この記事の科学的根拠
本記事は、日本産科婦人科学会および日本皮膚科学会が公開する診療ガイドライン、ならびに信頼性の高い医学研究論文など、最高品質の医学的エビデンスにのみ基づいて作成されています。
この記事の要点まとめ
第1章:なぜ起こる?妊娠中のかゆみの主な原因
妊娠中のかゆみの原因として最も頻度が高く、かつ医学的に見て緊急性の低いものから解説します。多くの方が経験する症状が、深刻な問題ではない可能性が高いことをまずご理解ください。
1.1. ホルモンバランスの変化と肌への影響
妊娠に伴い、エストロゲン(卵胞ホルモン)などの女性ホルモンが劇的に増加します。この急激な変化は、皮膚を知覚過敏にさせたり、肝臓の機能に軽微な影響を与えたりして、かゆみを引き起こすことがあります1。実に9割以上の妊婦さんが何らかの皮膚の変化を経験すると言われており5、かゆみは決して珍しい症状ではありません。
1.2. 皮膚の伸展と物理的な刺激
妊娠中期から後期にかけて、お腹やバストの皮膚は急速に引き伸ばされます。この物理的な伸展は、皮膚の深い層(真皮)にあるコラーゲン線維を断裂させ、炎症やかゆみを引き起こすことがあります。これは妊娠線(線状皮膚萎縮症)ができる過程でよく見られる現象です。
1.3. 皮膚の乾燥(皮脂欠乏症)
ホルモンバランスの変化は、皮膚のバリア機能も低下させます。肌の水分を保つ力が弱まると、皮膚は乾燥状態(皮脂欠乏症)に陥り、外部からのわずかな刺激にも敏感に反応してかゆみを感じやすくなります。特に空気が乾燥する季節にはこの傾向が強まります。
1.4. 汗や衣類の摩擦
妊娠中は基礎代謝が上がり、汗をかきやすくなります。汗が皮膚の刺激となり、あせも(汗疹)ができやすくなることもかゆみの一因です。また、体を支える下着の締め付けや衣類の縫い目による摩擦も、かゆみを悪化させる原因となります。
第2章:妊娠中に特有の皮膚トラブル(妊娠性皮膚症)
ここでは、妊娠という特殊な状態に起因して発症する、具体的な病名を持つ皮膚疾患(妊娠性皮膚症)に焦点を当てます。これらの多くは、母体や胎児に深刻な影響を及ぼさないことをまずご理解ください。
2.1. 妊娠性痒疹(PUPPP/PEP)
妊娠性痒疹(PUPPP)は、妊娠中に特有の皮膚症の中で最も頻度が高い疾患です2。腹部の妊娠線に沿って、強いかゆみを伴う赤いブツブツ(丘疹)や蕁麻疹のような発疹(膨疹)として現れるのが典型的です。多くは妊娠後期に発症し、お腹から太もも、腕などに広がることがあります。最も重要なことは、PUPPPは見た目の症状が強くても、母体および胎児の健康に悪影響を及ぼすことはないという点です。通常、出産後数日から数週間で自然に軽快します。
2.2. 妊娠性アトピー性皮膚炎(AEP)
妊娠性アトピー性皮膚炎(AEP)は、妊娠中にアトピー性皮膚炎が初めて発症したり、もともとあったものが悪化したりする状態を指します。ご自身やご家族にアトピー素因(気管支喘息、アレルギー性鼻炎、アトピー性皮膚炎の既往)がある場合に疑われます。首や肘・膝の裏などにカサカサした湿疹ができるタイプと、手足に硬いブツブツができるタイプがあります。PUPPPと同様に、AEPも胎児へのリスク増加とは関連しないとされています3。
第3章:専門医の診断が必須!注意が必要な「かゆみ」のサイン
ここからは、妊婦さんご自身と赤ちゃんの安全のために、特に注意が必要な疾患について解説します。下記のような症状がある場合は、自己判断せず、直ちに医療機関に相談してください。
3.1. 肝臓の危険信号:妊娠性肝内胆汁うっ滞症(ICP)
これは妊婦特有の肝疾患で、放置すると胎児に深刻な影響を及ぼす可能性があります。他の一般的なかゆみとの決定的な違いは、「発疹を伴わない、激しいかゆみ」です。特に夜間に悪化し、手のひらと足の裏から始まるのが古典的な特徴です。ICPは早産、胎児仮死、そして稀に死産のリスクを高めることが報告されています4。診断は血液検査で行います。このような症状を感じた場合は、様子を見ずに、直ちにかかりつけの産婦人科医に連絡してください。
3.2. 稀な自己免疫疾患:妊娠性類天疱瘡(PG)
これは、自身の免疫が皮膚を攻撃してしまう稀な自己免疫疾患です。初期症状はPUPPPに似ていますが、決定的な特徴は、その後、硬く張った水ぶくれ(緊満性水疱)が形成される点です。早産や、赤ちゃんが小さく生まれるリスクとの関連が指摘されています6。この疾患の診断と治療には皮膚科専門医による介入が必須です。水ぶくれに気づいた場合は、直ちに受診してください。
表1:「かゆみの原因」早わかり比較表
ご自身の症状を客観的に評価するために、以下の表をご活用ください。
疾患名 | 主な症状 | かゆみの場所 | 発症時期 | 赤ちゃんへの影響 | 医療機関受診の目安 |
---|---|---|---|---|---|
生理的変化 | 乾燥、軽いかゆみ、発疹は伴わないことが多い | 全身、特にお腹周り | 妊娠期間全般 | なし | 保湿ケアで改善しない場合 |
妊娠性痒疹 (PUPPP) | 強いかゆみを伴う赤いブツブツ、蕁麻疹様の発疹 | お腹の妊娠線から始まり、全身に広がる | 妊娠後期 | なし | かゆみが強く、生活に支障がある場合 |
妊娠性アトピー性皮膚炎 (AEP) | 乾燥した湿疹、または硬いブツブツ | 首、肘・膝の裏、手足など | 妊娠初期~中期 | なし | かゆみが強く、市販の保湿剤で改善しない場合 |
妊娠性肝内胆汁うっ滞症 (ICP) | 発疹を伴わない、耐え難い激しいかゆみ | 手のひら、足の裏から始まることが多い | 妊娠中期~後期 | あり | 症状を自覚したら直ちに受診 |
妊娠性類天疱瘡 (PG) | 強いかゆみを伴う発疹、後に水ぶくれ(水疱) | おへそ周りから始まり、全身に広がる | 妊娠中期~後期 | あり | 水ぶくれを認めたら直ちに受診 |
第4章:安全にできるセルフケアと医療機関での治療
ここでは、すぐに行動に移せる対策と、医師の指導のもとで行う治療について、境界線を明確にして解説します。
4.1. 自宅でできる効果的なかゆみ対策
- 保湿(最重要):全てのケアの基本です。皮膚の乾燥はかゆみの大きな原因です。入浴後など肌が潤っているうちに、無香料・低刺激性の保湿剤(ヘパリン類似物質、セラミド、ワセリンなどを含むもの)をたっぷりと塗りましょう。
- 体を冷やす:かゆみは温まると増します。清潔なタオルで包んだ保冷剤で患部を冷やしたり、熱すぎないぬるめのシャワーを浴びたりするのが有効です。
- 衣類と生活習慣:肌への刺激が少ない綿素材のゆったりした衣類を選びましょう。締め付けの強い下着は避けてください。室温を涼しく保ち、加湿器で適切な湿度を維持することも大切です。
- 刺激を避ける:かきむしる行為は皮膚のバリアをさらに破壊し、悪循環に陥るため絶対に避けてください。洗浄力の強い石鹸や長時間の熱い入浴も避けましょう。
表2:妊娠中でも使いやすい保湿剤・セルフケア製品の成分例
製品を選ぶ際は、ブランド名ではなく、以下の成分表示を参考にしてください。
種類 | 主な成分 | 期待できる効果 | 使用上のポイント |
---|---|---|---|
保湿剤 | ヘパリン類似物質 | 高い保湿力、血行促進、抗炎症作用 | 医療用医薬品としても処方される信頼性の高い成分。乾燥が強い部位に。 |
セラミド | 皮膚のバリア機能を補い、水分保持能力を高める | 肌本来の成分に近く、敏感肌にも使いやすい。顔や全身に。 | |
ワセリン | 皮膚表面に膜を作り、水分の蒸発を防ぐ保護作用 | 他の保湿剤を塗った後の「蓋」として使うと効果的。刺激が極めて少ない。 | |
入浴剤 | オートミール(燕麦) | かゆみや炎症を和らげる。皮膚を穏やかに保湿する。 | ぬるめのお湯に溶かして使用。強くこすらず、入浴後はすぐに保湿する。 |
冷却 | メントール非配合のジェル | 清涼感を与え、かゆみの感覚を一時的に鈍らせる。 | メントールは刺激になることがあるため、非配合のものがより安心。 |
4.2. 医師に相談する治療法
セルフケアで改善しない場合は、ためらわずに医師に相談しましょう。自己判断で市販薬を使用することは避けてください。
- 塗り薬(外用薬):炎症を抑えるためにステロイド外用薬が処方されることが最も一般的です。医師は妊娠時期や重症度を考慮し、安全に使える適切な強さの薬を選択しますので、指示通りに使用すれば心配ありません。
- 飲み薬(内服薬):かゆみが非常に強く睡眠が妨げられる場合、安全性の高い抗ヒスタミン薬が処方されることがあります。どの薬が適切かは医師が判断するため、市販のものを自己判断で服用しないでください。
- ICPの専門治療:妊娠性肝内胆汁うっ滞症(ICP)と診断された場合は、ウルソデオキシコール酸(UDCA)という内服薬で治療します。これはかゆみを軽減するだけでなく、胎児へのリスクを低減する効果も期待できます4。
4.3. やってはいけないこと・注意点
- 医師の診察を受けずに、市販のステロイドクリームを自己判断で使用しないこと。
- 医師の許可なく、市販のアレルギー用の飲み薬を服用しないこと。
- 特に手のひらや足の裏の激しいかゆみを、「ただの乾燥肌」と自己判断して放置しないこと。
よくある質問
妊娠中のかゆみ、いつから始まりますか?
かゆみ止めを使いたいのですが、赤ちゃんに影響はありませんか?
かゆくて夜も眠れません。どうしたら良いですか?
このかゆみはいつまで続きますか?
結論
妊娠中のかゆみは多くの妊婦さんが経験する一般的な症状ですが、その背景には様々な原因が隠されています。大切なのは、いたずらに不安になることなく、しかし危険なサインを見逃さずに、正しく対処することです。この記事が、かゆみに悩む皆様の不安を和らげ、安心してマタニティライフを送るための一助となれば幸いです。気になる症状があれば、決して一人で抱え込まず、かかりつけの産婦人科医や皮膚科専門医にご相談ください。
この記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医学的アドバイスに代わるものではありません。健康上の懸念がある場合や、ご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。
参考文献
- 日本産科婦人科学会・日本産婦人科医会. 産婦人科診療ガイドライン―産科編2023. 東京: 日本産科婦人科学会; 2023.
- 公益社団法人日本皮膚科学会. 皮膚科Q&A – 妊娠と皮膚. [インターネット]. [2025年6月20日引用]. 入手可能: https://www.dermatol.or.jp/qa/qa23/index.html
- Kroumpouzos G, Cohen LM. Specific dermatoses of pregnancy: an evidence-based systematic review. Am J Obstet Gynecol. 2003;188(4):1083-92.
- Gabbe SG, Niebyl JR, Simpson JL, et al. Obstetrics: Normal and Problem Pregnancies. 8th ed. Philadelphia, PA: Elsevier; 2021. Chapter 45, Dermatologic Disorders in Pregnancy.
- Vora RV, Gupta R, Mehta MJ, Chaudhari AH, Pilani AP, Patel N. Pregnancy and skin. J Family Med Prim Care. 2014;3(4):318-24.
- Soutou B, Aractingi S. Pemphigoid gestationis: A new outlook on this rare blistering skin disease of pregnancy. J Eur Acad Dermatol Venereol. 2015;29(8):1482-9.