産後の食事：授乳中にエビを食べても大丈夫？栄養とアレルギーの真実を専門家が解説

授乳中の食事の「大原則」：厚生労働省の公式指針

特定の食品を食べるべきか、避けるべきかを議論する前に、まず授乳中の食事に関する最も信頼性の高い基本原則を理解することが不可欠です。その指針となるのが、日本の厚生労働省と農林水産省が共同で策定した「妊産婦のための食事バランスガイド」です¹⁸。これは、日本における妊娠中および授乳中の女性の食生活の公式な基準となります。

このガイドの核心は、「特定の食品を過度に摂取したり、逆に極端に避けたりするのではなく、多様な食品をバランス良く食べること」にあります。ガイドでは、1日に摂取すべき食事の目安を「コマ」のイラストで分かりやすく示しており、「主食」「副菜」「主菜」「牛乳・乳製品」「果物」の5つのグループから、まんべんなく栄養を摂ることの重要性を説いています¹。

そして、このガイドの中で最も重要なメッセージの一つが、授乳中の食事制限に関する以下の記述です。

「授乳中に、特にたくさん食べなければならない食品はありません。逆に、お酒以外は、食べてはいけない食品もありません。」¹

この一文は、多くの母親が抱える「これを食べたら赤ちゃんに悪い影響があるのでは？」という不安に対する、国からの明確な回答です。アルコールを除き、医学的に禁止されている食品は基本的に存在しないという事実は、授乳中の食事を考える上での大前提となります⁹。

もちろん、授乳期は母乳を通じて赤ちゃんに栄養を供給するため、妊娠前よりも多くのエネルギーや栄養素が必要となります¹⁰。ガイドでは、通常の食事量に加えて、授乳期には追加で摂取すべきエネルギー量（付加量）も示されており、しっかりと食事を摂ることの重要性が強調されています¹¹¹²。

この公式指針から導き出される結論は、エビを含む特定の食品を不必要に恐れて食事から排除するのではなく、むしろ様々な食材を組み合わせたバランスの良い食事を心がけることが、母子双方の健康にとって最善であるということです。この大原則を念頭に置くことで、アレルギーなどの個別の懸念事項についても、冷静かつ科学的に判断することが可能になります。

最大の懸念「アレルギー」の科学的真実

多くの母親が授乳中にエビを食べることをためらう最大の理由は、「自分がエビを食べると、母乳を通じて赤ちゃんがアレルギーになってしまうのではないか」という懸念でしょう。この考えは古くから根強く信じられてきましたが、現代の医学研究によって、その真相が明らかになっています。

母親の食事制限は、赤ちゃんの食物アレルギーを予防しない

最新の医学的コンセンサスは明確です。「母親が授乳中に特定の食物（卵、牛乳、エビなど）を避けても、赤ちゃんの食物アレルギーの発症を予防する効果はない」ということが、数多くの研究で示されています³¹³。

この知見は、日本の小児アレルギー診療の根幹をなす日本小児アレルギー学会の「食物アレルギー診療ガイドライン2021」においても支持されています⁴¹⁴。このガイドラインは、全国の小児科医やアレルギー専門医が日常診療の基準として用いる、最も権威ある文書です。

かつては、アレルギーの原因となりうる食品の摂取を母親が控えることが推奨された時代もありました。しかし、その後の研究で予防効果がないことが判明しただけでなく、むしろ不必要な食事制限は、母親と赤ちゃんの双方にとって栄養の偏りや不足を招く危険性があるため、現在では推奨されていません³¹⁵。母親の健康と十分な母乳育児のためには、栄養バランスの取れた食事が不可欠です。

では、アレルギーは何が原因？最新の予防に関する考え方

「母親の食事が原因でないなら、何がアレルギーを引き起こすのか？」という疑問が当然生じます。近年のアレルギー研究では、発症メカニズムに関する理解が大きく進みました。

現在、有力な仮説の一つとして注目されているのが「経皮感作（けいひかんさ）」です¹⁶。これは、食物アレルゲンが口からではなく、湿疹などでバリア機能が低下した皮膚を通して体内に侵入し、アレルギー反応が成立するという考え方です。つまり、赤ちゃんの食物アレルギー予防においては、母親の食事内容よりも、赤ちゃんのスキンケアを徹底し、皮膚を健康な状態に保つことが重要である可能性が指摘されています¹⁷。

また、アレルギー発症との関連でより重要視されているのは、母親の食事ではなく、赤ちゃん自身が離乳食でアレルゲンとなる食品をいつ、どのように食べ始めるかという点です。研究によっては、アレルギーを心配して離乳食での特定食品の開始を遅らせることが、かえってアレルギー発症の危険性を高める可能性も示唆されています¹³。

母乳を通じたアレルゲンの影響は？

母親が食べた食品の成分（アレルゲン）が、ごく微量ながら母乳に移行することは事実です³。しかし、この微量なアレルゲンが、健康な赤ちゃんにアレルギーを発症させる直接的な原因となることは極めて稀です。

例外的に、すでに重度の食物アレルギーを発症している赤ちゃんの場合、母親が食べた特定食品に反応して症状が悪化するケースが報告されています。しかし、そのような場合でも、母親が自己判断で食事制限を始めるべきではありません。必ず医師の診断のもと、指導に従って必要最小限の食事管理を行うことが原則です³。多くの場合、加工品に含まれる程度の少量であれば母親が食べても問題ないことが多く、完全な除去が必要となるケースは限定的です。

結論として、科学的根拠に基づけば、母親が赤ちゃんの将来のアレルギーを心配して、授乳中にエビなどの食品を避ける必要はありません。むしろ、バランスの取れた食事を楽しみ、赤ちゃんのスキンケアに注意を払うことが、より合理的で効果的なアプローチと言えます。

産後の身体と母乳に嬉しい、エビの栄養価

エビを避ける必要がないことを理解した上で、次に注目したいのは、エビが産後の母親にとって「積極的に摂りたい」優れた食材であるという点です。エビは低脂質・低カロリーでありながら、産後の身体の回復と良質な母乳の生成に不可欠な栄養素を豊富に含んでいます。

• 高品質なタンパク質： タンパク質は、出産のダメージから身体を修復し、筋肉や血液を再生するための主原料です。また、母乳の主成分でもあり、赤ちゃんの成長に欠かせません。エビは、この高品質なタンパク質を豊富に含んでおり、産後の回復と母乳育児を力強くサポートします⁶¹⁸。
• カルシウム： 妊娠中から授乳期にかけて、母親の体内のカルシウムは赤ちゃんに優先的に供給されるため、不足しがちになります。厚生労働省のガイドでも、カルシウムは意識的に摂取すべき栄養素として挙げられています¹。エビ、特に殻ごと食べられる桜えび（さくらえび）などは、乳製品以外の優れたカルシウム源となります¹⁹。
• 亜鉛： 亜鉛は、細胞の新陳代謝を促し、免疫機能を正常に保つために重要なミネラルです。産後の創傷治癒や体力回復、感染症予防に役立ちます。エビにはこの亜鉛も含まれています⁶。
• タウリン： 栄養ドリンクなどにも含まれるタウリンは、疲労回復効果で知られています。また、赤ちゃんの脳や網膜の発達にも関与するとされる重要な栄養素です。エビやカニ、タコ、イカなどの魚介類に豊富に含まれており、育児で疲れがちな母親の心強い味方となります。
• 低脂質・低カロリー： 産後の体重管理を気にしながらも、栄養はしっかりと摂りたいと考える母親にとって、エビは理想的な食材です。例えば、ブラックタイガーは100gあたり約77キロカロリーと非常に低カロリーで、脂質もわずか0.3gです⁶²⁰。栄養価が高いにもかかわらず、健康的に食事を楽しむことができます。
• DHA/EPA（オメガ3脂肪酸）： 青魚ほどではありませんが、エビにも赤ちゃんの脳神経系の発達に良い影響を与えるとされるDHAやEPAといったオメガ3脂肪酸が含まれています⁷。

これらの栄養価を具体的に比較するために、日本で一般的に消費されるエビの栄養成分（生、100gあたり）を見てみましょう。

この表からもわかるように、エビは種類によって特徴が異なりますが、いずれも高タンパク・低脂質という共通点があります。特に桜えびはカルシウムの含有量が突出しており、少量をご飯に混ぜたり、和え物に使ったりするだけで、手軽に栄養価を高めることができます¹⁹²²。

安全に美味しく食べるための３つのポイント

エビが栄養豊富で、アレルギーの観点からも心配が少ないことが分かりました。しかし、授乳中の母親が食事をする際には、一般的な食中毒の危険性を避けるための注意が必要です。エビを安全に、そして美味しく食べるための3つの重要なポイントを解説します。

ポイント1：必ず十分に加熱する

授乳中に魚介類を食べる際、最大の注意点はアレルギーではなく、食中毒です。生や加熱不十分なエビには、リステリア菌や腸炎ビブリオ菌などの細菌、あるいはノロウイルスなどが存在する可能性があります⁷²³。

母親が食中毒になると、嘔吐や下痢によって体力を著しく消耗し、脱水症状に陥ることで母乳の分泌に影響が出る恐れがあります。また、育児に支障をきたすことにもなりかねません。これらの危険性は、中心部までしっかりと火を通すことで、ほぼ完全に防ぐことができます²⁴。お寿司やお刺身で生のネタを選ぶ際は、火を通した「茹でエビ」などを選ぶとより安心です²⁴。

ポイント2：新鮮なものを選ぶ

これは全ての食材に共通する基本ですが、魚介類においては特に重要です。購入する際は、信頼できる店舗で、新鮮なものを選びましょう。見た目に透明感があり、身がしっかりとしていて、不快な臭いがないものが新鮮な証拠です。購入後は速やかに冷蔵庫で保管し、早めに調理して食べきるように心がけましょう。

ポイント3：水銀の心配はほとんど不要

魚介類と聞いて、水銀の蓄積を心配する方もいるかもしれません。確かに、マグロやキンメダイなど、食物連鎖の上位にいる一部の大型魚には水銀が多く含まれるため、妊娠中・授乳中は摂取量に注意が必要です²⁵。

しかし、エビ、カニ、サケ、アジといった魚介類は、水銀含有量が非常に低いことが分かっています。米国の食品医薬品局（FDA）と環境保護庁（EPA）が共同で作成したガイドラインでは、エビ（Shrimp）は最も水銀レベルが低い「Best Choices（最良の選択）」に分類されており、授乳中の女性が週に2〜3食（合計で約225g〜340g）摂取することが推奨されています⁵²⁶。したがって、エビを食べる際に水銀の危険性を過度に心配する必要は全くありません。

赤ちゃんにアレルギー症状が疑われる場合の対処法

これまでの説明の通り、母親がエビを食べたことが原因で赤ちゃんがアレルギーを発症する可能性は極めて低いですが、万が一、赤ちゃんの体に何らかの気になる症状が現れた場合の対処法を知っておくことは、親としての安心につながります。

食物アレルギーの症状は様々ですが、乳児期によく見られるのは以下のようなものです⁹²⁷。

• 皮膚症状： じんましん、かゆみを伴う発疹、湿疹の悪化、口や目の周りの腫れなど。
• 消化器症状： 嘔吐、下痢、血便、腹痛（機嫌が悪く泣き続けるなど）。
• 呼吸器症状： 持続する咳、ゼーゼー・ヒューヒューという呼吸音（喘鳴）、鼻水・鼻づまり。

もし、母親が何か特定の食品を食べた後、数時間以内に赤ちゃんにこのような症状が見られた場合、最も重要な行動は一つだけです。

自己判断で原因を決めつけず、速やかに小児科医またはアレルギー専門医に相談してください。

親が「きっとエビのせいだ」と判断して、自身の食事からエビを排除したり、授乳を中断したりすることは、絶対に避けるべきです³。その症状が本当に食物アレルギーなのか、他の原因（ウイルス感染や乳児湿疹など）によるものなのかを判断できるのは、専門家である医師だけです²⁸。病院では、医師が詳しい問診を行い、必要に応じて血液検査や皮膚テスト、あるいは専門施設の管理下で原因と疑われる食物を実際に少量食べさせてみる「食物経口負荷試験」などを行って、正確な診断を下します²⁸。正しい診断に基づいた適切な対処こそが、赤ちゃんの健康を守るための最善の道です。

よくある質問

結論

本稿では、「産後の母親はエビを食べても良いか」という問いに対し、科学的根拠に基づいて詳細な分析を行いました。重要なポイントを改めて整理します。

• 結論は「YES」： 母親自身にアレルギーがなければ、十分に加熱したエビは授乳中に食べても安全であり、むしろ産後の身体に有益な栄養豊富な食材です。
• アレルギーの真実： 母親が授乳中に特定の食品を避けても、赤ちゃんの食物アレルギーを予防する効果はない、というのが現代の医学的常識です。不必要な食事制限は栄養不足を招くため、推奨されません³⁴。
• 公式指針の原則： 厚生労働省の「妊産婦のための食事バランスガイド」が示す通り、授乳中の食事の基本は「多様な食品をバランス良く」摂ることです。アルコールを除き、食べてはいけない食品は基本的にありません¹。
• 本当のリスク管理： 注意すべきはアレルギーではなく、食中毒と水銀です。エビは「十分な加熱」で食中毒を防ぎ、「水銀含有量が極めて低い」ため安心して食べられる食材です。

出産という大仕事を終え、育児という新たなステージに立つ母親にとって、食事は心と身体のエネルギー源です。古い言い伝えや不確かな情報に惑わされることなく、正しい知識を身につけることで、食事に対する不安は解消できます。エビをはじめとする多種多様な食材を楽しみながら、バランスの取れた豊かな食生活を送ることが、母親自身の健康と、赤ちゃんの健やかな成長にとって何よりも大切です。