小児科

証拠に基づく母乳保存ガイド:安全性と栄養を保つための国際・国内指針

仕事や外出、体調など様々な理由で直接授乳が難しい時、搾母乳は赤ちゃんと母親にとって心強い選択肢となります。しかし、母乳は単なる飲み物ではなく、生きた免疫細胞や繊細な栄養素を含む貴重なものです。だからこそ、その品質を損なわず、赤ちゃんに安全に届けるための正しい知識が不可欠です。本ガイドラインは、世界の主要な保健機関および日本の科学的研究12から信頼できる情報を集約し、健康な正期産児と、特別な配慮が必要な乳児との間で取り扱いに重要な違いがあることを明確に解説します。

この記事の科学的根拠

本記事は、日本の公的機関・学会ガイドラインおよび査読済み論文を含む高品質の情報源に基づき、出典は本文のクリック可能な上付き番号で示しています。

  • 日本の主要研究と指針:国内の新生児医療現場で用いられるガイドラインや、日本の家庭環境における母乳の安全性を検証した重要な研究に基づいています。83
  • 国際的な標準ガイドライン:米国疾病対策センター(CDC)や米国小児科学会(AAP)など、世界的に信頼されている機関の最新の推奨事項を反映しています。2

要点まとめ

  • 室温での保存:搾りたての母乳は、清潔な環境であれば室温(25℃以下)で最大4時間まで安全です。ただし、部屋が暖かい場合は1~2時間を目安にしましょう。12
  • 冷蔵庫での保存:国際基準では最大4日間とされていますが、日本の公的指針はより厳格な場合があるため注意が必要です。最新の研究ではより長い期間の安全性も示唆されています。32
  • 解凍と再冷凍のルール:解凍後の母乳は、冷蔵庫なら24時間以内、室温なら1~2時間以内に使用します。一度解凍した母乳の再冷凍は、細菌増殖のリスクがあるため絶対に行ってはいけません。4
  • 赤ちゃんの飲み残し:一度赤ちゃんの口がついた哺乳瓶の母乳は、唾液中の細菌が混入するため、2時間以内に使い切る必要があります。残りは残念ですが廃棄してください。5

第1部:安全な母乳保存の科学的原則

「搾った母乳、どうすれば栄養や免疫成分が壊れないの?」——その不安な気持ち、とてもよく分かります。母乳は、ただの栄養源ではなく、いわば「生きた液体」。科学的には、その中には赤ちゃんの体を守るための免疫細胞や抗菌物質が活動しています。その背景には、母乳が持つ「防御システム」の存在があります。このシステムは、母乳自体を腐敗から守ると同時に、赤ちゃんの未熟な腸を病原体から保護する最前線の兵士のようなものです1

この防御システムの働きは、まるで城壁と警備隊に例えられます。ラクトフェリンや免疫グロブリン(sIgA)といった成分は、病原菌の侵入を防ぐ「城壁」の役割を果たし、冷蔵や冷凍をしてもその力はほとんど落ちません。しかし、マクロファージなどの生きた免疫細胞は、城内を巡回する「警備隊」です。彼らは積極的に病原菌を攻撃しますが、冷凍という厳しい環境では細胞が壊れ、その役目を果たせなくなってしまいます。だからこそ、数日以内に使う予定なら、警備隊を生かしたまま保管できる冷蔵が、生物学的には優れた方法と言えるのです。

このセクションの要点

  • 母乳には、冷蔵・冷凍しても安定な抗菌成分(城壁)と、冷凍によって失われる生きた免疫細胞(警備隊)が含まれています。
  • 短期的な保存(数日以内)であれば、免疫細胞の活動を維持できる冷蔵保存が、免疫学的観点からはより有益です。

第2部:比較分析:国際ガイドラインと日本の指針

「日本のサイトでは『冷蔵庫で24時間』と書いてあるのに、海外のサイトでは『4日』と書いてある。どちらが正しいの?」——情報源によって推奨が異なると、どちらを信じてよいか混乱しますよね。特に、日本の公的な情報がより厳しい場合、不安に感じるのは当然です。科学的には、この違いは「ガイドラインの遅れ(ラグ)」として説明できます。つまり、公的な指針が、最新の科学研究の結果を反映するまでに時間がかかることがあるのです。

その背景には、安全性を最大限に考慮する行政の慎重な姿勢があります。例えば、日本の農林水産省は冷蔵保存を24時間以内としていますが6、これはあらゆる家庭環境を想定した非常に安全サイドの基準です。一方で、2015年に行われた日本の研究では、適切な衛生管理下であれば家庭用冷蔵庫で8日間保存しても細菌学的に安全であったことが示されています3。この研究結果は、米国疾病対策センター(CDC)が推奨する「4日間」という国際基準2が、日本の実情においても科学的に妥当であることを強く裏付けています。

自分に合った選択をするために

日本の公的指針(24時間): 早産児や免疫力が特に心配な赤ちゃん、または衛生管理に少しでも不安がある場合に最も安全な選択です。

国際基準(最大4日): 健康な正期産児で、手指や搾乳器の衛生管理を徹底できる場合に、より柔軟で現実的な選択肢となります。日本の最新の研究もこの基準を支持しています。

第3部:特別な配慮が必要な新生児のための重要手順

生まれたばかりの赤ちゃん、特に早産児や新生児集中治療室(NICU)でケアを受けている赤ちゃんの体は、外部からの感染に対して非常にデリケートです。それは、体の防御システムである免疫機能がまだ十分に成熟していないためです。そのため、健康な正期産児であれば問題にならないようなわずかな細菌でも、重篤な感染症を引き起こす可能性があります78

この高いリスクに対応するため、NICUなど医療現場での母乳の取り扱い基準は、家庭向けのものよりはるかに厳格に定められています。これは、いわば「クリーンルーム」で精密機器を扱うようなもので、ほんのわずかな汚染も許されないという考え方に基づいています。例えば、冷蔵保存は通常48時間以内、冷凍保存も品質維持のため3ヶ月以内が理想とされます1。これらのルールは、赤ちゃんの命を守るための絶対的な安全策なのです。

受診の目安と注意すべきサイン

  • 絶対的なルール:赤ちゃんが入院している場合、必ずその施設の医療スタッフ(医師、看護師、助産師)の指示に従ってください。
  • 家庭での注意:退院後であっても、早産だった赤ちゃんや、何らかの健康上の懸念がある赤ちゃんの母乳を保存する場合は、かかりつけの小児科医に相談し、より安全な保存期間について指導を受けることが賢明です。

第4部:完全な取り扱い手順:解凍から授乳まで

「冷凍した母乳をどうやって温めたらいいの?電子レンジはダメって本当?」——解凍や加温の方法は、母乳の品質を保つ上で非常に重要です。間違った方法で、せっかくの栄養素や免疫成分を壊してしまわないか、心配になりますよね。その通り、母乳の加温は科学的な配慮が必要です。

母乳を電子レンジで温めてはいけない理由は二つあります。第一に、電子レンジは加熱ムラができやすく、赤ちゃんの口や喉に火傷を負わせる「ホットスポット」を作ってしまう危険があるからです。第二に、急激な高温加熱は、熱に弱いビタミンや、感染防御の要である抗体などを破壊してしまうからです910。これは、繊細な絹の着物を乾燥機にかけるようなもので、素材そのものを傷つけてしまいます。安全で、母乳の価値を最大限に保つためには、時間をかけて優しく解凍・加温することが鉄則です。

今日から始められること

  • 最も良い方法:一晩かけて冷蔵庫で自然解凍する。これにより、成分へのダメージを最小限に抑えられます。
  • 急ぐ場合:密閉した容器や母乳バッグを、人肌程度(37℃以下)の流水またはお湯が入ったボウルにつけて温めます。熱湯は絶対に使用しないでください。
  • 授乳前の確認:温めた母乳は、授乳前に必ず手首の内側に数滴垂らし、熱すぎないか(人肌程度か)を確認する習慣をつけましょう。

第5部:基本的な衛生管理とベストプラクティス

母乳の安全性を確保する上で、保存期間と同じくらい、あるいはそれ以上に重要なのが、徹底した衛生管理です。搾りたての母乳はもともと非常に清潔ですが、搾乳・保存の過程で外部から細菌が混入するリスクが常に伴います。そのため、すべてのステップで「清潔」を意識することが、赤ちゃんを感染から守るための基本となります1112

これは、料理における「下ごしらえ」の重要性に似ています。どんなに新鮮で良い食材を使っても、汚れた手や調理器具を使えば食中毒のリスクが高まるのと同じです。母乳の場合、その「食材」を受け取るのは、最も抵抗力の弱い赤ちゃんです。だからこそ、搾乳前の丁寧な手洗い、そして搾乳器や保存容器の洗浄・消毒は、決して省略できない重要な手順なのです。

今日から始められること

  • 手洗い:搾乳や母乳を取り扱う前には、必ず石鹸と流水で20秒以上かけて手指を洗いましょう。
  • 器具の洗浄・消毒:搾乳器の部品や哺乳瓶、保存容器は、使用後すぐに分解して洗浄し、メーカーの指示に従って消毒(煮沸、薬液、スチームなど)を行い、清潔な場所で乾燥させます。
  • ラベル付けの徹底:保存容器には必ず搾乳した「日付」を記入します。これにより、「先入れ先出し」が容易になり、古い母乳から確実に使用できます。

よくある質問

解凍した母乳の見た目や匂いが違うのはなぜですか?

これは通常、母乳に自然に含まれる脂肪分解酵素「リパーゼ」の働きによるものです。リパーゼは脂肪を分解し、赤ちゃんが消化しやすくしますが、この働きが保存中にも進むと、石鹸のような、あるいは金属的な匂いを生じさせることがあります。母乳は赤ちゃんにとって完全に安全ですが、風味を嫌がる子もいます。

母乳を保育園などに運ぶにはどうすればよいですか?

保冷バッグやクーラーボックスに凍らせた保冷剤と一緒に入れて運びます。この方法で最大24時間、安全に保つことができます。目的地に着いたら、すぐに使用するか、冷蔵庫または冷凍庫で保管してください。

冷蔵庫で母乳が分離してしまいました。腐っていますか?

いいえ、これは全く正常な現象です。脂肪分の多いクリーム層(後乳)が上部に浮き上がります。授乳前に、容器を優しく回して層を混ぜ合わせてください。保護タンパク質を壊す可能性があるため、激しく振らないでください。

母乳は温める必要がありますか?

赤ちゃんの好みに応じて、常温、冷たいまま、または温めて与えることができます。もし温める場合は、母乳の有益な成分を守るため、体温(37℃)を超えないようにしてください。授乳前には必ず手首に数滴垂らして、熱すぎず、ぬるい程度であることを確認してください。

結論

母乳の安全な保存は、いくつかの科学的原則を理解し、一貫した衛生管理を実践することで、誰でも確実に行うことができます。重要なのは、搾りたての母乳が持つ免疫学的価値を最大限に生かすため、短期使用なら「冷蔵」、長期ストックなら「冷凍」と目的を使い分けることです。また、日本の公的指針と国際基準に違いがあることを理解し、ご自身の状況と赤ちゃんの健康状態に合わせて、最新の科学的根拠に基づいた判断を下すことが求められます。本ガイドが、皆様の母乳育児をより安心して、そして自信を持って続けるための一助となれば幸いです。

免責事項

本コンテンツは一般的な医療情報の提供を目的としており、個別の診断・治療方針を示すものではありません。症状や治療に関する意思決定の前に、必ず医療専門職にご相談ください。

参考文献

  1. 小児保健研究. 保育所における搾母乳の取り扱い 神奈川県内市町村 …. 2006. リンク
  2. Centers for Disease Control and Prevention (CDC). Human Milk Storage Guidelines. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  3. 小児保健研究. 家庭用冷蔵庫保存における冷蔵母乳の安全性の研究. 2015. リンク
  4. 一般社団法人 日本母乳バンク協会. 母乳バンク 利用マニュアル. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  5. まなべび. 搾乳した母乳の正しい保存!常温・冷蔵・冷凍できる期間と温め方. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  6. 農林水産省 (MAFF). 赤ちゃんを守るために. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  7. 厚生労働省 (MHLW). 乳児用調製粉乳の安全な調乳、 保存及び取扱いに関するガイドライン. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  8. 日本新生児看護学会. NICU に入院した新生児のための 母乳育児支援ガイドライン. 2011. リンク
  9. マイナビ子育て. 【助産師監修】 母乳の搾乳&保存方法と解凍方法、気をつけたい …. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  10. Mayo Clinic. Breast milk storage: Do’s and don’ts. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  11. Centers for Disease Control and Prevention (CDC). Breast Milk Storage and Preparation. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
  12. Kids Allies. 【助産師監修】搾乳した母乳の保存方法|常温・冷蔵・冷凍別に …. [インターネット]. 引用日: 2025-09-16. リンク
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