がん治療中、下痢は最も頻繁にみられる副作用の一つですが、その深刻さは軽視されがちです。これは単なる一時的な不快症状ではなく、治療効果、安全性、そして患者さんの生活の質(QOL)に深刻な影響を及ぼす複雑な病態です。下痢の重要性を理解し、積極的に管理することは、がん治療を成功に導くための鍵となります。1
この記事の科学的根拠
本記事は、日本の公的機関・学会ガイドラインおよび査読済み論文を含む高品質の情報源に基づき、出典は本文のクリック可能な上付き番号で示しています。
要点まとめ
はじめに:なぜ下痢はがん化学療法において深刻な副作用なのか
「ただの腹下しだろう」と思っていたら、治療そのものが続けられなくなるかもしれない——がん治療中の下痢には、そんな深刻なリスクが潜んでいます。治療の副作用だけでも心身ともに辛い中、いつ催すか分からない便意におびえ、外出もままならなくなると、精神的にも追い詰められてしまいますよね。そのお気持ち、とてもよく分かります。
科学的には、この問題の背景には細胞レベルでの変化があります。化学療法は、活発に分裂するがん細胞を標的としますが、実は私たちの腸の内側を覆う粘膜細胞も、同じように新陳代謝が非常に活発です。そのため、抗がん剤ががん細胞だけでなく、この大切な腸の細胞まで攻撃してしまうのです。これは、まるで工場の生産ラインで、不良品だけを取り除くはずが、正常な部品まで一部廃棄してしまうようなもの。その結果、腸が水分や栄養をうまく吸収できなくなり、下痢として現れます。米国臨床腫瘍学会(ASCO)などの国際的なガイドラインでは、この状態が脱水や栄養失調、腎不全にまで至る危険性を指摘しています2。だからこそ、下痢を「我慢するもの」ではなく「対処すべき重要なサイン」と捉え、症状を正確に記録し、医療チームに伝えることが、治療を安全に続けるための第一歩となるのです。
受診の目安と注意すべきサイン
- 指示された薬を飲んでも24時間以上下痢が続く、または1日に7回以上の水様便がある16
- 38℃以上の熱がある、または激しい腹痛が続く
- 便に血が混じる(鮮血またはタール状の黒い便)
- めまい、立ちくらみ、尿がほとんど出ないなど、明らかな脱水の兆候がある
医学的管理:エビデンスに基づく薬理学的解決策
処方された下痢止めを飲んでも一向に良くならず、「どうすればいいのだろう」と途方に暮れてしまうことは、決して珍しいことではありません。特に、「薬の添付文書に書かれている量より多く飲むように指示されたけれど、本当に大丈夫?」と不安になるお気持ちは、もっともです。がん治療中の下痢は、普段の食あたりなどとは根本的に原因が異なるため、特別な対処法が必要になります。
その背景には、薬の作用機序が関係しています。例えば、標準的な治療薬であるロペラミドは、腸の動きを穏やかにするスイッチを入れ、水分が吸収される時間を稼ぐ働きをします。これは、交通量の多い道路で信号の時間を調整し、渋滞を緩和させるようなものです。しかし、化学療法による下痢は、いわば道路自体が損傷しているような状態。そのため、米国臨床腫瘍学会(ASCO)の2004年のガイドラインでは、通常の何倍もの量を使う高用量療法が推奨されています10。だからこそ、自己判断で市販薬の用法を守るのではなく、医師の指示通りに服用することが何より重要なのです。それでも効果がない難治性の場合には、ホルモンの働きを応用したオクトレオチドという注射薬1や、日本独自の選択肢として漢方薬が有効なこともあります。
今日から始められること
- 医師から処方された下痢止めの「飲み方」(いつ、どのくらいの量から始めるか)を再確認する。
- 薬を飲んでも症状が改善しない場合の、病院への連絡手順(時間帯、連絡先)をメモしておく。
自己管理と食事戦略:主体的に健康をコントロールする
下痢が続くと食欲もなくなり、「何を食べたらいいのか、かえって悪化させてしまうのではないか」と食事そのものが怖くなってしまいますよね。体力をつけなければと焦る気持ちと、お腹を壊すことへの不安との間で、板挟みになってしまうのは辛いことだと思います。
ここでの知恵は、「攻め」ではなく「守り」の栄養管理です。まずは何よりも、失われた水分と電解質を取り戻すことが最優先。体内の水分バランスは、精密な機械を動かす潤滑油のようなもので、これが不足すると全ての機能が低下してしまいます。特に、筋肉や心臓の働きに重要なカリウムが失われやすいことが指摘されています15。そのため、ただの水よりも、電解質が含まれた経口補水液やスポーツドリンクが推奨されます。その上で、食事は「腸を休ませる」ことを第一に考えましょう。おかゆやよく煮込んだうどん、皮をむいたリンゴやバナナなど、食物繊維や脂肪が少なく消化しやすいものから試すのが基本です。日本の国立がん研究センターも、同様の食事の工夫を推奨しています9。
今日から始められること
- 経口補水液やスポーツドリンクを常備し、喉が渇く前に少量ずつこまめに飲む習慣をつける。
- 食事は一度にたくさん食べず、消化の良いものを数回に分けて摂る「分割食」を試してみる。
- 肛門周囲の皮膚を保護するため、排便後は強くこすらず、ぬるま湯で洗い流し、優しく押さえるように拭く。
特集:特定の治療法による下痢の管理
「私の使っている抗がん剤は、特に下痢がひどいと聞いている…」そんなふうに、ご自身の治療薬に特有の副作用について、強い不安を感じていらっしゃるかもしれません。そのご心配はもっともなことで、実際に薬の種類によって下痢の原因や適切な対処法は異なります。個別のアプローチを知ることは、不安を和らげ、より効果的に対処するための第一歩です。
例えば、大腸がん治療などで使われるイリノテカンという薬は、二種類の下痢を引き起こすことで知られています。投与後24時間以内に起こる「早期型」と、数日経ってから始まる「遅発性」です。この違いは、体内での薬の分解プロセスに起因します。科学的には、遅発性下痢は、イリノテカンの代謝物(SN-38)が、腸内細菌の持つ酵素によって“再起動”され、毒性を発揮して腸の粘膜を傷つけることで起こります。このメカニズムを解明した2024年の包括的なレビュー論文では6、この酵素の働きを抑える漢方薬「半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)」の有効性も報告されています。また、免疫チェックポイント阻害薬による下痢は、免疫システムが自身の腸を攻撃してしまう自己免疫反応が原因の場合があり、この場合は通常の下痢止めではなくステロイド治療が必要になるなど、全く異なる対応が求められます23。だからこそ、「いつもの下痢」と自己判断せず、どんな治療を受けているかを医療者に正確に伝えることが重要なのです。
今日から始められること
- ご自身が受けている化学療法や放射線治療の名称を、お薬手帳などで正確に把握しておく。
- 下痢が始まった「時期」(投与後すぐか、数日後か)と便の性状を記録し、診察時に伝える準備をする。
腸内環境の最前線:プロバイオティクス、マイクロバイオーム、未来の治療法
「ヨーグルトなどの乳酸菌は、お腹の調子を整えるのに良いと聞くけれど、がん治療中でも摂っていいのだろうか?」そう疑問に思われる方は少なくないでしょう。私たちの腸内には、一つの生態系とも言えるほど多様な細菌が共存しており(腸内マイクロバイオーム)、そのバランスが健康を支えています。治療によってこのバランスが崩れることが、下痢の一因と考えられています。
科学的には、このバランスを整えるためにプロバイオティクス(善玉菌)を活用しようという研究が進められています。これは、いわば荒れた土地に、環境を整える働きのある植物を植えるようなアプローチです。実際に、複数の研究を統合した2022年のメタアナリシスでは、プロバイオティクスが化学療法による下痢を軽減する可能性が示唆されました24。しかし、その一方で、白血球が極端に減少している時期など、体の抵抗力が非常に弱っている患者さんでは、プロバイオティクスの生きた菌が血流に入り込み、感染症を引き起こすという理論的なリスクも専門家から指摘されています47。だからこそ、現時点では「誰にでも安全に推奨できる」段階には至っておらず、主治医との相談が不可欠なのです。これは、良かれと思ってやったことが、かえってリスクになる可能性を避けるための重要な知恵です。
このセクションの要点
- 化学療法は腸内細菌のバランスを崩し、下痢の一因となる可能性がある。
- プロバイオティクスには下痢を軽減する可能性が示唆されているが、安全性に関する懸念もあり、使用には医師への相談が必須である。
日本の制度をナビゲートする:サポートと情報源を見つける
治療の副作用の辛さや、これからの生活に対する不安を、たった一人で抱え込んでしまうのは、あまりにも大きな負担です。「こんなことを医療スタッフに話しても迷惑だろうか」「誰に相談すればいいのか分からない」と感じ、孤独感を深めてしまう方もいらっしゃいます。
しかし、日本には、こうした悩みに寄り添うための公的な仕組みが整っています。その中心的な存在が、全国のがん診療連携拠点病院に設置されている「がん相談支援センター」です。ここは、いわば患者さんとそのご家族のための「総合案内窓口」のような場所。専門の研修を受けた相談員が、副作用のことから医療費、仕事のことまで、無料で、そして秘密厳守で相談に乗ってくれます。がん情報サービスの2023年の報告によれば、多くの患者さんがここで具体的な情報や精神的な支えを得ています25。特に食事の悩みについては、「がん病態栄養専門管理栄養士」という、がん患者さんの栄養管理に特化した専門家への相談も可能です26。知恵とは、時に一人で考え抜くことではなく、どこに助けを求めればよいかを知っていることでもあります。これらの制度は、あなたが利用するために存在しているのです。
今日から始められること
- 通院している病院に「がん相談支援センター」があるか確認し、場所や利用方法を調べてみる。
- 次の診察時に、「食事のことで管理栄養士さんに相談したい」と医師や看護師に伝えてみる。
- 国立がん研究センターの「がん情報サービス」のウェブサイトをブックマークしておく。
よくある質問
下痢が始まったら、すぐに食事を止めたほうがいいですか?
完全に絶食する必要はありませんが、腸を休ませることは重要です。まずは固形物を控え、経口補水液や薄いスープなどで水分と電解質を補給することに専念してください。症状が少し落ち着いたら、おかゆやよく煮込んだうどんなど、消化の良いものから少量ずつ再開しましょう。15
市販の下痢止め薬を使っても大丈夫ですか?
自己判断での使用は避けるべきです。がん治療による下痢は、原因が特殊であり、通常の用法・用量では効果が不十分な場合や、かえって状態を悪化させる危険性(特に感染性の下痢の場合)があります。必ず医師から処方された薬を、指示された通りに使用してください。11
下痢をしているとき、牛乳やヨーグルトは避けたほうがいいですか?
はい、一時的に避けることが推奨されます。化学療法などによって腸の粘膜がダメージを受けると、乳製品に含まれる乳糖を分解する酵素の働きが弱まり、下痢や腹部膨満感の原因となることがあります(二次性乳糖不耐症)。症状が改善してから、少量ずつ試してみるのが良いでしょう。18
結論
がん治療に伴う下痢は、単なる不快な症状ではなく、治療計画そのものを脅かし、患者さんのQOLを著しく低下させる重大な医学的問題です。しかし、本記事で見てきたように、下痢は決して「我慢するしかないもの」ではありません。その原因を理解し、症状を正確に記録・伝達し、適切な薬物療法と自己管理(水分補給、食事療法)を組み合わせることで、その影響を大幅に軽減することが可能です。知識は、不安を和らげ、ご自身の治療に主体的に参加するための最も強力なツールです。一人で抱え込まず、医療チームや「がん相談支援センター」のような専門機関と連携し、積極的に対策を講じることで、より安全に治療を継続し、あなたらしい生活を守り抜きましょう。
免責事項
本コンテンツは一般的な医療情報の提供を目的としており、個別の診断・治療方針を示すものではありません。症状や治療に関する意思決定の前に、必ず医療専門職にご相談ください。
参考文献
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