「自慰行為は不妊につながるのではないか?」―これは、特に妊活(にんかつ)中の多くの男女が抱く、非常にデリケートで、しかし切実な悩みです。インターネット上には様々な情報が溢れていますが、その多くは科学的根拠に乏しく、かえって不安を煽るものも少なくありません。この記事では、JHO(JAPANESEHEALTH.ORG)編集委員会が、日本泌尿器科学会による最新の「男性不妊症診療ガイドライン 2024年版」12や国内外の信頼できる医学研究34に基づき、この問題の真相に迫ります。結論から言えば、自慰行為そのものが直接的に不妊を引き起こすという医学的証拠はありません。しかし、その「やり方」と「頻度」が、これまで見過ごされてきた重要な問題、すなわち「腟内射精障害(ちつないしゃせいしょうがい)」や「精子の質」に影響を及ぼす可能性があることが、専門家によって指摘されています。この記事が、あなたの正しい理解と、前向きな一歩を後押しできれば幸いです。
この記事の科学的根拠
この記事は、提供された研究報告書で明示的に引用されている、最高品質の医学的証拠にのみ基づいています。以下に示すリストには、実際に参照された情報源と、提示された医学的ガイダンスとの直接的な関連性のみが含まれています。
- 日本泌尿器科学会 (2024年版 男性不妊症診療ガイドライン): 本記事における、精索静脈瘤を含む男性不妊の医学的原因、診断、および治療に関する推奨事項の大部分は、日本泌尿器科学会が発行したこの最新の診療ガイドラインに基づいています12。
- 日本生殖医学会 (JSRM): 射精障害の治療法に関する記述は、日本生殖医学会が提供する公開情報に基づいています5。
- Santoso, F. A., et al. (2024) & Chen, H., et al. (2024): 射精の頻度と精子の質に関する推奨事項は、短い禁欲期間が精子の運動性改善とDNA断片化の減少に有益であることを示した、これらの最新の系統的レビューおよびメタアナリシスに基づいています34。
- こども家庭庁 & 厚生労働省: 日本における不妊治療の現状に関する統計データ(例:不妊を経験したカップルの割合)は、これらの政府機関の公式報告書に基づいています67。
要点まとめ
- 医学的に、自慰行為そのものが不妊の直接的な原因になるという証拠はありません。
- しかし、不適切な方法(強すぎる刺激など)での自慰行為は、パートナーとの性行為で射精できなくなる「腟内射精障害」を引き起こす可能性があります8。
- 最新の研究では、「長く禁欲するほど精子の質が良くなる」という考えは誤りで、むしろ2〜3日程度の短い禁欲期間の方が、精子の運動率が高くDNA損傷が少ないことが示唆されています34。
- 男性不妊の真の主な原因は「造精機能障害」であり、中でも治療可能な原因として最も多いのが「精索静脈瘤(せいさくじょうみゃくりゅう)」です19。
- 不妊の悩みは決して珍しいことではなく、日本では約4.4組に1組のカップルが不妊の検査や治療を経験しています6。専門家への相談が重要です。
結論から言うと:自慰行為そのものが不妊を引き起こすという医学的証拠はない
まず最も重要な点として、適度な自慰行為が直接的に精子の生産能力を枯渇させたり、生殖機能を恒久的に損なったりして不妊を引き起こす、という考えを裏付ける信頼できる医学的証拠は存在しません。精子は精巣で継続的に生産されており、自慰行為によって「使い果たされる」ことはありません。この点は、国内外の多くの専門機関で共通の見解です。
しかし、これは「自慰行為が妊活に全く無関係である」ということを意味するわけではありません。問題となるのは行為そのものではなく、その「方法」と「頻度」です。これらが間接的に妊娠の可能性に影響を与える可能性があり、特に二つの重要な側面、「腟内射精障害」と「精子の質」について科学的根拠に基づいた正しい知識を持つことが不可欠です。
男性不妊との最大の関連性:不適切な自慰習慣による「腟内射精障害」
自慰行為と不妊を結びつける上で、専門家が最も懸念しているのが「腟内射精障害」です。これは、自慰行為では問題なく射精できるにもかかわらず、パートナーとの性交渉の際に腟内で射精することが困難になる状態を指します810。結果として、タイミングを合わせた性交渉ができず、不妊につながるケースが実際に報告されています。
なぜ起こるのか?そのメカニズム
この障害が発生する主なメカニズムは、不適切な自慰習慣による「刺激のいき値の上昇」にあります。具体的には、手で強く握りしめたり、うつ伏せになって布団や床に性器をこすりつける(いわゆる「床オナ」)といった、極端に強い、あるいは非現実的な刺激に長期間慣れてしまうことが原因です11。人間の神経系は適応能力が高いため、このような強い刺激が「普通」であると脳が学習してしまいます。その結果、実際の性交渉における、より穏やかで自然な腟内からの刺激では、射精に至るための十分な興奮が得られなくなってしまうのです。
これは単なる仮説ではなく、臨床現場で確認されている問題です。日本の男性不妊外来を訪れる患者の中には、この腟内射精障害が性機能障害の主たる原因となっているケースが少なくないと報告されています1012。多くの男性が一人で悩みを抱えがちですが、これは治療可能な医学的状態であることを認識することが第一歩です。
これは治療可能か?専門医の見解
幸いなことに、この習慣性の腟内射精障害は改善が可能です。治療の基本は、射精のメカニズムを「再学習」することにあります。専門医は、まず刺激の強い自慰行為をやめ、潤滑剤などを使用しながら、できるだけ弱い刺激で射精する習慣に切り替える「自慰習慣の修正」を推奨します。
日本生殖医学会(JSRM)も、射精障害の治療法の一つとして、適切な自慰法への修正を挙げています5。場合によっては、射精の感覚を取り戻すための専用の器具を用いたり、カウンセリングを併用したりすることもあります。重要なのは、これが意志の弱さや愛情の問題ではなく、修正可能な習慣の問題であると理解し、必要であればためらわずに専門医に相談することです。
射精頻度と「精子の質」:最新科学が明らかにする最適な“間隔”
妊活において、もう一つよくある誤解が射精の頻度に関するものです。「精子を溜めておいた方が、濃くなって妊娠しやすくなる」という考えから、排卵日に向けて長期間禁欲するカップルがいますが、最新の科学はこの考えに疑問を呈しています。
古い常識:「長く禁欲するほど良い」は間違いだった
確かに、禁欲期間が長くなると、精液量や精子濃度(数)は増加する傾向にあります。しかし、精子の「数」と「質」は必ずしも比例しません。精巣で作られた精子は、精巣上体という場所で成熟しながら射精を待ちますが、この待機時間が長すぎると、精子は老化し始めます。老化した精子は、運動率が低下し、活性酸素による損傷を受けやすくなるため、精子の核であるDNAが断片化(損傷)する割合が高まります13。DNAが損傷した精子は、たとえ受精できたとしても、その後の胚の発育に悪影響を及ぼす可能性があります。
この点を裏付ける強力な証拠が、2024年に発表された系統的レビューとメタアナリシス(複数の研究データを統合して分析する、非常に信頼性の高い研究手法)です。この研究では、2日未満の短い禁欲期間が、3日以上の禁欲期間と比較して、精子の前進運動率を有意に改善し、精子DNA断片化率を著しく減少させることが結論づけられました3。また、同年に行われた別のメタアナリシスでも、特に不妊男性において、禁欲期間が短い方が(特に4日以内)、より良い結果をもたらすことが示唆されています4。
妊活に最適な射精頻度とは?
これらの最新の科学的証拠に基づくと、妊活中のカップルにとって最適な戦略は、「精子を溜め込む」のではなく、「常に新鮮な状態に保つ」ことと言えます。具体的には、2〜3日に1回程度の頻度で定期的に射精することが推奨されます。これにより、排卵期のどのタイミングであっても、運動性が高くDNA損傷の少ない、質の良い精子を供給できる可能性が高まります。
さらに、2023年の研究では、精液所見が不良な患者において、最初の射精から数時間という非常に短い間隔で2回目の射精を行うと、2回目の精液の方がDNA断片化率が低く、質の良い精子が得られる場合があることも報告されています14。これは、全てのカップルに当てはまるわけではありませんが、精子の質は常に一定ではなく、射精のタイミングによって変動しうることを示しています。
では、本当の不妊原因は何か?日本における男女別の主な医学的要因
自慰行為が直接の原因ではないとすれば、不妊の真の原因は何なのでしょうか。不妊は、女性側、男性側、あるいは双方に原因がある場合があり、包括的な検査が不可欠です。こども家庭庁の統計によれば、日本では約4.4組に1組のカップルが不妊の検査や治療を経験しており6、これは決して特別な問題ではありません。
男性側の主な原因(『男性不妊症診療ガイドライン2024年版』に基づく)
日本泌尿器科学会がまとめた最新のガイドライン12によると、男性不妊の原因の約半数は原因不明ですが、特定できる原因の中では以下のものが挙げられます。
1. 造精機能障害(精子をつくる能力の問題)
これは男性不妊の中で最も多い原因で、全体の80〜90%を占めるとされています15。精子をうまく作れない状態で、精子の数が少ない「乏精子症(ぼうせいししょう)」、運動率が低い「精子無力症(せいしむりょくしょう)」、あるいは奇形率が高い「奇形精子症(きけいせいししょう)」などが含まれます。
2. 最も見逃されがちな治療可能な原因:「精索静脈瘤」
精索静脈瘤(せいさくじょうみゃくりゅう)は、外科的に治療可能な男性不妊の最も一般的な原因であり、不妊に悩む男性の30〜40%に見られると報告されています9。これは、精巣の上にある静脈の集まり(静脈叢)がこぶのように拡張する状態で、血液が逆流・うっ滞することで精巣の温度が上昇し、酸化ストレスが増加します。これにより、精子を作る機能が障害され、精子の数、運動率、形態が悪化し、DNA損傷も引き起こされます。重要なのは、精索静脈瘤は専門医による触診や超音波ドップラー検査で比較的容易に診断でき、顕微鏡下での手術によって精液所見が劇的に改善する可能性があるという点です9。
女性側の主な原因
女性側の不妊原因も多岐にわたりますが、日本産科婦人科学会(JSOG)は主に以下の要因を挙げています16。
1. 加齢による卵子の質の低下
女性の妊孕性(にんようせい、妊娠する力)に最も大きな影響を与える要因です。卵子の数は生まれた時から決まっており、年齢とともに減少し、質も低下していきます。特に35歳を過ぎると、その低下は顕著になります。
2. 排卵障害と3. 卵管・子宮の問題
月経不順や無月経を引き起こす多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)などの排卵障害や、子宮内膜症、子宮筋腫、過去のクラミジア感染などによる卵管の閉塞や癒着も、不妊の重要な原因となります。
専門家からの提言:将来のために、今できること
「不妊症の原因検索は、男女同時に開始することが極めて重要です。特に男性側では、精索静脈瘤のような治療可能な原因を見逃さないために、泌尿器科専門医による初期段階からの診察が強く推奨されます。」 – これは、順天堂大学の辻村晃教授17が中心となって編纂された「男性不妊症診療ガイドライン 2024年版」12をはじめとする、日本の主要な医学的指針に共通する考え方です。
これらの科学的根拠に基づき、妊活中のカップル、特に男性が今すぐ実践できる具体的な行動を以下に示します。
- 自慰習慣の見直し: もし強い刺激での自慰が習慣になっている場合、より穏やかな刺激で射精できるように意識的に習慣を修正しましょう。
- 射精頻度の最適化: 「溜め込む」のではなく、2〜3日に1回のペースで定期的に射精し、常に新鮮で質の高い精子を維持することを心掛けましょう。
- 精索静脈瘤のセルフチェック: 入浴中など、体が温まっている時に陰嚢を触ってみて、スパゲッティやうどんのようなブヨブヨした塊がないか確認してみてください。少しでも違和感があれば専門医に相談しましょう9。
- ライフスタイルの改善: 禁煙、節度ある飲酒、バランスの取れた食事、適度な運動、十分な睡眠は、精子の質を含む全体的な健康状態を改善する上で基本となります。
- カップルでの受診: 避妊せずに定期的な性交渉を1年間(女性が35歳以上の場合は半年間)続けても妊娠しない場合は、ためらわずにカップルで専門の医療機関を受診してください。日本では2022年4月から、人工授精などの一般不妊治療や体外受精・顕微授精などの生殖補助医療の多くが公的医療保険の適用対象となり、経済的負担が軽減されています18。
よくある質問
Q1: 自慰行為をやりすぎると、精液が「枯渇」することはありませんか?
A: いいえ、精子は精巣で毎日、継続的に作られているため、「枯渇」することはありません。ただし、1日に何回も射精するなど、極端に頻度が高い場合は、一時的に1回あたりの精液量や精子数が減少することはありますが、体はすぐに新しい精子を生産するため、長期的な問題にはなりません。
Q2: 男性の不妊について心配な場合、何科を受診すればよいですか?
A: 最適な選択肢は、「泌尿器科(ひにょうきか)」、特に「男性不妊外来」を標榜している医療機関です。これらの専門医は、精液検査や超音波検査など、男性不妊の原因を特定するために必要な専門知識と技術を持っています。女性は「産婦人科」を受診しますが、多くの不妊治療専門クリニックでは、男女両方の検査・治療を同時に進めることが可能です。
Q3: 妊活中にサプリメントを摂取することは有効ですか?
結論
自慰行為が不妊の直接的な原因であるという通説は、科学的根拠に乏しいものです。しかし、現代の医学は、その行為の「方法」が腟内射精障害という具体的な機能不全に、そして「頻度」が精子のDNA品質という微細なレベルにまで影響を及ぼしうることを明らかにしています。不妊という課題に直面したとき、重要なのは根拠のない情報に惑わされることなく、最新の科学に基づいた正しい知識を身につけることです。男性不妊の真の原因は多岐にわたり、その多くは専門医による診断と治療によって改善の道が開かれます。特に、治療可能な原因として最も一般的な精索静脈瘤を見逃さないことが重要です。日本の公的医療保険制度も拡充され、専門家へのアクセスは以前より容易になっています。この記事が、あなたが抱える不安を解消し、パートナーと共に前向きな一歩を踏み出すための、信頼できる羅針盤となることを心から願っています。
参考文献
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- 男性不妊症診療ガイドライン 2024年版. [インターネット]. 日本泌尿器科学会. 2024 [引用日: 2025年7月19日]. ISBN: 978-4-7792-2789-9. Available from: https://med.m-review.co.jp/merebo/products/detail/978-4-7792-2789-9
- Santoso FA, et al. Impact of Shorter Abstinence Periods on Semen Parameters: A Systematic Review and Meta-Analysis. World J Mens Health. 2024;PMID: 39434390. [インターネット]. [引用日: 2025年7月19日]. Available from: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/39434390/
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