この記事の科学的根拠
本記事は、日本の公的機関・学会ガイドラインおよび査読済み論文を含む高品質の情報源に基づき、出典は本文のクリック可能な上付き番号で示しています。
要点まとめ
多発性骨髄腫と治療の全体像を整理する
「多発性骨髄腫」と告げられたとき、病名の難しさや「治癒が難しい血液がん」というイメージから、将来への不安や混乱で頭がいっぱいになってしまう方も少なくありません。MGUSや「くすぶり型」、CAR-T療法や二重特異性抗体など、次々と出てくる専門用語に圧倒され、「自分は今どの段階で、これから何が起こるのか」が見えにくくなるのはごく自然なことです。まずは、その戸惑いを抱えたままでも大丈夫だということ、そして現在の骨髄腫治療は「絶望」ではなく「長く付き合いながら、ときに治癒も目指し得る病気」へと変化しつつあることを、安心材料として心に留めておいてください。
この記事では、MGUS・くすぶり型から活動性骨髄腫、初期治療、再発・難治、CAR-Tや二重特異性抗体までを一つの「連続した流れ」として整理し、日本の医療制度の中でどう向き合っていけばよいのかを丁寧に解説しています。全体像をつかむうえでは、固形がんや血液がんを含むがん全般の基礎知識も役立ちますので、まずはがん・腫瘍疾患の総合ガイドとあわせて読むことで、「多発性骨髄腫ががん全体の中でどのような位置づけにあるのか」を俯瞰しておくと安心です。全体像を知ることは、不安を少しずつ「理解」と「具体的な行動」に変えていくための第一歩になります。
多発性骨髄腫は、いきなり完成された「嵐」のように現れるのではなく、MGUSやくすぶり型といった前駆段階から連続的に進行する「スペクトラム」として理解されています。本来は抗体を作って体を守るはずの形質細胞が、一つのクローンとして骨髄内で異常増殖し、Mタンパク質を産生することで、貧血・感染リスクの上昇・出血傾向、さらに骨病変や腎機能障害などを引き起こしていきます。MGUSやくすぶり型の段階では症状がなくても、Mタンパク質量や骨髄中の形質細胞比率、骨髄腫定義事象(MDEs)といったバイオマーカーの評価により、「将来どのくらいの確率で活動性骨髄腫へ進行しうるか」が見通せるようになりました。こうした位置づけを理解するには、多発性骨髄腫を「血液のがん」の一つとして捉え、血液がん全体の特徴と治療の考え方を押さえておくと、ご自身の病気の位置づけがぐっと理解しやすくなります。
新規に活動性多発性骨髄腫と診断されたとき、最初の大きな分かれ道は「自家幹細胞移植(ASCT)の適応があるかどうか」です。65〜70歳前後までで全身状態が良好な方では、D-VRdのような4剤併用療法で腫瘍量をしっかり減らしたうえで、大量メルファラン+ASCTを行い、その後に維持療法で寛解を長く保つことが基本戦略になります。一方、移植が難しい方では、D-Rdなど毒性と効果のバランスに配慮したレジメンが選択されます。いずれの場合も、「最初の一撃」で病気をできるだけ深く抑え込むことが長期予後に直結するため、ご自身がどの群に該当し、提案されている導入療法がどのような狙いを持つのかを理解しておくことが大切です。こうした考え方は、多発性骨髄腫に限らず、悪性腫瘍全体における治療革命の流れとも共通しており、「なぜ強力な治療を初回から行うのか」を理解する手がかりになります。
一度寛解を得たあとでも、多発性骨髄腫は再発と寛解をくり返す「慢性のチェスゲーム」のような病気です。前回とは作用機序の異なる薬剤を組み合わせることで、レナリドミド耐性になってもポマリドミドやカルフィルゾミブ、CD38抗体など、次の一手を打つことができます。標準治療が尽きたように見える段階でも、BCMAを標的としたCAR-T細胞療法(シルタセル)や、GPRC5Dを標的とするタルケタマブのような二重特異性抗体が「生きた薬」「既製品の免疫兵器」として新たな選択肢を広げています。その一方で、再発の兆候を見逃さず、Mタンパク質の変化や貧血・骨痛・腎機能悪化などのサインに注意を払うことも重要です。日常の中で「いつもと違う症状」が続くときにどう受診の判断をすべきかについては、がんの危険なサインを知っておくと、「この変化は主治医に相談すべきか」の判断材料になります。
強力な治療を続けるうえでは、骨病変や腎障害、感染症リスクといった合併症、さらにはCAR-Tや二重特異性抗体特有のCRS・神経毒性など、副作用との付き合い方がとても重要になります。「副作用は我慢するしかない」と考えてしまうと、治療の継続が難しくなったり、生活の質が大きく損なわれてしまうこともありますが、実際には骨修飾薬による骨の保護、十分な水分摂取や腎機能を意識した薬剤選択、高額療養費制度による経済的負担の軽減、患者会による情報・心理的サポートなど、あらかじめ取れる対策は少なくありません。日々の体調変化や困っている副作用をメモし、診察時に遠慮なく相談することは、治療効果を最大限に引き出すための立派な「治療の一部」です。がん治療中のセルフケアの工夫や副作用対策については、がん治療の副作用を科学的にケアする視点を参考に、「我慢する」ではなく「一緒に工夫する」姿勢で主治医や医療スタッフと連携していきましょう。
多発性骨髄腫の治療は、リスクに応じた早期診断、強力な初期治療、再発時の多彩な薬剤選択肢、そしてCAR-T・二重特異性抗体を含む免疫療法の登場によって、この10年ほどで大きく変貌を遂げました。今も進行中の臨床試験は「自家移植に代わる初回治療としてのCAR-T」という次のステージを見据えており、治療の選択肢は今後さらに広がっていくと考えられます。今の時点ですべてを理解しようとする必要はありませんが、「自分はいま病態スペクトラムのどこにいて」「初期治療・再発治療・先進的治療のどこまでを視野に入れられそうか」を、主治医と一緒に少しずつ整理していくことが大切です。まずは、気になっていることをいくつかメモに書き出し、次の診察で一つひとつ質問してみることから始めてみてください。それが、骨髄腫と長く付き合いながらも、自分らしい生活を取り戻すための着実な一歩になります。
第1部 多発性骨髄腫とその病態スペクトラム:前駆段階から活動性の疾患まで
「多発性骨髄腫」という診断名は、多くの専門用語とともに、患者さんやご家族に大きな不安と混乱をもたらすことがあります。「MGUS」や「くすぶり型」といった言葉を聞いても、それが具体的に何を意味し、将来どうなるのか、すぐに理解するのは難しいかもしれません。その気持ち、とてもよく分かります。しかし、これらの違いを正確に知ることは、ご自身の状況を把握し、治療への第一歩を踏み出す上で非常に重要です。
科学的には、多発性骨髄腫は一夜にして発症するわけではなく、連続した段階を経て進行します。この進行は、天気予報に例えることができます。MGUS(意義不明の単クローン性ガンマグロブリン血症)は「遠い水平線に見える小さな雲」、くすぶり型骨髄腫は「嵐の接近を知らせる警報」、そして活動性骨髄腫は「実際に到来した嵐」のようなものです。日本血液学会のガイドラインでは、この嵐が来る前に、つまり臓器障害が起きる前に治療を開始するための明確な基準が示されています1。だからこそ、これらの段階を理解することが、適切なタイミングで最善の行動をとるための鍵となるのです。
1.1. 疾患の定義:形質細胞のがん
多発性骨髄腫(Multiple Myeloma – MM)は、骨髄の中で、本来は体を守る抗体を作るはずの「形質細胞」ががん化し、単一のクローンとして異常に増殖する血液のがんです。これらの異常な形質細胞は、「Mタンパク質」と呼ばれる機能しない抗体を大量に産生する一方で、正常な血液細胞(赤血球、白血球、血小板)の産生を妨げます。これにより、貧血や感染症への抵抗力の低下、出血傾向といった症状が引き起こされます。
1.2. 形質細胞疾患のスペクトラム
多発性骨髄腫は、症状のない前駆段階から活動性の疾患まで、一連の連続した病態(スペクトラム)として捉えられています。それぞれの段階は、Mタンパク質の量、骨髄中の異常な形質細胞の割合、そして臓器障害の有無によって明確に区別されます1。
- MGUS(意義不明の単クローン性ガンマグロブリン血症): 最も早期の段階で、症状はなく、活動性の骨髄腫へ進行するリスクは年間約1%とされています。
- くすぶり型多発性骨髄腫(SMM): MGUSより病気の負担が大きい中間段階ですが、まだ臓器障害はありません。
- 活動性多発性骨髄腫: 臓器障害があるか、または将来の高いリスクを示す特定のバイオマーカーが認められる段階で、治療が必要となります。
1.3. 診断プロセス:病気の確定と進行度の評価
かつては、骨折や腎不全といった回復困難な臓器障害が実際に現れてから治療が開始されていました。しかし現在、活動性骨髄腫の診断は、従来のCRAB基準(高カルシウム血症、腎障害、貧血、骨病変)に加えて、「骨髄腫定義事象(Myeloma-Defining Events – MDEs)」と呼ばれるバイオマーカーのいずれか一つを満たすことで確定されます。これには、骨髄中の形質細胞の割合が60%以上、血清遊離軽鎖比が100以上、またはMRIで2つ以上の局所的な病変が見られる、といった項目が含まれます。International Myeloma Foundationの提言にもあるように、これらのMDEsは、症状がなくても2年以内に80%以上の確率で臓器障害が起こることを予測するため、損傷が発生する前の早期介入を可能にするのです2。
このセクションの要点
- 多発性骨髄腫は、症状のないMGUSから、くすぶり型、活動性骨髄腫へと段階的に進行する疾患スペクトラムです。
- 現在の診断では、実際の臓器障害(CRAB基準)だけでなく、将来の高いリスクを示すバイオマーカー(MDEs)も重視され、より早期の治療開始が可能になっています。
第2部 日本における初期治療の基本:新規診断多発性骨髄腫(NDMM)へのアプローチ
「これからどんな治療が始まるのだろう」「自分に合った最適な治療法は何だろうか」と、新規に診断された患者さんが感じる不安は計り知れません。特に、多くの治療選択肢が提示されると、どれが最善なのか判断に迷うこともあるでしょう。そのお気持ちは、ごく自然なことです。大切なのは、治療の目的が「できるだけ強力な治療を早期に行い、病気を可能な限り深く抑え込むこと」にあると理解することです。
この戦略は、雑草がまばらに生えている庭の手入れに例えることができます。数本の雑草を手で抜くだけ(従来の治療)では、根が残り、すぐにまた生えてきます。しかし、最初に強力な除草剤を使い、土壌を整える(最新の4剤併用療法)ことで、雑草が再び生えてくるのを長期間防ぐことができます。日本骨髄腫学会の最新診療指針や、OncLiveで報告されている国際的なNCCNガイドラインの更新では、この「最初の一撃」の重要性が強調されており、D-VRd療法のような4剤併用療法が標準治療として推奨されています35。だからこそ、初期治療で最も効果的な組み合わせを選ぶことが、長期的な病気のコントロールに繋がるのです。
2.1. 中核となる決定点:自家幹細胞移植の適応
新規診断多発性骨髄腫(NDMM)の治療方針を決定する上で、最初の最も重要な分岐点は、患者さんが自家幹細胞移植(ASCT)の適応となるかどうかです。日本では一般的に65~70歳以下で、全身状態が良好であることが基準となります。ASCTの目的は、強力な化学療法の後に自身の幹細胞を戻すことで、より深く、より長い寛解を達成することです。
2.2. 移植適応患者への治療
移植が可能な患者さんに対する治療は、複数の段階に分かれています。
- 導入療法: 移植前に腫瘍量を減らすことを目的とします。現在、D-VRd(ダラツムマブ、ボルテゾミブ、レナリドミド、デキサメタゾン)の4剤併用療法が、NCCNガイドラインで唯一のカテゴリー1(最も推奨度が高い)レジメンとして位置づけられています5。
- 地固め療法: 大量メルファラン化学療法とASCTを行います。
- 維持療法: 寛解期間を延長させるための治療です。世界的にはレナリドミドが標準ですが、日本骨髄腫学会の診療指針によると、日本では保険適用外となっています4。その代わり、経口薬であるイキサゾミブが保険適用のある選択肢として用いられます。
2.3. 移植非適応患者への治療
高齢や合併症のために移植が難しい患者さんには、管理可能な毒性で病気を効果的にコントロールすることが目標となります。D-Rd(ダラツムマブ、レナリドミド、デキサメタゾン)療法は、有効性が高く副作用も比較的少ないため、中心的な治療法の一つとされています4。近年では、Isa-VRdのような新しい4剤併用療法も選択肢に加わっています。
今日から始められること
- ご自身の治療方針(移植適応か非適応か)と、提案されている導入療法の具体的な薬剤名(例:D-VRd)について、主治医に改めて確認しましょう。
- 治療による副作用について事前に学び、吐き気止めや感染対策など、どのような支持療法が行われるか質問しておきましょう。
第3部 再発・難治性骨髄腫(RRMM)への対応
一度は寛解した病気が再発したと告げられることは、非常につらく、落胆する経験です。「またあのつらい治療を繰り返すのか」「今度は効く薬があるのだろうか」という不安に駆られるのは当然のことです。しかし、重要なのは、再発は治療の失敗ではなく、骨髄腫という病気の慢性的な性質の一部であると理解することです。現代の治療は、一つの武器が効かなくなっても、次々と新しい武器で戦うことができます。
これは、戦略的なチェスゲームに似ています。相手(がん細胞)がこちらの攻撃(最初の治療法)に適応してきたら、こちらも駒の動かし方を変え、新しい角度から攻撃を仕掛けます。科学的には、がん細胞はある薬剤(例えばレナリドミド)に耐性を獲得しても、全く異なる作用機序を持つ別の薬剤(例えばカルフィルゾミブやダラツムマブ)には感受性を示します。日本骨髄腫学会の診療指針には、このような状況に対応するための多様な薬剤の組み合わせがリストアップされています4。だからこそ、これまでの治療歴を正確に踏まえ、次に最も効果が期待できる戦略を主治医と共に立てることが、再び病気をコントロールするための鍵となるのです。
3.1. 再発の定義と治療開始のタイミング
再発には、Mタンパク質だけが上昇する「生化学的再発」と、CRAB基準を満たす症状が再び現れる「臨床的再発」があります。進行が緩やかな生化学的再発の場合、すぐに治療を開始せず、注意深く経過観察することもあります。一方で、症状を伴う臨床的再発では、速やかな治療介入が必要です。
3.2. 治療選択の原則
再発・難治性多発性骨髄腫(RRMM)の治療選択は、非常に個別化されます。以下の要素を総合的に考慮して、最適なレジメンが決定されます。
- 過去の治療歴(使用した薬剤の種類と数)
- 最後の治療からの寛解期間
- 患者さんの全身状態と合併症
- 過去の治療による副作用(例:末梢神経障害)
3.3. 日本におけるRRMMの標準治療
日本の診療ガイドラインでは、耐性を克服するために、作用機序の異なる薬剤を組み合わせた多様な治療法が推奨されています4。
- プロテアソーム阻害薬ベース: 次世代の薬剤であるカルフィルゾミブを含むDara-Kd療法など。
- 免疫調節薬ベース: レナリドミド耐性の患者さんには、新世代のポマリドミドを含むDara-Pd療法など。
- 抗CD38モノクローナル抗体ベース: ダラツムマブやイサツキシマブは、多くのRRMM治療の根幹をなします。
今日から始められること
- ご自身のこれまでの治療歴(いつ、どの薬剤を、どのくらいの期間使ったか)を整理し、次の診察で主治医と共有できるように準備しましょう。
- 現在感じている症状や、過去の治療で特に気になった副作用があれば、メモしておきましょう。それが次の治療法を選択する上で重要な情報になります。
第4部 免疫療法の革命:CAR-Tと二重特異性抗体
標準治療が効かなくなった状況で、次に何が残されているのかという疑問は、患者さんにとって最も切実なものです。未来への希望が見えにくくなるかもしれません。しかし、近年の医学の進歩は、まさにこの絶望的な状況を打破するためにあります。がん治療の世界では、患者さん自身の免疫力を利用してがんと戦うという、革命的な発想が現実のものとなりました。
科学的には、これは二つの全く新しい戦略に基づいています。一つは、患者さんの免疫細胞(T細胞)を体外で「訓練」し、がん細胞だけを狙う特殊な兵士に改造して体内に戻す「CAR-T細胞療法」です。これは、いわば「生きた薬」を作るようなものです。もう一つは、「二重特異性抗体」という、免疫細胞とがん細胞を無理やり手をつながせる「仲介役」の薬です。Mount Sinaiの研究報告によれば、これらの治療法は、従来の薬が効かなくなった患者さんにおいて驚くべき効果を示しています6。だからこそ、これらの新しい選択肢の登場は、多発性骨髄腫治療の未来を根本から変える希望の光なのです。
4.1. CAR-T細胞療法:究極の個別化医療
CAR-T療法は、患者さん自身のT細胞を遺伝子改変し、骨髄腫細胞の表面にあるBCMAという目印を認識できるようにする治療法です。Cilta-cel(シルタセル、製品名:カービクティ)を用いたCARTITUDE-1試験では、多くの治療を経験した患者さんにおいて、97%という非常に高い奏効率が示されました。さらに驚くべきことに、5年間の追跡調査で、患者の約3分の1が追加治療なしで完全寛解を維持しており、「治癒」という言葉が初めて現実的な目標として語られるようになりました6。ただし、サイトカイン放出症候群(CRS)や神経毒性(ICANS)といった特有の副作用があり、専門施設での厳格な管理が必要です。
4.2. 二重特異性抗体:すぐに使える免疫兵器
二重特異性抗体は、片方のアームでT細胞を、もう片方のアームで骨髄腫細胞を掴むことで、T細胞を強制的にがん細胞に引き寄せて攻撃させる「既製品」の免疫療法です。この分野における日本での最も新しい進展は、GPRC5Dという新しい標的を狙うタルケタマブ(製品名:タービー)の承認です。PMDAの審査報告書によると、従来のBCMAを標的とする治療が効かなくなった患者さんに対し、この薬は新たな強力な選択肢となります7。MonumenTAL-1試験の日本人患者グループでは、77.8%という高い奏効率が報告されており、安全性も管理可能でした9。
このセクションの要点
- CAR-T細胞療法(Cilta-cel)は、一度の治療で長期的な寛解、さらには治癒の可能性をもたらす画期的な治療法です。
- 日本で新たに承認された二重特異性抗体タルケタマブ(タービー)は、GPRC5Dという新規標的を狙うことで、従来の治療に耐性となった患者さんに新たな希望を提供します。
第5部 合併症と副作用への積極的な管理
強力な治療を受けるにあたり、「副作用は我慢するしかない」と思っていませんか。あるいは、骨や腎臓への影響が、がんそのものと同じくらい生活の質を脅かすことに不安を感じているかもしれません。それはもっともな懸念です。しかし、現代の骨髄腫治療において、支持療法は単なる「おまけ」ではありません。それは、治療効果を最大限に引き出し、患者さんの生活を守るための、治療戦略の重要な一部なのです。
この考え方は、高性能なエンジンを搭載したレーシングカーのメンテナンスに似ています。最高のエンジン(抗がん剤)も、頑丈なシャーシ(骨の保護)と効率的な冷却システム(腎機能の維持)がなければ、その性能をフルに発揮することはできません。科学的には、骨髄腫による骨病変や腎障害は、治療の継続を困難にし、生命を脅かす合併症です。日本癌治療学会のガイドラインでは、これらの合併症を予防・管理するための積極的な介入が強く推奨されています10。だからこそ、副作用や合併症を先を見越して管理することが、治療を安全に、そして長く続けるための鍵となるのです。
5.1. 骨の保護:支持療法の土台
骨髄腫細胞は骨の代謝バランスを崩し、骨が溶ける「融解性病変」を引き起こします。これにより、痛みや骨折のリスクが高まります。ゾレドロン酸やデノスマブといった骨修飾薬(BMA)は、この骨破壊を抑制するために不可欠です。特に、腎機能が低下している患者さんには、腎臓への負担が少ないデノスマブが優先されます。日本血液学会のガイドラインでは、治療開始前に歯科検診を受け、必要な処置を済ませておくことが、稀ですが重篤な副作用である顎骨壊死(ONJ)の予防に極めて重要であると強調されています11。
5.2. 腎機能の維持
腎障害は、Mタンパク質の一部である遊離軽鎖が腎臓にダメージを与えることで生じます。十分な水分補給(1日3リットル以上が目安)と、腎毒性のある薬剤(例えば、市販の非ステロイド性抗炎症薬)を避けることが基本です。治療としては、ボルテゾミブを含むレジメンが、原因となる遊離軽鎖を迅速に減少させるため、腎障害を伴う骨髄腫治療の中心となります2。
今日から始められること
- 骨修飾薬の治療を開始する前に、必ずかかりつけの歯科医に相談し、必要な治療を終えておきましょう。
- 日常生活では、意識的に水分を多く摂り、痛み止めを使用する際は、必ず主治医や薬剤師に相談してください。
第6部 日本の患者体験:医療制度の活用と支援の輪
「これから始まる治療は、一体いくらかかるのだろう」「高額な新薬を使うことになったら、家計は大丈夫だろうか」――治療費に関する心配は、病気そのものの不安と同じくらい、患者さんの心を重くします。特に、何百万円もするような最先端治療の話を聞くと、自分には縁のないことだと感じてしまうかもしれません。そのように感じるのは、無理もないことです。
しかし、日本では、誰もが経済的な理由で必要な治療を諦めることがないよう、優れたセーフティネットが用意されています。科学技術の進歩の恩恵を、一部の富裕層だけでなく、すべての国民が享受できるようにする、という社会的な思想がその根底にあります。この制度は、高価な医療費という荒波から患者さんを守る「防波堤」のようなものです。Takedaの患者向け資料で解説されているように、日本の「高額療養費制度」は、患者さんの所得に応じて自己負担額に上限を設けることで、高価なCAR-T療法でさえも、多くの患者さんがアクセス可能になるように設計されています13。だからこそ、経済的な心配を抱え込まず、まずはどのような制度が利用できるのかを知ることが、安心して治療に専念するための第一歩なのです。
6.1. 経済的支援:高額療養費制度
日本の公的医療保険には「高額療養費制度」という仕組みがあります。これは、1か月の医療費の自己負担額が、年齢や所得によって定められた上限額を超えた場合に、その超えた分が払い戻される制度です。事前に「限度額適用認定証」を申請しておけば、病院の窓口での支払いを上限額までにとどめることができます。CAR-T療法や二重特異性抗体のような非常に高価な治療も保険適用の対象であり、この制度を利用することで、患者さんの経済的負担は大幅に軽減されます。
6.2. 患者会とコミュニティ支援
同じ病気を経験した仲間との繋がりは、大きな心の支えとなります。日本では、複数の患者支援団体が活動しています。1997年に設立された日本骨髄腫患者の会は、ウェブサイトや会報での情報提供、専門家を招いたセミナーの開催、電話相談などを通じて、患者さんとその家族を支援しています14。これらの団体は、治療に関する情報交換の場であるだけでなく、新薬の早期承認を求める政策提言など、患者さんの声を社会に届ける重要な役割も担っています。
経済的な負担を軽減するためには、高額療養費制度の活用が不可欠です。
このセクションの要点
- 日本の高額療養費制度は、所得に応じて自己負担限度額を設けることで、CAR-T療法のような高額な治療へのアクセスを保証する重要なセーフティネットです。
- 日本骨髄腫患者の会などの患者支援団体は、情報提供、精神的サポート、そして政策提言を通じて、患者さんの療養生活を多方面から支えています。
第7部 新たな地平線:進行中の研究と未来への展望
「今の治療が効かなくなったら、次はあるのだろうか」――この問いは、多くの患者さんが抱える根源的な不安です。治療の選択肢が尽きてしまうことへの恐怖は、常に心のどこかにあるかもしれません。しかし、医学の最前線では、その「次」を、そして「さらにその次」を創り出すための努力が、休むことなく続けられています。
科学の世界では、今日行われている臨床試験が、明日の標準治療を形作ります。それは、未来の医療という建物を建てるための、一つ一つのレンガを積む作業に似ています。特に、国立がん研究センターが公開しているjRCT2063220071試験のような研究は、単なるレンガではなく、建物の設計図そのものを変えてしまう可能性を秘めています12。この試験は、長年の標準治療であった自家幹細胞移植に、CAR-T療法が取って代わる日が来るかもしれない、という革命的な問いを投げかけているのです。だからこそ、現在進行中の研究を知ることは、単なる知識を得るだけでなく、治療の未来が決して暗いものではないという希望を持つことに繋がるのです。
7.1. 日本で進行中の主要な第3相臨床試験
日本の研究は、世界の骨髄腫治療をリードする可能性を秘めています。特に注目すべきは、jRCT2063220071試験です。これは、新規診断の移植適応患者を対象に、CAR-T療法(Cilta-cel)を地固め療法として用いる群と、標準的な自家幹細胞移植を行う群とを直接比較する、画期的な第3相試験です。ClinicalTrials.govにも登録されているこの国際共同研究の結果によっては、初回治療のあり方が根本的に変わる可能性があります15。
7.2. 次世代の治療法
研究開発はさらにその先へと進んでいます。一つの抗体が二つのがん細胞の目印を同時に攻撃できる「三重特異性抗体」や、全く新しい作用機序を持つ薬剤の開発が初期段階で進められており、将来的にさらなる治療のブレークスルーが期待されています6。
このセクションの要点
- 日本で進行中のjRCT2063220071試験は、初回治療においてCAR-T療法が自家幹細胞移植を超える可能性を検証する、未来の標準治療を左右する重要な研究です。
- 三重特異性抗体など、さらに新しい機序を持つ治療法の開発も進んでおり、多発性骨髄腫の治療は今後も進化し続けることが期待されます。
よくある質問
MGUSと活動性骨髄腫の最も大きな違いは何ですか?
最も大きな違いは、「治療が必要かどうか」です。MGUSは症状がなく、がん化するリスクも低いため、治療は行わず経過観察となります。一方、活動性骨髄腫は、臓器障害があるか、そのリスクが非常に高い状態であり、速やかな治療が必要です1。
CAR-T療法は日本で受けられますか?
はい、シルタセル(カービクティ)というCAR-T細胞療法が、再発または難治性の多発性骨髄腫に対して承認されており、特定の医療機関で受けることが可能です。高額療養費制度の対象にもなっています。
治療の副作用で特に気をつけるべきことは何ですか?
骨病変の管理と腎機能の維持が非常に重要です。骨修飾薬の治療前には必ず歯科検診を受け、顎骨壊死のリスクを減らしましょう11。また、日頃から十分な水分を摂り、腎臓に負担をかける可能性のある市販薬は避けてください。
治療費が高額になりそうで心配です。
日本の公的医療保険には「高額療養費制度」があります。これにより、所得に応じて自己負担額の上限が決められており、経済的な負担を大幅に軽減できます。まずは病院の相談窓口やソーシャルワーカーに相談してみてください13。
結論
多発性骨髄腫の治療は、この10年で劇的な変化を遂げました。リスクに応じた早期診断、4剤併用療法による強力な初期治療、そしてCAR-T療法や二重特異性抗体といった免疫療法の登場により、この病気は「不治の病」から「長く付き合っていく慢性疾患」へ、そして一部の患者さんにとっては「治癒を目指せる病気」へと変わりつつあります。特に、タルケタマブのような新しい標的を持つ薬剤の登場は、治療抵抗性という大きな壁を乗り越えるための新たな戦略をもたらしました。日本の優れた医療保険制度は、これらの高価で先進的な治療へのアクセスを支える強力な基盤です。現在進行中の臨床試験が未来の標準治療をさらに良いものにしていくことは間違いなく、多発性骨髄腫と共に生きる患者さんの生活の質と期間は、今後も向上し続けるでしょう。
免責事項
本コンテンツは一般的な医療情報の提供を目的としており、個別の診断・治療方針を示すものではありません。症状や治療に関する意思決定の前に、必ず医療専門職にご相談ください。
参考文献
- 日本血液学会. 造血器腫瘍診療ガイドライン第3.1版(2024年版). [インターネット]. 引用日: 2025-09-13. リンク
- International Myeloma Foundation. IMWG Recommendations on Managing Multiple Myeloma-Related Renal Impairment. [インターネット]. 2016. 引用日: 2025-09-13. リンク
- 日本骨髄腫学会. 多発性骨髄腫の診療指針2024 第6版. m3電子書籍. 2024. [有料]
- 日本骨髄腫学会. 多発性骨髄腫の診療指針. [インターネット]. 2024. 引用日: 2025-09-13. リンク
- OncLive. Notable 2024/Early 2025 Multiple Myeloma NCCN Guideline Updates…. [インターネット]. 2024. 引用日: 2025-09-13. リンク
- Mount Sinai. With New Treatment Strategies, a Cure for Multiple Myeloma Is Now Possible. [インターネット]. 2026. 引用日: 2025-09-13. リンク
- 医薬品医療機器総合機構(PMDA). 「タービー®皮下注3mg」、「同40mg」審査報告書. [インターネット]. 2025. 引用日: 2025-09-13. リンク [PDF]
- ヤンセンファーマ株式会社. 「タービー®皮下注3mg」、「同40mg」再発又は難治性の多発性骨髄腫に係る製造販売承認を取得. [インターネット]. 2025. 引用日: 2025-09-13. リンク
- American Society of Hematology. Efficacy and Safety of Talquetamab…in Japanese Patients with Relapsed/Refractory Multiple Myeloma from the…Monumental-1 Study. Blood (ASH Annual Meeting Abstracts). 2024. 引用日: 2025-09-13. リンク
- 日本癌治療学会. クリニカルクエスチョン・推奨一覧 | がん診療ガイドライン. [インターネット]. 2023. 引用日: 2025-09-13. リンク
- 日本血液学会. 第Ⅲ章 骨髄腫 – ホーム|造血器腫瘍診療ガイドライン 第3.1版(2024年版). [インターネット]. 2024. 引用日: 2025-09-13. リンク
- 国立がん研究センター. がんの臨床試験を探す 臨床試験情報:jRCT2063220071. [インターネット]. 2022. 引用日: 2025-09-13. リンク
- 武田薬品工業株式会社. 多発性骨髄腫患者さんのための医療制度について. [インターネット]. 2023. 引用日: 2025-09-13. リンク
- 日本骨髄腫患者の会. 私たちについて | 日本骨髄腫患者の会. [インターネット]. 2024. 引用日: 2025-09-13. リンク
- ClinicalTrials.gov. A Study of…Ciltacabtagene Autoleucel Versus…ASCT in Participants With Newly Diagnosed Multiple Myeloma. [インターネット]. 2022. 引用日: 2025-09-13. リンク
