この記事の要点まとめ
- 子どもの心の健康とは、単に精神疾患がない状態ではなく、年齢に応じて発達し、困難に対処するスキルを学び、健やかに成長する力そのものを指します。
- 安全で安定した、愛情ある家庭環境と「ポジティブな子ども時代の経験(PCEs)」は、心のレジリエンス(回復力)を育む最も強力な保護因子です。
- 日本の小中高生の自殺者数や不登校児童生徒数は過去最多水準で高止まりしており、これは社会全体で取り組むべき深刻な課題です。12
- 「期間」「苦痛」「機能不全」の3つの視点でお子さまの様子を観察し、気になるサインが持続する場合は、かかりつけ医や専門家への相談をためらわないことが重要です。3
- 治療は心理社会的治療(認知行動療法など)が第一選択であり、薬物療法は慎重に検討されます。保護者が治療の意思決定に主体的に関わる「共有意思決定」が鍵となります。45
第1部 子どもの心の健康の基礎:病気がないこと、それ以上の意味
子どもの心の健康について考えるとき、私たちはしばしば「精神疾患」という言葉に目を向けがちです。しかし、真の心の健康とは、単に病気や不調がない状態を指すのではありません。それは、お子さまが自分らしく、生き生きと「成長する力(thrive)」そのものを意味します。この章では、心の健康をより広く、肯定的な視点から捉え、その土台となるものは何かを深く掘り下げていきます。
ポジティブな心の健康を定義する
子どもの心の健康とは、年齢に応じた発達上・情緒上のマイルストーンを達成し、健全な社会的スキルを学び、問題に直面したときに対処する方法を身につけていくプロセスそのものです。重要なのは、心の健康が「精神疾患の不在」とイコールではないという視点です。むしろそれは、お子さまが「健やかに成長し、能力を発揮できる状態」を指します。たとえ何らかの診断名がつく状態であったとしても、適切なサポートがあれば、お子さまはポジティブなウェルビーイングを達成し、幸福な人生を歩むことが可能です。
環境という土台の役割
お子さまの心の健康を形作る最も重要な要素は何か。その答えは、お子さまが育つ「環境」と「人間関係」の質にあります。特に、「安全で、安定し、愛情に満ちた人間関係と環境」は、心の健康だけでなく、身体的な健康にとっても強固な基盤となります。この揺るぎない土台があってこそ、子どもたちは安心して成長し、自らの可能性を最大限に伸ばすことができるのです。
保護者の皆さまは、この環境を創造する上で、誰よりも重要な役割を担っています。それは、単に心配したり見守ったりする受動的な役割ではありません。お子さまの心の健康を積極的に育む「環境の設計者」としての役割です。国際的な保健機関が一致して強調するように、子どものウェルビーイングは環境と人間関係によって大きく左右されます。そして、その環境を構成する多くの重要な要素、例えば家庭内のサポート、安定した生活、危害からの保護などは、まさに保護者の皆さまが直接的に影響を与えられる領域です。したがって、後述する「ポジティブな子ども時代の経験(PCEs)」を意識的に増やし、「逆境的な子ども時代の経験(ACEs)」を減らす努力をすることは、専門家へのアクセスが困難な状況(これは日本の大きな課題です2)においても、家庭で実践できる最も強力で科学的根拠のある予防策となるのです。
保護因子:ポジティブな子ども時代の経験(PCEs)の力
ポジティブな子ども時代の経験(Positive Childhood Experiences, PCEs)とは、安全で安定した、愛情ある人間関係や環境の中で子どもが成長することを支える経験のことです。米国疾病予防管理センター(CDC)のデータは、このPCEsの重要性を明確に示しています。PCEsを多く経験した子どもほど、精神疾患と診断される可能性が低いという直接的な相関関係があるのです。
例えば、以下のような経験がPCEsにあたります。
- 家族から精神的なサポートを得られると感じる
- 困難に直面したときに家族と話し合うことができる
- 学校で帰属意識を感じる
- 友人から支えられていると感じる
- 地域社会の大人から守られていると感じる
米国のデータでは、思春期の若者の66%が「親からのサポートをよく受けている」、79%が「自分の人生にポジティブな影響を与えてくれる大人が少なくとも一人いる」と報告しています。これらの数字は、保護者の皆さまがすでにお子さまの人生に与えている計り知れないほどのポジティブな影響力を物語っています。日々の愛情ある関わりが、お子さまの心を育む強力な保護因子となっているのです。
リスク因子:逆境的な子ども時代の経験(ACEs)の影響
一方で、子どもの心に深刻な傷を残す可能性のある経験も存在します。それが、逆境的な子ども時代の経験(Adverse Childhood Experiences, ACEs)です。ACEsとは、子ども時代に経験する可能性のある、潜在的にトラウマとなる出来事を指します。具体的には、暴力の経験や目撃、薬物使用や精神疾患の問題を抱える保護者との生活、不安定な住居や食料事情などが含まれます。
ACEsの影響は深刻であり、身体的および精神的な健康に長期的な影響を及ぼすことが知られています。日本のデータにおいても、幼少期の逆境体験が、その後のうつ病や自殺のリスクと関連していることが明確に指摘されており、この問題の重要性が浮き彫りになっています。12これは、単なる相関関係ではなく、子どもの心の発達における明確な因果関係を示唆するものです。
第2部 子どもの心の健康の現状:世界と日本の視点から
子どもの心の健康は、一個人の問題ではなく、社会全体で取り組むべきグローバルな課題です。この章では、統計データに基づき、この問題の規模と深刻さを客観的に把握します。特に、日本の状況に焦点を当てることで、保護者の皆さまが直面している課題の背景を明らかにします。
グローバルな背景
子どものメンタルヘルスの問題は、決して特定の国や地域に限った話ではありません。世界保健機関(WHO)によると、世界中の子どもの8%、思春期の若者の15%が何らかの精神疾患を経験していると推定されています。所得水準の高い先進国である米国に目を向けると、その状況はさらに深刻です。3歳から17歳の子どものうち、実に5人に1人近く(21%)が、これまでに精神的、情緒的、または行動上の健康状態に関する診断を受けた経験があります。3
ここで極めて重要な事実は、成人が抱える精神疾患の多くが、その根を子ども時代に持っているという点です。症状は幼少期や思春期に現れていたにもかかわらず、当時は認識されず、適切な対応がなされないまま見過ごされてきたケースが少なくありません。全ての精神疾患のおよそ半数が14歳または15歳までに発症するというデータは、早期の気づきと介入がいかに重要であるかを物語っています。
日本の危機:直視すべき現実
グローバルな文脈を理解した上で、日本の現状に目を向けると、特に深刻な状況が浮かび上がってきます。それは、単なる統計上の数字ではなく、私たちの子どもたちが直面している痛切な現実です。
- 若者の自殺: 日本全体の自殺者数は減少傾向にあるにもかかわらず、厚生労働省の報告によると、小中高生の自殺者数は2023年に513人に達し、過去最多水準で高止まりしています。これは、日本の若者特有の危機的状況を示唆する、極めて憂慮すべき事態です。1
- 不登校: 内閣官房の資料によると、2021年度の小中学生の不登校児童生徒数は約24万人にのぼり、9年連続で増加し過去最多を記録しました。これは中学生の20人に1人が不登校である計算になり、学校という社会に適応することに困難を抱える子どもが急増していることを示しています。2
背景にある要因として、厚生労働省の自殺対策白書は、小学生では「家族からの叱責」など家庭の問題が、そして中高生になると「学業不振」や「友人との不和」といった学校関連の問題、さらには「うつ病」などの健康問題が顕著になることを分析しています。1これらの要因は、子どもたちが日常生活の中で直面する具体的なストレス源を浮き彫りにしています。
また、児童精神科のクリニックを訪れる子どものうち、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(ADHD)といった発達障害が外来患者の半数を占めているというデータもあり、発達上の特性を持つ子どもたちへの専門的な支援ニーズが非常に高いことを示しています。2
これらの統計は、日本の若者たちが置かれた状況がいかに厳しいかを物語っています。不登校や自殺といった現象は、個々の子どもの弱さや問題として片付けられるべきではありません。むしろそれは、社会全体が発している「病」のサインと捉えるべきかもしれません。ユニセフの調査によれば、日本の若者は他のOECD諸国の子どもたちと比較して、突出して高い孤独感を報告しています。この孤独感の背景には、過酷な受験競争(「受験戦争」とも呼ばれます)や、同調を重んじる社会からの強烈なプレッシャーが存在すると考えられます。学業成績、友人関係、家庭での躾といった自殺の動機として挙げられた要因1は、いずれも日本の社会が個人に課す高いパフォーマンス要求や厳格な期待と深く結びついています。この視点に立つと、子どもたちの不登校や自傷行為は、単なる問題行動ではなく、耐えがたいほどのプレッシャーに対する、ある意味で合理的な反応とさえ言えるかもしれません。お子さまの苦しみを、個人の失敗としてではなく、彼らが生きる社会システムが生み出す「社会的疾病」の症状として理解することは、保護者の皆さまが子どもに寄り添う上で、極めて重要な第一歩となるでしょう。
第3部 サインに気づく:保護者のための子どものSOSガイド
子どもの心は、日々揺れ動きます。昨日まで元気だったのに今日はふさぎ込んでいる、ということは日常茶飯事です。保護者の皆さまが最も悩むのは、「これは成長の一過程なのか、それとも専門家の助けが必要なサインなのか」という見極めでしょう。この章では、その判断を助けるための具体的な視点と、年齢別の注意すべきサインを解説します。
「これはただの一時期?」という問いに答える
すべての子どもは、時に悲しんだり、不安になったり、イライラしたりします。ほとんどの場合、これらは成長に伴う正常な感情の揺れ動きです。しかし、その行動が単なる「時期的なもの」を超え、注意を要する「懸念」へと変わる境界線はどこにあるのでしょうか。米国国立精神衛生研究所(NIMH)をはじめとする専門家は、以下の3つの「D」を判断基準として挙げています。3
- Duration(期間): その行動や感情が、数週間以上にわたって持続しているか。
- Distress(苦痛): その状態が、お子さま本人や家族に明らかな苦痛を引き起こしているか。
- Dysfunction(機能不全): 学校、家庭、友人関係といった日常生活の機能に支障をきたしているか。
これらの基準に照らし合わせ、お子さまの様子が一時的な気分の落ち込みではなく、持続的で深刻な影響を及ぼしていると感じた場合、それは専門家の助けを求めるべき重要なサインです。
緊急に行動すべき時
いくつかのサインは、躊躇なく即座の行動を必要とします。お子さまの行動が危険を伴う場合、あるいは本人や他者を傷つけたいという言葉が聞かれた場合は、直ちに助けを求めてください。日本には「いのちの電話」や「こころの健康相談統一ダイヤル」といった緊急相談窓口があります。これらの連絡先は、この記事の最後にまとめて記載しています。緊急時には、これらのリソースを活用することをためらわないでください。
年齢別の心のSOSサイン
子どもの心のサインは、発達段階によって現れ方が異なります。以下の表は、米国国立精神衛生研究所(NIMH)などの専門機関の知見に基づき、保護者の皆さまがお子さまの様子を観察し、専門家へ相談する際に役立つよう、年齢別の具体的なサインをまとめたものです。3
幼児・学童期 (Younger Children) | 思春期 (Older Children & Adolescents) |
---|---|
頻繁で激しいかんしゃく、または持続的ないらだち | かつて楽しんでいた活動への興味の喪失(アネドニア) |
しきりに怖がったり、心配したり、親にまとわりつく | 持続的な気力の低下や倦怠感 |
医学的な原因が見当たらない腹痛や頭痛の頻繁な訴え | 睡眠パターン(不眠または過眠)や食欲の著しい変化 |
絶えず動き回り、じっと座っていられない(好きな活動を除く) | 友人や家族から距離を置き、社会的引きこもりが増える |
睡眠の大きな乱れ(寝すぎる・寝不足、頻繁な悪夢) | 過度なダイエットや運動、体重増加への強い恐怖 |
友達作りが困難、または急に友達と遊ぶことに興味を失う | 自傷行為(リストカットや火傷など) |
学業での苦戦、または突然の成績低下 | アルコール、薬物、喫煙の使用 |
何か悪いことが起こるという恐怖から、行動を繰り返す(強迫行為) | 単独または仲間と、危険または破壊的な行動をとる |
自殺や絶望的な気持ちを口にする | 精神病の兆候(幻聴、妄想など) |
この表は、お子さまの行動を整理し、教師や医師に伝える際の助けとなります。これらのサインが複数、かつ持続的に見られる場合は、次のステップに進むことを検討してください。
第4部 主な子どもの精神疾患を理解する
お子さまの様子に気になるサインが見られたとき、保護者の皆さまが次に直面するのは、「これは一体どういう状態なのだろうか」という疑問です。この章では、子ども時代によく見られる精神疾患について、専門用語を避け、わかりやすい言葉で解説します。それぞれの疾患の核となる特徴を理解することは、適切な対応への第一歩です。
疾患名 (Disorder) | 中核的な特徴 (Core Feature) | 子ども・思春期に見られる主なサイン (Common Signs) |
---|---|---|
不安症 (Anxiety Disorders) | 過剰で持続的な恐怖と心配。社交不安症、分離不安症、パニック障害、全般性不安障害などがある。 | 腹痛・頭痛、登校しぶり、かんしゃく、親へのまとわりつき、特定の状況の回避。 |
うつ病 (Depressive Disorders) | 持続的な悲しみ、興味の喪失(アネドニア)。特に子どもでは「いらだち(易怒性)」として現れることが多い。 | いらだち、気分の落ち込み、好きなことへの無関心、睡眠・食欲の変化、絶望感。 |
注意欠如・多動症 (ADHD) | 発達レベルに不相応な不注意、多動性、衝動性。脳機能の偏りが原因であり、しつけの問題ではない。 | 忘れ物が多い、集中できない、じっとしていられない、順番が待てない、おしゃべりがすぎる。 |
行動症 (Behavior/Conduct Disorders) | 反抗的・挑戦的・攻撃的な行動や、ルールや他者の権利を無視する行動が持続する。反抗挑戦性障害(ODD)や素行障害(CD)が含まれる。 | 頻繁な嘘、暴力、窃盗、他者への攻撃性、規則の著しい無視。 |
心的外傷後ストレス障害 (PTSD) | 虐待や事故などのトラウマ体験後に、再体験、回避、過覚醒といった症状が長期的に続く。 | フラッシュバック、悪夢、トラウマに関連する場所の回避、過剰な警戒心。 |
強迫性障害 (OCD) | 不快な考え(強迫観念)と、それを打ち消すための行為(強迫行為)を繰り返す。 | 過剰な手洗いや確認行為、特定の順序へのこだわり、不合理だとわかっていてもやめられない。 |
摂食障害 (Eating Disorders) | 食事、体重、体型に関する深刻な問題。神経性やせ症(拒食症)など。COVID-19パンデミック下で若者の増加が報告されている。 | 極端な食事制限、体重増加への強い恐怖、隠れて食べ物を捨てる、食後の嘔吐。 |
第5部 保護者のための行動計画:心配なときに踏むべきステップ
お子さまの心の問題に気づいたとき、保護者の皆さまは大きな不安と戸惑いを感じるかもしれません。「何から手をつければいいのか」「どう話せばいいのか」。この章では、その不安を具体的な行動に変えるための、明確で段階的な行動計画を提示します。
ステップ1:観察し、耳を傾ける (Observe and Listen)
全ての始まりは、お子さまの話に判断を下さず、ただ耳を傾けることからです。大切なのは、お子さまが安心して自分の気持ちを話せる安全な空間を作ることです。厚生労働省も、子どもを「問いつめる」ような態度は避け、穏やかで受容的なアプローチを推奨しています。具体的には、お子さまの年齢に合わせて、ご自身の感情について話してみせる(モデリング)ことも有効です。「今日は仕事で少し疲れたな」といった簡単な言葉でも、感情について話すことは普通なのだというメッセージを伝えることができます。お子さまが自分の気持ちや行動について話し始めたら、遮らずに、共感的に聞く姿勢を保ちましょう。
ステップ2:子どもの周囲から情報を集める (Gather Information)
お子さまの様子をより多角的に理解するために、家庭以外の場所でどのように過ごしているかを知ることが重要です。担任の先生、養護教諭、保育士など、日常的にお子さまと接している他の大人と話してみましょう。特に学校との連携は不可欠です。教師は、集団生活の中での変化に最初に気づくことが多い存在です。保護者と学校がチームとして協力し、情報を共有することで、お子さまにとって最適なサポートを見つけやすくなります。
ステップ3:専門家に相談する (Consult a Professional)
次に踏むべきステップは、専門家への相談です。最初の相談相手として最も適しているのは、かかりつけの小児科医です。受診の際には、これまでの観察(どのような行動が、いつから、どのくらいの頻度で続いているか)や、学校などから得た情報を具体的に伝えられるように準備しておくと、診察がスムーズに進みます。小児科医の診察の結果、より専門的な評価が必要だと判断された場合、児童精神科医や臨床心理士といった心の専門家への紹介を依頼することになります。
ステップ4:専門家による評価を理解する (Understanding the Professional Assessment)
専門家による評価(アセスメント)と聞くと、身構えてしまうかもしれません。しかし、その目的は、お子さまを「診断」することだけではありません。むしろ、お子さまが今どのような状態にあり、何に困っているのかを包括的に理解するためのプロセスです。保護者の皆さまが評価プロセスを理解しておくことは、不要な不安を和らげる助けになります。一般的な評価には、保護者への詳細な面接(発達歴、家族関係など)、学校からの情報収集、そしてお子さま本人との面接や心理検査などが含まれます。これらの情報を総合的に分析し、お子さまの感情や行動が、一時的なストレスによるものなのか、あるいは治療によって改善が見込める何らかの疾患が背景にあるのかを判断します。この評価こそが、お子さまに合った適切な支援計画を立てるための、不可欠な第一歩となるのです。
第6部 治療と日本の支援システムを理解する
専門家による評価の結果、治療が推奨された場合、保護者の皆さまは「どのような治療法があるのか」「日本のシステムでどのような支援が受けられるのか」という新たな疑問に直面します。この章では、科学的根拠に基づいた主な治療法と、日本の医療システムが抱える現実的な課題、そしてその中で保護者が取りうる戦略について解説します。
心理社会的治療:ケアの土台
子どもの心のケアにおいて、最も基本となり、第一に推奨されるのが心理社会的治療(Psychosocial Interventions)です。中でも認知行動療法(CBT – Cognitive Behavioral Therapy)は、物事の受け取り方(認知)や行動のパターンに働きかけ、それらをより適応的なものに変えていくことで、問題の解決を目指す心理療法であり、子どもの不安症やうつ病の予防と治療において、その有効性が科学的に証明されています。子どもの治療が効果を上げるためには、保護者の関与が不可欠です。家族療法として一緒にセッションに参加したり、ペアレント・トレーニングを受けたりすることで、治療効果は格段に高まります。
薬物療法:慎重かつ熟慮されたアプローチ
薬物療法は、治療の選択肢の一つですが、特に子どもに対しては慎重な判断が求められます。世界保健機関(WHO)などの国際的な権威機関は、子どもの不安症やうつ病のほとんどのケースにおいて、第一選択の治療法は心理社会的治療であると明確に推奨しています。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの抗うつ薬は、中等症から重症のケースや、心理療法だけでは十分な効果が得られない場合に、心理療法と併用する形で検討されるのが一般的です。5 薬物療法にはリスクも伴い、特に子どもや思春期の若者が抗うつ薬の服用を開始した初期に、自殺念慮が高まる可能性が知られています。そのため、医師と保護者による厳重なモニタリングが絶対条件となります。
日本の現状:逼迫したシステムを乗り越える
理想的な治療法を理解する一方で、日本の医療システムが抱える厳しい現実に目を向けることも重要です。日本児童青年精神医学会などの専門家団体も指摘するように、日本では子どもの心の問題を専門とする児童精神科医が著しく不足しており、これが質の高いケアへのアクセスを妨げる最大の障壁となっています。24 その結果、初診の予約を取るまでに数ヶ月、場合によっては1年以上待つケースも珍しくありません。2
このような逼迫したシステムの中では、保護者が単に医師の指示を待つのではなく、治療の意思決定に積極的に関与する「協働的なパートナー」へと意識を変えることが極めて重要です。この「共有意思決定(Shared Decision-Making)」を実践するために、医師との面談の際には、以下のような質問を投げかけることをお勧めします。
- 「この治療法は、うちの子と同じ年齢の子どもに対して、どのような科学的根拠がありますか?」
- 「薬を使わない選択肢、あるいは薬と併用できる心理療法はありますか?」
- 「この治療の具体的な目標は何ですか?そして、その進捗はどのように測りますか?」
- 「注意すべき副作用には、どのようなものがありますか?」
これらの質問は、保護者の皆さまを、単なるケアの受け手から、お子さまの権利を守り、最善の道を切り拓くための、情報に基づいた擁護者(アドボケイト)へと変える力を持っています。
第7部 積極的な子育て:レジリエンスと心の健康を育む家庭
これまでは、問題が起きた際の「対応」に焦点を当ててきました。しかし、子育ての究極の目標は、問題が起きるのを防ぎ、お子さまが自らの力で困難を乗り越えていける「心のしなやかさ(レジリエンス)」を育むことです。この最終章では、科学的根拠に基づき、心の健康を育む家庭環境を築くための具体的な戦略を提案します。
- ウェルネスの「三本柱」を整える: 心と体の健康は分かちがたく結びついています。年齢に応じた十分な「睡眠」、バランスの取れた「食事」、そして定期的な「運動」という基本的な生活習慣は、心の安定に不可欠です。
- 社会的なつながりを強める: 家族、友人、そして地域社会との絆を深める機会を積極的に作りましょう。これらのつながりは、困難な時に子どもを支える重要なセーフティネットとなります。
- デジタル世界との賢い付き合い方: 単にスクリーンタイムを制限するだけでなく、「オンラインでの時間が、運動、睡眠、友人との対面での交流といった健康的な活動を犠牲にしていないか」「見ているコンテンツは建設的か」といった本質的な問いを通じて、お子さまのデジタルライフを健全なものへと導きましょう。
- 保護者自身のセルフケア: お子さまにとって最大のロールモデルは、保護者の皆さまです。ご自身の心と体の健康を大切にし、ストレスを感じた時には助けを求める姿を見せることは、非常にパワフルなメッセージとなります。感情的に安定し、予測可能な対応をしてくれる保護者の存在は、子どもが安心できる環境の最も重要な要素なのです。
よくある質問
うちの子の行動が、ただの「反抗期」なのか、専門家への相談が必要なサインなのか、どう見分ければよいですか?
児童精神科は予約が取れないと聞きます。すぐに専門医に会えない場合、親として何ができますか?
子どもに薬を飲ませることに抵抗があります。薬物療法は本当に必要なのでしょうか?
結論:希望のメッセージと支援の手引き
お子さまの心の健康を巡る旅は、時に長く、困難に満ちているかもしれません。しかし、この記事を通じてお伝えしたかった最も重要なメッセージは、精神疾患は現実的で、ありふれたものであり、そして何よりも治療可能であるということです。保護者の皆さまの愛情、サポート、そしてお子さまのために声を上げる擁護者(アドボケイト)としての役割は、お子さまがウェルビーイングへの道を歩む上で、何物にも代えがたい最も重要な力となります。一人で抱え込まず、助けを求めることは、弱さではなく、深い愛情と強さの証です。最後に、日本国内で利用可能な主要な相談窓口と支援機関のリストを掲載します。必要な時に、適切な場所に繋がれるよう、この情報を手元に置いてご活用ください。
この記事で提供される情報は、一般的な知識の提供を目的としており、専門的な医学的アドバイス、診断、または治療に代わるものではありません。お子さまの健康に関して懸念がある場合は、必ず資格のある医師またはその他の医療専門家にご相談ください。自己判断で治療を開始、変更、または中止することはおやめください。
カテゴリ | 機関名・窓口名 | 概要・役割 |
---|---|---|
緊急・危機的状況の相談先 | いのちの電話 | 24時間体制で電話相談を受け付ける民間のボランティア団体。 |
緊急・危機的状況の相談先 | こころの健康相談統一ダイヤル | 全国の精神保健福祉センターに繋がる公的な電話相談窓口。 |
公的機関 | 厚生労働省「こころもメンテしよう」ポータルサイト | 保護者や教職員向けに、心の病気のサインや対応法に関する情報を提供。 |
公的機関 | 保健所・精神保健福祉センター | 各地域に設置され、心の健康に関する専門的な相談や支援を行う公的機関。 |
公的機関 | 児童相談所 | 18歳未満の子どもに関するあらゆる相談に応じる専門機関。虐待対応だけでなく、発達や性格に関する相談も可能。 |
専門学会 | 日本児童青年精神医学会 | 専門医の検索や、疾患に関する信頼性の高い情報を得るための権威ある情報源。4 |
学校での支援 | スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー | 学校内に配置された心の専門家。子どものアセスメントや、家庭と外部機関を繋ぐ役割を担う。 |
この記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医療アドバイスを構成するものではありません。健康上の懸念がある場合、または健康や治療に関する決定を下す前に、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。
参考文献
- 厚生労働省. (仮訳)令和6年版自殺対策白書 第1章第2節 子供・若者の自殺の現状 [インターネット]. 2024. [引用日: 2025年6月22日]. Available from: https://www.mhlw.go.jp/content/001464705.pdf
- 内閣官房. 子どものメンタルヘルスの現状とEBPM [インターネット]. [引用日: 2025年6月22日]. Available from: https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kodomo_seisaku_suishin/ebpm_meeting/siryou2.pdf
- National Institute of Mental Health. Children and Mental Health: Is This Just a Stage? [Internet]. [cited 2025 June 22]. Available from: https://www.nimh.nih.gov/health/publications/children-and-mental-health
- 日本児童青年精神医学会. The Japanese Society for Child and Adolescent Psychiatry [インターネット]. [引用日: 2025年6月22日]. Available from: https://child-adolesc.jp/
- 中村和彦(編). 児童・青年期精神疾患の薬物治療ガイドライン. 精神神経学雑誌. 2019;60(3):376-384. Available from: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscap/60/3/60_376/_article/-char/ja/