消化器疾患

膵臓の神秘:生命のバランスを司る驚異の臓器、その光と影

腹部の奥深く、胃の後方にひっそりと横たわる膵臓は、その存在を日常的に意識されることは少ないものの、生命維持に不可欠な二つの重要な役割を担う驚異的な臓器です。その構造は、一見すると単一の組織のようでありながら、内部には全く異なる機能を持つ二つの組織、すなわち外分泌腺と内分泌腺が精緻に組み込まれていることが、Zagazig University Medical Journalで解説されています1

この記事の科学的根拠

本記事は、日本の公的機関・学会ガイドラインおよび査読済み論文を含む高品質の情報源に基づき、出典は本文のクリック可能な上付き番号で示しています。

  • 日本の膵臓がん診療の中核となる指針:日本膵臓学会が策定した「膵癌診療ガイドライン2022年版」は、国内の診断・治療における標準的なアプローチを定義しています5
  • 最新の公的統計データ:日本の膵臓がんに関する罹患数、死亡数、生存率のデータは、国立がん研究センターが提供する情報を基にしています3

要点まとめ

  • 膵臓がんは日本で深刻な課題であり、2021年の新規罹患数は45,819例、2023年の死亡数は40,175人に上ります。予後が厳しく、早期発見が極めて重要です3
  • 5年相対生存率は全体で8.5%と非常に低いですが、がんが膵臓に限局しているステージ1では51.8%と、早期発見により予後は大きく改善される可能性があります4
  • 切除不能な進行膵がんに対しては、FOLFIRINOX療法やゲムシタビン+nab-パクリタキセル併用療法などの強力な化学療法が標準治療として推奨されています7
  • 糖尿病の新規発症や悪化、慢性膵炎、特定の膵嚢胞(IPMN)、家族歴は膵臓がんの重要なリスク因子であり、これらのリスクを持つ場合は注意深い経過観察が求められます5

Part I: The Unseen Engine: Understanding the Pancreas

私たちの体の奥深く、普段はその存在を意識することさえない臓器、膵臓。しかし、その静寂の裏では、生命を維持するための二つの重要な仕事が絶え間なく行われています。それはまるで、一つの工場の中に「食品加工ライン」と「精密な薬品を調合するライン」という全く異なる二つの生産ラインが同居しているようなものです。この驚くべき二重の役割を理解することは、自分自身の健康を深く知るための第一歩と言えるでしょう。

膵臓の役割の一つは、強力な消化液を作り出す「外分泌機能」です。腺房細胞と呼ばれる部分が、炭水化物、脂質、タンパク質という三大栄養素を分解するための消化酵素を生産します1。もう一つの重要な役割は、血糖値をコントロールするホルモンを分泌する「内分泌機能」です。膵臓内に島のように点在するランゲルハンス島が、血糖値を下げるインスリンや、逆に上げるグルカゴンといったホルモンを血液中に放出し、体内のエネルギーバランスを絶妙に調整しているのです。この仕組みは、Oregon State Universityの教材でも詳しく解説されています2

このセクションの要点

  • 膵臓の外分泌機能は、食物の消化を助ける強力な消化酵素(膵液)を産生・分泌します。
  • 膵臓の内分泌機能は、ランゲルハンス島からインスリンやグルカゴンといったホルモンを分泌し、血糖値を精密に調節します。

Part II: When the Engine Falters: Major Diseases of the Pancreas in the Japanese Context

「膵臓がん」。その言葉を聞いて、多くの人が深刻なイメージを抱き、大きな不安を感じるかもしれません。その背景には、発見が難しく、進行が速いという厳しい現実があります。その気持ちは、決して特別なものではありません。科学的には、膵臓がんは症状が出にくいために早期発見が困難であることが、その予後を厳しくしている最大の理由です。これはまるで、壁の中で静かに燃え広がる火事のようなもので、煙(症状)に気づいた時には、すでに大きく燃え広がっていることが多いのです。だからこそ、その危険性を正しく理解し、リスクとなる要因や注意すべきサインを知ることが、自分や大切な人を守るための重要な一歩となります。

2.1: 膵臓がん – 日本の静かなる挑戦

日本の膵臓がんは、公衆衛生上の極めて深刻な課題です。国立がん研究センターがん情報サービスによると、2021年には日本全国で45,819例が新たに診断され、2023年には40,175人がこの病で命を落としています3。この罹患数と死亡数の近さは、診断後の予後がいかに厳しいかを物語っています。

日本の膵臓がんに関する統計
指標 男性 女性 合計
罹患数(2021年) 22,950例 22,869例 45,819例
死亡数(2023年) 19,859人 20,316人 40,175人
5年相対生存率(2009-2011年診断例) 8.9% 8.1% 8.5%
10年相対生存率(2009年診断例) 6.7%
進行度別5年相対生存率(2013-2014年診断例)
ステージ1 51.8%
ステージ2 22.9%
ステージ3 6.8%
ステージ4 1.4%
出典: 国立がん研究センターがん情報サービス3

しかし、絶望的な数字だけではありません。がんが膵臓に限局しているステージ1で発見された場合の5年相対生存率は51.8%であり、遠隔転移のあるステージ4の1.4%と比較して、予後が劇的に改善されることが示されています34。このデータは、早期発見の重要性を何よりも強く示しています。日本膵臓学会が策定した「膵癌診療ガイドライン2022年版」では、新規の糖尿病発症や悪化、慢性膵炎、膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)、そして家族歴などが、特に注意すべき高リスク病態として挙げられています5。これらのリスク因子を理解し、適切な検査を受けることが、早期発見への鍵となります。

2.2: 急性膵炎と慢性膵炎

膵臓の疾患はがんだけではありません。急性膵炎は、消化酵素が膵臓内で活性化し、自己消化を始めることで発症する急性の炎症です。日本ではアルコール性と胆石性が二大原因とされています。一方、慢性膵炎は、持続的な炎症により膵組織が徐々に線維化し、機能が失われていく進行性の病気で、長期の多量飲酒が主な原因です。重要なのは、慢性膵炎が膵臓がんの強力なリスク因子であるということです。そのため、慢性膵炎と診断された場合は、定期的な経過観察が不可欠となります。これらの疾患の診療は、日本で策定された各診療ガイドラインに基づいて行われています910

受診の目安と注意すべきサイン

  • 持続的な腹痛や背部痛がある
  • 皮膚や白目が黄色くなる(黄疸)
  • 理由なく体重が急激に減少した
  • 急に糖尿病と診断された、または糖尿病が急に悪化した
  • 食欲不振が続く

これらの症状がある場合は、自己判断せず、かかりつけ医や消化器内科の専門医に相談してください。

Part III: The Forefront of Treatment in Japan

進行した膵臓がんの治療は、一つの特効薬で完治を目指すような単純な戦いではありません。それはむしろ、チェスのように、利用可能な駒(化学療法、手術、放射線治療)を最適なタイミングで組み合わせ、病気の進行を制御し、生活の質を維持しながら共存していくという、高度な戦略的アプローチです。日本膵臓学会のガイドラインが示すように、治療の選択肢は一つではなく、患者さん一人ひとりの状態に合わせて最適化されていきます7。希望を失わず、どのような戦略があるのかを理解することが、治療への第一歩です。

3.1: 膵臓がん化学療法の標準治療

手術による治癒が難しい進行・再発膵臓がんの治療の根幹は、薬物療法(化学療法)です。日本の診療ガイドラインでは、全身状態が良好な患者さんに対する一次治療として、二つの強力な多剤併用療法が標準治療として強く推奨されています7

  • FOLFIRINOX療法:4種類の薬剤を組み合わせた治療法で、高い腫瘍縮小効果が期待できますが、副作用も比較的強く出ることがあります。
  • ゲムシタビン+nab-パクリタキセル併用療法:2種類の薬剤を組み合わせた治療法で、FOLFIRINOX療法に匹敵する延命効果が示されており、より幅広い患者さんに適応可能です。

どちらの治療法を選択するかは、がんの状態だけでなく、患者さんの年齢、全身状態、併存疾患、そしてライフスタイルなどを総合的に考慮して、医師と患者さんが共同で決定します。これは、臨床情報に基づいた「実践的な個別化医療」と言えるでしょう。

3.2: 研究と臨床試験の最前線

膵臓がんの厳しい予後を打開するため、日本国内では基礎研究から臨床応用まで、多岐にわたる研究開発が精力的に進められています。既存の化学療法と高精度放射線治療を組み合わせる治療法の開発や、特定の遺伝子異常を持つ患者さんを対象とした分子標的薬、リキッドバイオプシーといった次世代の診断・治療技術の研究など、未来への希望の光となる取り組みが数多く行われています。

今日から始められること

  • ご自身の病状と治療の選択肢について、主治医と十分に話し合い、納得のいく治療方針を一緒に立てましょう。
  • 大学病院やがん専門病院で実施されている臨床試験(治験)について情報を収集し、参加の可能性を主治医に相談してみることも一つの選択肢です。
  • 治療による副作用や今後の生活への不安について、看護師やソーシャルワーカー、がん相談支援センターに相談しましょう。

Part IV: The Human Dimension: Living with Pancreatic Disease in Japan

膵臓がんとの闘いの中で、最も辛いことの一つは「孤立感」かもしれません。「この苦しみを理解してくれる人はいないのではないか」という思いは、病気そのものと同じくらい患者さんとご家族を苦しめます。しかし、あなた方は決して一人ではありません。医学的な治療が病気と闘うための武器であるとすれば、同じ経験を持つ仲間との繋がりは、心を支える盾となります。患者会などのコミュニティは、暗闇の中で道筋を照らしてくれる灯台のような存在です。例えば、NPO法人パンキャンジャパンのような団体は、全国の患者さんやご家族に情報と支援を提供しています12

4.1: 患者と家族の経験

診断直後の恐怖、治療の副作用による身体的苦痛、経済的な負担、そして社会的な役割の変化など、患者さんとご家族が直面する困難は多岐にわたります。こうした「痛み」の声は、近年、日本の医療システムを変える力にもなっています。「膵癌診療ガイドライン2022年版」の改訂プロセスでは、初めて患者・市民参画グループが組織され、生活の質(QOL)向上に繋がる提案が正式に採用されました。これは、患者さんの経験が、単なる共感の対象から、解決すべき臨床的な課題へと認識されたことを意味します。

4.2: 支援とコミュニティを見つける

治療と並行して、同じ病気を経験した仲間との交流は、精神的な孤立感を和らげる大きな力となります。日本には、膵臓がん患者さんとその家族を支援する、志の高い患者会が複数存在します。

日本の主な膵臓がん患者支援団体
団体名 主な活動内容 ウェブサイト
NPO法人パンキャンジャパン 研究助成、政策提言、患者支援、国内外の最新情報提供など多岐にわたる活動。 pancan.jp
膵臓がん患者と家族の集い オンラインサロンや定期的な交流会・講演会を通じて、全国の患者・家族が繋がる場を提供。 tsudoi-cancer.com
すい臓がん患者会 ぶどうの木 仙台市を拠点に、オンラインと対面での交流会や、全国各地での「出張ぶどうの木」を開催。 mystrikingly.com
膵がん患者夫婦の会 福岡県を拠点に、患者・家族・遺族が多様なツールで繋がり、心のケアを重視した活動を展開。 main.jp

ここに挙げたのは一部です。これらのコミュニティは、信頼できる情報、ピアサポート、そして「一人ではない」という連帯感を提供し、治療の道のりを歩む上での貴重な支えとなり得ます。 患者支援団体との連携は、治療の質を向上させる上で非常に重要です。

今日から始められること

  • リストにある患者支援団体のウェブサイトを訪れ、ご自身に合った活動や情報がないか探してみましょう。
  • より専門的な治療を求める場合、手術症例数の多い「ハイボリュームセンター」でのセカンドオピニオンを検討することも有効です。

よくある質問

なぜ膵臓がんは見つかりにくいのですか?

膵臓は体の奥深く、胃や腸の後ろにあるため、体外からの超音波検査などでは観察しにくいことが一因です。また、初期には特有の症状がほとんどなく、腹痛や背部痛、体重減少といった症状が出たときには、すでに進行していることが多いのが現状です16

膵臓がんの早期発見に有効な検診はありますか?

現在、国が推奨する対策型検診として確立された膵臓がん検診はありません。しかし、糖尿病や慢性膵炎、家族歴などのリスク因子を持つ方は、定期的に腹部超音波検査やCT、MRIなどの画像検査を受けることが推奨されています。特に超音波内視鏡(EUS)は、早期の小さな病変を発見するのに非常に有用です5

膵炎の原因はアルコールだけですか?

いいえ。日本では長期間の多量飲酒が慢性膵炎の、アルコールが急性膵炎の最も一般的な原因ですが、それだけではありません。急性膵炎では胆石がもう一つの主要な原因であり、その他に薬剤性、高脂血症、自己免疫性のものなど、様々な原因があります910

結論

膵臓は、消化と代謝という生命の根幹を司る精緻で不可欠な臓器ですが、同時に、ひとたび疾患に見舞われると深刻な事態を招く脆弱性も併せ持っています。特に膵臓がんは、日本において依然として最も予後の厳しいがんの一つです。しかし、本稿で見てきたように、診療ガイドラインの絶え間ない改訂、治療法の進歩、そして患者・市民の視点を取り入れた医療体制の構築など、この難題に立ち向かう日本の医療は力強く歩みを進めています。最も重要なのは、リスクを正しく認識し、注意すべきサインを見逃さず、そして孤立せずに利用可能な支援に繋がることです。科学的知見とコミュニティの支えが、未来を照らす光となるでしょう。

免責事項

本コンテンツは一般的な医療情報の提供を目的としており、個別の診断・治療方針を示すものではありません。症状や治療に関する意思決定の前に、必ず医療専門職にご相談ください。

参考文献

  1. Zagazig University Medical Journal. Pancreas: Anatomy, Histology and Physiology. [インターネット]. [引用日: 2025-09-17]. https://zumj.journals.ekb.eg/article_389874_c441b222f20017935e6e4e60d905a530.pdf
  2. Oregon State University. 17.9 The Pancreas – Anatomy & Physiology. [インターネット]. [引用日: 2025-09-17]. https://open.oregonstate.education/aandp/chapter/17-9-the-pancreas/
  3. 国立がん研究センターがん情報サービス. 膵臓:[国立がん研究センター がん統計]. [インターネット]. 2024. [引用日: 2025-09-17]. https://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/stat/cancer/10_pancreas.html
  4. がんプラス – QLife. 膵臓がんの基礎知識. [インターネット]. [引用日: 2025-09-17]. https://cancer.qlife.jp/pancreas/pancreas_tips/article17514.html
  5. Mindsガイドラインライブラリ. 膵癌診療ガイドライン 2022年版. [インターネット]. 2022. [引用日: 2025-09-17]. https://minds.jcqhc.or.jp/summary/c00716/
  6. National Cancer Institute (NCI). Pancreatic Cancer Treatment (PDQ®). [インターネット]. [引用日: 2025-09-17]. https://www.cancer.gov/types/pancreatic/hp/pancreatic-treatment-pdq
  7. Hirono S, et al. Clinical Practice Guidelines for Pancreatic Cancer 2022 from the Japan Pancreas Society: a synopsis. J Hepatobiliary Pancreat Sci. 2023;30(4):455-471. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10066137/
  8. 医薬品医療機器総合機構 (PMDA). 日本薬局方 イリノテカン塩酸塩注射液. [インターネット]. [引用日: 2025-09-17]. https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00061388.pdf
  9. 医薬品医療機器総合機構 (PMDA). アブラキサン点滴静注用 100 mg に関する資料. [インターネット]. 2010. [引用日: 2025-09-17]. https://www.pmda.go.jp/drugs/2010/P201000049/400107000_22200AMX00876000_B100_1.pdf
  10. 金原出版. 慢性膵炎診療ガイドライン2021(改訂第3版). 2021. [有料]
  11. 金原出版. 急性膵炎診療ガイドライン 2021 第5版. 2021. [有料]
  12. 膵臓がん患者と家族の集い. [インターネット]. [引用日: 2025-09-17]. https://www.tsudoi-cancer.com/
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