この記事の科学的根拠
この記事は、入力された研究報告書で明示的に引用されている最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下は、参照された実際の情報源と、提示された医学的ガイダンスへの直接的な関連性を含むリストです。
- 日本乳癌学会(JBCS): 本記事における手術、化学療法、放射線療法、およびその他の治療法の推奨事項や時期に関する指針は、日本乳癌学会が発行した診療ガイドラインに基づいています23。
- 米国国立がん研究所(NCI): 妊娠中の診断方法(超音波、マンモグラフィ、生検)の安全性と有効性、および治療選択肢に関する記述は、NCIが提供する専門家向け情報(PDQ®)を参考にしています4。
- 国際的な医学論文(PubMed掲載): PABCの予後が非妊娠患者と同等であること、診断の遅れが最大の問題であること、そして集学的治療の重要性に関する分析は、The Lancet Oncologyなどの査読付き学術雑誌に掲載された複数の研究に基づいています56。
- 米国臨床腫瘍学会(ASCO): 治療後の将来の妊娠に関する最新のデータと安全性に関する知見は、ASCOの年次総会で発表された研究などを基にしています7。
要点まとめ
- 妊娠関連乳がん(PABC)とは、妊娠中または出産後1年以内に診断される乳がんであり、診断の遅れが予後を悪化させる最大の要因です1。
- 妊娠による乳房の生理的変化が診断を困難にしますが、超音波検査や鉛の防護具を使用したマンモグラフィ、生検は胎児に対して安全に実施できます89。
- 治療は、腫瘍内科医、乳腺外科医、産科医などからなる集学的チームによって、妊娠週数とがんの特性に基づき個別化されるべきです6。
- 手術は妊娠の全期間で安全に実施可能です。化学療法は器官形成期である妊娠第一トリメスター(妊娠初期の約14週まで)は禁忌ですが、それ以降は安全に開始できます2。
- 放射線療法、ホルモン療法、抗HER2療法は妊娠中は禁忌であり、出産後に開始されます。これらの治療中は授乳できません2。
- 化学療法開始前には、将来の妊娠に備えた妊孕性温存(にんようせいおんぞん)についての相談が不可欠です10。
- 乳がん治療後の妊娠は、再発リスクを増加させないことが多くの研究で示されており、安全であると考えられています3。
第1部:妊娠関連乳がん(PABC)の臨床的背景と疫学
1.1. 定義と臨床的重要性
妊娠関連乳がん(PABC)は、妊娠中または出産後1年以内に診断される乳がんとして定義されます11。これは、生殖可能年齢の女性において、妊娠中および産褥期に発見される最も一般的ながんです4。この定義が出産後1年まで延長されていることには、深い臨床的意味があります。それは、ホルモンによる乳房の著しい変化が出産直後に終わるのではなく、授乳期間中も継続するという生理学的事実を認識しているためです。したがって、妊娠中にすでに大きい診断上の課題は、産後期にも存続し、さらに複雑になる可能性があります。
この定義の存在は、診断が遅れる危険性のある期間が長引くことを強調しています。臨床的な課題は妊娠中の9ヶ月間に限定されず、母親の注意が新生児に完全に集中し、自身のケアや異常な症状に対する医療相談を遅らせる可能性がある産後期にまで及びます。このため、定期的な妊婦健診から産後の健康診査に至るまで、継続的なケアと意識向上の戦略が求められます。この定義を理解することは、患者と医療従事者の双方が、妊娠期間だけでなくそれ以降も潜在的な危険性と警戒の必要性を認識し、効果的な行動計画を構築するための最初の、そして最も基本的な一歩です。
1.2. 疫学:日本で増加傾向にある課題
世界的に、PABCの発生率は妊娠約3,000件に1件と推定されており、比較的稀ではあるものの臨床的に重要な状態です4。しかし、日本の疫学的背景はより懸念される状況を示しており、PABCはますます増加する課題となる可能性があります。国のデータによると、日本人女性の乳がん全体の罹患率は著しく上昇しており、現在では生涯で9人に1人が罹患すると推定されています12。
さらに重要なことに、年齢別分析では、罹患率は30代後半から急激に上昇し始め、40歳から60歳の間にピークを迎えることが示されています12。この期間は、女性の生殖可能年齢と大きく重なります。同時に、日本は他の多くの先進国と同様に、初産年齢が上昇する(晩産化)という顕著な社会的傾向を経験しています4。これら二つの要因—生殖可能年齢における高い乳がん罹患率と母親になる年齢の遅延傾向—が組み合わさることで、社会的・生物学的な「パーフェクトストーム(最悪の状況)」が生み出されています。
その結果、女性が妊娠を遅らせるにつれてPABCの発生率が増加するという世界的な予測は、日本に当てはまるだけでなく、この国の特定の文脈でさらに増幅されます。これは、PABCが「稀な」状態から、より一般的で予測可能な臨床的課題へと徐々に変化していることを意味します。この変化は、日本の医療制度に対して喫緊の要求を突きつけています。妊娠前のカウンセリングにおけるより積極的な戦略、乳がんの兆候を認識するための産婦人科医や助産師へのトレーニング強化、そして30代・40代の女性を対象とした地域社会での意識向上キャンペーンの展開が求められており、妊娠中や授乳中であっても乳房の健康に注意を払うことの重要性を強調する必要があります。
1.3. 予後:真の敵は「遅延」であり、「妊娠」ではない
現存する医学的証拠から得られる最も核心的で安心感を与えるメッセージの一つは、PABC患者の予後に関するものです。長年にわたり、エストロゲンのようなホルモンの増加を伴う妊娠が、乳房の腫瘍を「養う」または急速に成長させるという誤解が広まっていました。しかし、信頼性の高い臨床研究やガイドラインは、この仮説を一貫して否定しています。データによると、妊娠、妊娠の継続、出産、さらには授乳でさえも、腫瘍の進行に悪影響を与えたり、乳がんの再発リスクを高めたりすることはありません2。同様に、妊娠中絶が母親の生存機会を改善することは証明されておらず、したがって治療選択肢とは見なされていません13。
PABC患者の予後に影響を与える真の敵は、妊娠の生理的状態ではなく、診断の遅れです。報告によると、この遅延は一般的で、最初の症状が現れてから平均して5ヶ月から15ヶ月続きます4。この遅延は、がんがより進行した段階で発見されることに直接つながり、腫瘍が大きくなったりリンパ節に転移したりしているため、治療がより困難になり、結果も芳しくなくなります4。
対照的に、病期に合わせて適切に診断・治療された場合、PABC患者の生存率は、同年齢・同病期の非妊娠患者と同等です6。この発見は、PABCの管理モデルを完全に再構築するため、極めて重要です。焦点はもはや妊娠を非難したり、妊娠中絶のような抜本的な手段を検討したりすることではなく、症状の出現から確定診断までの期間をいかに短縮するかという、制度的・物流的な問題に取り組むことにあります。現代のPABC管理モデルは、「妊娠中絶に踏み切るのではなく、診断に踏み切る」という原則を中心に展開されなければなりません。したがって、効果的な行動計画は、診断の遅れにつながる障壁を打破するための戦略を優先する必要があり、それには「ブレスト・アウェアネス(乳房を意識する生活習慣)」を通じた患者へのエンパワーメントや、非専門の臨床医(産婦人科医、助産師など)が乳房のいかなる異常に対しても断固として行動するための知識と自信を身につけさせることが含まれます。
第2部:妊娠中の乳がん診断 ― 課題と安全な手順
2.1. 兆候と認識:生理的変化という「雑音」を乗り越える
妊娠中に乳房が経験する正常な生理的変化のため、乳がんの兆候を認識することは大きな課題です。乳がんの典型的な兆候には、乳房や脇の下にしこりや厚みのある部分が現れること、乳房の大きさや形が変わること、乳房の皮膚にくぼみやしわができること、乳首が陥没すること、そして特に血が混じった乳頭からの分泌物が挙げられます13。しかし、妊娠中はホルモンの影響で乳腺が発達するため、乳房は自然に大きく、張り、ゴツゴツしたり、小さな塊が多く感じられたりすることがあります4。
これらの変化は生理的な「雑音」を生み出し、小さく異常な腫瘤を発見することを、まるで砂利の袋の中から一つの小石を見つけようとするかのように、非常に困難にします14。患者も、そして時には医療従事者でさえも、これらの変化を妊娠の正常な一部とみなしがちで、これは「診断的惰性(diagnostic inertia)」と呼ばれる危険な現象につながります10。これは、妊娠という状況下で異常な兆候を正常なものとして捉え、即座に行動する代わりに「様子を見る」という態度につながる傾向です。
この障壁を乗り越えるためには、「ブレスト・アウェアネス」に関する教育がこれまで以上に重要になります。この概念は、単に決められたスケジュールで「自己検診」を行うことではなく、女性が自身の乳房の正常な感触や形(妊娠中の変化を含む)に慣れ親しみ、新しく、持続的、または局所的な変化に気づき、すぐに医師に報告することを奨励するものです13。行動計画は、考え方の転換を促す必要があります。すなわち、新たに出現した、硬く、痛みがなく、月経周期後(もしあれば)または特定の場所での授乳後も消えないしこりは、画像診断と生検によってがんでないと証明されるまで、がんとして扱うべきです。より深い調査を行うための閾値を低く設定することが、診断の遅れと戦うための最も効果的な戦略です。
2.2. 安全で効果的な診断プロセス:三位一体の診断法
妊娠中の女性に乳房の異常が発見された場合、「三位一体の診断法(diagnostic triad)」と呼ばれる標準的な診断プロセスが適用されます。これには、臨床診察、画像診断、そして生検が含まれます。具体的な手法の選択は、胎児への安全性を最大限に確保するために調整されます。
- 超音波検査(エコー): これは妊娠中における第一選択の、そして最も安全な画像診断法です。超音波は電離放射線を使用せず、胎児に全く無害です15。より疑わしい固形の腫瘤と、通常は良性である液体を含む嚢胞とを区別するのに非常に効果的です14。超音波は腋窩(脇の下)のリンパ節を評価するためにも使用できます。
- マンモグラフィ: X線を使用しますが、必要であれば妊娠中でも安全に実施できます。腹部を覆う鉛の防護具を使用することで、胎児を放射線被曝から効果的に保護します3。胎児が受ける放射線量は極めて微量で、既知の有害な閾値をはるかに下回っています。しかし、妊娠中のマンモグラフィの制約として、乳腺密度の上昇がこの手法の感度を低下させ、腫瘤が隠れてしまい偽陰性の結果につながることがあります16。
- 生検: これは乳がんを確定診断するための必須かつ唯一の方法です。生検は妊娠中に実施しても全く安全です13。小さな組織サンプルを採取する針生検(コアニードルバイオプシー)は、組織型や受容体の状態など、病理医により多くの情報を提供するため、穿刺吸引細胞診(FNA)よりも優先されます。臨床医が病理医に、生検サンプルが妊娠中の患者から採取されたものであることを伝えることは極めて重要です。なぜなら、妊娠に関連する細胞の変化は、この臨床的背景がなければがんの兆候と誤解される可能性があるからです17。
- 磁気共鳴画像法(MRI): ガドリニウム造影剤を使用しないMRIは、特定の状況で検討されることがあります。しかし、ガドリニウム造影剤を用いたMRIは、特に妊娠第一トリメスターでは通常避けられます。ガドリニウムが胎盤を通過する可能性があり、胎児に対する長期的な安全性に関するデータが限られているためです3。
この診断プロセスは、初期段階からの集学的チームの重要な役割を強調します。放射線科医は、妊娠中の高濃度乳房の画像を解釈する経験が必要です。病理医は、正確な診断を下すために患者の妊娠状態を認識している必要があります。これらの専門家間の円滑な連携が、迅速かつ正確な診断を保証し、効果的な治療計画の策定の土台となる鍵となります。
診断法 | 説明 | 胎児への安全性 | 推奨される使用法/時期 | 主な制約/考慮事項 |
---|---|---|---|---|
視触診 | 医師が乳房と腋窩部を診察し、しこりや異常がないかを確認する。 | ◎ 非常に高い | 妊産婦健診の必須項目。 | 妊娠による高濃度乳房では感度が低い。 |
超音波検査 | 超音波を用いて乳腺組織の画像を生成する。 | ◎ 非常に高い | 発見されたしこりを評価する第一選択の画像診断法。 | 術者の技術に依存する。 |
マンモグラフィ | 低線量のX線を用いて乳房を撮影する。 | ○ 安全(鉛防護具使用) | 超音波で結論が出ない場合や、他の疑わしい所見(例:微小石灰化)がある場合に使用。 | 乳腺密度の上昇により感度が低下する可能性あり。 |
針生検 | 専用の針を用いて腫瘤から小さな組織サンプルを採取する。 | ◎ 非常に高い | 確定診断のゴールドスタンダード。全妊娠期間で安全。 | 生検部位でのわずかな出血や感染の危険性。 |
非造影MRI | 強力な磁場を用いて詳細な画像を生成する。 | ○ 一般的に安全 | 他の方法では不十分な場合に、病変の広がりを評価するために選択的に使用。 | 安全性に関するデータはまだ収集中。 |
造影MRI(ガドリニウム使用) | 造影剤を用いて画像を強調するMRI。 | × 禁忌 | 全妊娠期間を通じて避けるべき。 | ガドリニウムは胎盤を通過し、胎児への潜在的リスクが完全には排除されていない。 |
第3部:妊娠週数に応じた集学的治療計画
3.1. 黄金律:集学的チームによる計画
妊娠中の乳がん治療は、最も複雑な臨床状況の一つであり、二つの重要な目標、すなわち「母親に対する効果的ながん治療」と「胎児に対する最大限の安全性確保」との間の繊細なバランスが求められます。したがって、PABC管理における黄金律であり、不可欠な原則は、集学的チームによる治療の計画と実施です6。
このチームは単なる専門家の集まりではなく、緊密に連携する一つの単位であり、通常以下のメンバーで構成されます:
- 腫瘍内科医: 化学療法などの全身療法を担当。
- 乳腺外科医: 外科的介入を実施。
- 産科医および母体・胎児専門医: 母親の健康と胎児の発育を監視し、分娩の時期と方法について助言。
- 放射線治療医: 出産後の放射線療法を計画。
- 麻酔科医: 手術中の母子双方に対する安全な麻酔を保証。
- がん専門看護師: 患者への継続的なケア、教育、支援を提供。
この連携は形式的な推奨ではありません。各治療決定は共同討議の結果であり、専門家たちが「治療の三重苦(Treatment Trilemma)」、すなわち (1)母親にとっての最適ながん治療成績、(2)胎児への絶対的な安全性、(3)妊娠の時期による制約、を共に分析し、舵取りをします。最終的な治療計画は、病期、腫瘍の生物学的特性(例:ホルモン受容体、HER2の状態)、現在の妊娠週数、そして同様に重要な患者自身の希望と価値観に基づいて、個別化されなければなりません11。
3.2. 妊娠第一トリメスター(0〜14週):最も危険性の高い期間
妊娠第一トリメスターは、胎児の主要な器官が形成される時期(器官形成期)であるため、極めて敏感な段階です。したがって、この期間の治療選択肢は非常に限られており、細心の注意を払って検討されなければなりません。
- 化学療法: 絶対に禁忌です。妊娠初期3ヶ月間の化学療法の使用は、胎児に重篤な先天奇形を引き起こすリスクと関連しており、その発生率は最大20%と報告されています2。
- 放射線療法、内分泌療法、分子標的療法: 化学療法と同様に、これらの治療法も胎児の発育に重大なリスクをもたらすため、妊娠第一トリメスターでは禁忌です2。
- 手術: この段階で唯一可能かつ主要な治療法です。手術は安全に実施できますが、麻酔に関連する流産のリスクを最小限に抑えるために、麻酔科医と産科医との緊密な連携が不可欠です2。
この段階では、乳房温存手術(BCS)よりも乳房切除術(マステクトミー)がしばしば優先されます13。この選択は、単なる外科的な決定ではなく、深い戦略的な判断でもあります。なぜなら、BCSは効果を確保し局所再発のリスクを低減するために、補助的な放射線療法を伴うことが必須だからです2。しかし、放射線療法は妊娠期間中ずっと禁忌です。もし第一トリメスターに診断された患者がBCSを選択した場合、6ヶ月以上にも及ぶ放射線療法の遅延に直面することになり、これは腫瘍学的に望ましくありません。最初から乳房切除術を選択することで、通常は放射線療法の必要性がなくなり、将来の「放射線療法の問題」を解決できます。これにより、患者は未解決の局所治療要件に煩わされることなく、第二トリメスターに速やかに化学療法段階へ移行することが可能になります。
3.3. 妊娠第二・第三トリメスター(14週以降):治療の窓
胎児の器官形成が約14週で完了すると、「治療の窓」が開き、より多くの治療法を安全に適用できるようになります。
- 手術: この段階でも手術は安全な選択肢であり、特に第二トリメスターは実施に最適な時期と見なされています2。乳房温存手術(BCS)は、手術から出産後の放射線療法開始までの期間が短くなり、臨床的に許容されるため、より実行可能な選択肢となります13。センチネルリンパ節生検(SLNB)も、リンパ節転移の状態を評価するために安全に実施できます。ガイドラインでは、放射性同位元素(テクネチウム99m)の使用を優先し、青色色素の使用は避けるよう推奨しています。これは、色素が胎児に害を及ぼすリスクが懸念されるためです2。
- 化学療法: 全身治療を開始するための主要な時期です。化学療法は妊娠14週から安全に開始できます2。この時点で胎盤は完全に発達し、一部の薬剤の通過を制限する比較的効果的な障壁として機能します。アントラサイクリン系(例:ドキソルビシン、エピルビシン)やタキサン系(例:パクリタキセル、ドセタキセル)の薬剤に基づく標準的な化学療法レジメンが研究され、この時期の使用は安全かつ効果的であると考えられています6。
- 出産前の化学療法中止: 重要な原則として、化学療法は予定日の少なくとも3週間前、通常は妊娠35週頃に中止しなければなりません6。この「3週間ルール」は恣意的な指針ではありません。それは薬物動態学と血液学の知識に基づいています。化学療法は骨髄抑制を引き起こし、白血球や血小板の減少(最低値、ナディア)が各サイクルの約7〜14日後に起こります。出産は出血と感染のリスクを伴うプロセスです。もしナディアの時期に出産が起これば、母子ともに生命を脅かす出血や敗血症の高いリスクに晒されます。出産3週間前に化学療法を中止することで、医療チームは母子双方の血球数が安全なレベルまで回復する十分な時間を確保します。これには、最後の化学療法サイクルと予定日とのタイミングについて、腫瘍内科医と産科医の間で綿密な計画調整が必要です。
3.4. 禁忌とされる治療法とその影響
妊娠後期に治療の窓が開くにもかかわらず、胎児を保護するために、いくつかの標準的な乳がん治療法は依然として絶対禁忌とされています。
- 放射線療法: 妊娠のどの段階でも禁忌です。胎児を遮蔽することは可能ですが、常に胎児への散乱放射線のリスクがあり、先天性奇形、発育遅延、または将来の二次がん発症リスクの増加を引き起こす可能性があります2。
- 内分泌療法(ホルモン療法): タモキシフェンやアロマターゼ阻害剤などの薬剤は、胎児の正常な発育、特に生殖器系に干渉する可能性があるため禁忌です2。
- 分子標的療法(HER2陽性がん対象): トラスツズマブ(ハーセプチン)やペルツズマブ(パージェタ)などの薬剤は禁忌です。妊娠中のこれらの使用は、羊水過少(羊水量が極端に少ない状態)や腎不全など、胎児に重篤な合併症を引き起こすことと関連しており、胎児死亡につながる可能性があります2。
これらの重要な治療法が禁忌であることは、ホルモン受容体陽性またはHER2陽性の腫瘍を持つ患者にとって、妊娠期間を通じて「治療の不足(treatment deficit)」を生み出します。これは、数ヶ月間、患者が意図的に、同じ種類のがんを持つ非妊娠患者よりも低いレベルの治療を受けていることを意味します。この事実は、全身の病状を制御するための化学療法の適時な使用の重要性と、遅延されたこれらの治療法を出産後すぐに開始するための綿密な計画の必要性を強調します。また、不完全な治療期間を経験しながら長期的な戦略を信頼しなければならない患者にとって、大きな心理的負担も生み出します。
治療法 | 第一トリメスター (0-14週) | 第二トリメスター (14-28週) | 第三トリメスター (>28週) | 産後 / 授乳期 |
---|---|---|---|---|
手術 (乳房切除術) | 推奨 | 推奨 | 推奨 | 推奨 (未実施の場合) |
手術 (乳房温存術) | 慎重に考慮 | 推奨 | 推奨 | 推奨 (未実施の場合) |
センチネルリンパ節生検 (SLNB) | 慎重に考慮 | 推奨 | 推奨 | – |
化学療法 | 禁忌 | 推奨 (14週以降) | 推奨 (出産3週前まで) | 推奨 (授乳は禁忌) |
放射線療法 | 禁忌 | 禁忌 | 禁忌 | 推奨 (適応あれば) |
内分泌療法 | 禁忌 | 禁忌 | 禁忌 | 推奨 (適応あれば/授乳は禁忌) |
抗HER2療法 | 禁忌 | 禁忌 | 禁忌 | 推奨 (適応あれば/授乳は禁忌) |
第4部:出産後の管理、授乳、そして将来の妊孕性
4.1. 治療ロードマップの完成:産後期
産後期は治療の終わりではなく、計画されたロードマップを完成させるための積極的かつ重要な治療段階です。患者が出産し、産褥期から回復するとすぐに、医療チームは妊娠中に延期されていた治療法を迅速に再開または開始します。この計画は、初期の病状特性に基づいて個別化されます:
- 放射線療法: 乳房温存手術(BCS)を受けた患者に対しては、残存乳房への補助放射線療法が開始されます。これは局所再発のリスクを低減するための標準的かつ必須のステップです2。
- 内分泌療法: ホルモン受容体陽性(ER陽性)の腫瘍を持つ患者は、通常5年から10年間続く内分泌療法を開始します13。
- 分子標的療法: HER2陽性の腫瘍を持つ患者は、抗HER2療法(例:トラスツズマブ)を開始します2。
この段階の管理には、鋭敏さと包括的な支援が求められます。患者は「二つの戦線での挑戦」に直面します。彼らは新生児の世話という身体的・精神的な要求を抱える新しい母親であると同時に、倦怠感やその他の副作用を引き起こす可能性のある治療を受けているがん患者でもあります。これは、身体的および心理的に大きなプレッシャーを生み出します。したがって、包括的な行動計画には、強力な心理社会的支援策、副作用管理に関するカウンセリング、そして患者がこの困難な時期を乗り越えるのを助けるための在宅支援サービスなどが含まれるべきです。
4.2. 授乳に関するガイダンス
国際的および日本の医学ガイドラインは、PABC患者の授乳に関して非常に明確で一貫した推奨事項を提示しています。
- 治療中の禁忌: 患者が手術、化学療法、内分泌療法、または分子標的療法を受けている、あるいはこれから受ける予定がある場合、授乳は中止または開始すべきではありません13。
- 手術との関連: 授乳を中止すると、乳房への血流が減少し、乳房が小さくなるため、手術が容易になり、感染や乳汁のうっ滞(乳瘤)のリスクが減少します18。
- 全身療法との関連: 多くの化学療法薬、内分泌療法薬、分子標的療法薬は、かなりの濃度で母乳に移行し、新生児に深刻な害を及ぼす可能性があります14。赤ちゃんの安全が絶対的な優先事項です。
授乳ができないことは、母親にとって大きな悲しみや喪失感の原因となる可能性があります。なぜなら、それはがんによって奪われた「正常な」母親体験の一部と見なされることがあるからです。医師や医療従事者は、この問題に深い共感をもってアプローチする必要があります。これは単なる医学的指示ではなく、感情的に重い問題であり、母親がこの失望に立ち向かうのを助けるために、繊細なコミュニケーション、カウンセリング、そして心理的支援が求められます。
4.3. 妊孕性温存(にんようせいおんぞん):未来への計画
多くの場合若年であるPABC患者にとって、将来さらに子供を持つ可能性は、がん治療後の生活の質(QOL)の重要な部分です。しかし、がん治療法、特に化学療法は、卵巣に永続的なダメージを与え、早期卵巣不全や不妊症を引き起こす可能性があります10。
したがって、妊孕性温存(妊孕性温存 – Nin’yōsei Onzon)についての話し合いは、不可欠な標準的ケアとなっています。この話し合いは、卵巣に害を及ぼす可能性のある全身療法を開始する前に行われるべきです。PABCと診断された患者の場合、この話し合いは出産後、補助療法を開始する前に行うことができます。選択肢には以下が含まれます:
- 胚(受精卵)凍結
- 卵子凍結
- 卵巣組織凍結
日本では、日本がん・生殖医療学会19のような専門組織や、国立がん研究センター20などの主要な病院内の支援センターが、この分野に関する専門的なカウンセリングとサービスを提供しています。日本政府はまた、これらの手技の費用負担を軽減するための財政支援プログラムも用意しています21。
妊孕性温存についての話し合いは、単なる医療手続きではありません。それは希望の種を蒔き、未来志向の考え方を育む深い行為です。がんと妊娠という二重の診断に打ちのめされている患者にとって、将来の子供についての会話は強力な心理的支えとなり得ます。それは、物語を単なる生存闘争から、生存の旅路とがん後の充実した人生へと再構築するのに役立ちます。行動計画は、この会話を初期カウンセリングプロセスの不可欠な部分として要求し、がん治療そのものと同等の重要性を持つものとして扱うべきです。
4.4. 将来の妊娠:安心感を与えるデータ
乳がんサバイバーの最大の懸念の一つは、将来の妊娠が残存するがん細胞を「目覚め」させ、再発を引き起こすのではないかということです。幸いなことに、ますます強固になる科学的証拠が、安心感を与える答えをもたらしています。
多くの大規模研究により、乳がん治療完了後の妊娠は、疾患の再発リスクを増加させないようであることが示されています3。最近では、2024年の米国臨床腫瘍学会(ASCO)年次総会で発表された重要な研究が、若年乳がんサバイバーの大部分が治療後に成功裏に妊娠し、健康な子供を出産できたことを確認しました7。
しかし、一部の医師や臨床ガイドラインは依然として慎重な推奨をしています。それは、患者が妊娠を試みる前に、治療終了後約2年間待つべきだというものです13。重要なのは、この推奨が妊娠が生物学的に危険であるという根拠に基づいているのではなく、実用的なリスク管理戦略であると理解することです。治療後の最初の2年間は、乳がんの再発リスクが最も高い時期です。待つことによって、もしがんが再発した場合でも、進行中の妊娠という複雑さを伴わずに発見・治療することができます。
これが生物学的な禁忌ではなくリスク管理戦略であることを理解することで、医師と患者の間で柔軟かつ個別化された話し合いが可能になります。低リスクの腫瘍を持つ患者にとっては、待機期間が短縮されるかもしれません。年齢による生殖能力の低下を心配する高齢の患者にとっては、妊娠中に再発するわずかなリスクと、加齢による不妊というより大きなリスクとを比較検討することができます。このガイダンスは、硬直した規則ではなく、繊細な対話の出発点なのです。
第5部:患者のための行動計画と支援
5.1. 患者への行動指針
もしあなたが妊娠中に乳房にしこりや何らかの異常な変化に気づいた場合、冷静に、しかし断固として行動することが重要です。以下に推奨される行動ステップを示します:
- すぐに行動する:「様子を見る」という態度はとらないでください。すぐに産婦人科医または乳腺外科医に連絡してください。遅延が最大の敵です。
- 「三位一体の診断法」を要求する:医師と、視触診、超音波検査、そして腫瘤が固形である場合は生検の実施について話し合ってください。これが確定診断を得るための唯一の道です。
- あなたのチームを集める:PABCの経験が豊富な医療センターに紹介され、集学的チームがいることを確認してください。専門家の連携が最善の治療結果への鍵です。
- 未来について話し合う:化学療法などの全身療法を開始する前に、妊孕性温存の選択肢について積極的に尋ねてください。これは未来を計画するあなたの権利です。
- あなたの計画を理解する:この報告書や上記の要約表のような情報源を活用し、あなたのために個別化された治療計画のリスクと利益について、医療チームと深く、情報に基づいた話し合いを行ってください。
5.2. 日本国内の支援リソース
妊娠中に乳がんの診断に直面することは圧倒されるかもしれませんが、あなたは一人ではありません。日本には、専門的なリソースと支援のネットワークが存在します:
- 専門医療センター: 全国の大学病院や主要ながんセンター、例えば国立がん研究センター22などは、専門の乳腺科と経験豊富な集学的チームを擁しています。
- 臨床ガイドライン: 日本乳癌学会(JBCS)は、医師向けの根拠に基づいた臨床ガイドラインと、患者向けの分かりやすい解説資料を提供しています323。
- 生殖医療サポート: 日本がん・生殖医療学会19はこの分野の主要な組織であり、情報提供や専門家への橋渡しを行っています。政府の費用助成制度も利用可能です21。
- 患者支援:
これらのリソースとつながることで、自信と希望をもって治療の道のりを乗り越えるために必要な情報、支援、そして力を得ることができます。
よくある質問
質問1:妊娠は乳がんを悪化させますか?
質問2:妊娠中に乳がんの治療を受けるのは安全ですか?
質問3:治療中や治療後に授乳はできますか?
質問4:乳がん治療後に、また妊娠・出産することはできますか?
結論
妊娠関連乳がん(PABC)は、母子双方の健康を考慮しなければならない、極めて複雑で感情的に困難な挑戦です。しかし、本稿で詳述したように、科学的根拠に基づく医療の進歩は、希望に満ちた道筋を示しています。診断の遅れこそが最大の敵であり、妊娠中のいかなる乳房の変化も決して見過ごさず、迅速に専門家の評価を求める「ブレスト・アウェアネス」の徹底が、予後を改善する上で最も重要な鍵となります。
集学的チームによる個別化された治療計画を通じて、手術や化学療法などの治療を妊娠中に安全に実施し、母体のがん制御と胎児の健やかな発育を両立させることが可能です。そして、治療後には、将来の妊娠や出産も多くの場合、安全に実現できるという心強いデータも蓄積されています。この困難な旅路において、患者様とご家族が一人で悩む必要はありません。日本の医療制度には、専門的な医療機関、公的支援、そして経験を分かち合う患者支援団体など、信頼できる多くのリソースが存在します。正確な情報を力に変え、医療チームと密に連携し、利用可能な支援を最大限に活用することが、この挑戦を乗り越え、輝かしい未来を築くための確かな一歩となるでしょう。
本記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医学的アドバイスを構成するものではありません。健康上の懸念がある場合、またはご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。
参考文献
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