この記事の科学的根拠
この記事は、提供された研究報告書に明示的に引用されている最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下に示すリストは、参照された情報源とその医学的指導との直接的な関連性を示したものです。
- 米国医師会(AAFP)および関連医学文献: 本記事におけるHHSの死亡率(5%~20%)、感染症が最も一般的な誘因であること(40%~60%)、治療における補液、インスリン療法、電解質補正の重要性に関する指針は、これらの機関の出版物に基づいています3。
- Endotext (NCBI Bookshelf): HHSの病態生理における相対的インスリン欠乏と拮抗ホルモンの役割、浸透圧利尿による悪循環の機序、そしてケトアシドーシスが顕著でない理由についての詳細な解説は、この専門的な医学文献を根拠としています4。
- 日本糖尿病学会(JDS): 日本における診断基準や治療アプローチ、特に有効浸透圧の計算式($2 \times \text{Na}^+ + \text{Glucose} / 18$)やシックデイルールに関する指針は、日本糖尿病学会の公式ガイドラインに基づいています5。
- BMJ Best Practice: HHSがDKAとは異なり、全ての患者が昏睡に至るわけではないという現代的な定義や、意識障害の程度が血清浸透圧(特に340 mOsm/kgを超える場合)と相関するという知見は、この国際的な臨床実践ガイドラインに基づいています2。
- 厚生労働省: 日本における糖尿病患者数の統計データ(2020年時点で治療を受けている患者が579万人)や、国民の健康目標に関する情報は、厚生労働省の公式発表に基づいています67。
要点まとめ
- HHSは、著しい高血糖(600 mg/dL以上)、高浸透圧(320 mOsm/kg以上)、重度の脱水を特徴とする、生命を脅かす糖尿病の急性合併症です。
- 死亡率は5%から20%にも達し、同じ急性合併症である糖尿病ケトアシドーシス(DKA)の約10倍と非常に高いです34。
- 主な原因は感染症(肺炎、尿路感染症など)であり、高齢の2型糖尿病患者に最も多く見られます3。
- 最も特徴的な症状は、錯乱、嗜眠、昏睡といった意識障害であり、脳細胞の脱水によって引き起こされます。これらの症状は脳卒中と誤診されることがあります1。
- 治療の最優先事項は、生理食塩液による迅速かつ大量の水分補給(補液)です。インスリン投与は、補液開始後、慎重に行う必要があります5。
- 予防には、「シックデイルール」(病気の日の心得)の遵守、十分な水分摂取、そして血糖値の自己管理が不可欠です8。
HHSとDKAの決定的違い:なぜHHSはより危険なのか?
臨床現場では、HHSと糖尿病ケトアシドーシス(DKA)は、高血糖緊急症のスペクトラムの両極端に位置づけられています2。実際、患者の約3分の1は両方の特徴を併せ持つ混合状態(HHS-DKA)で受診するという報告もあります2。しかし、この二つの病態には、致死率を大きく左右する根本的な違いが存在します。
その核心的な違いは、体内に残存するインスリンの量にあります。
- HHS: 相対的なインスリン欠乏によって引き起こされます。体内にはまだ少量のインスリンが存在し、この微量なインスリンが脂肪の分解(脂肪融解)を抑制し、ケトン体の大規模な産生を防ぎます。そのため、重篤な血液の酸性化(アシドーシス)は起こりません。しかし、このインスリン量では血糖値を制御するには不十分なため、血糖値は危険なレベルまで上昇し続けます4。
- DKA: 絶対的なインスリン欠乏によって引き起こされます。インスリンがほぼ枯渇しているため、脂肪分解が野放しになり、大量の脂肪酸が放出されます。肝臓はこれをケトン体(アセト酢酸、β-ヒドロキシ酪酸)に変換し、血液が酸性に傾く代謝性アシドーシスを引き起こします9。
この生理学的な違いが、臨床症状の大きな差となって現れます。DKAでは、アシドーシスによって腹痛、嘔吐、特徴的な深く速い呼吸(クスマウル呼吸)といった派手な症状が早期に出現します。これらの警告サインにより、患者や家族は比較的早く医療機関を受診する傾向があります。一方、HHSは症状の発現が緩やかで「静か」です10。初期症状は倦怠感や軽い錯乱など非特異的で、特に高齢者では加齢による変化と見過ごされがちです11。この「沈黙の進行」により、診断されるまでに極度の脱水と高浸透圧状態が進行し、多臓器に深刻なダメージを与えます。これが、HHSがDKAよりも致死率が高い主要な理由の一つです。
日本におけるHHSのリスク:高齢化社会がもたらす課題
日本は、HHSのリスクが特に高い社会構造的要因を抱えています。その背景には、世界でも類を見ない速さで進行する高齢化と、それに伴う糖尿病患者の増加があります。
国内の糖尿病有病率の現状
厚生労働省の2020年のデータによると、日本で糖尿病治療を受けている患者の総数は579万人に上ります6。このうち、約370万人が2型糖尿病と診断されています7。特に注目すべきは、性別と年齢による顕著な差です。
- 性別差: 2022年の調査では、「糖尿病が強く疑われる者」の割合は男性が18.1%に対し、女性は9.1%と、男性が女性の約2倍高いことが示されています12。
- 年齢との関連: 疾患リスクは加齢とともに急激に上昇し、70歳以上の年齢層では男性の27%、女性の15.8%が糖尿病のリスクが高いグループに分類されています12。
年間医療費が約1.2兆円に達することからも6、糖尿病が日本の医療制度と社会に与える負担の大きさがうかがえます。
特に注意すべき高リスク群
日本の社会背景を考慮すると、以下の集団はHHS発症のリスクが特に高いと言えます。
- 高齢者: HHSは主に高齢の2型糖尿病患者に発症するため11、高齢者人口の多い日本はHHSが起こりやすい環境にあります。高齢者は喉の渇きを感じにくくなるため(口渇感の鈍化)、脱水に陥りやすい傾向があります。また、倦怠感や錯乱といったHHSの初期症状を自覚しにくく、複数の併存疾患がリスクをさらに高めます11。
- 男性: 糖尿病の有病率が女性より著しく高いため、日本の男性は必然的にHHSを含む合併症のリスクが高い集団となります12。
- 健康意識と地域格差: 青森県での調査では、多くの患者が重症化してから治療を開始し、結果として同県の糖尿病による死亡率が全国で最も高いという警鐘が鳴らされています13。これは、HHSの典型的なシナリオである発見の遅れがもたらす危険性を示唆しており、健康意識や医療アクセスにおける地域格差の問題を浮き彫りにしています。
HHSの臨床的特徴(高齢者に多く、初期症状が不明瞭)と、日本の人口動態(急速な高齢化、独居高齢者の増加)が組み合わさることで、HHSが見過ごされる危険性が非常に高い「完璧な嵐」とも言える状況が生まれています。
病態の核心:HHSに至る体内の連鎖反応
HHSの病態生理は、体内で起こる一連の悪循環によって成り立っています。
相対的インスリン欠乏と拮抗ホルモンの暴走
HHSの引き金となるのは、相対的なインスリン欠乏と、グルカゴン、コルチゾール、カテコールアミンなどのインスリン拮抗ホルモンの急増です3。通常、感染症などの急性の身体的ストレスがこれら拮抗ホルモンの放出を誘発します4。これらのホルモンは、肝臓での糖新生とグリコーゲン分解を促進して血糖産生を増加させると同時に、筋肉や脂肪組織での糖の取り込みを阻害します。この二重の作用により、血糖値は制御不能なレベルまで急上昇します3。
悪循環のメカニズム:浸透圧利尿と脱水
血中のブドウ糖濃度が腎臓の再吸収能力の閾値(通常180-200 mg/dL)を超えると、ブドウ糖は尿中に排出され始めます。ブドウ糖は浸透圧物質であるため、その際に大量の水と電解質を体外へ引きずり出します。これが浸透圧利尿です3。
このプロセスにより、極めて深刻な脱水状態が生じます。HHS患者における体液の欠乏量は平均で約9リットル、体重1kgあたり100-200 mLにも達すると推定されています3。一部の報告では、欠乏量が10リットルを超えることさえあるとされています1。
重度の脱水は、危険な悪循環を生み出します。脱水は循環血液量を減少させ、腎臓への血流低下と糸球体濾過率(GFR)の低下を招きます。GFRが低下すると、腎臓のブドウ糖排泄能力も低下し、結果として血糖値がさらに上昇します。これが浸透圧をさらに高め、浸透圧利尿を悪化させるというサイクルです14。この悪循環こそが、HHSにおける極度の高血糖と高浸透圧状態の主因です。さらに、重度の脱水は血液の粘稠度を高め、血栓形成のリスクを増大させます3。
HHSの引き金:主な原因とリスク因子
HHSは自然に発生するものではなく、通常、何らかの急性の身体的ストレスによって誘発されます。この誘因を特定し治療することが、管理の重要な一部です。
1. 感染症(最も一般的な原因)
感染症は、HHSの最も一般的かつ重要な誘因です。研究によれば、全症例の40%から60%を占めると報告されています4。特に多いのは以下のものです:
- 肺炎: 最も頻度の高い原因の一つです。
- 尿路感染症(UTI): 特に高齢者で非常に一般的です。
- 敗血症: 全身性の重篤な感染症です。
感染症は体内で強力なストレス反応を引き起こし、インスリン拮抗ホルモンを大量に放出させ、インスリン抵抗性を悪化させて高血糖を引き起こし、最終的にHHSに至ります4。
2. 不適切な糖尿病管理
糖尿病の管理が不十分であることも、重要な原因となります。
- 治療の中断: 患者が自己判断でインスリンや経口血糖降下薬の使用を中止・忘却することが、HHS症例の約21%を占める一般的な誘因です3。
- 未診断の糖尿病: HHSが糖尿病の最初の症状として現れるケースも少なくありません。これらの患者は、HHSで救急搬送されて初めて自分が糖尿病であることを知ります15。
3. 急性の併存疾患
その他の深刻な身体的ストレスもHHSの引き金となり得ます。
- 心筋梗塞
- 脳血管障害(脳卒中)
- 急性膵炎
- 肺塞栓症
- 重度の外傷や大手術2
4. 薬剤の影響
特定の薬剤は血糖値を上昇させたり、脱水を引き起こしたりすることで、HHSのリスクを高める可能性があります。患者の服薬歴の確認は極めて重要です。
- コルチコステロイド: 強力な血糖上昇作用で知られています。
- 利尿薬: 特にサイアザイド系利尿薬は、脱水を助長し、血糖値を上昇させる可能性があります。
- β遮断薬
- 一部の第二世代抗精神病薬
- SGLT-2阻害薬: 比較的新しい糖尿病治療薬ですが、尿中への糖排泄を促進する作用機序のため、脱水リスクを高める可能性があります。患者への十分な水分摂取の指導が不可欠です3。
- 中心静脈栄養(TPN): 高濃度の糖液の投与もリスク因子として知られています2。
警告サインを見逃さない:HHSの症状と臨床所見
HHSの症状は、DKAの急激な発症とは対照的に、数日から数週間かけてゆっくりと進行します。この潜行性の進行が、診断の遅れにつながる一因です。
1. 高血糖と脱水の典型的な症状
初期症状はしばしば非特異的で、進行中の高血糖と脱水を反映しています。
- 多飲(Polydipsia): 失われた水分を補おうとする体の反応。
- 多尿(Polyuria): 浸透圧利尿によるもの。
- 倦怠感と脱力感: 脱水と、エネルギー源としてブドウ糖を利用できないことによる。
- 意図しない体重減少: 脱水と異化作用による。
- 口腔乾燥、皮膚乾燥11。
特に高齢者では、脳の口渇中枢の機能が低下しているため、重度の脱水状態にあっても喉の渇きを感じないことがある点に注意が必要です。これらの症状は加齢や他の疾患の兆候と誤解されやすいです11。
2. 重度脱水の臨床所見
脱水が深刻化すると、身体診察でより明確な兆候が認められます。
- 皮膚ツルゴールの低下: 皮膚をつまんだ後、元に戻るのが遅い。
- 粘膜の乾燥: 口や舌が乾いている。
- 眼球の陥凹。
- 四肢冷感。
- 頻脈: 循環血液量の減少を補うための心臓の代償反応。
- 起立性低血圧:臥位から座位・立位への体位変換時に血圧が急激に低下する。
- 低血圧: 最重症例では、臥位でも血圧が低く、循環血液量減少性ショックの兆候です3。
3. 神経症状(HHSの最も特徴的なサイン)
これは最も顕著な症状群であり、患者が入院を余儀なくされる主な理由です。中枢神経機能の低下は、血清浸透圧の上昇と脳細胞の脱水の直接的な結果です。神経障害の重症度は、通常、浸透圧の上昇レベルと直接相関します2。
糖尿病患者、特に高齢者におけるいかなる精神状態の変化も、HHSが否定されるまでは救急事態と見なすべきです。
神経症状の範囲は非常に広く、以下を含みます:
- 錯乱、見当識障害、ろれつが回らない。
- 嗜眠(Lethargy)、無気力1。
- 昏睡(Coma): 通常、血清浸透圧が340 mOsm/kgを超えると発生します2。
- 痙攣: 患者の約25%で発生し、全身性または局所性(体の一部に限定)の場合があります1。
- 巣症状: 片麻痺など、脳卒中を模倣する局所的な神経症状。これらの症状は、代謝状態が是正されると完全に回復することが多いです1。
特に片麻痺のような巣症状は、脳卒中との深刻な診断上の混乱を引き起こす可能性があります16。これは適切な治療の遅れにつながりかねません。逆に、脳卒中自体がHHSの誘因となることもあります8。したがって、急性の神経症状を呈する全ての患者に対して、迅速な血糖測定が鑑別診断に不可欠です。
診断の確定:臨床的および検査基準
HHSの診断は、病歴、臨床診察、そして特異的な検査結果の組み合わせに基づきます。
初期に行うべき検査
HHSが疑われる場合、診断を確定し重症度を評価するために、以下の検査を緊急に実施する必要があります。
- 毛細血管血糖測定: ベッドサイドでの迅速なスクリーニング検査。
- 静脈血検査:
- 血漿血糖値
- 電解質(Na+, K+, Cl-, HCO3-)
- 腎機能(BUN, クレアチニン)
- 血漿浸透圧(実測または計算)
- 血中ケトン体(β-ヒドロキシ酪酸)
- 動脈血(または静脈血)ガス分析:pHと重炭酸イオン濃度を評価するため。
- 尿検査: 尿中ケトン体と感染の兆候を確認するため。
- 誘因を特定するための追加検査:
- 全血球計算(感染の兆候を探す)
- 心電図(心筋梗塞の除外とカリウム異常の影響を監視)
- 胸部X線(肺炎を探す)
- 感染が疑われる場合は血液・尿培養1
診断のための定量的基準
日本糖尿病学会(JDS)や米国糖尿病協会(ADA)などの国際機関のガイドラインは、主要な診断基準において高いコンセンサスを示しています。
- 血糖値: 著しい高値。通常、600 mg/dL (33.3 mmol/L) 以上と定義されます2。
- 有効血清浸透圧: 高値。通常、320 mOsm/kg 以上です2。JDSなどが推奨する計算式は以下の通りです:
$$ \text{有効浸透圧 (mOsm/kg)} = 2 \times \text{Na}^+ (\text{mEq/L}) + \frac{\text{ブドウ糖 (mg/dL)}}{18} $$
5ここで重要な注意点は、測定された血清ナトリウム(Na+)値は、極度の高血糖による希釈効果のために偽性低ナトリウム血症を示すことがあるということです。したがって、脱水の程度を正確に評価し、適切な輸液を選択するために「補正ナトリウム値」を計算する必要があります。一般的に使用される式は、補正Na = 測定Na + 1.6 × [(ブドウ糖 – 100) / 100] です1。 - 酸塩基平衡: 顕著な代謝性アシドーシスは認められません。
- ケトン体: 血中または尿中のケトン体は通常、陰性または軽度陽性(「痕跡」程度)です3。
表1: HHSとDKAの診断基準比較
基準 | 高浸透圧高血糖状態(HHS) | 糖尿病ケトアシドーシス(DKA) | 参照元 |
---|---|---|---|
血漿血糖値 | >600 mg/dL (33.3 mmol/L) | >250 mg/dL (13.9 mmol/L) | 3 |
動脈血pH | >7.30 | <7.30 (重症度により低下) | 3 |
血清重炭酸イオン | >15−18 mEq/L | <18 mEq/L (重症度により低下) | 3 |
尿・血清ケトン体 | 陰性または痕跡 | 強陽性 | 3 |
有効浸透圧 | >320 mOsm/kg | 変動 | 3 |
アニオンギャップ | 変動 (通常 <12) | 高値 (>10−12) | 3 |
神経症状 | 非常に一般的、重篤(錯乱、昏睡) | 見られることもあるが、顕著ではない | 1 |
好発対象 | 高齢者、2型糖尿病 | 若年者、1型糖尿病(2型でも発症) | 4 |
救急治療のステップバイステップ解説
HHSの治療は、迅速かつ体系的なアプローチを要する救急医療です。治療計画は(1)積極的な静脈内輸液、(2)慎重なインスリン療法、(3)電解質異常の補正、(4)誘発因子の診断と治療、という4つの柱に基づいています。
1. 静脈内輸液(最優先事項)
これは最も重要な介入であり、検査結果が全て揃う前であっても直ちに開始しなければなりません。
- 目標: 血管内体積を回復させて血行動態を安定させ、重要臓器(特に腎臓)への灌流を改善し、血糖値と浸透圧を安全に漸減させること5。
- 初期対応: 直ちに0.9%生理食塩水の投与を開始します。最初の1〜2時間の投与速度は通常500〜1000 mL/時ですが、患者の血行動態や心不全などの併存疾患に応じて調整します1。
- 輸液の調整: 初期の蘇生段階の後、輸液の種類は補正血清ナトリウム値に基づいて決定されます。
- ブドウ糖の追加: 血糖値が約250〜300 mg/dLに低下したら、輸液に5%ブドウ糖を追加する必要があります(例:D5-0.45%食塩水)。これは、インスリン作用による低血糖を防ぐと同時に、浸透圧の急激な低下を防ぎ、脳浮腫のリスクを低減するために極めて重要です1。
- 注意点: バイタルサイン、尿量、そして呼吸困難や肺の湿性ラ音といった体液過剰の兆候を厳密に監視する必要があります。血清浸透圧の低下速度は、危険な脳浮腫を予防するために、1時間あたり3 mOsm/kgを超えないようにすべきです3。
2. インスリン療法(慎重かつ管理下で)
高血糖が特徴ですが、HHSにおけるインスリンの使用は細心の注意を払って行われなければなりません。
- 開始時期: インスリンは決して輸液補充の前に開始してはなりません。重度の脱水状態で早期にインスリンを使用すると、水分とカリウムが急激に細胞内に移動し、循環虚脱や生命を脅かす低カリウム血症を引き起こす可能性があります。多くのガイドラインでは、少なくとも1〜2時間の輸液後、または輸液のみによる血糖降下速度が緩やかになった後(50-75 mg/dL/時未満)にインスリンを開始することを推奨しています17。
- 投与量: HHSでのインスリン投与量は、アシドーシスの是正が主目的ではないため、通常DKAよりも低く設定されます。
- 目標: 血糖値を1時間あたり50〜75 mg/dLの速度で、緩やかかつ安定して低下させること19。血糖値の急激な低下は、浸透圧の急変を招き、脳浮腫のリスクを高めます。
- 調整: 血糖値が250〜300 mg/dLに低下したら、インスリンの投与量を0.02〜0.05ユニット/kg/時に減量します。目標は、患者の意識が完全に回復し、高浸透圧状態が解消されるまで、血糖値を200〜300 mg/dLの範囲で維持することです1。
3. 電解質異常の補正(特にカリウム)
これは極めて重要であり、管理を誤ると生命に関わります。
- カリウム(K+): HHS患者は、浸透圧利尿による尿中への喪失のため、常に重篤な全身のカリウム欠乏状態にあります。しかし、カリウムが細胞内から細胞外へ移動するため、初期の血中カリウム値は正常、あるいは高値を示すことがあります。
- 黄金律: 血中カリウム値が3.3 mEq/L未満の場合は、決してインスリンを開始してはなりません。この場合はインスリンを延期し、カリウムの補充を優先する必要があります1。
- インスリン投与を開始すると、カリウムは急速に細胞内に戻り、突然の重篤な低カリウム血症を引き起こし、不整脈や心停止に至る可能性があります。
- したがって、患者の尿量が確保され、血中カリウム値が高すぎないことが確認でき次第、輸液にカリウムを補充する必要があります。通常の投与量は、輸液1リットルあたり20〜30 mEqのカリウムで、血中カリウム値を安全な範囲である4.0〜5.0 mEq/Lに維持することを目指します1。救急段階では2〜4時間ごとに電解質のモニタリングが必要です5。
4. 根本原因の治療
誘発因子を積極的に特定し治療することが、成功裡な治療と再発防止に不可欠です3。感染が疑われる場合は、培養結果を待つ間に、広域スペクトラムの抗生物質を直ちに開始する必要があります3。
表2: HHS救急治療プロトコルの要約
治療の柱 | 目標 | 主要なアクション | モニタリング項目 | 参照元 |
---|---|---|---|---|
1. 輸液 | 循環血液量の回復、浸透圧の漸減 | – 0.9% NaCl 1L/時を最初の1-2時間。- その後、補正Naに基づき0.45%または0.9% NaCl。- 血糖 ~250-300 mg/dLでD5Wを追加。 | – 血圧、心拍数、尿量。- 意識状態。- 体液過剰の兆候。- 浸透圧 (低下 <3 mOsm/kg/時)。 | 1 |
2. インスリン | 血糖値の緩やかな低下、低血糖の回避 | – 輸液補充後に開始。- IV 0.05-0.1 ユニット/kg/時で持続投与。- 血糖 ~250-300 mg/dLで減量。 | – 毎時の毛細血管血糖値。- 血糖低下速度 (目標 50-75 mg/dL/時)。 | 1 |
3. 電解質 | カリウムを安全域に維持、不整脈の予防 | – インスリン開始前にK+をチェック。- 輸液1Lあたり20-30 mEqのK+を補充。- K+を4.0-5.0 mEq/Lに維持。 | – 2-4時間毎の電解質。- 持続的な心電図モニタリング。 | 1 |
4. 診断 | 誘発因子の特定と治療 | – 血液・尿培養。- 胸部X線、心電図。- 感染疑いがあれば抗生剤開始。 | – 治療への反応 (発熱、白血球)。 | 2 |
潜在的な合併症と予後
迅速な治療は救命につながりますが、HHSは病態そのものと治療過程の両方から、多くの危険な合併症を引き起こす可能性があります。
- 血栓塞栓症: これはHHSの最も恐ろしく、一般的な合併症です。重度の脱水、血液粘稠度の上昇、全身性の炎症状態が過凝固状態を作り出し、深部静脈血栓症(DVT)、肺塞栓症(PE)、心筋梗塞、脳卒中などのリスクを著しく高めます3。
- 脳浮腫: 成人では子供ほど頻繁ではありませんが、脳浮腫は発生しうる致死的な合併症です。浸透圧と血糖値が急速に是正されすぎるとリスクが高まります。これが、輸液とインスリン投与を緩やかかつ管理下で行う必要がある理由です3。
- 横紋筋融解症: 極度の高浸透圧状態が筋細胞を損傷・融解させ、ミオグロビンを血中に放出し、急性腎不全を引き起こす可能性があります3。
- その他の合併症: 循環血液量減少による急性腎不全や、治療過程での体液過剰による急性呼吸窮迫症候群(ARDS)などがあります。
HHSの予後は、年齢、入院時の脱水・高浸透圧の程度、低血圧の有無、意識障害の深さ(昏睡)、そして敗血症や多臓器不全などの重篤な基礎疾患の存在といった多くの要因に左右されます3。
予防と長期管理:患者と家族のためのエンパワーメント
HHSの予防は、発症してしまった状態を治療するよりもはるかに効果的です。予防の中心は、特に体調を崩しやすい状況での糖尿病管理方法について、患者と家族を教育することにあります。
シックデイルール(病気の日の心得)
これは全ての糖尿病患者が知っておくべき重要な指針です。風邪や感染症などで体調を崩すと、たとえ食事ができなくても、ストレスホルモンの影響で血糖値は上昇します。
- 医師の指示がない限り、決して自己判断でインスリンや経口血糖降下薬を中止しない。
- 血糖値をより頻繁に(例:4〜6時間ごとに)測定する。
- 脱水を防ぐために、水やお茶などの無糖の水分を十分に摂取する。
- 血糖値が高い場合は、尿中ケトン体をチェックする。
- 食事ができない、嘔吐が続く、または血糖値が非常に高いままである場合は、直ちに医療機関に連絡する8。
十分な水分摂取の重要性
脱水はHHSの中心的な要因です。患者、特に高齢者は、毎日十分な水分(約1.5〜2リットル)を摂取するよう奨励され、発熱、下痢、嘔吐がある場合は水分補給を強化する必要があります8。
治療遵守と自己モニタリング
処方された薬剤の遵守と家庭での血糖自己測定は、深刻な血糖変動を防ぐための基盤です20。
警告サインの認識
患者と家族は、HHSの早期警告サイン、特に精神状態の変化、異常な倦怠感、激しい喉の渇きについて教育を受ける必要があります。これらの兆候が現れた場合は、直ちに医療機関に連絡することが重要です。
日本国内の専門リソースとガイダンス
HHSの診断と治療を最高レベルで実施するためには、信頼できる専門的な医療リソースにアクセスすることが極めて重要です。
- 専門学会の役割: 日本糖尿病学会(JDS)のような組織は、診療ガイドラインの策定、専門医の育成、そして全国の医師への最新医学知識の提供において中心的な役割を担っています521。JDSのガイドラインは、日本におけるHHS管理の信頼できる基準です。
- 専門医療センターの重要性: HHSの治療には、多専門分野の医療チームと集中治療室(ICU)などの高度な監視設備が必要です。したがって、患者は大規模な病院や経験豊富な専門医療センターで治療を受けるべきです。国立国際医療研究センター(NCGM)のような施設は、同センターの糖尿病研究センター長である植木浩二博士のような第一線の専門家を擁し、複雑な内分泌疾患を管理する高い能力を持っています2223。
- 専門医を探す: 患者や家族は、かかりつけ医からの紹介や医療情報システムを通じて、糖尿病・内分泌専門医を探すことができます24。経験豊富な専門家によるケアは、個別の治療計画の最適化と、将来の効果的な再発予防計画の策定を確実にします。
結論
高浸透圧高血糖状態(HHS)は、極めて高い死亡率を伴う、見過ごされがちな糖尿病の急性合併症です。その進行は緩やかで症状が非特異的であるため、特に高齢者においては診断が遅れがちです。しかし、その病態生理と危険因子を深く理解することで、効果的な予防と迅速な治療が可能となります。治療の成功の鍵は、最優先事項である積極的な水分補給、その後の慎重なインスリン投与、そして厳密な電解質管理という、体系的かつ段階的なアプローチにあります。同時に、肺炎などの誘因となる感染症の特定と治療も不可欠です。究極的には、患者様自身とご家族が「シックデイルール」を遵守し、日々の自己管理を徹底することが、この深刻な状態を未然に防ぐための最も強力な手段となります。HHSは恐ろしい合併症ですが、正しい知識と行動によって、そのリスクは大幅に低減できるのです。
よくある質問
HHSとDKAの最も大きな違いは何ですか?
最も大きな違いは、血液の酸性度(アシドーシス)とケトン体の有無です。HHSでは、体内に微量のインスリンが残っているため、ケトン体の産生が抑制され、重篤なアシドーシスは起こりません。一方、DKAではインスリンがほぼ完全に欠乏しているため、大量のケトン体が産生され、血液が酸性に傾きます。この違いにより、DKAは腹痛や嘔吐といった派手な症状を早期に示しますが、HHSは症状が緩やかで診断が遅れがちになります4。
なぜHHSは高齢の2型糖尿病患者に多いのですか?
高齢者は、喉の渇きを感じる能力が低下しているため、脱水になりやすい傾向があります。また、複数の持病を抱えていたり、利尿薬などのHHSのリスクを高める薬剤を服用していることが多いです。さらに、HHSの初期症状である倦怠感や軽い錯乱が、加齢による変化と誤解されやすいため、発見が遅れることが一因です11。
病気になった時(シックデイ)、インスリンや薬を止めても良いですか?
絶対に自己判断で中止してはいけません。病気の時は、食事量が減ってもストレスホルモンの影響で血糖値は上昇しやすくなります。インスリンや薬を中断すると、血糖値が危険なレベルまで上昇し、HHSやDKAを引き起こす可能性があります。必ず医師の指示に従い、水分を十分に摂取し、血糖値を頻繁に測定することが重要です。これが「シックデイルール」の基本です8。
HHSの治療で最も重要なことは何ですか?
参考文献
- 高浸透圧性高血糖状態(HHS) – 10. 内分泌疾患と代謝性疾患 – MSDマニュアル プロフェッショナル版. Available from: https://www.msdmanuals.com/ja-jp/professional/10-%E5%86%85%E5%88%86%E6%B3%8C%E7%96%BE%E6%82%A3%E3%81%A8%E4%BB%A3%E8%AC%9D%E6%80%A7%E7%96%BE%E6%82%A3/%E7%B3%96%E5%B0%BF%E7%97%85%E3%81%A8%E7%B3%96%E4%BB%A3%E8%AC%9D%E7%95%B0%E5%B8%B8%E7%97%87/%E9%AB%98%E6%B5%B8%E9%80%8F%E5%9C%A7%E6%80%A7%E9%AB%98%E8%A1%80%E7%B3%96%E7%8A%B6%E6%85%8B-hhs
- Hyperosmolar hyperglycemic state – Symptoms, diagnosis and treatment – BMJ Best Practice. Available from: https://bestpractice.bmj.com/topics/en-us/1011?locale=fa
- Stoner GD. Hyperosmolar Hyperglycemic State. Am Fam Physician. 2017 Dec 1;96(11):729-736. Available from: https://www.aafp.org/pubs/afp/issues/2017/1201/p729.html
- Kitabchi AE, Umpierrez GE, Murphy MB, et al. Hyperglycemic Crises in Adult Patients With Diabetes. Diabetes Care. 2006 Jul;29(12):2739-48. In: Endotext [Internet]. South Dartmouth (MA): MDText.com, Inc.; 2000-. Available from: https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK279052/
- 日本糖尿病学会. 20章 糖尿病における急性代謝失調・シックデイ. 糖尿病治療ガイド2024-2025. 2024. Available from: https://www.jds.or.jp/uploads/files/publications/gl2024/20.pdf
- 生活習慣病の調査・統計. 糖尿病 | 生活習慣病オンライン. Available from: https://seikatsusyukanbyo.com/statistics/disease/diabetes/
- 厚生労働省. 令和2年(2020)「患者調査の概況」. Available from: https://seikatsusyukanbyo.com/statistics/2024/010775.php
- 日本糖尿病学会. 糖尿病合併症について. Available from: https://www.jds.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=3
- Umpierrez GE, Kitabchi AE. Hyperglycemic Crises in Adult Patients With Diabetes. Diabetes Care. 2009 Jul;32(7):1335-43. doi: 10.2337/dc09-9029. Available from: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC2699725/
- Scott A, Claydon A, Gaskill N, et al. Management of Hyperosmolar Hyperglycaemic State (HHS) in Adults: An updated guideline from the Joint British Diabetes Societies (JBDS) for Inpatient Care Group. Diabet Med. 2023 Apr;40(4):e15024. doi: 10.1111/dme.15024. Available from: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10107355/
- 済生会. 高浸透圧高血糖症候群. Available from: https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/hyperosmolar_hyperglycemic_syndrome/
- オアシス医科学事業団. 【最新版】日本人の糖尿病の割合は?男女別、年齢別の割合も公表. Available from: https://oasismedical.or.jp/column/diabetes-rate
- 糖尿病ネットワーク. 糖尿病の最新全国ランキング ベストは神奈川県 ワーストは青森県. 2019. Available from: https://dm-net.co.jp/calendar/2019/029466.php
- Pasquel FJ, Umpierrez GE. Hyperosmolar hyperglycemic state: a historic review of the clinical presentation, diagnosis, and treatment. World J Diabetes. 2014 Oct 15;5(5):590-9. doi: 10.4239/wjd.v5.i5.590. Available from: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4207202/
- Gæde M, Oellgaard J, et al. Incidence and Characteristics of the Hyperosmolar Hyperglycemic State: A Danish Cohort Study. Diabetes Care. 2024 Feb 1;47(2):272-279. doi: 10.2337/dc23-1492. Available from: https://diabetesjournals.org/care/article/47/2/272/153983/Incidence-and-Characteristics-of-the-Hyperosmolar
- Kikuchi K, Kanda F, et al. Spectrum of hyperosmolar hyperglycaemic state in neurology practice. J Neurol Neurosurg Psychiatry. 2018 Apr;89(4):443-444. doi: 10.1136/jnnp-2017-316281. Available from: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC5890590/
- The Royal Children’s Hospital Melbourne. Clinical Practice Guidelines: Hyperosmolar hyperglycaemic state. Available from: https://www.rch.org.au/clinicalguide/guideline_index/Hyperosmolar_hyperglycaemic_state/
- Farkas J. Hyperosmolar hyperglycemic state (HHS). In: The Internet Book of Critical Care. EMCrit Project; 2020. Available from: https://emcrit.org/ibcc/hhs/
- UC Davis Health. PEDIATRIC HYPERGLYCEMIC HYPEROSMOLAR SYNDROME (HHS) TREATMENT PROTOCOL. Available from: https://health.ucdavis.edu/media-resources/pediatrics/documents/pdfs/clinical-guidelines/ENDO-HHS-Guideline.pdf
- 八尾徳洲会総合病院 糖尿病ケアチーム. C. 高血糖高浸透圧症候群. Available from: https://www.yao.tokushukai.or.jp/section/diabetes_care/text/page2.php
- 日本糖尿病学会. 学会組織・役員. Available from: https://www.jds.or.jp/modules/kyusyu/index.php?content_id=3
- 国立国際医療研究センター 糖尿病研究センター. 分子糖尿病医学研究部. Available from: https://drc.ncgm.go.jp/dc001/index.html
- 国立国際医療研究センター病院. スタッフ紹介. Available from: https://www.hosp.jihs.go.jp/s007/030/index.html
- 東京ドクターズ. 東京都の糖尿病・専門医一覧. Available from: https://tokyo-doctors.com/clinicList/p-tonyobyo-senmoni/