急性胃腸炎は、突然の嘔吐、下痢、腹痛といった症状で心身ともに消耗する疾患です。ウイルスや細菌の感染が主な原因であり、多くの場合は数日で自然に回復しますが、その過程で適切な栄養管理、特に水分と電解質の補給を行うことが、回復を早め、重症化を防ぐための鍵となります。本稿では、最新の医学的知見と国内外の診療ガイドラインに基づき、急性胃腸炎の各段階における食事療法の完全な指針を提示します。急性期の水分補給の原則から、回復期における食事の再開方法、積極的に摂取すべき食品と避けるべき食品の科学的根拠、さらには子どもや高齢者といった特に注意が必要な方々へのアドバイスまで、網羅的に解説します。このガイドが、つらい症状に悩む方々やそのご家族にとって、確かな道しるべとなることを目指します。
この記事の科学的根拠
本記事は、日本の公的機関・学会ガイドラインおよび査読済み論文を含む高品質の情報源に基づき、出典は本文のクリック可能な上付き番号で示しています。
要点まとめ
第1章:治療の根幹:水分と電解質の補給 — 回復への第一歩
突然の下痢や嘔吐に襲われたとき、何を口にすべきか途方に暮れてしまう――そのお気持ちは、とてもよく分かります。しかし、このような状況で最も大切なのは、固形食を考えることよりもまず、体から失われた水分と「命の塩」ともいえる電解質を取り戻すことです。科学的には、このプロセスが回復への最短ルートであることが分かっています。その背景には、体内の水分バランスを維持する巧妙な仕組みがあります。この仕組みは、体内の交通システムのようなもので、水分という車をスムーズに動かすためには、ナトリウムという名の道路が不可欠なのです。だからこそ、最初のステップは、この交通網を再建すること、つまり経口補水液による適切な水分・電解質補給から始めるのが最も効果的です1。
胃腸炎による脱水症に対しては、経口補水療法(Oral Rehydration Therapy, ORT)が世界的な標準治療として確立されています。これは単なる水分補給ではなく、失われた水分と電解質を最も効率的に体に吸収させるための医学的療法です。米国のCDCによると、この治療はまず体内の不足分を補う「補正期」と、その後も続く損失を補い続ける「維持期」の2段階で構成されます2。
激しい下痢の際に水やお茶だけを大量に飲むと、体内の電解質、特にナトリウムの濃度が薄まってしまい、かえって体が水分を保持する能力が低下することがあります。経口補水液(ORS)が重要なのはこのためです。ORSは、水分、電解質、そしてブドウ糖が、小腸で最も効率よく吸収される「黄金比」で配合されています。その科学的な仕組みは、小腸にある特別な輸送体(SGLT1)の働きに基づいています。これはブドウ糖とナトリウムがセットでなければ通れない改札口のようなもので、このセットが通過することで、初めて水分が効率的に体内へ引き込まれるのです3。
このセクションの要点
- 急性胃腸炎の治療では、固形食より先に水分と電解質の補給が最優先事項です。
- 経口補水液(ORS)は、水分、電解質、ブドウ糖の「黄金比」により、水だけを飲むよりもはるかに効率的に体内に水分を吸収させることができます。
第2章:食事再開への段階的アプローチ — 腸を育て、回復を促す
「お腹が痛いときは、何も食べずに腸を休ませるべきだ」と考えるのは、ごく自然なことです。しかし、近年の医学的研究は、その常識が必ずしも正しくないことを示しています。その背景には、腸の粘膜細胞が、実は体の中でも最も新陳代謝が活発な場所の一つであるという事実があります。この細胞の修復工場を動かし続けるためには、絶食するのではなく、むしろ適度な栄養という燃料を供給し続ける必要があるのです。日本の小児急性胃腸炎診療ガイドライン2022でも、早期の栄養摂取が推奨されており4、日本感染症学会も食事制限は不要としています5。だからこそ、嘔吐が落ち着いたら「腸を育てる」という意識で、消化の良い食事を少しずつ始めることが、回復への近道となります。
食事再開の第一段階では、消化が良く、低脂肪・低食物繊維の炭水化物を中心に、胃腸への刺激を最小限に抑えることが目標です。日本の回復食の基本である「おかゆ」や、よく煮込んだ「うどん」が最適です6。バナナやりんごも良い選択肢です7。欧米で伝統的に推奨される「BRATダイエット」(バナナ、米、りんごソース、トースト)もこれに相当します8。ただし、注意したいのは、BRATダイエットは栄養的に偏りがあるため、あくまで回復の初期段階の食事と位置づけるべきという点です。ある小児科ガイドラインでは、体力の回復にはタンパク質やビタミンが不可欠であり、速やかに次の段階へ移行することが重要だと指摘されています9。
今日から始められること
- 嘔吐が落ち着いて食欲が少しでも出てきたら、まずは「おかゆ」や「よく煮込んだうどん」を少量から試してみましょう。
- BRATダイエット(バナナ、米、りんご、トースト)は回復初期の食事と割り切り、1〜2日で症状が安定したら、消化の良いタンパク質(豆腐、白身魚など)を食事に加えることを目指しましょう。
第3章:「避けるべき食品」リスト — 回復を妨げる食べ物とその理由
胃腸炎からの回復期には、体に優しい食べ物を選ぶことと同じくらい、「回復を妨げる食べ物」を避けることが重要です。普段は健康に良いとされる食品が、弱った胃腸にとっては負担になることがあるからです。これは「健康食品のパラドックス」とも言えます。科学的には、食品の成分が腸の「浸透圧」という水分バランスを乱すことが原因です。浸透圧とは、濃度の薄い方から濃い方へ水分を引き寄せる力のこと。腸の中に糖分のような濃い物質が多く存在すると、体内の水分が腸管内に引き出されてしまい、結果として下痢が悪化するのです4。この仕組みを理解することが、適切な食品選択の鍵となります。
高脂肪食(揚げ物、脂身の多い肉)、糖分の多い食品(菓子類、ジュース)、そして普段は推奨される食物繊維の多い食品(玄米、きのこ類、生野菜)は避けるべきです。脂肪は消化に時間がかかり、糖分は前述の通り浸透圧を高めて下痢を悪化させます。不溶性食物繊維は、弱った腸壁を物理的に刺激してしまう可能性があります4。同様に、香辛料やカフェイン、アルコールも胃腸を刺激するため回復期には適しません。
このセクションの要点
- 高脂肪食、高糖質食、高食物繊維食は、弱った胃腸の消化能力を超えたり、腸管の浸透圧を高めて下痢を悪化させたりするため避けるべきです。
- 普段は健康に良いとされる玄米や生野菜も、胃腸炎の回復期には負担となるため、一時的に避けるのが賢明です。
第4章:特別な配慮が必要な方々へのアドバイス
胃腸炎の食事療法の基本原則は万人に共通しますが、特に乳幼児、妊婦、高齢者の方々は、特有のリスクを抱えているため、より一層の注意が必要です。例えば妊婦の方の場合、ご自身の回復だけでなく、お腹の赤ちゃんへの影響を防ぐという視点が加わります。妊娠中は免疫力が変化するため、普段なら問題にならないような細菌でも食中毒を引き起こす可能性があるのです。その中でも特に警戒すべきなのが、「リステリア菌」や「トキソプラズマ」といった目に見えない侵入者です。これらの病原体は、まるで静かなるスパイのように胎盤を通過し、胎児に深刻な影響を及ぼす可能性があります。だからこそ、妊娠中の食事管理は「消化の良さ」に加えて、「食品の安全性」という二重の砦で守る必要があります10。
この見えないリスクから身を守る最も確実な方法は、肉、魚、卵など全ての動物性食品を中心部まで十分に加熱することです10。具体的には、リステリア菌のリスクがある生ハムやナチュラルチーズ11、トキソプラズマのリスクがある加熱不十分な肉、サルモネラ菌のリスクがある生卵や半熟卵は、妊娠中は避けるべき食品の代表例です11。乳幼児の場合は、脱水症に陥りやすいため、経口補水液での水分補給が最優先となります。高齢者の方は、脱水症状に気づきにくく、また嘔吐による誤嚥性肺炎のリスクも高まるため、周囲の注意深い観察が重要です。
今日から始められること
- 妊婦の方: 生ハム、ナチュラルチーズ、レアステーキ、生卵は避け、全ての動物性食品を中までしっかり加熱しましょう。
- お子様や高齢者のご家族: 経口補水液を常に備えておき、食欲不振やぐったりした様子が見られたら早めに少量ずつ水分補給を開始してください。
第5章:実践編:胃腸炎サバイバルガイド
体調が悪い中で食事の準備をすることは、想像以上に大変な作業です。そんな時、日本のコンビニエンスストアは「病気の時の薬局」のような頼れる存在になります。回復の各段階に適した食品が、調理の手間なく手に入るからです。例えば、回復の第一歩である水分補給には経口補水液、最初の固形食にはレトルトのおかゆや塩むすび、少し回復してきたら茶碗蒸しやサラダチキンでタンパク質を補給できます6。最小限の手間で調理できる、体に優しいレシピも有効です。卵とご飯だけで作れる「たまご粥」や、鶏ささみと野菜を使った栄養満点のスープは、弱った体に染み渡る回復食となるでしょう7。
今日から始められること
- 最寄りのコンビニで回復に必要な食品リスト(経口補水液、レトルト粥、バナナ、茶碗蒸しなど)を事前に確認しておきましょう。
- 「たまご粥」の作り方を覚えておきましょう。ご飯、水、卵、そして少々の塩か醤油だけで、究極の回復食が作れます。
第6章:医療のセーフティネット:受診すべき危険な兆候(レッドフラグ)
ほとんどの急性胃腸炎は自宅での療養で回復に向かいますが、中には重症化のサインや、別の深刻な病気が隠れている場合があります。自分の体が出す「危険信号(レッドフラグ)」を見逃さないことが非常に重要です。例えば、「我慢できないほどの激しい腹痛」は、単なる胃腸炎ではなく、虫垂炎など緊急手術が必要な病気の可能性を示唆しているかもしれません。また、「血便や黒色便」は、腸内で出血が起きているサインであり、迅速な診断が必要です9。これらのサインは、体が発する最大の警告と捉えるべきです。
具体的な危険信号としては、水分を全く受け付けない、尿がほとんど出ないといった激しい脱水の兆候、38℃以上の高熱が続く、前述の激しい腹痛や血便、嘔吐や下痢が長時間続く場合などが挙げられます9。このような症状が見られた場合は、自己判断せず速やかに医療機関を受診してください。また、「救急車を呼ぶべきか迷う」という状況では、公的な電話相談窓口「救急安心センター事業(#7119)」が非常に役立ちます。医師や看護師が症状を聞き取り、適切な対処法をアドバイスしてくれます。15歳未満のお子様については、同様のサービスとして「小児救急電話相談(#8000)」があります。
受診の目安と注意すべきサイン
- 水分を全く受け付けず、ぐったりしている場合
- 我慢できないほどの腹痛や、血が混じった便が出た場合
- 38℃以上の高熱が24時間以上続く場合
第7章:よくある疑問と最新の知見
胃腸炎の食事療法について、「ヨーグルトは腸に良いから食べた方がいいのでは?」といった疑問を持つのは自然なことです。プロバイオティクスが下痢の期間を短縮する可能性を示唆する研究は確かに存在します。しかし、科学の世界では、一つの研究結果だけでなく、多くの研究を統合して分析した「エビデンスの全体像」が重視されます。プロバイオティクスの効果に関する世界で最も信頼性の高い分析の一つであるコクラン・レビューでは、多くの研究結果をまとめると、効果にはばらつきが大きく、全ての患者に一律で推奨できるほどの強力な根拠はまだない、と結論付けています12。これは、プロバイオティクスが無効だという意味ではなく、「確立された標準治療(経口補水療法など)に取って代わるものではない」ということを意味します。
もう一つのよくある疑問は「下痢止めを使うべきか」という点です。下痢は、体内の病原体を外に排出しようとする体の重要な防御反応です。市販の下痢止めを自己判断で使用すると、この排出を妨げてしまい、かえって回復を遅らせるリスクがあります9。特に細菌性腸炎が疑われる場合には、原則として使用すべきではありません。日本の多くのガイドラインでも、下痢止めの使用は推奨されていません1。
このセクションの要点
- プロバイオティクス(ヨーグルトなど)は補助的な役割に留め、経口補水療法などの基本治療を優先すべきです。
- 下痢は体内の病原体を排出する防御反応の一部であるため、自己判断での下痢止めの使用は回復を遅らせるリスクがあり、原則として避けるべきです。
よくある質問
プロバイオティクスやヨーグルトは効果があるか?
ヨーグルトやプロバイオティクス(乳酸菌など)が下痢に良いという話は広く知られています。いくつかの研究では、プロバイオティクスが急性ウイルス性胃腸炎の下痢の期間を短縮する可能性が示唆されています12。しかし、そのエビデンスレベルはまだ確立されたものとは言えません。世界的に信頼性の高いコクラン・レビューなどの複数のシステマティック・レビューでは、研究間の異質性が大きく、全体としてエビデンスの質は低いと結論づけられており、急性感染性下痢症の全ての患者に対して一律に推奨できるほどの強力な根拠はない、というのが現状です12。結論として、プロバイオティクスは一般的に安全ですが、経口補水療法のような確立された治療法に取って代わるものではありません。補助的な役割として試すことは考えられますが、過度な期待はせず、基本の食事療法を優先すべきです。
下痢止め(止瀉薬)は使うべきか?
結論
急性胃腸炎からの回復は、正しい知識に基づいたセルフケアにかかっています。本稿で解説した数多くの情報の中から、特に記憶すべき重要な原則は、①食事よりもまず経口補水液(ORS)による水分・電解質補給を最優先すること1、②嘔吐がおさまり次第、おかゆなど消化の良い食事を早期に開始すること4、③脂肪・糖分・食物繊維の多い食事は回復を妨げるため避けること、そして④激しい腹痛や血便などの危険な兆候を見逃さず、迷わず医療機関を受診することです9。急性胃腸炎はつらい症状を伴いますが、適切な食事管理は、回復への道のりを着実に、そして安全に進むための最も確かな羅針盤となります。
免責事項
本コンテンツは一般的な医療情報の提供を目的としており、個別の診断・治療方針を示すものではありません。症状や治療に関する意思決定の前に、必ず医療専門職にご相談ください。
参考文献
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