消化器疾患

慢性胃炎:病因、発がんリスク、および日本における治療戦略に関するエビデンスに基づくモノグラフ

慢性胃炎は、胃の粘膜に炎症細胞が集まることで診断される組織学的な状態であり、その多くはヘリコバクター・ピロリ菌(H. pylori)の感染が原因です。この炎症が長く続くと、胃の粘膜が薄くなる「萎縮」や、腸の粘膜に似たものに変化する「腸上皮化生」へと進み、胃がんを発症する明確なリスクを伴います。本稿では、最新の科学的根拠(エビデンス)に基づき、慢性胃炎の詳しい病態、診断方法、そして日本における治療戦略、特にピロリ菌の除菌治療の重要性と保険適用の実際について、包括的に解説します。

この記事の科学的根拠

本記事は、日本の公的機関・学会ガイドラインおよび査読済み論文を含む高品質の情報源に基づき、出典は本文のクリック可能な上付き番号で示しています。

  • 日本の主要な指針: 日本ヘリコバクター学会は、ピロリ菌感染の診断と治療に関する包括的なガイドラインを提供しており、日本の臨床現場における標準治療の基盤となっています。7
  • 国際的な主要な根拠: 複数のランダム化比較試験を統合した2020年のコクラン・レビューでは、ピロリ菌の除菌が胃がんの発生率を有意に低下させることが最高レベルのエビデンスで示されました。12

要点まとめ

  • 慢性胃炎は組織の診断名であり、胃もたれなどの症状は「機能性ディスペプシア(FD)」という別の状態の可能性があります。3
  • 主な原因であるピロリ菌の除菌は、胃がんのリスクを大幅に減少させることが証明されています。12
  • 日本では、より強力な酸分泌抑制薬であるボノプラザン(P-CAB)を用いた新しい除菌療法が主流となり、治療成功率が向上しています。14
  • 除菌治療を保険適用で受けるためには、原則として事前に胃内視鏡検査(胃カメラ)を受ける必要があります。16

第I部:慢性胃炎の基礎的理解

「慢性胃炎」と診断されたものの、胃のもたれや痛みがなぜ続くのか、あるいは症状がないのに「胃が荒れている」と言われ、戸惑いを感じている方は少なくありません。その気持ち、とてもよく分かります。この混乱の背景には、実は「慢性胃炎」という言葉が二つの異なる状態を指して使われてきた歴史があります。科学的には、胃の粘膜を顕微鏡で見て初めてわかる組織の変化が「慢性胃炎」です。この状態は、体の中で起こる静かな火事のようなもので、それ自体が直接痛みなどを引き起こすとは限りません。一方で、私たちが日常で感じる胃の不快感の多くは、「機能性ディスペプシア(FD)」という、胃の機能や知覚の異常が原因であることが、近年の研究で明らかになってきました。3 だからこそ、まずはご自身の状態がどちらに近いのかを知ることが、的確な対処への大切な第一歩となるのです。

慢性胃炎は、胃粘膜に炎症細胞が浸潤することを特徴とする組織学的な診断です。この状態が持続すると、胃の腺細胞が減少・消失する「萎縮性胃炎」へと進行する可能性があります。重要なのは、StatPearlsで指摘されているように、これらの組織学的所見と患者さんが訴える症状の有無や強さが必ずしも一致しないという点です。12

現代の診療において、組織レベルの診断である慢性胃炎と、症状に基づいて診断される機能性ディスペプシア(FD)を明確に区別することは極めて重要です。歴史的に日本では、胃もたれや胃痛といった上腹部症状の多くが「慢性胃炎」という保険診療上の病名で扱われてきました。しかし、2014年に日本消化器病学会が「機能性ディスペプシア(FD)診療ガイドライン」を発表して以降、FDは独立した疾患単位として確立されました。それでもなお、日本の臨床現場では診断の慣性が見られ、患者さんの苦痛の多くは、実際にはFDの病態生理に起因する可能性が高いと考えられています。3

慢性胃炎の分類には、腺組織の喪失を伴う「萎縮性」と伴わない「非萎縮性」という基本的な区別のほか、京都分類で提唱された病因(原因)による分類も重要です。これには、自己免疫によるもの、感染によるもの(主にH. pylori)、そしてアルコールなどの外的要因によるものが含まれます。1

日本におけるH. pyloriの感染率は、劇的な世代間格差(コーホート効果)を示します。こやなぎ内科クリニックのデータによると、60歳以上の世代では衛生環境を背景に約70~80%と非常に高い感染率が見られますが、公衆衛生の向上により、20~30代の若年層では10%程度、10代では5%まで低下しています。45 この疫学的な転換は、将来的に胃がんが「国民病」ではなくなる可能性を示唆する一方で、臨床現場では、がんリスクが高い高齢者層への継続的な監視と、ピロリ菌陰性が多数を占める若年層における他の原因による胃炎やFDの管理という、二極化したアプローチが求められることを意味しています。6

このセクションの要点

  • 「慢性胃炎」は症状ではなく、胃粘膜の組織的な変化を指す診断名です。
  • 胃もたれなどの症状は、胃の機能異常である「機能性ディスペプシア(FD)」が原因の場合が多く、両者は区別して考える必要があります。

第II部:胃粘膜炎症の主要因

なぜ自分の胃に炎症が起きているのか、ピロリ菌や自己免疫など、目に見えない原因が関係していると知ると、ご心配になるのは当然です。胃の炎症を引き起こすメカニズムは、家に招いていない厄介な同居人が住み着き、壁紙を少しずつ傷つけていく様子に似ています。最も一般的な「同居人」が、ヘリコバクター・ピロリ菌です。この菌はウレアーゼという酵素を使って、胃酸という強力なバリアを中和し、胃の粘膜に定着します。科学的には、この定着が持続的な炎症反応を引き起こすことが分かっており、日本ヘリコバクター学会も、症状がなくてもピロリ菌胃炎は治療すべき感染症であると明確にしています。7 そのため、胃炎の根本原因を特定し、この「同居人」を追い出すこと(除菌治療)が、将来のより大きな問題を防ぐための最も重要な行動となるのです。

ピロリ菌は、ウレアーゼを産生してアンモニアを作り出し、強酸性の胃内で生存します。菌が定着すると、好中球や単核球といった炎症細胞が持続的に集まり、「活動性慢性胃炎」と定義される炎症反応が引き起こされます。8 症例の70~90%がピロリ菌感染に関連していると推定されており、典型的な経過としては、まず非萎縮性胃炎として発症し、未治療のまま数十年が経過すると萎縮性胃炎へと進行します。9

このセクションの要点

  • 慢性胃炎の最も一般的な原因は、ヘリコバクター・ピロリ菌の感染です。
  • ピロリ菌は胃酸から自身を守りながら胃粘膜に定着し、持続的な炎症を引き起こします。これは治療すべき感染症と位置づけられています。

第III部:発がんへの道筋とその予防

胃炎ががんに進行するのではないか——。「がん」という言葉を聞くと、誰もが深刻に受け止め、将来を不安に感じるものです。そのお気持ちは、非常によく理解できます。胃の中で起きる変化の道のりは、一本の長い階段に例えることができます。健康な状態から始まり、「慢性胃炎」という最初の段を上り、次に「萎縮性胃炎」、「腸上皮化生」と、少しずつ階段を上っていき、その先に「胃がん」という最上階が存在するのです。科学的には、このプロセスは「Correaカスケード」と呼ばれ、ピロリ菌感染がこの階段を上るための主要な駆動力となることが、Frontiers in Medicine誌で報告されています。11 しかし、最も重要なことは、この階段は途中で降りることができる、ということです。幸いなことに、ピロリ菌を除菌することで、階段を上る速度を劇的に遅らせたり、あるいは止めることができると、多くの信頼できる研究で証明されています。12 ですから、リスクを正しく理解し、適切な予防策(除菌と定期的な内視鏡検査)を講じることが、未来の安心につながるのです。

胃がん発生のプロセスは、「Correaカスケード」として知られる多段階的な過程をたどることが確立されています。このカスケードは、正常粘膜から始まり、慢性胃炎、萎縮性胃炎、腸上皮化生、異形成(dysplasia)を経て、最終的に浸潤性腺がんへと至ります。H. pylori感染は、このカスケードを駆動する主要な因子です。1011

H. pyloriの除菌が胃がんを予防するという説得力のあるエビデンスが蓄積されています。2020年に行われた複数のランダム化比較試験(RCT)を統合したメタアナリシスでは、健常者において除菌治療が胃がんの発生率をRR 0.54(リスクが約半分になることを意味する)に、胃がん関連死亡率をRR 0.61に減少させることが示されました。胃がん1例を予防するために必要な治療者数(NNT)は、一般集団で72人と算出されています。この結果は、より新しい2024年のメタアナリシスでも再確認されています。1213

受診の目安と注意すべきサイン

  • 黒い便(タール便)が出る
  • 原因不明の体重減少
  • 食べ物がつかえる感じがする
  • 貧血を指摘された(特に男性や閉経後の女性)

第IV部:日本の臨床現場における診断と治療

胃の不調を感じ、いざ治療へ、と思っても、どのような検査があり、費用はどのくらいかかるのか、保険は使えるのかといった現実的な疑問が次々と浮かび、一歩を踏み出すのをためらってしまうこともあるかもしれません。そのご懸念はもっともなことです。日本の医療制度におけるプロセスは、目的地へ向かうための路線図に似ています。正しい駅で正しい電車に乗り換えなければ、目的地にはたどり着けません。科学的には、ピロリ菌治療の有効性は確立されていますが、その治療を保険適用で受けるためには、「胃内視鏡検査」という名の改札を通過することが必須のルールとなっています。これは、日本医師会からの通達でも明確に定められています。16 まずは内視鏡で胃の状態を確認し、ピロリ菌による胃炎があることを確定診断することが、治療という名の電車に乗るための「切符」となるのです。この仕組みを理解することで、安心して治療のステップを進めることができます。

日本のH. pylori一次除菌療法において、近年大きな進歩がありました。それは、カリウムイオン競合型アシッドブロッカー(P-CAB)であるボノプラザン(商品名:タケキャブ)の登場です。従来のプロトンポンプ阻害薬(PPI)よりも強力かつ持続的に胃酸分泌を抑制するこの薬剤は、治療のパラダイムを変えつつあります。日本で行われた大規模な臨床試験(UMIN000022154)では、ボノプラザンを含む3剤併用療法(VAC療法)が、従来のPPIベース療法(PAC療法)と比較して、有意に高い一次除菌率(84.9% vs 78.8%)を達成したことが示されました。この差は、近年増加しているクラリスロマイシン(CAM)という抗生剤への耐性菌を持つケースにおいて特に重要です。1415

日本でピロリ菌の除菌治療を保険適用で受けるためには、厳格な条件があります。最も重要なのは、除菌治療に先立ち、上部消化管内視鏡検査によってピロリ菌感染胃炎(または胃潰瘍など関連疾患)の確定診断がなされていることです。内視鏡検査なしでの除菌治療は保険適用外となります。16 3割負担の保険診療の場合、内視鏡検査、感染診断、一次除菌療法までの一連の費用は、総額で約6,000円から10,000円程度が目安となります。17

今日から始められること

  • 胃の不調が続く場合は、まずお近くの消化器内科を受診し、症状について相談しましょう。
  • 医師と相談の上、胃内視鏡検査の予約を検討してください。これが保険診療での除菌治療への第一歩です。
  • 検査や治療の費用について不安な点があれば、事前に医療機関の窓口で確認しておくと安心です。

第V部:患者体験と今後の展望

胃の不快感とともに日々を過ごすことが、どれほど生活の質(QOL)に影響を与えるか、そのご苦労は察するに余りあります。それはまるで、常に小石が入った靴で歩いているような、絶え間ない不快感かもしれません。冒頭の第1.2章で述べたように、組織学的な胃炎自体は無症状のことがありますが、歴史的にそう呼ばれてきた症状群(現在はFDとして理解される)は、QOLを著しく損ないます。3 科学的には、この不快感は「脳腸相関」、つまり脳と腸が互いに密接に影響を及ぼし合う仕組みの乱れが関係していると考えられています。ストレスや不安が胃の症状を悪化させ、逆に胃の不快感がさらに気分を落ち込ませるという悪循環です。だからこそ、治療のアプローチも、単に胃だけを見るのではなく、ストレス管理など、心と体の両面から考えることが、快適な毎日を取り戻すための鍵となるのです。

日本の臨床試験登録データベース(UMIN-CTR)に登録されている進行中の研究は、今後の展望を示唆しています。これには、複数回の治療に失敗した患者さんに対する個別化除菌療法や、P-CABベース療法の長期追跡による除菌後のがんリスク評価などが含まれます。14 日本ヘリコバクター学会による2024年の改訂版ガイドラインは、今後の臨床実践を方向づける重要な文書となるでしょう。

このセクションの要点

  • 胃の不快な症状は、生活の質(QOL)に大きく影響し、不安や抑うつと関連することがあります。
  • ストレスと胃の機能は「脳腸相関」によって密接につながっており、心身両面からのアプローチが重要です。

よくある質問

質問1:症状がないのに「慢性胃炎」と言われました。治療は必要ですか?

はい、治療が必要な場合があります。症状がなくても、慢性胃炎の原因がピロリ菌感染である場合、将来の胃がんリスクを減らすために除菌治療が強く推奨されます。日本ヘリコバクター学会のガイドラインでも、ピロリ菌感染胃炎は治療すべき感染症とされています。7 まずはピロリ菌の有無を検査し、医師と相談することが重要です。

質問2:ピロリ菌の除菌をすれば、もう胃カメラはしなくていいですか?

いいえ、除菌後も定期的な胃内視鏡検査(胃カメラ)は重要です。除菌によって胃がんのリスクは大幅に減少しますが、ゼロにはなりません。特に、すでに胃粘膜の萎縮が進んでいる場合は、リスクが残存するため、定期的なサーベイランス(経過観察)が推奨されます。8

質問3:市販の胃薬を飲み続けても大丈夫ですか?

市販薬で一時的に症状が和らぐことはありますが、根本的な原因の解決にはなりません。特にピロリ菌感染やその他の病気が隠れている場合、診断が遅れる可能性があります。胃の不調が続く場合は、自己判断で薬を飲み続けず、一度、消化器内科を受診して原因を調べてもらうことが大切です。

質問4:食事で気をつけることはありますか?

特定の食事が慢性胃炎を治すという強力な科学的根拠は現在のところ乏しいです。しかし、一般的には、高塩分食や過度に辛いもの、熱すぎるものは胃粘膜への刺激になる可能性があるため、避けた方が無難です。バランスの取れた食事を心がけ、個々人で症状を悪化させると感じる食品があれば、それを控えるのが現実的なアプローチです。

結論

慢性胃炎は、その定義が組織学的な診断へとシフトし、症状ベースの機能性ディスペプシアとは概念的に分離されつつある、複雑な疾患領域です。その主要な原因は依然としてH. pylori感染であり、これは萎縮、腸上皮化生を経て胃がんへと至る明確な発がんリスクを伴います。幸いなことに、ピロリ菌の除菌療法は胃がんの発生を有意に抑制することが最高レベルのエビデンスで示されており、一次予防の柱となっています。日本においては、ボノプラザン(P-CAB)の登場により除菌成功率が向上し、治療のパラダイムが変化しました。今後の課題は、依然として高リスクを抱える高齢者層への適切なサーベイランスを継続するとともに、ピロリ菌陰性が主流となる次世代において相対的に重要性を増すであろう他の胃疾患の管理へと、臨床の焦点を移行させていくことにあります。

免責事項

本コンテンツは一般的な医療情報の提供を目的としており、個別の診断・治療方針を示すものではありません。症状や治療に関する意思決定の前に、必ず医療専門職にご相談ください。

参考文献

  1. StatPearls Publishing. Gastritis. [インターネット]. StatPearls, Treasure Island (FL); 2025. 引用日: 2025-09-27. リンク
  2. ResearchGate. Clinical Practice Guideline of Chinese Medicine for Chronic Gastritis. 引用日: 2025-09-27. リンク
  3. 日本消化器病學會雜誌. 機能性ディスペプシア―ガイドライン後の診療を考える―. 2016;113(6):919-27. リンク
  4. こやなぎ内科クリニック. ピロリ菌検査・除菌. [インターネット]. 引用日: 2025-09-27. リンク
  5. くにちか内科クリニック. 胃がんの原因 - ピロリ菌. [インターネット]. 引用日: 2025-09-27. リンク
  6. m3.com. 胃潰瘍3分の1、胃癌死も3位に【平成の医療史30年 胃疾患編】. [インターネット]. 引用日: 2025-09-27. リンク [有料]
  7. 日本ヘリコバクター学会. ピロリ菌に関するQ&A. [インターネット]. 引用日: 2025-09-27. リンク
  8. 今日の臨床サポート. 急性胃炎・慢性胃炎. [インターネット]. 引用日: 2025-09-27. リンク [有料]
  9. 中国慢性胃炎共识意见( 2017 年,上海). 2017. リンク
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  12. Ford AC, et al. Helicobacter pylori eradication therapy to prevent gastric cancer in healthy asymptomatic infected individuals: systematic review and meta-analysis of randomised controlled trials. BMJ. 2020. PMID: 32205420. リンク
  13. Liou JM, et al. Eradication Therapy to Prevent Gastric Cancer in Helicobacter pylori-Infected Individuals: A Systematic Review and Meta-Analysis. JAMA Netw Open. 2024. PMID: 39824392. リンク
  14. UMIN-CTR臨床試験登録情報. UMIN000022154. 引用日: 2025-09-27. リンク
  15. American College of Gastroenterology. ACG Guideline on Treatment of Helicobacter pylori: New Recommendations. 2024. リンク
  16. 日本医師会. 日医発第1548号(保険). 2022. リンク
  17. ヒロオカクリニック. ピロリ菌の有無を確かめる検査方法の種類と費用の解説. [インターネット]. 引用日: 2025-09-27. リンク

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