「腟内フローラとは？専門医が教えるデリケートゾーンケアの科学的真実」

第1章：腟内エコシステム：健康の基盤

デリケートゾーンの健康について考えるとき、多くの人は「いかに清潔にするか」という視点に陥りがちです。しかし、科学的な観点から見ると、その考え方は必ずしも正しくありません。むしろ、私たちの腟内には「エコシステム（生態系）」、つまり目に見えない微生物たちが暮らす複雑でダイナミックな世界が広がっており、その生態系のバランスを「守り育てる」ことこそが健康の鍵なのです。この章では、後述するすべての具体的なケア方法の土台となる、この科学的な基本原則を徹底的に解説します。

1.1 腟内マイクロバイオームの中心的役割：ラクトバチルス菌の優位性

健康な腟内マイクロバイオーム、つまり腟内に住む細菌たちの社会における最大の特徴は、「ラクトバチルス属」という特定の種類の細菌が圧倒的な多数派を占めていることです。彼らはいわば、腟の平和を守る「善玉菌のエリート部隊」です。¹ 主要な隊員（菌種）には、L. crispatus、L. gasseri、L. jensenii、L. inersなどが含まれますが、中でも最強とされ、最も安定した平和をもたらしてくれるのが「L. crispatus」です。³ 質の高い複数の研究を統合した分析によると、L. crispatusが優位な女性は、細菌性腟症（BV）という一般的なトラブルが非常に少ないことが確認されており、腟の健康状態が最も良好であることを示す指標（バイオマーカー）と考えられています。⁵

この事実は、「すべての細菌は汚いもので、なくすべきだ」という一般的な誤解に対する強力な反証です。ここでの目標は、無菌状態（いわば無人島）を目指すことではありません。そうではなく、ラクトバチルス菌という有益な住民たちが暮らしやすい環境を整え、彼らが主役の豊かな社会を築くことなのです。ラクトバチルス属の中でも、それぞれの菌種は異なる個性を持っています。例えば、L. crispatusは非常に安定した環境を作り出す「頼れるリーダー」ですが、L. inersは日和見的で、環境が悪化すると他の悪玉菌に味方することもある「移り気な性質」を持つことが知られており、同じ善玉菌でも役割が異なることを理解することが重要です。³

1.2 恒常性の維持：酸性pHの決定的重要性

では、ラクトバチルス菌はどうやって腟の平和を守っているのでしょうか？その最大の武器が「乳酸」です。ラクトバチルス菌は、腟の壁（上皮細胞）から分泌されるグリコーゲンという糖分をエサにして、乳酸を大量に作り出します。³ この乳酸のおかげで、腟内環境は通常pH 4.5未満という強い酸性の状態に保たれます。⁷ 世界保健機関（WHO）は、腟のpHが4.5以上（つまり酸性度が弱まっている状態）であることを、腟内環境が不健康なバランスにある重要な兆候の一つとして定義しています。⁹

この「酸性のバリア」こそが、腟が持つ最も強力な防御システムです。病気を引き起こす可能性のある悪い菌（病原性細菌）やウイルスは、酸性の環境では生き延びたり増殖したりすることが非常に困難になります。³ 例えるなら、悪い菌が侵入しようとしても、酸性の「堀」に阻まれてお城（体）の中に入れないようなものです。この極めて重要な概念を理解することが、なぜビデ（腟内洗浄）が推奨されないのか、なぜコンドームの使用が腟の健康に良い影響を与えるのか、そしてなぜデリケートゾーン用の洗浄剤は弱酸性の製品を選ぶべきなのか、といった具体的な推奨事項の科学的根拠を理解する上で不可欠となります。

1.3 腟の自浄作用とビデ（腟内洗浄）の誤謬

腟は、外部から何かをしなくても、自ら清潔と健康を保つ「自浄作用」という素晴らしい能力を持った器官です。¹⁰ この「自浄作用」という言葉は比喩的な表現ではなく、前述したラクトバチルス菌が作り出す酸性環境という、科学的なメカニズムの直接的な結果なのです。⁷ にもかかわらず、ビデを使用したり、シャワーで腟の内部を洗浄したりする行為は、この繊細で巧妙な生態系バランスを根こそぎ破壊してしまいます。そのため、米国疾病予防管理センター（CDC）をはじめとする世界中の主要な公衆衛生機関は、医学的な理由がない限り、腟内洗浄を明確に推奨していません。¹⁰ 実際、多数の大規模な観察研究により、腟内洗浄という習慣は、細菌性腟症（BV）、骨盤内炎症性疾患（PID）、さらには性感染症（STI）に罹患するリスクを有意に増加させることが示されています。¹

ここには、「清潔さのパラドックス」とでも呼ぶべき、皮肉な現象が存在します。多くの女性は、「清潔でありたい」「臭いをなくしたい」という強い動機から、ビデのような習慣に頼ります。しかし、その行為こそが、体自身が持つ、自然で非常に効果的な洗浄・防御システムを根本から破壊してしまうのです。これが悪循環を生み出します。まず、腟内洗浄が善玉菌のエリート部隊であるラクトバチルス菌を洗い流し、マイクロバイオームを乱します。その結果、ガードネレラ菌などの臭いの原因となる悪玉菌が増殖しやすい環境が生まれ、細菌性腟症（BV）のようなトラブルにつながります。そして、その不快な臭いを消そうとして、さらに積極的な「洗浄」を行ってしまうのです。この負の連鎖を断ち切るためには、私たちの中にある「清潔さ」の定義を、「菌がいないこと（無菌）」から「適切な菌がいること（共生）」へと根本的に転換するための、科学に基づいた教育が不可欠です。本当の清潔さとは、ラクトバチルス菌という頼もしいパートナーと共に、バランスの取れた生態系を維持することに他なりません。

第2章：腟の健康を乱す一般的要因：エビデンスに基づく概観

デリケートゾーンの不快な症状に直面したとき、多くの女性は「これはカンジダ症だろうか？」「それとも何か別の病気？」といった混乱に陥ります。症状が似ているため自己判断は非常に難しく、誤った対処はかえって回復を遅らせる可能性があります。本章では、腟の健康バランスを乱す最も一般的な疾患について、臨床的な視点からその特徴を概観し、それぞれの違いを明確にする「鑑別診断」に焦点を当てて解説します。

2.1 細菌性腟症（Bacterial Vaginosis, BV）

細菌性腟症（BV）は、しばしば誤解されがちですが、外部から特定の病原菌が侵入して起こる「感染症」ではありません。これは「ディスバイオシス（dysbiosis）」、すなわち、腟内に元々住んでいる細菌社会のバランスが崩れた状態です。具体的には、健康を守る善玉菌のラクトバチルス菌が減少し、その代わりにガードネレラ菌などの多種多様な嫌気性菌（酸素を嫌う菌）が異常に増殖した状態を指します。¹¹ 米国では、15歳から44歳の女性において最も頻繁に見られる腟のトラブルです。¹¹

典型的な症状には、薄い白色または灰色がかった水っぽい帯下（おりもの）や、特に性交後に顕著になるアミン臭と呼ばれる独特の強い「魚臭い」臭いがあります。¹¹ BVは単に不快なだけでなく、HIV、クラミジア、淋菌といった性感染症（STI）に感染しやすくなるリスクを高め、また妊娠中にBVになると早産や前期破水のリスクが上昇することも知られています。¹¹ BVが「感染症」ではなく「ディスバイオシス」であるという区別は、なぜ抗生物質による治療後も頻繁に再発するのかを説明する上で極めて重要です。治療によって異常増殖した原因菌を叩くことはできますが、腟内環境の「守り手」であるラクトバチルス菌が再び優位な状態に戻らなければ、根本的な解決にはならず、再発を繰り返すことになるのです。¹³

2.2 外陰腟カンジダ症（Vulvovaginal Candidiasis, VVC）／通称「カンジダ症」

外陰腟カンジダ症（VVC）は、カンジダという種類の真菌（カビの一種）が異常に増殖することによって引き起こされる炎症です。その原因の約90%は、Candida albicansという菌種によるものです。¹⁴ これは非常に一般的な疾患で、生涯のうちに最大で75%の女性が少なくとも一度は経験すると推定されています。¹⁴

VVCの典型的な症状は、BVとは大きく異なります。主な症状は、外陰部や腟の耐え難いほどの「激しいかゆみ」、そしてヒリヒリとした「灼熱感」です。帯下は、厚く、白く濁っており、しばしば「カッテージチーズ状」や「酒粕状」、「ヨーグルト状」と表現されます。⁷ BVとの重要な違いとして、VVCでは通常、腟のpHは正常範囲内（4.5以下）に保たれます。¹⁴ VVCを発症するリスクを高める要因としては、風邪などで広域スペクトラム抗生物質を使用したこと、妊娠によるホルモンバランスの変化、コントロール不良の糖尿病、免疫力が低下している状態などが挙げられます。¹⁴

2.3 性感染症（Sexually Transmitted Infections, STIs）

帯下の異常や不快感の原因が、性感染症（STI）である可能性も考慮しなければなりません。日本の厚生労働省は、注意すべき主要なSTIとその症状について包括的な情報を提供しています。例えば、クラミジア感染症は、女性では症状がほとんどないことが多い（無症候性）のが特徴ですが、時に異常な帯下や下腹部痛を引き起こすことがあります。淋菌感染症も同様に無症状のことが多く、帯下や排尿時痛の原因となり得ます。性器ヘルペスは痛みを伴う水疱（水ぶくれ）や潰瘍を形成し、梅毒は初期には痛みのないしこりやただれとして現れます。¹⁷

これらのSTIを放置すると、不妊症の原因となったり、梅毒の場合は全身の臓器に深刻な障害を引き起こしたりする可能性があるため、早期発見と早期治療が極めて重要です。¹⁷ 特に、クラミジアのように将来の不妊につながる危険なSTIが、女性において自覚症状がないケースが多いという事実は、症状だけを頼りにした自己診断がいかに不十分であるか、そして症状がなくても定期的に婦人科検診を受けることがいかに決定的であるかを強く物語っています。

2.4 萎縮性腟炎と閉経関連泌尿生殖器症候群（Genitourinary Syndrome of Menopause, GSM）

閉経期以降、女性ホルモンであるエストロゲンの分泌が減少すると、腟の健康に大きな変化が生じます。エストロゲンには腟の壁を厚く潤いのある状態に保つ働きがあるため、その減少は腟壁の菲薄化（薄くなること）、自然な潤滑の低下を招きます。さらに重要なのは、善玉菌ラクトバチルス菌の「エサ」となるグリコーゲンの分泌も減少してしまうことです。この一連の変化は、現在では「閉経関連泌尿生殖器症候群（GSM）」として知られ、閉経後の女性の約半数が影響を受けるとされています。¹⁹

GSMの症状には、乾燥、かゆみ、灼熱感、性交時痛（ディスパレウニア）といった直接的な不快感に加え、腟の防御力が低下することによる尿路感染症や腟感染症への罹患しやすさの増加が含まれます。¹⁹ これは、ホルモンの状態と腟内マイクロバイオームとの間に深いつながりがあることを示しています。エストロゲンの減少が、間接的に善玉菌を「飢え」させ、結果として外部からの侵入に対する回復力の低いエコシステムにつながるのです。

表1：一般的な腟疾患の鑑別診断

この表は、症状が重なり合い、自己誤診が頻発するという消費者が直面する共通の問題に直接的に対処するため、一目でわかる臨床的な参照情報を提供します。これにより、読者はより情報に基づいた患者となることができます。