この記事の科学的根拠
この記事は、提供された調査報告書で明示的に引用されている最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下は、参照された実際の情報源と、提示された医学的指導との直接的な関連性を含むリストです。
- 男性不妊症診療ガイドライン 2024年版: 本稿における治療法の推奨度や標準的な診断・治療に関する記述は、日本泌尿器科学会および日本生殖医学会が策定したこの最新ガイドラインに基づいています4。
- 世界保健機関(WHO): 不妊の原因における男女の割合に関するデータは、WHOの公式報告に基づいています1。
- 厚生労働省およびこども家庭庁: 日本における不妊治療の経験率や保険適用に関する情報は、これらの省庁が公表したデータおよびハンドブックに基づいています36。
- 日本の全国調査データ: 日本人男性における不妊原因の内訳や性機能障害の割合の推移に関する統計は、厚生労働省の助成を受けて行われた全国規模の調査研究に基づいています75。
要点まとめ
あなたの原因はどれ?男性不妊の主な原因と割合
男性不妊と一言で言っても、その原因は多岐にわたります。原因を正しく理解することは、適切な治療への第一歩です。日本の男性不妊患者を対象とした全国調査によると、原因は大きく3つのカテゴリーに分類されます。まずは、ご自身の状況がどこに当てはまる可能性があるのか、全体像を把握しましょう。
原因の分類 | 割合 | 主な内容 |
---|---|---|
造精機能障害 | 82.4% | 精子を正常に作ることができない状態(精子の数が少ない、運動率が低いなど)。 |
性機能障害 | 13.5% | 勃起障害(ED)や射精障害など、性交渉に問題がある状態。 |
精路通過障害 | 3.9% | 精子の通り道が詰まっている状態。 |
出典: 2016年に公表された日本の全国調査データに基づく7
この表が示す通り、男性不妊の実に8割以上が、精子を作る過程に問題がある「造精機能障害」によるものです。以下、それぞれの原因について詳しく見ていきましょう。
造精機能障害:精子をうまく作れない
造精機能障害は、精巣(睾丸)で精子が十分に作られない、あるいは作られた精子の質(運動率や形態)に問題がある状態を指します10。これは男性不妊の最も一般的な原因であり、全体の82.4%を占めます7。具体的には、精子の数が少ない「乏精子症」、運動率が低い「精子無力症」、形の異常な精子が多い「奇形精子症」などが含まれます。多くの場合、これらの問題は連動して起こります11。
重要なのは、この造精機能障害の約6割は原因が特定できない「特発性」と診断されることが多い点です10。しかし、「原因不明」という言葉に落胆する必要はありません。なぜなら、その背後には治療可能な特定の病気が隠れているケースが少なくないからです。
最も一般的な”治療可能な”原因:精索静脈瘤
造精機能障害の中でも、最も頻度が高く、かつ外科手術によって治療が可能な原因が「精索静脈瘤」です10。これは、精巣の上にある静脈の集まり(精索静脈叢)に血液が逆流し、こぶ(静脈瘤)のように腫れてしまう病気です12。
この静脈瘤がなぜ問題かというと、逆流した温かい血液が精巣の周りに滞留することで、精巣の温度が慢性的に上昇してしまうからです。精子は熱に非常に弱く、本来、体温より2~3度低い温度でなければ正常に作られません12。精索静脈瘤によって精巣が温められ続けると、精子を作る機能が低下し、精子の数、運動率、形態が悪化するのです10。
この病気の有病率は非常に高く、一般男性の約15%に見られますが、男性不妊に悩む患者ではその割合が約40%にまで跳ね上がります13。これは、一見「原因不明の造精機能障害」と診断された多くのケースで、実は未診断の精索静脈瘤が根本原因である可能性が高いことを示唆しています。超音波検査などで比較的簡単に診断でき、手術による改善が期待できるため、専門医による的確な診察が極めて重要です8。
性機能障害:増加する社会的な課題
性機能障害は、勃起や射精がうまくいかず、結果として妊娠に至らない状態を指します。これには勃起不全(ED)や、射精はできても精液が体外に出ず膀胱に逆流してしまう「逆行性射精」、膣内での射精ができない「膣内射精障害」などが含まれます13。
特筆すべきは、この性機能障害が原因である割合が近年、日本で急増している点です。厚生労働省の全国調査によると、男性不妊における性機能障害の割合は、1997年の3.9%から2015年には13.5%へと3倍以上に増加しました5。
この背景には、現代社会におけるストレスの増大や、心理的な要因が大きく関わっていると考えられます10。特に、不妊治療における「排卵日に合わせなければ」というプレッシャーがEDを引き起こすケースも少なくありません13。さらに、2023年の日本性機能学会の調査では、若年層の性欲低下傾向も指摘されており、これは単なる身体的な問題ではなく、より複雑な心理社会的課題として捉える必要があります5。幸いなことに、これらの問題の多くは、適切なカウンセリングや薬物療法によって改善が可能です10。
精路通過障害:精子の通り道がふさがっている
精路通過障害は、精巣で精子は正常に作られているにもかかわらず、その通り道である精管などが物理的に閉塞しているために、精液中に精子が出てこられない状態です14。原因としては、過去の精巣上体炎などの感染症、鼠径ヘルニア(脱腸)の手術の影響、あるいは先天的な精管の欠損などが挙げられます12。
男性不妊全体に占める割合は3.9%と比較的低いですが7、精液検査で精子が全く見られない「無精子症」と診断された場合には、この精路通過障害の可能性が疑われます。この場合、顕微鏡を用いた精管の再建手術などによって、自然な射精による妊娠が期待できることがあります14。
その他の原因と危険因子
上記の3大原因の他にも、以下のような要因が男性不妊に関わることが知られています。
- ホルモン異常: 脳の下垂体や精巣の機能不全により、テストステロンや性腺刺激ホルモン(FSH、LH)のバランスが崩れ、精子産生に影響を与えることがあります10。特に「低ゴナドトロピン性性腺機能低下症」は稀ですが、ホルモン補充療法によって劇的な改善が見込める疾患です15。
- 遺伝的要因: クラインフェルター症候群などの染色体異常や、Y染色体微小欠失といった遺伝子の問題が原因となることがあります14。
- 生活習慣と環境要因: 喫煙、過度の飲酒、肥満、強いストレス、そして精巣を温める生活習慣(長時間のサウナや入浴、膝上でのPC作業など)は、精子の質を低下させる危険因子として知られています10。これらの詳細は第4章で詳しく解説します。
もしかしてと思ったら?診断への完全ガイド
男性不妊の可能性に気づいたとき、あるいはパートナーとの妊活がうまくいかないと感じたとき、次に取るべき行動は専門家による正確な診断です。診断プロセスを正しく理解し、ためらわずに一歩を踏み出すことが、問題解決への最短ルートとなります。
最初のステップ:ためらわずに専門医へ
かつては「不妊治療はまず女性から」という風潮がありましたが、最新のガイドラインではその考え方が大きく変わっています。不妊のスクリーニングは、男女が一緒に受けるべきであると専門家の間ではコンセンサスが得られています16。
特に、精液検査で何らかの異常が見つかった場合、「生殖医療ガイドライン」では、男性不妊を専門とする泌尿器科医による診察を受けることが強く推奨されています(推奨度A)8。産婦人科と泌尿器科が連携して原因を探ることが、治療方針を決定する上で極めて重要です8。女性側が多くの検査を終えた後で、ようやく男性側の検査を始めるという古いパターンは、貴重な時間を失うことにつながりかねません。
必須の検査:精液検査
男性不妊の診断における最も基本的かつ重要な検査が精液検査です14。この検査では、採取した精液を顕微鏡で観察し、精子の数、運動率、形態などを評価します。
検査を受ける際は、通常2〜7日程度の禁欲期間を設けることが推奨されます。精液の状態は体調によって変動するため、一度の検査結果だけで判断せず、1ヶ月以上の間隔をあけて複数回検査を行うのが理想的です16。この検査によって、自身の精子の状態を客観的に把握することができます。
項目 | WHO 2021 基準下限値 | 基準値を下回る場合の専門用語 | 簡単な説明 |
---|---|---|---|
精液量 | 1.4 mL | – | 一回の射精で出る精液の量です。 |
精子濃度 | 16×10⁶/mL (1600万/mL) | 乏精子症 | 精液1mLあたりの精子の数です。 |
総精子数 | 39×10⁶ (3900万) | – | 1回の射精に含まれる精子の総数です。 |
総運動率 | 42% | 精子無力症 | 前に進む精子と、その場で動くだけの精子を合わせた割合です。 |
正常形態率 | 4% | 奇形精子症 | 頭部、頸部、尾部の形が正常な精子の割合です。 |
出典: WHO laboratory manual for the examination and processing of human semen, 6th edition (2021)5
泌尿器科での専門的な検査
精液検査で異常が見つかった場合、その原因をさらに詳しく調べるために、男性不妊専門の泌尿器科で以下のような検査が行われます。これらは「男性不妊症診療ガイドライン」でも推奨されている重要なステップです8。
- 問診・視診・触診: これまでの病歴、手術歴、生活習慣などを詳しく聞き取ります。医師が直接、陰嚢や精巣の状態を観察し、触って確認します。精巣の大きさ(正常は14mL以上)や硬さ、精管の有無、そして精索静脈瘤の兆候であるこぶのような腫れがないかをチェックします12。
- 超音波(エコー)検査: 陰嚢にゼリーを塗り、超音波を発する器具を当てて内部の状態を画像で確認します。この検査は、触診だけでは分かりにくい小さな精索静脈瘤を正確に診断するために不可欠です8。また、精巣腫瘍や精巣内の石灰化など、他の病気がないかも同時に調べることができます14。
- 血液検査(ホルモン検査): 採血により、テストステロン(男性ホルモン)、FSH(卵胞刺激ホルモン)、LH(黄体形成ホルモン)といった、精子を作るのに重要なホルモンの値を測定します10。これらの値に異常があれば、ホルモン分泌の乱れが不妊の原因である可能性が考えられます。
これらの専門的な検査を通じて、不妊の根本原因を特定し、一人ひとりに合った最適な治療方針を立てることが可能になります。
最新ガイドラインに基づく治療法の全貌
男性不妊の治療法は、原因や症状の重症度に応じて多岐にわたります。ここでは、「男性不妊症診療ガイドライン 2024年版」で示された科学的根拠に基づき、標準的な治療から最新の高度生殖医療、そして補助的なアプローチまで、その全体像を解説します。
原因が明らかな場合の治療
不妊の原因が特定の病気によるものである場合、その病気を直接治療することで、精液所見の改善や自然妊娠が期待できます。
- 精索静脈瘤手術: 前述の通り、精索静脈瘤は治療可能な男性不妊の最も一般的な原因です。手術の目的は、逆流している静脈を結紮(縛る)し、精巣の温度を正常化させることです15。現在、標準的な術式とされているのは、手術用顕微鏡を用いた「顕微鏡下精索静脈瘤低位結紮術」です。この方法は、動脈やリンパ管を温存しながら原因となる静脈のみを確実に処理できるため、合併症が少なく、治療成績も良好です15。手術により、精液所見の改善、精子DNAの損傷率低下、そして自然妊娠率の向上が期待されます。
- 精路閉塞の治療: 精管の閉塞が原因の場合、顕微鏡を用いて閉塞した部分をつなぎ合わせる「精管精管吻合術」などの精路再建術が行われます14。これにより、精子の通り道が再開通し、射出精液中に再び精子が現れるようになります。
- ホルモン療法: 脳の下垂体機能不全による「低ゴナドトロピン性性腺機能低下症」が原因の場合、ホルモン剤(hCGやFSH)の注射による治療が非常に有効です。この治療は、たとえ治療前が無精子症であっても、精子産生を劇的に回復させることができる、数少ない薬物療法の一つです10。
高度生殖医療(ART)における男性側の治療
自然妊娠や一般不妊治療(人工授精など)が困難な重度の男性不妊症、特に精液中に精子が見られない「無精子症」の場合、高度生殖医療(ART)が選択肢となります。その際に行われる男性側の治療が、精巣から直接精子を回収する手術です。
顕微鏡下精巣内精子採取術 (micro-TESE)
これは、閉塞が原因ではない「非閉塞性無精子症(NOA)」の患者さんに対して行われる、非常に高度な手術です。精巣を大きく切開し、手術用顕微鏡で拡大しながら、精子が作られている可能性のある太い精細管を探し出して採取します15。
この方法の最大の権威性は、日本の「男性不妊症診療ガイドライン 2024年版」において、非閉塞性無精子症に対する治療として最高の推奨度である「推奨グレードA」とされている点にあります5。
この高い推奨度には、日本の医療事情を反映した深い背景があります。欧米では、micro-TESEの優位性を示す大規模なランダム化比較試験(RCT)が不足していることから、必ずしも最高の推奨とはなっていません5。実際、ガイドライン作成過程では、この点を指摘する意見も寄せられました17。しかし、ガイドライン作成委員会は、日本の専門医たちの豊富な臨床経験と実績に基づき、国内の治療を標準化し、最も高い精子回収率が期待できるこの術式を強く推奨するという方針を意図的に選択しました5。これは、日本の男性不妊治療が、世界標準を踏まえつつも、独自の臨床的判断に基づいて最適化されていることを示す好例と言えます。
経験的治療:サプリメントと漢方薬の科学的評価
医学的な原因が特定できない「特発性男性不妊症」に対して、精子の質を改善する目的でサプリメントや漢方薬がしばしば用いられます。これらは「経験的治療」と呼ばれ、その効果については科学的な評価が分かれるため、冷静な視点が必要です。
抗酸化サプリメント
- 理論的背景: 体内の過剰な活性酸素(酸化ストレス)が精子にダメージを与えるという考えに基づき、これを中和する抗酸化物質(コエンザイムQ10、亜鉛、セレン、カルニチンなど)を摂取することで精子の状態を改善しようというアプローチです18。
- 科学的根拠: 近年発表された複数の大規模なメタアナリシス(多数の研究を統合した分析)によると、一部のサプリメント(コエンザイムQ10、亜鉛、カルニチンなど)は、精子濃度や運動率といった精液検査の数値を部分的に改善する可能性が示されています18。しかし、最も重要な「妊娠率や生児獲得率(実際に赤ちゃんが生まれる確率)を向上させる」という確固たる証拠は、現時点では見つかっていません18。この「検査値の改善」と「妊娠という結果」の間のギャップを理解することが非常に重要です。
- 日本のガイドラインでの位置づけ: このような科学的根拠の不確かさを反映し、「男性不妊症診療ガイドライン 2024年版」では、特発性男性不妊に対する抗酸化剤の投与は「推奨グレードC(行ってもよいが、強い科学的根拠はない)」という低い評価になっています19。
漢方薬
- 日本の臨床現場: 漢方薬は、副作用が比較的少ないことから、日本の不妊治療の現場で経験的に広く用いられています15。補中益気湯(ほちゅうえっきとう)や八味地黄丸(はちみじおうがん)といった処方が代表的です。
- 科学的根拠: 日本国内で行われた小規模な研究では、これらの漢方薬が精液所見を改善したという報告がいくつか存在します20。しかし、サプリメントと同様に、妊娠率を明確に向上させるという質の高いエビデンスはまだ確立されていません。
結論として、サプリメントや漢方薬は、医師の指導のもとで補助的に試みる価値はあるかもしれませんが、それらが根本的な治療の代わりになるわけではありません。高額な製品に頼る前に、まずは専門医による正確な診断と、科学的根拠の確立された標準治療を優先することが賢明です。
今日からできること:精子の質を高める生活習慣
専門的な治療と並行して、日々の生活習慣を見直すことは、精子の質を向上させ、妊活をサポートするための重要かつ実行可能なアプローチです。ここでは、科学的な知見に基づき、今日から始められる具体的な改善点を紹介します。
食生活の見直し
「何を食べればよいか」という問いに対する万能の答えはありませんが、特定の食事パターンや栄養素が精子の健康に良い影響を与えることが分かっています21。
- 推奨される食事: 魚、野菜、果物、全粒穀物を中心とした、いわゆる地中海式食事や、バランスの取れた伝統的な和食は、精子の質に良い影響を与える可能性が示唆されています21。特に、亜鉛(牡蠣、赤身肉)、セレン(魚介類、卵)、コエンザイムQ10、ビタミンE(ナッツ類)、オメガ3脂肪酸(青魚)といった栄養素は、精子の生成や機能維持に重要です22。
- 避けるべき食事: 赤身肉や加工肉、精製された穀物(白いパンなど)、そしてトランス脂肪酸を多く含むスナック菓子やファストフード中心の欧米型の食生活は、精子の運動能力や濃度を低下させる可能性があると報告されています21。
禁煙と賢いお酒との付き合い方
- 禁煙: 喫煙は精子にとって百害あって一利なしです。複数の研究で、喫煙者は非喫煙者に比べて精子数が平均10~17%少なく、奇形率も高いことが示されています10。喫煙は精子のDNAを直接傷つける可能性もあり、妊娠を望むなら、まず禁煙することが強く推奨されます23。
- 飲酒: 過度のアルコール摂取は精子の質を低下させます10。一方で、適度な飲酒が悪影響を及ぼすという明確な証拠は少ないため、付き合い方としては「飲み過ぎを避ける」ことが基本となります23。
適正体重の維持と運動
- 肥満: 肥満はホルモンバランスを乱し、精巣でのテストステロン産生を低下させることで、精子を作る能力に悪影響を及ぼすことが知られています10。適正体重を維持することは、精子の健康にとっても重要です。
- 運動: 定期的な運動は健康全般に良い影響を与えますが、過度な運動は逆にストレスとなる可能性もあるため、ウォーキングやジョギングなどの適度な運動を心がけましょう。
ストレス管理と精巣を温めない工夫
- ストレス管理: 慢性的なストレスは、性欲の低下やホルモンバランスの乱れを通じて、間接的に妊活に影響を与える可能性があります10。研究によってはストレスと精液所見の直接的な関連性は明確でないとするものもありますが24、心身の健康を保つために、自分に合ったリラックス法を見つけることが大切です。
- 精巣を温めない: 精子は熱に弱いという性質は、日常生活で注意すべき重要なポイントです。長時間の熱いお風呂や頻繁なサウナの利用、体にぴったりとフィットする下着やズボンの着用、膝の上でノートパソコンを長時間使用することなどは精巣の温度を上昇させる可能性があるため、避けるようにしましょう10。
これらの生活習慣の改善は、すぐに劇的な変化をもたらすものではありませんが、長期的に精子の健康を支える土台となります。パートナーと共に取り組むことで、妊活への意識を高める良い機会にもなるでしょう。
【重要】不妊治療の費用と保険適用
不妊治療を進める上で、費用は非常に大きな関心事であり、精神的な負担にもつながります。2022年4月から、日本の不妊治療における保険適用のルールが大きく変わりました。ここでは、特に男性不妊治療に焦点を当て、その複雑な仕組みを分かりやすく解説します。
2022年4月からの保険適用:基本の「き」
この制度改正により、これまで多くが自費診療だった不妊治療が公的医療保険の対象となり、患者の自己負担は原則として医療費の3割となりました9。これにより、経済的な負担が大幅に軽減されました。この保険適用は、法律上の婚姻関係にある夫婦だけでなく、事実婚のカップルも対象となります25。
男性不妊治療:保険でできること、できないこと
男性不妊に関連する治療や検査の多くが保険適用となりましたが、対象外となるものもあります。賢く制度を利用するためには、その境界線を正しく理解しておくことが重要です。
区分 | 具体的な治療・検査の例 |
---|---|
保険適用 | 【検査】精液検査、ホルモン検査(血液検査)、超音波検査 【手術】精索静脈瘤手術、精路再建術(精管吻合術など)、精巣内精子採取術(TESE、micro-TESE) 【薬物療法】勃起不全(ED)治療薬(不妊治療目的の場合)、逆行性射精に対する薬物療法 |
自由診療 / 先進医療 | 【経験的治療】漢方薬、サプリメント 【先進医療】一部の高度な精子選別技術(例:IMSI、PICSI)、タイムラプス培養、着床前診断(PGT) ※先進医療は保険診療と併用可能だが、先進医療の技術料は全額自己負担となる |
出典: 厚生労働省資料などに基づく9
この表から分かるように、精索静脈瘤手術やmicro-TESEといった高額になりがちな外科手術が保険適用となったことは、患者にとって大きなメリットです。一方で、科学的根拠がまだ十分でないサプリメントや漢方薬は保険の対象外となります。
高度生殖医療(ART)の年齢・回数制限
ここが最も重要で、誤解しやすいポイントです。体外受精や顕微授精といった高度生殖医療(ART)の保険適用には、治療開始時点の女性パートナーの年齢に基づいた回数制限が設けられています25。男性には年齢制限はありませんが、カップルとして治療を受ける以上、このルールが適用されます。
- 治療開始時の女性の年齢が40歳未満の場合: 1子ごとに、胚移植の回数が通算6回まで保険適用
- 治療開始時の女性の年齢が40歳以上43歳未満の場合: 1子ごとに、胚移植の回数が通算3回まで保険適用
- 治療開始時の女性の年齢が43歳以上の場合: 保険適用外(全額自己負担)
この仕組みは、カップルにとって重大な影響を及ぼす可能性があります。例えば、男性が保険でmicro-TESEの手術を受けて精子を採取できたとしても、その精子を用いた顕微授精を行う際に、パートナーである女性の年齢が43歳以上であれば、顕微授精の費用は保険適用とならず、全額自己負担となります。つまり、男性側の治療が保険適用であっても、その後のARTが保険適用になるかは、女性の年齢という条件に左右されるのです。この点を夫婦で正確に共有し、治療計画を立てることが、予期せぬ経済的負担を避けるために不可欠です。
ひとりで抱え込まないで:心のケアとサポート体制
男性不妊は、身体的な問題だけでなく、深い心理的・社会的な負担を伴います。診断や治療の過程で感じるストレス、孤独感、そして将来への不安は、決して一人で抱え込むべきではありません。幸い、日本には悩みを分かち合い、専門的な支援を受けるための様々なリソースが存在します。
男性が直面する心理的負担
不妊の原因が自分にあると知ったとき、多くの男性はショックを受け、自尊心が傷つきます。アンケート調査では、不妊治療中のカップルが抱える悩みとして、「精神的な負担」「知識・情報不足」「パートナーとの問題」が大きな要素として挙げられています26。
特に男性は、「恥ずかしい」「弱みを見せたくない」といった感情から、自分の気持ちを打ち明けたり、専門機関に相談したりすることに抵抗を感じがちです27。また、「不妊は女性の問題」という社会的な偏見が根強く残っていることも、男性を孤立させる一因となっています28。これらの感情はごく自然なものですが、一人で悩み続けることは、精神的な健康を損ない、夫婦関係にも影響を及ぼしかねません。
夫婦のコミュニケーションが鍵
不妊治療は、どちらか一方のものではなく、夫婦ふたりの共同作業です。この困難な道のりを乗り越えるためには、お互いの気持ちを率直に話し合い、支え合うオープンなコミュニケーションが何よりも重要です。治療の選択肢について共に学び、喜びも悲しみも分かち合うことで、ふたりの絆はより一層深まります。男性不妊という課題に、チームとして向き合う姿勢が大切です。
相談できる場所とリソース
幸いなことに、専門的な知識を持つ人や同じ経験を持つ仲間と繋がれる場所が日本には数多く存在します。
- 公的な相談窓口(不妊専門相談センター): 各都道府県や指定都市には、「不妊専門相談センター」が設置されています。ここでは、医師や助産師、カウンセラーなどの専門家が、無料で匿名の相談に応じてくれます29。特筆すべきは、多くのセンターで「男性不妊専門相談」の日が設けられている点です。泌尿器科の専門医に直接、電話や面談(オンライン含む)で相談できるこの機会は、医療機関を受診する前のステップとして非常に価値があります30。
- 患者支援団体(患者会): NPO法人Fineは、日本で活動する代表的な不妊当事者のための支援団体です。ウェブサイトでの情報提供のほか、当事者が集う「おしゃべり会」などを全国で開催しており、男性不妊を経験したスタッフによる体験談を聞く機会もあります31。同じ悩みを持つ仲間と繋がることは、「自分だけではない」という安心感を与えてくれます。
- 専門クリニックでのサポート: エス・セットクリニックやメンズファーティリティクリニック東京など、男性不妊を専門とする多くのクリニックでは、治療だけでなく、患者やその家族向けの勉強会やカウンセリングも提供しています32。専門家から直接、最新の情報を得られる貴重な場です。
これらのリソースを活用し、情報を得て、悩みを共有することは、精神的な負担を軽減し、前向きに治療に取り組むための大きな力となります。
よくある質問
男性不妊と診断されましたが、これは自分のせいなのでしょうか?
決してご自身を責めないでください。男性不妊の原因は、精索静脈瘤のような身体的な病気、ホルモン異常、遺伝的要因など多岐にわたります10。その多くは個人の責任や生活態度だけで決まるものではありません。大切なのは、原因を正確に把握し、専門医と共に適切な治療法を見つけることです。
サプリメントだけで精子の質は改善しますか?
私の治療は保険適用になりますか?パートナーは44歳です。
診断が怖くて、なかなか病院に行けません。どうすればよいですか?
結論
男性不妊は、もはや稀なことでも、隠すべきことでもありません。不妊に悩むカップルの約半数に男性側の要因が関わっており、多くの仲間が同じ課題に直面しています。本稿で解説してきたように、その原因の多くは科学的に解明されつつあり、特に頻度の高い精索静脈瘤などは、適切な治療によって改善が期待できます。最も重要なことは、不妊の可能性を感じたら、ためらわずに、そして夫婦ふたりで、早期に専門医に相談することです。2022年からの保険適用拡大、そして2024年の日本初の「男性不妊症診療ガイドライン」の策定により、日本の男性不妊治療は、誰もが科学的根拠に基づいた標準的な医療を受けられる、新しい時代に入りました。正しい情報を武器に、専門家やサポート機関の助けを借りながら、一歩を踏み出すこと。それは決して弱さの表れではなく、家族を築くという目標に向けた、最も主体的で勇気ある行動です。この情報が、皆様の希望ある未来への一助となることを心から願っています。
参考文献
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- 男性不妊について|不妊のこと DICTIONARY. こども家庭庁. Available from: https://funin-fuiku.cfa.go.jp/dictionary/theme06/
- 不妊は特別ではない|不妊のこと DICTIONARY. こども家庭庁. Available from: https://funin-fuiku.cfa.go.jp/dictionary/theme03/
- 日本泌尿器科学会, 日本生殖医学会. 男性不妊症診療ガイドライン 2024年版. メディカルレビュー社, 2024.
- 辻村 晃. 【日本初】男性不妊症診療GLが発刊 : 委員長・辻村晃氏に聞く. HOKUTO. 2024. Available from: https://hokuto.app/post/eiluLqGqVMwBDdcne3g7
- こども家庭庁. 不妊治療と仕事の両立サポートハンドブック. Available from: https://www.cfa.go.jp/policies/boshihoken/funin-fuiku/support-handbook
- 厚生労働省科学研究費補助金(子ども・子育て支援推進調査研究事業). 我が国における男性不妊に対する検査・治療に関する調査研究報告書. 2017. Available from: https://www.urol.or.jp/lib/files/info/ministries/20170105_research_report.pdf
- 日本生殖医学会. 生殖医療ガイドライン2021. Available from: https://ginzarepro.jp/column/medicine_guidelines_2021/
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- 妊娠等に関する相談窓口(不妊・不育専門相談/男性不妊専門相談)について. 兵庫県. Available from: https://web.pref.hyogo.lg.jp/kf17/hw13_000000081.html
- 主催イベント イベント活動レポート. NPO法人Fine. Available from: https://j-fine.jp/activity/event/tokyo171022.html
- 男性不妊の治療、検査、相談なら「エス・セットクリニック」. Available from: https://sset-clinic.com/