この記事の科学的根拠
この記事は、入力された研究報告書に明示的に引用されている最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下にリストされているのは、参照された実際の情報源と、提示された医学的指導との直接的な関連性です。
- 日本緑内障学会(多治見スタディ): 本記事における40歳以上の日本人における緑内障の有病率(20人に1人、約5.0%)および未診断率(約9割)に関する記述は、日本緑内障学会が主導した大規模疫学調査「多治見スタディ」の報告に基づいています2, 3, 4。
- 日本緑内障学会 緑内障診療ガイドライン(第5版): 薬物療法、レーザー治療、手術の選択基準、目標眼圧の設定、各病型の治療方針など、本記事における治療に関する記述の大部分は、日本緑内障学会が発行する最新の診療ガイドラインに基づいています26。
- 米国眼科学会(AAO): 緑内障のリスク因子、診断基準、治療選択肢に関する国際的な標準治療の記述は、米国眼科学会の推奨診療パターン(PPP)を参照しています31, 34。
- メイヨー・クリニック / 米国国立眼研究所(NEI): 緑内障の症状、原因、日常生活での注意点に関する一般的な解説は、メイヨー・クリニックや米国国立眼研究所などの権威ある医療機関が提供する患者向け情報を参考にしています9, 14, 19。
要点まとめ
- 緑内障の真の危険性は、自覚症状がないまま静かに進行し、気づいた時には視野が永久に失われている「沈黙」にあります。放置すれば失明に至る日本の失明原因第1位の病気です6。
- 日本人の緑内障患者の約7割は、眼圧が正常範囲内にもかかわらず進行する「正常眼圧緑内障」です2。したがって、健康診断の眼圧測定だけでは全く安心できません。
- 一度失われた視野は現代医療でも回復不可能ですが、早期に発見し、生涯にわたって眼圧を適切にコントロールする治療を継続すれば、病気の進行を抑え、視機能を維持することは十分に可能です9, 11。
- 40歳を過ぎた方、家族に緑内障患者がいる方、強度の近視がある方などは危険性が高いため、症状がなくても眼科専門医による定期的な精密検査(眼底検査、視野検査、OCTなど)を受けることが強く推奨されます12, 13。
第1章:緑内障とは何か? ― 眼圧だけではない、視神経の病
1.1. 視神経が蝕まれる仕組み
緑内障を正しく理解するためには、まずこの病気が単なる「眼圧が高い病気」ではなく、「視神経の病気」であるという本質を捉えることが重要です。緑内障は、眼と脳をつなぐ重要な伝達路である視神経が進行性に障害され、その結果として視野が徐々に狭くなっていく病気と定義されます13。
眼球の内部は、房水(ぼうすい)と呼ばれる透明な液体で満たされています。この房水は、毛様体で産生され、眼内を循環しながら角膜や水晶体に栄養を供給した後、隅角(ぐうかく)にある線維柱帯(せんいちゅうたい)というフィルターのような組織を通り、シュレム管から眼の外へ排出されます15。この房水の産生と排出の均衡によって、眼球の形状を一定に保つための内圧、すなわち眼圧(IOP: Intraocular Pressure)が維持されています。
何らかの原因でこの房水の排出経路が詰まったり、流れが悪くなったりすると、眼球内に房水が溜まりすぎて眼圧が上昇します15。この上昇した圧力が、眼球の後方にある視神経の出口部分(視神経乳頭)を物理的に圧迫し、視神経線維に損傷を与えます。これが、高眼圧によって緑内障が引き起こされる基本的な仕組みです13。現在、この眼圧を管理することが、緑内障の進行を抑制するための唯一確立された治療法となっています18。
1.2. 「かすみ眼」から失明まで ― 症状の進行段階
皆様が抱く「かすみ眼は緑内障の徴候か?」という疑問は非常に重要ですが、その答えは緑内障の種類によって大きく異なります。
最も一般的な慢性型の緑内障(原発開放隅角緑内障など)の場合、初期段階では自覚症状が全くないのが普通です12。視野の欠損は、まず周辺部から非常にゆっくりと始まります。多くの場合、片方の眼の視野が欠けても、もう一方の眼がその情報を補ってしまうため、日常生活では全く異常に気づきません21。これが、緑内障が「沈黙の病」と呼ばれる理由です。病状が進行し、視野欠損が中心部に及んでくると、ようやく「文字が読み飛ばされる」「人や物にぶつかりやすくなる」といった症状を自覚するようになります。末期になると、視野が中心部だけに限られ、まるで筒の中から覗いているような状態(トンネルビジョン)になります20。この段階での視野欠損は、黒い点として見えるのではなく、「濃い明るい霧の中にいるように感じる」と表現されることもあります10。
一方で、「かすみ眼」が緊急事態の徴候となる緑内障も存在します。それは急性緑内障発作(急性閉塞隅角緑内障)です。この種類では、隅角が急激に塞がれることで房水の流れが完全に遮断され、眼圧が$40 \sim 80 \textit{mmHg}$といった危険なレベルまで急上昇します12。その結果、突然の激しい目の痛み、充血、かすみ眼、頭痛、吐き気といった劇的な症状が現れます19。これは眼科的な救急疾患であり、治療が遅れると数日で失明に至る可能性もあるため、直ちに医療機関を受診する必要があります12。
このように、「かすみ眼」という一つの症状も、緑内障の文脈ではその背景にある病態によって緊急性が全く異なるのです。
1.3. 日本人に最も多い「正常眼圧緑内障」の謎
緑内障の議論において、特に日本の皆様が知っておくべき最も重要な概念が「正常眼圧緑内障(NTG: Normal-Tension Glaucoma)」です。統計的に正常とされる眼圧の範囲は一般的に$10 \sim 21 \textit{mmHg}$ですが13、NTGはこの正常範囲内の眼圧であるにもかかわらず、緑内障特有の視神経障害が進行してしまう種類を指します。
驚くべきことに、日本の緑内障患者の約7割がこのNTGに該当すると報告されています2。日本人の平均眼圧は約$14.5 \textit{mmHg}$と欧米人に比べて低い傾向にあり16, 25、このことがNTGの多さの一因と考えられています。
NTGの存在は、緑内障が単に「眼圧が高い病気」ではないことを明確に示しています。その発症機序は完全には解明されていませんが、眼圧以外の複数の要因が複雑に関与していると考えられています。主な要因としては、視神経への血流不足や、視神経自体の脆弱性(もろさ)、遺伝的素因などが挙げられます13。
この事実は、日本の緑内障診療において極めて重要な示唆を与えます。つまり、健康診断などで眼圧を測定し、「正常範囲内」という結果が出たとしても、それだけでは緑内障の危険性を否定できないということです。眼圧が正常であっても、視神経が損傷に耐えられない「個人にとっての危険な眼圧」である可能性があるのです。したがって、眼圧測定だけでなく、眼底検査やOCTによる視神経の形態評価、視野検査といった包括的な眼科検診が、緑内障の早期発見には不可欠となります。NTGの治療においても、唯一確立された方法は、正常範囲内にある眼圧をさらに低く管理することであり、これにより病気の進行を抑制できることが証明されています26。
第2章:あなたは大丈夫? ― 緑内障のリスク要因と多様な病型
2.1. 自己診断チェックリスト:緑内障になりやすい人
緑内障は誰にでも起こりうる病気ですが、特定の要因を持つ人は発症する危険性が高まることが知られています。以下の項目に当てはまる方は、そうでない方と比べてより注意深く目の健康を管理し、定期的な眼科検診を受けることが強く推奨されます。
- 年齢: 40歳を過ぎると危険性が顕著に増加します。多治見スタディでは、40歳以上の日本人の20人に1人が緑内障であることが示されています2。
- 家族歴: 血縁関係のある家族(親、兄弟姉妹など)に緑内障の患者がいる場合、発症の危険性が有意に高まります。遺伝的要因は緑内障の強力な危険因子です12。
- 眼圧: 眼圧が高いことは、緑内障の最も重要な危険因子です。正常範囲内であっても、眼圧が高いほど危険性は増大します17。
- 近視(特に強度近視): 強度の近視を持つ人は、眼球の構造的な特徴から視神経が損傷を受けやすく、開放隅角緑内障の危険性が高いとされています13。
- 全身疾患: 糖尿病、高血圧、あるいは低血圧といった循環器系の疾患は、視神経への血流に影響を与え、緑内障の危険性を高める可能性があります13。
- その他の要因:
これらの危険因子に複数当てはまる方は、症状がなくても40歳を待たずして眼科専門医による検診を開始することを検討すべきです。
2.2. 緑内障の分類:知っておくべき主な種類
緑内障は単一の病気ではなく、原因や病態によっていくつかの種類に分類されます。日本緑内障学会の診療指針に基づき26、主な種類を理解することは、適切な治療方針を決定する上で非常に重要です。
- 原発開放隅角緑内障 (POAG – Primary Open-Angle Glaucoma):
世界的に最も一般的な種類です。この種類では、房水の出口である隅角は開いている(開放)ものの、その先にあるフィルター部分の線維柱帯が目詰まりを起こし、房水の排出が滞ることで、眼圧がゆっくりと上昇します15。進行が非常に緩やかで初期症状がないため、発見が遅れがちです。日本の緑内障患者の約9割がこの種類に分類されます(正常眼圧緑内障を含む)15。 - 正常眼圧緑内障 (NTG – Normal-Tension Glaucoma):
前述の通り、原発開放隅角緑内障の下位分類であり、眼圧が正常範囲内であるにもかかわらず視神経障害が進行する、日本人に最も多い緑内障です2。 - 原発閉塞隅角緑内障 (PACG – Primary Angle-Closure Glaucoma):
この種類では、虹彩(茶目)が角膜に近づくことで、房水の出口である隅角そのものが物理的に狭くなったり(狭隅角)、塞がってしまったり(閉塞隅角)します15。これにより房水の流れが急激に妨げられ、眼圧が急上昇し、急性緑内障発作を引き起こすことがあります。中高年の女性や遠視の人に多く見られます13。 - 続発緑内障 (Secondary Glaucoma):
他の病気(ぶどう膜炎、糖尿病網膜症など)、目の怪我(外傷性緑内障)、あるいは薬剤(特にステロイド)の副作用など、明確な原因によって二次的に眼圧が上昇して発症する緑内障の総称です13。 - 小児緑内障 (Congenital Glaucoma):
生まれつき隅角の発達に異常があるために起こる稀な種類の緑内障です。早期の外科的治療が必要となります21。
これらの違いを明確にするため、以下の表にまとめます。
病型 (Type) | 仕組み (Mechanism) | 典型的な眼圧 (Typical IOP) | 主な症状 (Key Symptoms) | 主な危険群 (Key Risk Groups) |
---|---|---|---|---|
原発開放隅角緑内障 (POAG) | 隅角は開いているが、線維柱帯が目詰まりし、房水の排出が滞る16。 | 徐々に上昇する、または高い。 | 初期は無症状。ゆっくりと視野が狭まる20。 | 40歳以上、家族歴、強度近視13。 |
正常眼圧緑内障 (NTG) | POAGの一種。眼圧は正常範囲だが、視神経が脆弱である、または血流が悪い13。 | 正常範囲内 ($10 \sim 21 \textit{mmHg}$)13。 | POAGと同様、初期は無症状14。 | 日本人に非常に多い(約7割)2。POAGの危険因子と共通。 |
原発閉塞隅角緑内障 (PACG) | 虹彩によって隅角が物理的に狭くなる、または塞がれる15。 | 慢性的に高い場合と、急激に著しく上昇する場合がある(急性発作)。 | 急性発作時:激しい眼痛、頭痛、吐き気、かすみ眼、充血19。 | 40歳以上の女性、遠視、家族歴、浅前房(狭隅角)13。 |
続発緑内障 (Secondary) | 他の病気、外傷、薬剤(ステロイドなど)が原因で眼圧が上昇する13。 | 原因によって異なるが、上昇することが多い。 | 原因疾患の症状に加え、緑内障の症状が重なる。 | ぶどう膜炎、糖尿病、目の外傷歴、ステロイド長期使用者13。 |
この表からわかるように、緑内障と一言で言っても、その原因や症状の現れ方は様々です。自身の症状や危険因子がどの種類に関連する可能性があるかを理解し、専門医に相談することが重要です。
第3章:早期発見が命運を分ける ― 最新の緑内障診断法
3.1. 40歳からの必須検査:眼科検診の重要性
緑内障との闘いにおいて、最も強力な武器は「早期発見」です。前述の通り、ほとんどの緑内障は自覚症状がないまま進行するため、症状が出てからでは手遅れになりかねません。したがって、緑内障を確実に早期発見する唯一の方法は、症状の有無にかかわらず、専門医による定期的な包括的眼科検診(総合的な目の精密検査)を受けることです19。
米国眼科学会や日本の多くの専門家は、緑内障の危険性が高まり始める40歳を節目として、定期的な検診を開始することを推奨しています14。特に家族歴や強度近視などの危険因子を持つ方は、より早い段階から、より頻繁な検診が必要です。一般的な健康診断で行われる眼圧測定や視力検査だけでは、特に日本人に多い正常眼圧緑内障を見逃す可能性が高いため、眼科専門医による精密な検査が不可欠です。
3.2. 診断の標準:専門医が行う精密検査
緑内障の診断は、単一の検査結果だけで下されるものではありません。それは、複数の検査結果を総合的に評価し、様々な要素を組み合わせるようにして病態を明らかにしていく、いわば「多角的な調査」です。日本緑内障学会の診療指針26や国際的な基準33に基づく主要な検査は以下の通りです。
- 眼圧検査 (Tonometry): 眼圧を測定する基本的な検査です。角膜に直接接触させて測定するゴールドマン眼圧計が臨床における標準とされています26。健康診断などで用いられる、空気を吹き付けて測定する非接触式眼圧計は選別には有用ですが、より正確な診断のためには接触式の測定が推奨されます。
- 眼底検査 (Fundus Examination): 瞳孔を通して眼球の奥(眼底)を観察し、視神経乳頭の形態を直接評価する、非常に重要な検査です26。緑内障では、視神経線維が失われることで視神経乳頭の陥凹(へこみ)が拡大したり(陥凹拡大)、神経線維層が薄くなったり(網膜神経線維層欠損)といった特徴的な変化が現れます。これらの形態的変化は、視野に異常が現れるよりも前に出現することが多く、早期診断の鍵となります。
- 視野検査 (Perimetry): 片眼を隠し、中心の一点を見つめた状態で、周辺に現れる光が見えるかどうかを調べる検査です。これにより、視野の中に「見えない点(暗点)」がどこに、どの程度存在するかを地図のように描き出すことができます26。緑内障の進行度を評価し、治療効果を判定するために不可欠な検査です。初期の緑内障では、自覚できない小さな暗点が鼻側の上方または下方に現れるのが典型的です。
- 隅角検査 (Gonioscopy): 特殊なコンタクトレンズを眼に乗せて、房水の出口である隅角の状態を直接観察する検査です。隅角が広いか狭いか、開いているか閉じているか、癒着や異常な沈着物がないかなどを評価し、開放隅角緑内障と閉塞隅角緑内障を鑑別するために必須の検査とされています26。
- 光干渉断層計 (OCT – Optical Coherence Tomography): 現代の緑内障診断において、革命的な役割を果たしているのがOCTです35。これは、近赤外線を利用して網膜や視神経の断面をミクロン単位の非常に高い解像度で撮影する装置です。OCTを用いることで、視神経乳頭周囲の網膜神経線維層の厚さを正確に測定し、緑内障による菲薄化(薄くなること)を客観的かつ定量的に捉えることができます33。視野検査で異常が検出されるよりもさらに早い段階で、この構造的な損傷を発見できるため、超早期診断に極めて有用です。
これらの検査を組み合わせることで、初めて緑内障の有無、病型、進行度を正確に診断することが可能になります。特に、眼圧が正常でも視神経障害が起こるNTGが大多数を占める日本では、眼圧検査の結果だけで安心することは極めて危険です。眼圧、視神経の形態(眼底検査、OCT)、視機能(視野検査)という三つの側面から総合的に評価する、専門医による包括的な検診こそが、あなたの視力を守るための唯一確実な道筋なのです。
第4章:視力を守るための現代医療 ― 緑内障治療の最前線
4.1. 治療の基本原則:生涯にわたる眼圧管理
緑内障治療の目的を正しく理解することは、治療を継続する上で非常に重要です。現代の医療では、一度失われた視神経を再生させたり、欠けてしまった視野を元に戻したりすることはできません9。したがって、緑内障治療の目的は「治癒」ではなく、視神経への損傷の進行を遅らせる、あるいは食い止めることで、残された視機能(視力と視野)を生涯にわたって維持することにあります。
そのための最も確実で、唯一科学的根拠に基づいて確立されている治療法が、眼圧を十分に下降させること(眼圧管理)です18。これは、眼圧が高い種類の緑内障だけでなく、眼圧が正常範囲内である正常眼圧緑内障(NTG)においても同様です。NTGの患者さんでも、元々の眼圧からさらに下げることで、病気の進行を抑制できることが大規模な臨床試験で証明されています。
この眼圧管理において中心的な概念となるのが「目標眼圧」です。これは、個々の患者さんにとって、緑内障の進行が止まる、あるいは許容できる範囲まで遅くなると期待される眼圧の上限値のことです。目標眼圧は、緑内障の進行度、治療開始前の眼圧、年齢、視野障害の進行速度、全身状態などを考慮して、眼科専門医が個別に設定します26。一般的には、治療開始前の眼圧から$20% \sim 30%$低い値を初期目標とすることが多いです26。この目標眼圧は固定的なものではなく、治療後の経過を観察しながら、定期的に見直され、必要に応じて再設定されます26。
4.2. 治療の三本柱:薬物・レーザー・手術
目標眼圧を達成するために、現在の緑内障治療には大きく分けて「薬物療法」「レーザー治療」「手術」という三つの柱があります。治療は通常、より低侵襲(体への負担が少ない)な方法から開始され、効果が不十分な場合に段階的に強力な治療へと移行します。
A. 薬物療法 (Medication Therapy)
点眼薬(目薬)による治療は、ほとんどの緑内障治療の第一選択となります9。点眼薬は、房水の産生を抑制する作用、または房水の排出を促進する作用のいずれか、あるいは両方の作用を持ち、眼圧を下降させます。
- 主な点眼薬の種類: 日本緑内障学会の指針では、優れた眼圧下降効果と1日1回の点眼で済む利便性から、プロスタグランジン(PG)関連薬が第一選択薬として推奨されています21。その他にも、β遮断薬、炭酸脱水酵素阻害薬、Rhoキナーゼ阻害薬など、作用機序の異なる様々な種類の薬があり、単剤で効果が不十分な場合は、これらを組み合わせて使用します21。
- 服薬遵守の重要性: 緑内障の点眼治療は、高血圧の薬と同様に、自覚症状の改善をもたらすものではありません。そのため、患者さん自身が治療の必要性を感じにくく、点眼を怠ってしまうことが少なくありません10。しかし、不規則な点眼は眼圧の不安定な変動を招き、かえって病状を悪化させる可能性があります。処方された通りに毎日欠かさず点眼を続けることが、視力を守る上で極めて重要です。
B. レーザー治療 (Laser Therapy)
薬物療法で目標眼圧に達しない場合や、副作用で点眼が継続できない場合にレーザー治療が検討されます。外来で比較的短時間に行える、体への負担が少ない治療法です。
- 選択的レーザー線維柱帯形成術 (SLT – Selective Laser Trabeculoplasty): 開放隅角緑内障に対して行われます。房水の排水口である線維柱帯に特殊な低エネルギーのレーザーを照射し、排水路の詰まりを改善して房水の流れを良くします11。近年では、薬物療法より先に第一選択として行われることもあります33。
- レーザー虹彩切開術 (LI – Laser Iridotomy): 主に閉塞隅角緑内障の治療や急性発作の予防のために行われます。レーザーで虹彩の根元に小さな穴を開け、房水の新たな迂回路を作成することで、隅角の閉塞を解除します11。
C. 手術 (Surgical Intervention)
薬物療法やレーザー治療を行っても視野障害の進行が止められない、進行した緑内障の場合には、より確実な眼圧下降効果が期待できる手術が選択されます10。
- 線維柱帯切除術 (Trabeculectomy): 最も標準的で歴史のある緑内障手術です。線維柱帯の一部を切除し、眼内の房水を結膜(しろめ)の下に持続的に排出させるための新たな迂回路を作成します3。
- チューブシャント手術 (Tube Shunt Surgery): 眼内に小さなチューブを挿入し、房水を眼球後方へ排出させるための排出装置を留置する手術です。線維柱帯切除術が困難な症例や、過去の手術で効果が得られなかった難治性の緑内障に対して行われます3。
- 低侵襲緑内障手術 (MIGS – Minimally Invasive Glaucoma Surgery): 近年開発が進んでいる新しい手術法群です。従来の線維柱帯切除術よりも体への負担や合併症の危険性が少ないのが特徴ですが、一般的に眼圧下降効果はやや穏やかです。
4.3. 日本緑内障学会指針に基づく専門的治療選択
緑内障診療は日々進歩しており、その指針となるのが日本緑内障学会(JGS)が発行する「緑内障診療ガイドライン」です。最新の第5版(2022年発行)26では、臨床現場における重要な疑問に対して、科学的根拠に基づいた推奨が示されています。患者さんが自身の治療方針を理解する上で、特に重要な疑問をいくつか紹介します。
- 高眼圧症(眼圧は高いが視神経にまだ異常がない状態)は治療すべきか? (CQ1)
推奨:一律に治療を開始するのではなく、角膜が薄い、視神経乳頭の陥凹が大きいなど、将来緑内障を発症する危険性が高いと考えられる患者には治療開始を推奨する(強い推奨、根拠の質:中)26。 - 正常眼圧で視野に異常が出る前の緑内障(前視野緑内障)は治療すべきか? (CQ2)
推奨:危険因子を考慮し、慎重に経過観察した上で、治療を考慮してもよい(弱い推奨、根拠の質:弱)26。 - 点眼薬で眼圧が10mmHg台前半でも視野障害が進行する場合、手術をすべきか? (CQ3)
推奨:眼圧が十分に低いにもかかわらず進行が確認される場合、さらなる眼圧下降を目指して緑内障手術を行うことを推奨する(弱い推奨、根拠の質:弱)26。これは、個々の患者にとっての「安全な眼圧」が非常に低いレベルにあることを示唆しています。 - 原発閉塞隅角緑内障(PACG)の第一選択はレーザーか、手術か? (CQ8)
推奨:PACGおよびその前段階である原発閉塞隅角症(PAC)に対して、水晶体再建術(白内障手術)を第一選択の治療として強く推奨する(強い推奨、根拠の質:高)26。これは、加齢により厚くなった水晶体を取り除くことで隅角が物理的に広がり、根本的な原因解決につながるためで、近年の治療方針における大きな転換点です。
これらの推奨は、緑内障治療がますます個別化・精密化していることを示しています。専門医がこれらの指針に基づき、一人ひとりの患者さんに最適な治療法を選択していくのです。
治療法 (Treatment) | 主な利点 (Main Advantages) | 主な欠点・リスク (Main Disadvantages/Risks) | 主な対象 (Primary Candidates) |
---|---|---|---|
点眼薬 (Eye Drops) | 非侵襲的で、治療の開始・変更が容易9。 | 毎日の点眼遵守が必要。局所的(充血、まつ毛が伸びる等)または全身的な副作用の可能性10。 | ほとんどの緑内障の初期治療12。 |
レーザー治療 (Laser) | 外来で短時間に行え、体への負担が少ない11。点眼薬の数を減らせる可能性がある。 | 効果が永続的ではなく、時間とともに薄れることがある。複数回の治療が必要な場合がある11。 | 点眼薬の効果が不十分または副作用で使えないPOAG(SLT)。PACGの治療・予防(LI)21。 |
観血的手術 (Incisional Surgery) | 最も高い眼圧下降効果が期待でき、効果の持続性も高い11。 | 侵襲的で、入院が必要な場合がある。術後の感染症や低眼圧、白内障の進行などの合併症リスク11。 | 薬物・レーザー治療で管理できない進行した緑内障10。 |
第5章:緑内障と向き合う ― よくある質問と社会全体の取り組み
5.1. よくある質問 (Frequently Asked Questions)
緑内障と診断された患者さんやそのご家族からは、多くの質問が寄せられます。ここでは、特に代表的な疑問にお答えします。
質問:緑内障で失った視野は元に戻りますか?
回答: 残念ながら、一度死んでしまった視神経は再生しないため、失われた視野を回復させることは現在の医療では不可能です9。治療の目的は、あくまでも残された視野と視力を守り、病気の進行を食い止めることです。だからこそ、一刻も早い発見と治療開始が重要なのです。
質問:緑内障の手術は痛いですか?入院は必要ですか?
質問:日常生活で仕事や運動を制限する必要はありますか?
質問:治療を自己判断で中断しても大丈夫ですか?
回答: 絶対にやめてください。緑内障による失明で最も多い理由の一つが、患者さんによる治療の中断です10。自覚症状がないからといって治療をやめてしまうと、気づかないうちに病状は進行し、取り返しのつかない事態を招きます。点眼が面倒であったり、副作用が気になったりする場合は、必ず主治医に相談し、治療法を一緒に見直してもらいましょう。
5.2. 日常生活で気をつけること
緑内障の進行を完全に防ぐ生活習慣というものは確立されていませんが、眼圧の急激な変動を避け、目の健康を保つために心がけたい点がいくつかあります。
- 水分摂取: 一度に大量の水分(例えば、1リットル以上の水を短時間で飲むなど)を摂取すると、一時的に眼圧が上昇することがあります。水分はこまめに、適量を飲むようにしましょう9。
- カフェイン: 大量のカフェイン摂取が眼圧を上昇させる可能性が指摘されています。コーヒーや緑茶などを過度に飲む習慣がある方は、控えめにすることを検討してもよいでしょう9。
- 服装: ネクタイをきつく締めすぎると、首の静脈が圧迫されて眼圧が上がることがあります。リラックスできる服装を心がけましょう。
- 健康的な食生活と禁煙: バランスの取れた食事は全身の健康、ひいては目の健康にもつながります9。また、喫煙は視神経への血流を悪化させる可能性があるため、禁煙が強く推奨されます28。
5.3. 家族への伝達と日本の啓発活動
緑内障は遺伝的な要因が強い病気です14。もしあなたが緑内障と診断されたなら、それはあなたのご家族(親、兄弟姉妹、子)も緑内障の危険性が高い可能性があるという重要な情報になります。ご自身の診断をきっかけに、ぜひご家族にも眼科検診を受けるよう勧めてください。それが、家族の視力を守るための最も価値ある行動の一つとなります。
緑内障という「沈黙の病」に対する社会全体の認識を高めるため、日本では独特な啓発活動が行われています。それが「ライトアップ in グリーン運動」です38。これは、毎年3月の「世界緑内障週間」に合わせて、日本緑内障学会が主導し、全国各地のランドマーク(東京タワー、大阪城など)や医療機関を、緑内障の象徴色である緑色にライトアップする活動です38。
この運動は2015年に日本で始まり40、今では全国1000以上の施設が参加する大規模なキャンペーンへと成長し、海外にも広がりを見せています40。緑色の光は、緑内障について人々の関心を喚起し、潜在的な患者さんに検診の重要性を伝える希望の光です。この活動は、緑内障との闘いが、患者さんと医師だけのものではなく、家族、そして社会全体で支え合うべき課題であることを象徴しています7。
結論
本稿を通じて、緑内障という病気について、その本質から最新の治療法までを深く掘り下げてきました。ここで、最も重要な伝言を改めて要約します。
- 緑内障の本当の危険性は、その「沈黙」にあります。 症状がないから大丈夫、という自己判断が、取り返しのつかない視力喪失につながります。この病気は、放置すれば失明に至る可能性がある一方で、早期に発見し治療を継続すれば、その進行を効果的に管理できる病気です。
- 日本では「正常眼圧緑内障」が大多数を占めます。 これは、健康診断などで行われる眼圧測定で「正常」と判定されても、全く安心できないことを意味します。視神経の状態を直接評価する眼底検査やOCT検査を含む、専門医による包括的な眼科検診が不可欠です。
- 早期発見・早期治療が視力を守る唯一の鍵です。 一度失われた視野は二度と戻りません。治療の目的は、今ある視機能を生涯にわたって維持することです。最新の薬物療法、レーザー治療、手術は、この目的を達成するために非常に有効です。
- 緑内障の管理は、医師との生涯にわたる協力関係です。 治療は長期にわたります。自身の病状を正しく理解し、処方された治療を根気強く続けること、そして不安や疑問があれば主治医と率直に話し合うことが、良好な結果につながります。
未来の視力を守るために、あなたが今日からできる最も重要で、かつ最も簡単な第一歩。それは、もしあなたが40歳以上であるか、あるいは何らかの危険因子をお持ちであれば、今すぐ眼科専門医のいる医療機関に予約の電話を入れることです。あなたの未来の「見える世界」は、まさに今、あなたが踏み出すその一歩にかかっているのです。
参考文献
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- 世界緑内障週間|ライトアップinグリーン運動. 日本緑内障学会. Available from: https://www.ryokunaisho.jp/light_up/static/wgw
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- 2025年3月9日(日)~3月15日(土)は世界緑内障週間「ライトアップ in グリーン運動」. PR TIMES. Available from: https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000013.000023652.html