偽妊娠（想像妊娠）の真実：その症状・原因と、病理現象・自己暗示の繋がりを専門家が徹底解説

偽妊娠（想像妊娠）とは？妊娠していないのに妊娠の兆候が現れる心身の現象

偽妊娠、医学用語では「pseudocyesis（シュードサイエシス）」⁷と呼ばれ、一般には「想像妊娠」という言葉で広く知られています⁸。これは、妊娠していない女性が「自分は妊娠している」という強い信念を持ち、それに伴って客観的に観察されうる身体的な妊娠兆候を示す、精神医学的な症候群です⁹。重要なのは、本人が嘘をついているわけでも、単なる「思い込み」でもないという点です。心の問題が実際に身体を変化させる、心身相関の顕著な例と言えます⁹。
医学的な分類において、この状態は異なる角度から定義されています。米国精神医学会が発行する『精神疾患の診断・統計マニュアル第5版（DSM-5）』では、偽妊娠は「他の特定される身体症状症および関連症群」というカテゴリに含まれます¹。これは、偽妊娠が独立した疾患単位ではなく、身体的な症状が主訴となるより広範な障害群の一つの表現型として捉えられていることを意味します¹⁰。一方で、世界保健機関（WHO）の『国際疾病分類第10版（ICD-10）』では、「身体表現性障害、特定不能」のコードF45.9に分類され、客観的な所見がないにもかかわらず持続的な身体症状が存在する障害として認識されています²。
JAPANESEHEALTH.ORG編集委員会としては、この用語の使い分けについて明確にしておくことが重要だと考えます。「想像妊娠」は日常会話で広く使われ、多くの方が最初に検索するキーワードでしょう⁸。しかし、医学的な文脈では「偽妊娠」がより正確な表現です⁷。本稿では、読者の皆様の検索意図に応えるために両方の用語を用いつつ、その医学的背景を深く掘り下げていきます。

あなたの症状は？偽妊娠でみられる身体的・精神的サイン

偽妊娠の症状は、実際の妊娠と非常によく似ており、本人や周囲を混乱させることがあります。その兆候は多岐にわたりますが、主に以下のようなものが報告されています。

腹部の膨らみや月経の停止

最も一般的で顕著な症状の一つが、腹部の増大です⁹。これは、腹部の筋肉の緊張やガスの貯留、脂肪の蓄積などが複合的に関与していると考えられています⁴。驚くべきことに、この腹部の膨らみは、偽妊娠であるという事実が受け入れられた後、急速に（時には放屁を伴って）消失することがあります¹¹。また、実際の妊娠と同様に、月経が止まる「無月経」も非常に多く見られる症状です。これは後述するホルモンバランスの変化によって引き起こされます⁹。

乳房の変化と乳汁分泌

乳房の張りや増大、乳輪の色の変化、さらには乳汁が分泌される「乳汁漏出（galactorrhea）」も報告されています⁹。これらの症状も、主にプロラクチンというホルモンの上昇が原因と考えられており、偽妊娠が単なる心理的な思い込みではない、生物学的な変化を伴う状態であることを示しています³。

「胎動」のような感覚

多くの女性が、お腹の中で赤ちゃんが動いているかのような「胎動」を主観的に感じると報告します⁹。これは、腸の蠕動運動や腹壁の筋肉の収縮などを、妊娠への強い期待から脳が「胎動」として誤って解釈してしまうことで生じると考えられています⁴。その他にも、吐き気や嘔吐、体重増加、食の好みの変化、腰を反らせる姿勢（脊柱前弯）、さらには予定日とされる日に陣痛のような痛みを感じることさえあります¹²。

偽妊娠と間違えやすい他の状態：自己判断は危険です

偽妊娠の診断において、他の類似した、しかし治療法が全く異なる状態とを正確に区別することは、極めて重要です。自己判断は大きなリスクを伴うため、必ず専門家による鑑別診断が必要です。各種研究報告が示すように、これらの状態は「異なる管理法と治療アプローチを必要とします」²。

妄想性妊娠との決定的な違い

これは最も重要で、かつ慎重な鑑別を要する状態です。

• 偽妊娠（Pseudocyesis）: 妊娠しているという誤った信念（過大評価観念）と、それに伴う客観的な身体兆候が特徴です⁹。分類上は身体症状症の一つです。治療は主に心理療法が中心となります⁹。
• 妄想性妊娠（Delusional Pregnancy）: 客観的な身体兆候を伴わずに、妊娠しているという訂正不能な誤った確信（妄想）を持つ状態です⁹。これは統合失調症や妄想性障害といった精神病性障害の一症状であり²、多くの場合、抗精神病薬による薬物治療が必要となります¹³。

両者の境界は時に曖昧で、診断が困難な場合もありますが²、治療方針が根本的に異なるため、専門医による正確な診断が不可欠です。

虚偽性障害やその他の病気の可能性

鑑別診断のリストには、他にも以下の状態が含まれます。

• 虚偽性障害（Factitious Disorder）: 病人の役割を担いたいという欲求から、意図的に妊娠の症状を装う状態です。本人は妊娠していないことを自覚しながら、他者を欺こうとします²。
• 誤解による偽妊娠（Erroneous Pseudocyesis）: ホルモン産生腫瘍や肝疾患など、実際に存在する身体疾患の症状を、本人が妊娠の兆候であると誤って解釈してしまうケースです⁴。この場合、hCG（ヒト絨毛性ゴナドトロピン）を産生する稀な腫瘍などが原因で、妊娠検査で陽性反応が出ることがあり、診断をさらに複雑にします¹⁴。

なぜ起こるのか？偽妊娠の引き金となる心理的・社会的な要因

偽妊娠は、単一の原因で説明できるものではなく、深い心理的動機と、個人を取り巻く社会的・文化的圧力が複雑に絡み合って発生します。

「赤ちゃんが欲しい」という強い願い

偽妊娠の最も強力な心理的推進力は、「妊娠したい」という圧倒的で強烈な願望です¹⁵。この願望は、しばしば以下のような深刻な経験に根差しています。

• 不妊症、繰り返す流産、新生児の喪失¹⁴
• 子宮摘出術や卵管結紮術後の喪失感¹⁵
• 閉経期への移行と生殖能力の喪失に対する不安¹⁴
• 性的虐待など、過去のトラウマ体験¹⁴
• パートナーとの関係を維持・強化したいという切実な思い¹⁴

日本社会における不妊治療と出産のプレッシャー

JAPANESEHEALTH.ORGは、この問題を日本の文脈で捉えることが不可欠だと考えます。日本のデータは、偽妊娠のリスクを高めうる特有の社会的背景を浮き彫りにしています。国立社会保障・人口問題研究所による第16回出生動向基本調査では、夫婦の4.4組に1組が不妊の検査や治療の経験があると報告されており、多くのカップルが心理的・身体的負担を抱えながら治療に臨んでいる実態があります⁵¹⁶。この治療に伴う希望と絶望のサイクルは、偽妊娠を発症する土壌となりえます¹⁷。
さらに、経済的な不安も大きな要因です。ある調査では、出産をためらう背景として経済的な問題が大きく影響していることが示唆されています¹⁸。厚生労働省の報告書によると、日本の社会は必ずしも「子どもを産み育てやすい」とは認識されておらず⁶、特に女性が出産・育児によってキャリアの中断や収入減といった「チャイルド・ペナルティ」を背負わされる傾向は、依然として根強い問題です¹⁹。このような強い社会的・経済的圧力が、妊娠に対する極度の願望や葛藤を生み、偽妊娠の引き金となる可能性があるのです。

妊娠への恐怖や過去のトラウマ

一方で、願望とは正反対に、妊娠や出産に対する極度の恐怖が偽妊娠を引き起こすこともあります¹⁵。これは、性的虐待の被害経験など、深刻なトラウマと関連している場合があります¹⁴。この場合、心は妊娠の可能性を恐れるあまり、かえって妊娠の兆候を身体に作り出してしまうという、逆説的なメカニズムが働いていると考えられます。

心が身体を変えるメカニズム：偽妊娠の神経内分泌学的背景

では、なぜ強い感情が、月経停止や腹部の膨らみといった具体的な身体症状を引き起こすのでしょうか。その鍵は、脳とホルモン、そして自律神経の連携、すなわち「神経内分泌系」にあります。偽妊娠は、心（精神）が身体（内分泌・神経系）に直接影響を及ぼす「心身相関」の典型例です⁹。

プロラクチンホルモンの役割

中心的な役割を果たすのが、プロラクチンというホルモンです。通常、プロラクチンは母乳の産生を促すホルモンとして知られています。不妊、喪失、トラウマなどによる強い心理的ストレスは、脳内の神経伝達物質のバランスを崩し、結果としてプロラクチンの過剰分泌（高プロラクチン血症）を引き起こすことがあります³。この上昇したプロラクチンが、偽妊娠における二大症状である「無月経」と「乳汁分泌」を直接的に引き起こすのです³。脳内のドーパミンは通常プロラクチンの分泌を抑制する働きがありますが、ストレスによってドーパミンの活動が低下することも、このメカニズムに関与していると考えられています⁴。

自律神経の乱れと身体症状

うつ病や不安によって引き起こされる交感神経系（「闘争・逃走」反応を司る）の活動亢進も、身体症状の一因とされています⁴。この神経系の過活動が、腹部の膨満感（ガスの貯留や筋肉の緊張）や、腸の動きが「胎動」のように感じられる原因と考えられています⁴。
このように、偽妊娠は「病理現象か、自己暗示か」という二者択一の問題ではありません。「強い心理的・社会的要因（自己暗示の源）が、脳を介して神経内分泌系の機能不全（病理現象）を引き起こし、その結果として客観的な身体症状が発現し、その身体症状がさらに心理的な信念を強化する」という、強力な心身のフィードバックループによって成り立っているのです²。この統合的な理解こそが、偽妊娠という状態の本質を捉える鍵となります。

確定診断への道：どうやって偽妊娠だとわかるのか？

ご本人やご家族にとって、症状の真偽を見極めることは困難であり、大きな不安を伴います。診断を確定し、次のステップに進むためには、客観的な医学的評価が不可欠です。診断プロセスそのものが、治療的な介入の第一歩となります。

超音波（エコー）検査の重要性

偽妊娠の診断において最も決定的で重要なツールは、超音波検査です⁷。経腹または経腟超音波検査により、子宮内に胎児や胎嚢が存在しないことが明確に確認できます。これにより、妊娠が事実ではないという客観的な証拠が得られます。同時に、腹部膨満の原因となりうる子宮筋腫や卵巣腫瘍など、他の身体疾患の可能性を除外するためにも役立ちます¹¹。

妊娠検査薬の結果

市販の尿検査薬や、医療機関での血液検査（hCG検査）は、ほぼ全ての場合で陰性となります²⁰。hCGは妊娠中に胎盤から産生されるホルモンであり、これが検出されないことは、生理学的な妊娠が存在しないことの強力な証拠です。前述の通り、極めて稀にhCG産生腫瘍が存在する場合を除き、結果は陰性です¹⁴。
多くの専門家が指摘するように、これらの客観的な証拠（陰性の検査結果や胎児のいない超音波画像）を、患者の感情に配慮しつつ、共感的かつ明確に提示することが、治療の最初の、そして最も重要なステップです⁹。医師の役割は、患者が感じている身体症状の現実性を認めつつ、それが妊娠によるものではないという事実を優しく伝えることにあります⁹。この「真実との対峙」は、たとえ苦痛を伴うものであっても、状態の本当の性質を理解し、適切なケアへと進むために不可欠な扉なのです。

治療とサポート：心と身体の回復に向けて

偽妊娠の診断が確定した後、焦点は心と身体の回復に向けたサポートへと移ります。治療は薬物よりも、心理的なアプローチが中心となります。

まずは正確な事実の理解から

治療の第一歩は、超音波検査や妊娠検査の結果を通じて、妊娠していないという事実を本人が受け入れることです⁹。このプロセスは、非常にデリケートな対応を要します。医療従事者は、共感的な態度で、患者の感情的な苦痛を認め、決してその信念を頭ごなしに否定したり、嘲笑したりしてはなりません。症状が現実のものであったことを理解しつつ、その原因が妊娠ではないことを丁寧に説明することが重要です。

心理療法とカウンセリング

事実の受容後は、偽妊娠の根本原因となった心理的・社会的ストレス要因に対処するための心理療法やカウンセリングが推奨されます。認知行動療法（CBT）、支持的精神療法、家族療法などが有効な場合があります。セラピーを通じて、不妊、喪失、トラウマなどの根本的な問題を探求し、感情を処理し、より健康的な対処法を学ぶことができます。場合によっては、背景にあるうつ病や不安障害に対して、抗うつ薬などの薬物療法が併用されることもあります。

周囲の家族やパートナーができること

家族やパートナーのサポートは、回復において極めて重要な役割を果たします。責めたり、「気のせいだ」と突き放したりするのではなく、本人が経験した心身の苦痛が現実のものであったことを理解し、共感を示すことが大切です。「偽妊娠」という状態について正しい知識を持ち、医療専門家との連携を図りながら、本人が安心して治療に取り組める環境を整えることが求められます。共に悲しみ、共に回復の道を歩む姿勢が、本人の孤立感を和らげ、前向きな変化を促します。

よくある質問

結論

偽妊娠（想像妊娠）は、単なる「思い込み」や「気のせい」で片付けられるべき状態ではありません。それは、不妊、喪失、社会的圧力といった深い心理的苦痛が、ホルモンバランスや自律神経系を実際に変化させ、客観的な身体症状として現れる、深刻な心身の叫びです。そのメカニズムは、「自己暗示」と「病理現象」が互いを強化しあう複雑なフィードバックループであり、両者を切り離して考えることはできません。
この記事を通じてJAPANESEHEALTH.ORGが最も伝えたいことは、この状態で苦しんでいるあなたは一人ではないということ、そして、これは治療可能な状態であるということです。最も重要な第一歩は、超音波検査などによって客観的な事実を確認するために、勇気を出して産婦人科や精神科の専門医に相談することです。正確な診断は、非難や混乱の終わりであり、理解と回復の始まりを意味します。共感的な医療サポートと、周囲の温かい理解があれば、心と身体のバランスを取り戻し、健やかな日々への道筋を見出すことは十分に可能なのです。