持続する嘔吐、鼻血や歯肉からの出血、血便などの症状は、重症化の危険なサイン(ワーニングサイン)であり、直ちに医療機関での集中治療が必要となります16

2-3. ジカウイルス感染症、チクングニア熱など、海外渡航で警戒すべき疾患

デング熱以外にも、海外渡航の際に警戒すべき蚊媒介感染症があります。これらは日本の「蚊媒介感染症の診療ガイドライン」でもデング熱と並行して扱われており、症状が似ているため医師による正確な鑑別診断が重要です7

ジカウイルス感染症(ジカ熱)

デング熱と同様に、主にヒトスジシマカによって媒介されます。症状は比較的軽度で、微熱、発疹、結膜炎、関節痛などが主ですが、約8割の人は感染しても症状が出ない不顕性感染とされています7。この疾患の最大のリスクは、妊娠中の女性が感染した場合に起こる「先天性ジカウイルス感染症」です。ウイルスが胎盤を通じて胎児に感染し、脳の発育が不十分になる小頭症などの深刻な先天異常を引き起こす可能性があることが確認されています7。この深刻さから、WHOは過去に「国際的に懸念される公衆の保健上の緊急事態(PHEIC)」を宣言しました7

チクングニア熱

「チクングニア」とは、アフリカの言葉で「体を折り曲げる者」を意味します。その名の通り、他の症状に比べて激烈な関節痛が最大の特徴です16。発熱や発疹も伴いますが、熱は数日で解熱することが多い一方で、関節痛だけが数ヶ月、時には数年にわたって患者を苦しめ続けることがあります1

これらの疾患は、いずれも海外の熱帯・亜熱帯地域で流行しています。該当地域へ渡航する際には、後述する予防策を徹底し、蚊に刺されないように最大限の注意を払うことが極めて重要です。

第3部:【日本で特に注意すべき疾患②】マダニ・ツツガムシが媒介する感染症

日本の身近な自然環境、特に山林や草地、畑などには、蚊とは異なる種類の脅威が潜んでいます。それは、様々な病原体を媒介するマダニやツツガムシです。これらが引き起こす感染症は、時に命に関わる深刻な事態を招きます。

3-1. 重症熱性血小板減少症候群(SFTS):西日本で拡大する致死性の高い病

重症熱性血小板減少症候群(SFTS)は、現在日本で最も警戒すべきダニ媒介感染症の一つです。2013年に国内で初めての患者が確認されて以来、主に西日本の25府県以上で発生が報告されており、その報告数は年間100例を超え、発生地域も徐々に東へと拡大する傾向にあります11。SFTSの最も恐ろしい点は、その致死率の高さにあります。報告によって幅はありますが、10%から30%の患者が命を落としており、特に高齢者は重症化しやすいとされています9

主な感染経路は、SFTSウイルスを保有するマダニ(フタトゲチマダニやキチマダニなど)に咬まれることです9。しかし、感染経路はそれだけではありません。SFTSウイルスに感染して体調を崩しているイヌやネコなどの体液(血液、唾液など)に直接触れることで人が感染した事例や、SFTS患者の治療にあたった医療従事者や家族が、患者の血液に接触して感染したヒト-ヒト感染の事例も国内外で報告されています9

潜伏期間はマダニに咬まれてから6日から14日ほどです。主な初期症状は、原因不明の発熱、強い倦怠感、そして食欲不振、嘔吐、下痢といった消化器症状です15。病名が示す通り、血液検査では血小板と白血球の著しい減少が特徴的な所見です。病状が進行すると、意識障害やけいれんなどの神経症状、あるいは皮下出血や下血などの出血傾向をきたし、多臓器不全に至ることもあります。

治療に関しては、長らく対症療法が中心でしたが、2024年に抗ウイルス薬である「ファビピラビル(アビガン)」がSFTSに対する治療薬として日本で承認されたことは、大きな進展です29。しかし、依然として早期に診断し、適切な支持療法を開始することが救命の鍵であることに変わりはありません。この疾患の診療においては、SFTS研究の第一人者である加藤康幸医師(国際医療福祉大学)らが中心となって作成した「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)診療の手引き」が、日本の臨床現場における標準的な指針となっています2930

3-2. つつが虫病(スクラブチフス):見過ごされやすい「刺し口」が特徴

つつが虫病は、古くから日本で知られているダニ媒介感染症です。病原体はリケッチアの一種である Orientia tsutsugamushi で、これを保有するツツガムシ(ダニの一種)の「幼虫」に刺されることで感染します14。ツツガムシの幼虫は非常に小さく(約0.3mm)、刺されても痛みやかゆみを感じないため、自覚がないケースがほとんどです。

この病気には顕著な地域性と季節性があります。これは、病原体を媒介するツツガムシの種類と、その活動時期が地域によって異なるためです。例えば、アカツツガムシは北日本の一部に生息し夏に、フトゲツツガムシは全国に分布し春と秋に、タテツツガムシは東北南部から九州にかけて生息し秋に、それぞれ活動のピークを迎えます14

臨床症状の三主徴は、5日から14日の潜伏期間の後に現れる「高熱」「発疹」「刺し口(eschar)」です14。特に診断の重要な手がかりとなるのが「刺し口」です。これは、ツツガムシに刺された部位が直径5~10mmほどの赤い腫れとなり、中心に黒いかさぶた(痂皮)を形成したものです。痛みやかゆみはほとんどなく、脇の下や下腹部、太ももの内側など、衣類で覆われた柔らかい皮膚の部位に見つかることが多いため、患者自身も気づいていないことが少なくありません。医師が注意深く全身を診察して初めて発見されることも多い、重要な所見です。診断は、この臨床所見に加え、血液中の抗体価を測定する血清診断や、血液や刺し口の組織を用いたPCR法によって確定されます14

3-3. 日本紅斑熱:SFTSやつつが虫病との違い

日本紅斑熱も、マダニによって媒介されるリケッチア感染症です。1984年に徳島県で初めて報告されて以来、主に関東以西の温暖な地域での発生報告が多く、近年は年間400件を超えるなど増加傾向にあります12。2019年までの国内累計報告数は2,726件にのぼります31

マダニに刺されてから2日から8日という、つつが虫病よりやや短い潜伏期間の後、高熱、発疹、刺し口が現れます15。これらの症状はつつが虫病と非常によく似ており、臨床症状だけで両者を鑑別することは困難です。ただし、一つの鑑別点として、日本紅斑熱では手や足のひらにも発疹が広がることが多いのに対し、つつが虫病では比較的稀であるという傾向があります。

治療法はつつが虫病と同様、テトラサイクリン系の抗菌薬が著効します。そのため、これらの疾患が疑われる地域で、特徴的な症状を持つ患者を診察した際には、検査結果を待たずに治療を開始する「経験的治療」が重要となります。早期の診断と治療が、重症化を防ぎ、予後を大きく改善します34

3-4. ダニ媒介脳炎:北海道で確認される神経系の疾患

ダニ媒介脳炎は、フラビウイルス科に属するウイルスによって引き起こされる神経系の疾患です。世界的には中央・東ヨーロッパからロシア、中国にかけて広く分布していますが、日本では1993年以降、北海道でのみ患者の発生が確認されています11

主な感染経路は、ウイルスを保有するマダニに咬まれることですが、ヨーロッパでは感染したヤギやヒツジの未殺菌の乳や乳製品を摂取して感染した例も報告されています11

潜伏期間は7日から14日。多くの場合、第一期として発熱、頭痛、筋肉痛などのインフルエンザ様の症状が現れて一旦軽快します。しかし、その後、患者の一部でウイルスが中枢神経系に侵入し、第二期として髄膜炎や脳炎を発症します。激しい頭痛、高熱、嘔吐に続き、意識障害、けいれん、麻痺などの重篤な神経症状を引き起こすことがあります。致死率も報告されており、回復しても麻痺などの神経学的な後遺症が残ることがあります13

この疾患に対しては、予防のためのワクチンが存在します。流行地であるヨーロッパで開発されたワクチンが日本にも輸入されており、北海道の流行地域で林業や野外活動に頻繁に従事するなど、感染リスクが高いと考えられる場合に接種が検討されます13

ダニ媒介感染症のリスクを考える上で最も重要なことは、これらの疾患が単独で存在するのではなく、一つの「症候群」として捉える必要があるという点です。SFTS、つつが虫病、日本紅斑熱は、初期症状が発熱、倦怠感、発疹など、互いに、そして一般的な風邪とも非常によく似ています。そのため、症状だけで特定の病気を自己判断することは不可能であり、医療の専門家にとっても初期の鑑別は容易ではありません。

ここで診断への最も重要な鍵となるのが、「マダニやツツガムシに咬まれる可能性のある行動をしたか」という疫学的な情報です。山林や草地への立ち入り、農作業、ハイキングといった共通のリスク行動の有無が、診断への最短ルートとなります。したがって、一般市民にとって最も重要なメッセージは、「この症状が出たらこの病気だ」と覚えることではなく、「リスクのある場所へ行った後に原因不明の体調不良が起きたら、必ずその事実(いつ、どこへ行ったか)を医師に伝える」という行動変容を促すことにあります。この一点を実践することが、早期診断と救命に直結するのです。

第4部:症状と受診のタイミング – 命を守るための判断基準

虫媒介感染症は、早期発見・早期治療が重症化を防ぐための絶対的な鍵となります。しかし、初期症状は他の多くの病気と似ているため、受診すべきかどうかの判断に迷うことも少なくありません。ここでは、命を守るための具体的な判断基準を解説します。

4-1. 初期症状を見逃さない:共通する危険なサイン

多くの虫媒介感染症には、共通してみられる初期症状があります。以下のサインに注意してください16

  • 突然の高熱: 38℃以上の急な発熱。
  • 激しい頭痛: 特に目の奥が痛むような頭痛(デング熱など)。
  • 筋肉痛・関節痛: インフルエンザのような体の節々の痛み。
  • 原因不明の倦怠感: 体が鉛のように重く感じる強いだるさ。
  • 発疹: 体や手足に現れる赤い斑点や紅斑。

これらの症状に加えて、特に注意が必要な「重症化のサイン」があります。以下の症状が一つでも見られた場合は、病状が急速に悪化している可能性があり、一刻も早く医療機関を受診する必要があります15

  • 消化器症状: 止まらない嘔吐、激しい腹痛、下痢。
  • 意識レベルの低下: 呼びかけへの反応が鈍い、うわごとを言う、混乱している。
  • 出血傾向: 鼻血、歯ぐきからの出血、皮膚のあちこちにできる紫色のあざ(紫斑)、血便や黒い便(下血)。

4-2. いつ、何科を受診すべきか? – 医師に伝えるべき「魔法の言葉」

受診すべきタイミングは、「上記の症状」と「リスク行動」が結びついた時です。症状だけでは判断が難しくても、リスク行動に心当たりがあれば、それは医療機関を受診すべき強いシグナルです。

そして、診察室で医師に伝えるべき、診断を大きく助ける「魔法の言葉」があります。それは、あなたの行動履歴です。

「○日前に、△△(具体的な地名)の山林/草地/公園/畑に入りました」
→ これは、マダニやツツガムシが媒介するSFTS、日本紅斑熱、つつが虫病、ダニ媒介脳炎などを疑う上で最も重要な情報です38

「○週間前に、△△(国名や地域名)へ旅行/出張に行きました」
→ これは、蚊が媒介するデング熱、ジカウイルス感染症、チクングニア熱、マラリアなどの輸入感染症を疑うための決定的な手がかりとなります37

「体にダニに咬まれたような跡があります」
→ 刺し口の有無は、診断を確定する上で非常に有力な所見です。

これらの情報は、医師が膨大な可能性の中から適切な鑑別診断リストを作成し、必要な検査を迅速に選択するための羅針盤となります。

受診する診療科については、まずは最寄りの内科やかかりつけのクリニックで問題ありません。皮膚に発疹や刺し口などの異常がある場合は、皮膚科を受診するのも良い選択です。地域のクリニックで診断が難しい場合や、入院治療が必要と判断された場合は、感染症の専門医がいる総合病院や専門医療機関へ紹介されるのが一般的です36

4-3. 診断プロセス:医療機関で行われる検査

医療機関では、問診と身体診察に加え、科学的な検査によって診断を確定します6

  • 初期評価(問診・診察): 医師はまず、先に述べた「魔法の言葉」にあたる渡航歴や野外活動歴を詳しく聴取します。同時に、発疹の性状や分布、刺し口の有無などを注意深く診察します。
  • 臨床検査(血液検査など):
    • 一般血液検査: 全ての患者に行われる基本的な検査です。白血球数や血小板数の著しい減少、肝機能を示す酵素(AST, ALT)の上昇は、SFTSやデング熱、リケッチア感染症などで共通して見られる重要な所見であり、疾患の重症度を把握する上でも役立ちます16
    • 病原体特異的検査: 疾患を確定するための検査です。
      • 遺伝子検出法(PCR法など): 病原体そのものが持つ特有の遺伝子を増幅して検出する方法です。感度・特異度ともに高く、感染の急性期に迅速な診断が可能です。血液、尿、髄液、あるいは刺し口の痂皮(かさぶた)などが検査材料として用いられます14。特にジカウイルス感染症では、迅速検査法であるRT-LAMP法も国内で実用化されています22
      • 抗体検査(血清診断): 病原体に感染した際に体内で作られる抗体(IgM抗体やIgG抗体)を検出する方法です。IgM抗体は感染初期に、IgG抗体は少し遅れて上昇します。発症初期(急性期)と、回復期の2時点で採血を行い(ペア血清)、抗体価が著しく上昇していることを確認できれば、確定診断となります。これは感染したことの動かぬ証拠となる、信頼性の高い検査法です14

第5部:今日からできる最強の予防策 – 個人・家庭・地域で身を守る

虫媒介感染症に対する最も効果的で確実な戦略は、病原体を持つベクター、すなわち蚊やダニに「接触しない」「刺されない」ことです。ここでは、科学的根拠に基づいた最強の予防策を、個人、家庭、そしてペットのレベルに分けて具体的に解説します。

5-1. 個人レベルの防御術:服装と虫除け剤の科学

野山や草むら、蚊の多い場所へ出かける際の個人防護は、感染予防の第一線です。

服装の工夫(物理的バリア)

基本中の基本は、肌の露出を避けることです。長袖、長ズボンを着用し、サンダル履きは避けましょう21。さらに効果を高めるには、シャツの裾をズボンの中にたくし込み、ズボンの裾を靴下や長靴の中に入れることで、衣服の隙間からの虫の侵入を防ぎます35。マダニ対策としては、マダニが付着しても見つけやすいように、白など明るい色の服を選ぶこと、そしてマダニが付きにくい表面がツルツルした素材(例:レインウェアやウィンドブレーカー)の衣服を選ぶことも有効です35

虫除け剤(化学的バリア)の正しい選択と使用

虫除け剤は、正しく使えば非常に効果的な予防手段です。しかし、製品によって成分や用途が異なるため、その特性を理解して使い分けることが重要です。

  • 皮膚用忌避剤(肌に塗るタイプ):
    • ディート(DEET): 50年以上の使用実績があり、多くの虫に対して高い忌避効果が証明されている「ゴールドスタンダード」です。濃度が高いほど効果の持続時間が長くなりますが、特有の匂いがあり、プラスチック製品を溶かすことがあります。また、12歳未満の子供への使用には、年齢に応じて濃度や使用回数の目安が定められています。
    • イカリジン(Icaridin): 比較的新しい成分で、DEETに匹敵する効果を持ちながら、匂いが少なく、衣類への影響もありません。子供への使用制限がDEETよりも緩やかで、年齢に関わらず使用できる製品が多いのが特徴です。
  • 衣類・ギア用殺虫剤(服にかけるタイプ):
    • ペルメトリン(Permethrin): これは「忌避剤(避ける薬)」ではなく、「殺虫剤(殺す薬)」です。皮膚に直接使用することはできませんが、衣類や靴、テント、帽子などの布製品に事前にスプレーしておくことで、そこに付着したマダニや蚊を数分以内に麻痺させ、殺す効果があります37。CDC(米国疾病予防管理センター)がダニ対策の「切り札」として強く推奨しており、その効果は絶大です37。皮膚への吸収率はDEETの20分の1以下と非常に低く、正しく乾燥させた衣類を着用する限り、人体へのリスクは低いと評価されています37。市販のスプレーで自分で処理する方法のほか、予めペルメトリン処理が施された衣類も販売されています。

これらの化学的バリアを最大限に活用するための鍵は、「組み合わせ」です。例えば、本格的な登山や渓流釣りなど、マダニのリスクが非常に高い環境では、「ペルメトリンで処理した衣類を着用し、露出している皮膚にはDEETまたはイカリジンを塗る」という二段構えが最も確実な防御策となります。

表2: 虫除け剤(忌避剤)の成分別特徴と選び方

薬局には多種多様な製品が並び、どれを選べば良いか迷うことも多いでしょう。以下の表は、あなたの目的と状況に応じた最適な選択を助けるためのガイドです。

成分名 適用対象 主な対象 特徴・効果 子供への使用注意点 賢い使い方
ディート (DEET) 皮膚 蚊、マダニ、ブユ等 効果が高く持続時間も長い。実績豊富。特有の匂いあり。 12歳未満は濃度・使用回数に注意が必要。6ヶ月未満は使用不可。 長時間のアウトドア活動、流行地への渡航時に。
イカリジン (Icaridin) 皮膚 蚊、マダニ、ブユ等 DEETと同等の効果。無臭で衣類を傷めない。 年齢制限がない製品が多く、子供にも使いやすい。 日常的な公園遊び、匂いが気になる場合に。
ペルメトリン (Permethrin) 衣類・ギア マダニ、蚊、ノミ等 接触した虫を殺す「殺虫」効果。忌避効果はない。洗濯しても数回効果が持続。 皮膚には絶対に使用しない。乾燥後の衣類は安全。 登山、キャンプ、農作業など、ダニのリスクが高い活動の前に衣類に処理。

5-2. 家庭レベルの対策:蚊とダニの発生源を断つ

感染症のリスクは、家の外だけでなく、私たちの住環境そのものにも潜んでいます。

対・蚊(発生源対策)

蚊の幼虫であるボウフラは、わずかスプーン一杯の水でも発生します。最も効果的な対策は、家の周りから水たまりを徹底的になくすことです21

  • 植木鉢の受け皿に溜まった水は週に一度は捨てる。
  • 屋外に放置されたバケツ、空き缶、古タイヤは片付けるか、逆さにしておく。
  • 雨どいが落ち葉などで詰まっていないか定期的に点検する。

また、窓やドアに網戸を設置し、破れや隙間がないか確認することも、成虫の屋内への侵入を防ぐ上で重要です1

対・マダニ(潜伏場所対策)

マダニは、庭の隅の草むらや、手入れされていない藪、湿った落ち葉の下などに潜んでいます。定期的に草刈りを行い、庭を風通しの良い状態に保つこと、落ち葉を掃除してマダニが隠れる場所をなくすことが、庭での感染リスクを低減させます38

5-3. ペットを守り、家庭への侵入を防ぐ

ペット、特に散歩に行くイヌや屋外に出るネコは、私たち人間と同様に、あるいはそれ以上にダニ媒介感染症のリスクに晒されています。ペット自身がライム病やSFTS、日本紅斑熱などを発症することもあります6

  • ペットの予防: 獣医師に相談し、ペットのライフスタイルに合ったダニ・ノミの駆除薬(スポットオンタイプや経口薬など)を定期的に使用することが、ペットの健康と家族の安全を守るために不可欠です41
  • 家庭への持ち込み防止: ペットは、散歩の際にマダニを体に付けて家に持ち帰ってしまうことがあります。これが家庭内での感染リスクにつながる可能性があるため、散歩から帰った際には、ペットの体にマダニが付着していないか、特に耳や指の間、脇の下などを丁寧にチェックする習慣をつけましょう6

第6部:未来への視点 – 変化する環境と科学の最前線

虫媒介感染症との闘いは、常に変化する環境と、それに対抗する科学技術の進歩とのせめぎ合いです。未来のリスクを予測し、最新の科学的知見を理解することは、これからの時代を生きる私たちにとって不可欠です。

6-1. 地球温暖化の影響:日本の感染症リスクはどう変わるか?

気候変動は、虫媒介感染症の地理的・時間的な分布を大きく変える最も強力な要因の一つです2

  • ベクター生息域の拡大: 平均気温の上昇は、これまで寒すぎて生息できなかった地域へ、媒介昆虫が分布を広げることを可能にします。例えば、デング熱を媒介するヒトスジシマカの生息北限は、年々北上しています。将来的には、これまでリスクが低いとされてきた北日本や標高の高い地域でも、これらの感染症のリスクが現実のものとなる可能性があります3
  • 活動期間の長期化: 温暖な気候は、蚊やダニが活動できる期間を春先から晩秋まで延長させます。これは、私たちが感染症に曝される期間が長くなることを意味します2
  • 病原体発育の加速: 気温が高い環境では、ベクターの体内で病原体が感染力を持つまでに成熟する期間(外的潜伏期間)が短縮されます。これにより、感染のサイクルがより速く回転し、流行が拡大しやすくなる可能性があります3

これらの変化は、もはや遠い未来の話ではありません。気候変動は、降雨パターンの変化や干ばつ、洪水といった異常気象を通じて生態系全体に複雑な影響を及ぼし、これまで知られていなかった新たな感染症の出現(エマージング)や、制圧されたはずの感染症の再興(リ・エマージング)を促す要因にもなり得ます3

6-2. 研究の進歩:新たなワクチン・治療薬・監視技術への期待

変化する脅威に対し、科学界もまた、新たな対抗策の開発を続けています。

  • 治療薬とワクチンの開発: SFTSに対する治療薬としてファビピラビルが承認されたように29、これまで有効な治療法がなかった疾患に対する新薬開発は着実に進んでいます。ワクチン開発も活発で、CDCはデング熱、ジカウイルス、チクングニア熱に対するワクチンの臨床評価を進めています44。日本国内でも、既存の日本脳炎ワクチンを接種した人から、近縁のウエストナイルウイルスにも有効な抗体を作り出す研究が行われるなど、国境を越えた脅威に対抗するための基礎研究が続けられています45
  • 先進的な監視(サーベイランス)技術: 感染症の流行を早期に察知し、迅速に対応するための技術も進化しています。AI(人工知能)や機械学習を用いて、気象データ、SNSへの投稿、市民科学(市民が参加する科学研究)からの報告などを統合・分析し、感染症の発生リスクが高い地域や時期を予測するモデルの研究が進められています46。また、蚊の飛行音や軌道を解析して、媒介能力の高い危険な種類を自動で識別する技術なども開発されており、より効率的で的を絞ったベクターコントロールへの応用が期待されます46
  • 国家レベルでの戦略: これらの脅威に包括的に対応するため、国レベルでの戦略策定も進んでいます。米国では、複数の政府機関が連携し、「ベクター媒介感染症に関する国家公衆衛生戦略(VBD National Strategy)」を策定・推進しています47。日本においても、厚生労働省や国立感染症研究所が中心となり、最新の知見に基づいた診療ガイドラインの継続的な改訂22や、国内の蚊のウイルス保有状況を監視するサーベイランス事業49を実施するなど、国を挙げた対策が継続的に強化されています。

表3: 症状別・状況別チェックリスト:医療機関を受診する目安

この記事で解説した内容を踏まえ、あなたが自身の状況を客観的に評価し、受診すべきかどうかを判断するための最終チェックリストです。「何となく調子が悪い」という曖昧な不安を、具体的な行動につなげるためのツールとしてご活用ください。以下の項目に複数当てはまる場合は、速やかに医療機関を受診することを強く推奨します。

チェック項目 詳細
□ 38℃以上の急な発熱がある 多くの虫媒介感染症の初期症状です。
□ 2週間以内に、山・森・草むら・畑などに入った マダニやツツガムシが媒介する疾患(SFTS、日本紅斑熱など)のリスク行動です。
□ 1ヶ月以内に、海外(特に熱帯・亜熱帯地域)へ渡航した 蚊が媒介する輸入感染症(デング熱、ジカ熱など)のリスク行動です。
□ 体に原因不明の発疹や、虫に咬まれた跡(特に黒いかさぶた)がある つつが虫病や日本紅斑熱を強く示唆する所見です。
□ インフルエンザ様症状(頭痛、筋肉痛、関節痛、強い倦怠感)がひどい 多くの疾患に共通する症状ですが、リスク行動と合わされば重要なサインです。
□ 嘔吐や下痢が続いている SFTSや重症デング熱などで見られる消化器症状です。

よくある質問

夏に山や川へ行きます。一番注意すべきことは何ですか?

まず、マダニに咬まれないための対策が最も重要です。長袖・長ズボンで肌の露出を避け、衣類にはペルメトリンを含む殺虫剤を事前にスプレーし、露出した皮膚にはディートやイカリジンを含む忌避剤を塗るという二重の対策を推奨します37。また、帰宅後はすぐに入浴し、体にマダニが付着していないか全身をくまなく確認してください。特にSFTSや日本紅斑熱は命に関わる可能性があるため、予防が第一です11

虫除けスプレーはどれも同じですか?最適な選び方を教えてください。

いいえ、成分によって特徴が異なります。長時間の野外活動やリスクの高い場所では、効果の持続性が高い「ディート」が有効です。肌が弱い方や子供、日常的な使用には、匂いが少なく刺激の少ない「イカリジン」が適しています。そして、特にマダニ対策として、直接肌には使えませんが、衣類やテントに事前に処理しておく「ペルメトリン」は極めて高い効果を発揮します。活動内容に合わせてこれらを使い分ける、あるいは組み合わせることが賢い選択です。

海外旅行から帰国後に熱が出ました。どうすればよいですか?

直ちに医療機関を受診してください。その際、必ず「いつ、どの国・地域へ渡航していたか」を医師に伝えてください。これはデング熱、ジカウイルス感染症、マラリアといった輸入感染症を診断するための最も重要な情報です37。自己判断で市販の解熱鎮痛薬を服用すると、特にデング熱の場合、症状を悪化させる危険性があるため避けるべきです。

SFTSの治療薬が承認されたと聞きましたが、もう怖がらなくても良いのでしょうか?

ファビピラビル(アビガン)がSFTSの治療薬として承認されたことは大きな進歩ですが29、依然としてSFTSは致死率の高い危険な感染症であることに変わりありません。治療薬があるからといって油断は禁物です。最も重要なのは、マダニに咬まれないように予防策を徹底することです。そして、万が一、リスク行動後に体調不良を感じた場合は、早期に診断を受け、適切な治療を開始することが救命の鍵となります。

結論

虫が媒介する感染症の脅威は、もはや海外や特別な場所だけのものではありません。気候変動とグローバル化の波に乗り、そのリスクは私たちの日常生活の中に静かに、しかし確実に浸透しています。本稿で詳述したように、日本で特に警戒すべきは、都市部でもリスクのある蚊媒介感染症(デング熱、日本脳炎など)と、身近な自然に潜むダニ・ツツガムシ媒介感染症(SFTS、つつが虫病、日本紅斑熱など)です。これらの疾患は、時に重篤な症状を引き起こし、後遺症を残し、最悪の場合は命を奪うことさえあります。しかし、いたずらに恐れる必要はありません。これらの脅威に対する最強の予防策は、「ベクターとの接触を断つ」という極めてシンプルな原則に基づいています。具体的には、野外活動時の服装の工夫、そして科学的根拠に基づいた虫除け剤、特に皮膚用のディートやイカリジンと、衣類用のペルメトリンを状況に応じて正しく使い分けることです。この知識を実践するだけで、感染リスクを劇的に下げることができます。最後に、今日からできる具体的な行動を改めて確認しましょう。

  • 家の周りから水たまりをなくし、蚊の発生源を断つ。
  • 庭や畑の草刈りを計画し、マダニの潜む場所をなくす。
  • 次のアウトドア活動に備え、衣類へのペルメトリン処理を検討する。
  • 海外渡航を計画する際は、必ず渡航先の感染症情報を厚生労働省検疫所(FORTH)などで確認する。

正しい知識は、漠然とした恐怖を具体的な備えに変え、私たちに冷静な判断と適切な行動を促す最強の武器となります。この記事が、あなたと、あなたの愛する人々を、見えない脅威から守るための一助となることを心から願っています。

        免責事項本記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医学的助言に代わるものではありません。健康上の懸念がある場合、またはご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。

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