【医師監修】妊娠中のサラセミア:鉄剤の危険性と正しい管理法、遺伝リスクの全知識
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【医師監修】妊娠中のサラセミア:鉄剤の危険性と正しい管理法、遺伝リスクの全知識

妊娠中に「貧血」と診断され、鉄剤を処方されることは少なくありません。しかし、もしその貧血が一般的な鉄欠乏性貧血ではなく、「サラセミア」という遺伝性の血液疾患によるものだとしたら、鉄剤の服用は効果がないばかりか、体に害を及ぼす可能性があります。この記事は、日本におけるサラセミアの隠れた現実、特に妊娠中の女性が直面する誤診のリスクに焦点を当て、ご自身と赤ちゃんの健康を守るための正確な知識と具体的な行動計画を、最新の科学的根拠に基づいて提供します。JapaneseHealth.org編集委員会は、不安を抱える女性、そのご家族、そして医療専門家の方々にとって、信頼できる道しるべとなることを目指します。

本記事の科学的根拠

この記事は、入力された研究報告書で明示的に引用されている最高品質の医学的証拠にのみ基づいています。以下は、参照された実際の情報源と、提示された医学的指針との直接的な関連性を示したリストです。

  • 英国王立産婦人科医協会 (RCOG): 妊娠中のサラセミア管理に関する包括的なガイドライン(高用量葉酸の推奨、周産期管理など)は、同協会の指針に基づいています11
  • 米国国立衛生研究所 (NIH): サラセミアの基本的な病態、妊娠への影響、治療選択肢に関する情報は、同研究所が提供する情報源を参考にしています26
  • 日本の医学研究論文: 日本人集団におけるサラセミアの遺伝的特徴、有病率、および国内の臨床例に関する記述は、日本の学術誌(例: 日本内科学会雑誌、日本輸血・細胞治療学会誌)で発表された研究に基づいています39
  • 国際的な医学専門誌: 心臓合併症、内分泌障害、血栓予防などの専門的な管理に関する推奨事項は、世界的に認知された医学専門誌に掲載された研究や総説を典拠としています28

要点まとめ

  • サラセミアはヘモグロビン生成の遺伝的障害であり、鉄不足ではありません。鉄剤の自己判断による服用は、鉄過剰症を引き起こす危険性があるため避けるべきです。
  • 鉄剤を飲んでも改善しない貧血、または血縁者に貧血の人がいる場合、サラセミアの可能性を考慮し、医師に専門的な検査(メンツァー指標、血清フェリチン値など)を相談することが重要です。
  • 妊娠を計画しているサラセミアの女性は、妊娠前に血液内科医、産科医、循環器内科医など多職種チームによる包括的な評価と管理を受けることが、安全な妊娠・出産への鍵となります。
  • ご自身がサラセミア保因者(キャリア)である場合、パートナーの検査は将来生まれてくる子どもの遺伝的リスクを把握するために不可欠です。

サラセミアとは?鉄欠乏性貧血との決定的な違い

サラセミアは単一の病気ではなく、遺伝性の血液疾患の一群です。体を構成する重要なタンパク質であるヘモグロビンの生成が、遺伝子の変異によって妨げられることが原因です1。これを分かりやすく例えるなら、材料(鉄など)は十分に揃っているにもかかわらず、ヘモグロビンを作るための「設計図」に誤りがある状態と言えます。その結果、正常な赤血球を効率的に作れなくなり(無効造血)、赤血球が壊れやすくなる(溶血)ことで、特徴的な「小球性低色素性貧血」が引き起こされます1
成人の正常なヘモグロビン(HbA)は、2本のアルファ(α)グロビン鎖と2本のベータ(β)グロビン鎖から成り立っています。サラセミアは、どの鎖の生産が障害されるかによって、主に2つのタイプに分類されます。

  • α-サラセミア: α-グロビン鎖の生産が低下または欠如している状態1
  • β-サラセミア: β-グロビン鎖の生産が低下または欠如している状態1

病気の重症度は、影響を受ける遺伝子の数と種類によって大きく異なり、無症状の保因者から、生涯にわたる輸血が必要な重症型まで幅広い病態が存在します。この点を理解することは、不必要な不安を和らげると同時に、重症型のリスクを正しく認識するために極めて重要です。

  • サラセミア保因者/軽症型 (Minor/Trait): 通常は無症状か、ごく軽度の小球性貧血を示すのみで、日常生活に支障はありません5。日本で見つかるケースの多くがこのタイプです9
  • 中間型サラセミア (Intermedia): 中等度の貧血を呈し、定期的な輸血は必要としないかもしれませんが、脾臓の腫大や骨の変化などの合併症を伴うことがあります5
  • 重症型サラセミア (Major): 生命を脅かすほどの重篤な貧血をきたし、幼少期から生涯にわたる輸血療法が必要となります5

特にα-サラセミアの遺伝は複雑であり、臨床症状と遺伝子型がどのように関連するかを理解することは、遺伝カウンセリングにおいて不可欠です。以下の表は、無症状の「サイレントキャリア」から、胎児期に致命的となりうる「胎児水腫」まで、α-サラセミアの多様な病態を示しています。

表1: α-サラセミアの病態スペクトラム:サイレントキャリアから胎児水腫まで
分類 遺伝子型 臨床症状 主な検査所見
正常 αα/αα 症状なし 正常
サイレントキャリア (α+ trait) -α/αα 症状なし 正常(出生時にヘモグロビン・バーツが3%未満)
α-サラセミア軽症型 (α+ homo/α0 hetero) –/αα または -α/-α 軽度の小球性貧血 軽度の異常(出生時にヘモグロビン・バーツが3-8%)
ヘモグロビンH (HbH) 病 –/-α 中等度から重度の溶血、脾腫 HbH封入体の存在、HbAの減少
ヘモグロビン・バーツ胎児水腫 –/– 胎児水腫、多くは致死的 ヘモグロビン・バーツが80%超、HbAなし
出典: 参考文献1のデータに基づく

日本におけるサラセミア:隠れた現実と誤診のリスク

サラセミアは東南アジアや地中海沿岸地域に比べれば稀ですが、決して「外国人の病気」ではありません。日本人におけるβ-サラセミアの保因者頻度は600人から1,000人に1人と推定されています1。α-サラセミアの保因者も存在し、近年の国際結婚の増加は、その有病率を押し上げる一因となっています15。研究によれば、アジアの他民族と共通の遺伝子変異(例:α-サラセミアの–SEA型)が見られる一方で、日本人集団に特有の変異(例:β-サラセミアの-31 A→G)も存在することがわかっています3。この事実は、サラセミアが日本人にも関わる病気であることを明確に示しています。
妊娠中の女性にとって最も重大かつ回避可能な問題は、「鉄欠乏性貧血」との誤診です。サラセミア軽症型は軽度の小球性貧血として現れるため、はるかに頻度の高い鉄欠乏性貧血(IDA)と混同されやすいのです6。鉄欠乏性貧血の標準治療である鉄剤の補充は、サラセミアには無効であるだけでなく、有害ですらあります。不適切な鉄剤投与は、医原性の鉄過剰症を引き起こし、心臓、肝臓、内分泌器官に深刻なダメージを与える可能性があります6。これは、貧血のスクリーニングが定期的に行われ、鉄剤が安易に処方されがちな妊娠中において、特に危険な落とし穴となります17
診断の連鎖を断ち切ることが、この記事の最も重要な役割です。すなわち、「軽度の貧血 → 鉄欠乏性貧血と誤診 → 不適切な鉄剤補充 → 医原性の鉄過剰症 → 臓器障害」という負の連鎖です。サラセミアは鉄の「欠乏」ではなく、鉄の「利用障害」であり、体内の鉄貯蔵は正常かむしろ過剰な傾向にあります8。したがって、この記事が伝えるべき最も強力で命を救うメッセージは、「もしあなたが鉄剤を飲んでも改善しない軽度の貧血を指摘されたら、あるいは家族に貧血の人がいるなら、鉄剤を飲む前に、より詳しい検査を医師に申し出てください」という、具体的で実行可能な行動喚起です。

サラセミアと妊娠:母体と胎児へのリスクを包括的に理解する

サラセミア合併妊娠は、専門的な管理を要するハイリスク妊娠と位置づけられます。リスクを正しく理解し、予防的なケアを受けることが、母子双方の健康にとって不可欠です。

母体の健康:なぜ専門的なモニタリングが必要か

妊娠中は血液の液体成分(血漿)が増加するため、生理的に貧血が進行しやすくなります22。サラセミアを持つ女性ではこの影響がより顕著に現れ、普段は輸血を必要としない軽症型や中間型の人でも、妊娠中に輸血が必要になることがあります8
母体に対する最大の脅威は「鉄過剰症」です。これは、頻回の輸血や、不適切な鉄剤補充、そして疾患自体の性質によって体内に鉄が蓄積する状態です。鉄を除去するための「鉄キレート療法」は、胎児への潜在的なリスク(催奇形性)から、特に妊娠初期には中止されるのが一般的です11。この治療の「休暇期間」は、鉄の蓄積をさらに悪化させる可能性があります。鉄過剰症がもたらす深刻な結果には以下のようなものがあります。

  • 心血管系の合併症: 心筋への鉄沈着は、心筋症、不整脈、心不全を引き起こす可能性があります。妊娠による心臓への負荷増加は、これらのリスクをさらに高めます11
  • 内分泌機能障害: 鉄の過剰は内分泌腺を損傷し、甲状腺機能低下症、副甲状腺機能低下症、そして糖尿病や妊娠糖尿病の発症・悪化につながります11

さらに、タイの大規模なコホート研究を含む複数の研究で、サラセミアを持つ女性は一般集団に比べて妊娠高血圧症候群(HDP)の発症率が有意に高いことが示されています27。また、特に脾臓を摘出している(脾摘後)患者さんは、妊娠中および産褥期に深部静脈血栓症(VTE)のリスクが著しく高まります28。脾臓摘出歴や血小板数が多い(60万/μL以上)サラセミア合併妊娠では、国際的なガイドラインで低用量アスピリンや低分子ヘパリン(LMWH)による血栓予防が推奨されています1128。ご自身の脾臓摘出歴は、産科医にとって極めて重要な情報となるため、積極的に伝える必要があります。

胎児と新生児の健康:遺伝と子宮内リスクの理解

サラセミアは常染色体劣性遺伝形式をとります。その遺伝パターンを理解することは、家族計画において極めて重要です。

  • シナリオ1:片親のみが保因者
    片親がサラセミア保因者(例:βサラセミア軽症型)で、もう一方が保因者でない場合、生まれてくる子どもが保因者になる確率は50%、全く影響を受けない確率も50%です。この場合、重症型のサラセミアの子どもが生まれる可能性はありません14
  • シナリオ2:両親ともに保因者
    これはハイリスクのシナリオです。妊娠のたびに、以下の確率が適用されます。
    • 25% (4分の1) の確率で、子どもは全く影響を受けません。
    • 50% (4分の2) の確率で、子どもは両親と同じ保因者となります。
    • 25% (4分の1) の確率で、子どもは重症型であるサラセミア・メジャー(またはαサラセミアの場合はヘモグロビン・バーツ胎児水腫)となります14

    この統計こそが、パートナーのスクリーニングと遺伝カウンセリングが不可欠である理由です。

妊娠中、母体のサラセミアは胎盤機能に影響を与え、胎児の発育が期待通りに進まない「胎児発育不全(FGR)」を引き起こすことがあります。そのため、超音波検査による定期的なモニタリングが必須です11。胎児が重症型のサラセミアを受け継いだ場合、子宮内で重度の貧血に陥り、全身がむくんで液体が溜まる「胎児水腫」という状態になることがあります。これは治療介入がなければ多くの場合、致死的です5。状況によっては、子宮内での胎児輸血という高度な治療が行われることもあります26

妊娠管理のゴールドスタンダード:周産期ケアの全工程

サラセミア合併妊娠の管理は、計画的かつ多職種連携で行うことが理想です。ここでは、国際的なガイドラインに基づいた、妊娠前から産後までの標準的なケアのプロセスを解説します。これは患者さん自身が、適切な医療を受けるための「行動リスト」としても活用できます。

妊娠前の計画:健やかな妊娠への土台作り

最も重要なのは妊娠前の準備です。積極的な計画により、主要なリスクのほとんどを軽減できます。ケアは血液内科医、ハイリスク妊娠を専門とする産科医、循環器内科医などから成る多職種チーム(MDT)によって行われるべきです11
妊娠前チェックリスト:

  • 遺伝カウンセリングとパートナーのスクリーニング: サラセミアと診断されている、または家族歴があるすべての人にとって、これは交渉の余地なく必須です。カップルとしてのリスクを正確に把握するために不可欠です12
  • 葉酸の補充: 1日5mgの高用量葉酸の服用が推奨されます。妊娠を計画する少なくとも3ヶ月前から開始します12。これは標準的な0.4mgよりも大幅に多い量であり、極めて重要な推奨事項です。
  • 鉄過剰状態の最適化: 妊娠前に体内の鉄過剰を改善することが目標です。これには積極的な鉄キレート療法が必要となる場合があります11
  • 包括的な臓器機能評価:
    • 心臓: 心電図、心エコー、そして心臓の鉄沈着度を定量化する心臓MRI T2*(ティーツースター)検査。心機能の低下は妊娠の相対的禁忌となります11
    • 肝臓: 肝臓の鉄濃度評価(フェリスキャンまたはMRI T2*)と肝機能検査。輸血によるウイルス感染(B型・C型肝炎)のスクリーニングも重要です23
    • 内分泌系: 糖尿病(HbA1cは信頼性が低いためフルクトサミンで評価)、甲状腺機能障害、副甲状腺機能低下症のスクリーニング11
    • 骨の健康: 骨密度測定(DEXA)による骨粗鬆症のチェック23
    • 予防接種: 各種ワクチン(特に脾摘後の患者さんに対するB型肝炎、肺炎球菌、インフルエンザ)が最新の状態であることを確認します12

妊娠中の管理:多職種による慎重なモニタリング

健診は妊娠28週までは毎月、それ以降は出産まで2週間に1回の頻度で行われます11。中間型から重症型のサラセミア女性の場合、母体の健康と胎児の発育を支えるため、輸血前ヘモグロビン値を10.0 g/dL以上に維持することが目標とされます23
鉄キレート療法の管理は繊細なアプローチを要します。妊娠初期(第一トリメスター)は、安全性データが不足しているため、すべての鉄キレート剤は中止されます11。妊娠中期以降、心臓への鉄沈着が著しいなどのハイリスク患者に対しては、妊娠20~24週から専門家の厳重な監督下で、デフェロキサミン(妊娠中の使用経験に関するエビデンスがある唯一の薬剤)の低用量投与が慎重に再開されることがあります11
胎児モニタリングには、胎児発育不全(FGR)を監視するため、妊娠24週から4週間ごとの超音波検査が含まれます11。脾臓摘出後または血小板数が多い女性は、妊娠期間を通じて低用量アスピリンを服用し、予防的な低分子ヘパリン(LMWH)の注射が必要になる場合があります11

分娩と産後ケア:安全なゴールを目指して

サラセミアであること自体は、帝王切開の適応にはなりません。産科的な理由がなければ、経腟分娩が目指されます23。分娩は、血液バンクや新生児集中治療室(NICU)へのアクセスが可能な専門施設で行う必要があります。産後の血栓予防は極めて重要であり、特に脾臓摘出後の女性や帝王切開後には、産後最大6週間、低分子ヘパリン(LMWH)の投与が継続されます11。母乳育児は安全であり、推奨されています11
以下のタイムライン別チェックリストは、複雑なガイドラインを実践的なツールに変え、患者さんが医師との対話で主体的に関わることを助けます。

表2: サラセミアを持つ女性のための周産期管理チェックリスト
時期 主な相談相手 必須の検査 薬剤・サプリメント 胎児モニタリング
妊娠前 血液内科、循環器内科、ハイリスク産科 パートナーのスクリーニング、心臓MRI T2*、肝鉄測定、内分泌スクリーニング 葉酸5mg、鉄キレート療法の最適化
妊娠初期 (0-13週) 血液内科、産科 基礎血液検査、感染症スクリーニング 葉酸5mg、鉄キレート剤中止、アスピリン(適応があれば) 妊娠週数確定のための超音波
妊娠中後期 (14-40週) 血液内科、産科、循環器内科(再診) 血算モニタリング、妊娠糖尿病スクリーニング(16週 & 28週) 葉酸・アスピリン継続、デフェロキサミン検討(20-24週から) 発育超音波(24週から4週ごと)
分娩 産科、血液内科、麻酔科 予防的LMWH、デフェロキサミン検討 持続的胎児心拍数モニタリング
産後 (最大6週間) 血液内科、産科 鉄過剰の再評価(3ヶ月後) 予防的LMWH(最大6週間)、鉄キレート療法再開
出典: RCOG、NIHなどのガイドラインを統合11

疑いから確定へ:診断へのロードマップ

ここでは、特に「鉄欠乏性貧血と誤診されているかもしれない」と疑う女性のために、論理的で段階的な診断への道筋を示します。

最初のてがかり:血液検査(血算)の読み解き方

鉄欠乏性貧血(IDA)とサラセミアは、どちらも平均赤血球容積(MCV)が低い、つまり赤血球が小さいという特徴を共有します1。これが混同の原因です。しかし、「メンツァー指標」という簡単な計算が、両者を鑑別する強力な手がかりとなります。
計算式: メンツァー指標 = MCV ÷ 赤血球数 (RBC)

  • 指標 > 13: 鉄欠乏性貧血を示唆(赤血球が小さいだけでなく、数も少ない)。
  • 指標 < 13: サラセミア軽症型を強く示唆(赤血球は小さいが、体はその数を正常か多めに保つことで代償しようとする)。3

鉄欠乏性貧血を確実に除外するもう一つの方法は、血清フェリチン(貯蔵鉄)の測定です。サラセミアでは通常、フェリチンは正常か高値ですが、鉄欠乏性貧血では低値を示します21。以下の比較表は、誤診と闘うための最も重要なツールです。この表を医師との対話に用いることで、「MCVは低いですが、RBCは高いのでメンツァー指標が13未満になります。サラセミアの可能性を検討していただけませんか?」といった、情報に基づいた質問が可能になります。

表3: サラセミア軽症型と鉄欠乏性貧血の比較
指標 鉄欠乏性貧血の典型的な結果 サラセミア軽症型の典型的な結果
ヘモグロビン (Hb) 低い わずかに低いか正常
平均赤血球容積 (MCV) 低い 非常に低い
赤血球数 (RBC) 低い 正常または高い
メンツァー指標 (MCV/RBC) > 13 < 13
血清フェリチン 低い 正常または高い
出典: 参考文献3のデータに基づく

確定診断:ヘモグロビン分析と遺伝子診断

ヘモグロビン電気泳動や高速液体クロマトグラフィー(HPLC)は、β-サラセミアを診断するための重要な血液検査です。これにより、ヘモグロビンの種類を分離・定量できます。

  • β-サラセミア軽症型: ヘモグロビンA2 (HbA2) の割合が上昇(>3.5%)しているのが特徴です5
  • α-サラセミア軽症型: 重要な点として、α-サラセミア保因者の場合、この検査は通常正常値を示し、診断の助けにならないことがあります1

遺伝子検査(DNA解析)は、診断を確定するための「ゴールドスタンダード」です。これにより、特定の遺伝子変異や欠失を直接同定し、診断を確定、タイプ(αかβか)を特定し、保因者状態を明確にすることができます2。特にα-サラセミアの正確な診断には不可欠です。ただし、これは専門的な検査であり、日本では標準的な保険適用外で高額になる可能性があることを知っておく必要があります1

出生前診断:情報に基づいた選択のために

出生前診断は、ハイリスクのカップル(両親ともに保因者と判明している場合)が、胎児の遺伝的状態を知りたい場合に選択肢となります12。方法には、妊娠11~14週頃に行う絨毛採取(CVS)や、15~20週頃に行う羊水穿刺があります。これらの検査の目的は、ご両親が情報に基づいて意思決定を行うための情報を提供することです。

日本の医療制度と向き合う:支援と意思決定

サラセミアの管理においては、日本の医療・社会制度を理解することが重要です。

医療・経済的支援へのアクセス

日本では、サラセミアは「小児慢性特定疾病」に指定されており、小児患者は医療費の助成を受けることができます8。しかし、成人の「指定難病」のリストには含まれていません35。これは、患者が成人期に移行する際に公的な経済的支援が終了または大幅に変わる可能性を意味し、長期的な家族計画において重要な情報となります。サラセミアが疑われる場合は、かかりつけ医や産婦人科医から、血液内科医(血液専門医)への紹介を求めるべきです16

遺伝カウンセリングの極めて重要な役割

遺伝カウンセリングは、専門家との対話を通じて、複雑な遺伝情報を理解し、個人として情報に基づいた意思決定を行うプロセスです37。何をすべきかを指示される場ではありません。サラセミアにおいては、診断の理解、将来の子どもへの遺伝リスク、パートナーや妊娠中の検査の選択肢、そして体外受精(IVF)における着床前遺伝子診断(PGD)といった生殖医療の選択肢について話し合うために不可欠です11
日本における大きな障壁の一つは、アクセスと費用です。遺伝カウンセリング自体が自費診療であり、初診で約8,000円から11,000円、再診で約5,500円程度の費用がかかることがあります38。サラセミアの遺伝子検査も多くは自費となり、β-サラセミアの検査費用は施設によって42,300円から62,100円と高額です34。この費用を単なる「出費」ではなく、未来の健康への価値ある「投資」と捉え直すことが重要です。カップルが遺伝子検査にかける費用は、重症のサラセミアを持つ子どもを生涯にわたってケアするための精神的・経済的負担と比較すれば、ごくわずかです。

よくある質問

最近サラセミア軽症型と診断されました。赤ちゃんは大丈夫でしょうか?健康な妊娠は可能ですか?
はい、サラセミア軽症型の女性の大多数は、健康な妊娠を経て、健康な赤ちゃんを出産しています。鍵となるのは、専門家による計画的なケアです。まず第一に、ご自身が保因者であることがわかった今、最も重要なステップはパートナーがサラセミアの保因者であるかどうかを調べることです。もしパートナーが保因者でなければ、重症型のお子さんが生まれることはありません。両親ともに保因者であった場合にのみ、25%の確率で重症型の子どもが生まれるリスクが生じます14。いずれにせよ、この記事で概説したような、血液内科医と産科医による専門的な周産期管理を受けることで、リスクを最小限に抑え、安全な妊娠・出産を目指すことが可能です。
日本の医師からはこの病気の検査をされたことがありませんでしたが、海外の医師に指摘されました。なぜですか?
サラセミアは世界の他の地域(例:東南アジア、地中海沿岸)に比べて日本では頻度が低いため、日常的な診療で必ずしもスクリーニングの対象とはなっていません13。そのため、特に症状が軽微な保因者の場合、見過ごされてしまうことがあります。これが、ご自身の状態について情報を持ち、必要に応じて医師に検査を働きかけることが重要である理由です。国際結婚の増加などに伴い、日本国内でもその認識は徐々に高まっています。
軽度の貧血があり、医師から処方された鉄剤を飲むべきでしょうか?
鉄剤を飲み始める前に、貧血の原因を確定させることが極めて重要です。もしあなたの貧血がサラセミアによるものであれば、鉄剤は効果がないだけでなく、体に鉄が過剰に蓄積する原因となり、有害な場合があります6。鉄剤を処方されても症状が改善しない、あるいはご自身の血液検査結果に疑問がある場合は、本記事の第4章で解説したメンツァー指標の計算や、血清フェリチン値の測定などを通じて、鉄欠乏が原因でない可能性を確かめるよう、主治医にご相談ください。
不妊の原因はサラセミアでしょうか?
サラセミア軽症型の女性のほとんどは、妊孕性(妊娠する能力)に影響はありません。しかし、中間型や重症型、特に著しい鉄過剰症がある場合は、内分泌機能に影響を及ぼし、妊孕性が低下する可能性があります23。もし妊娠に至るのが難しいと感じている場合は、血液内科医と生殖医療専門医の両方に相談することが良いステップとなります。

結論

サラセミアと共にある妊娠は、確かに専門的な注意を要しますが、それは決して乗り越えられない壁ではありません。最も重要なメッセージは、知識こそが力であるということです。ご自身の体の状態を正しく理解し、鉄欠乏性貧血との違いを認識し、適切なタイミングで適切な質問を医療者に投げかける勇気が、あなたと未来の赤ちゃんの健康を守る最大の盾となります。特に、鉄剤を安易に服用する前に立ち止まり、貧血の真の原因を追求することは、回避可能なリスクを防ぐための決定的な一歩です。この記事で提供された情報を道しるべとして、ぜひ主治医との対話を深め、多職種チームのサポートのもとで、計画的かつ主体的にご自身の妊娠管理に取り組んでください。正しい管理とケアがあれば、サラセミアを持つ多くの女性が経験しているように、あなたも健やかな妊娠期間を送り、元気な赤ちゃんを迎えることが十分に可能です。

免責事項
本記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医学的助言に代わるものではありません。健康上の懸念や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。

参考文献

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