【科学的根拠に基づく】乳がんの多様性:種類、予後、治療法を紐解く包括的ガイド
がん・腫瘍疾患

【科学的根拠に基づく】乳がんの多様性:種類、予後、治療法を紐解く包括的ガイド

乳がんは、現代日本の女性が直面する最も重大な健康課題の一つです。国立がん研究センターのがん統計によると、2021年には日本全国で新たに約99,449例が診断され、女性のがんの中で罹患数が最多となっています1。この数字は、今や女性の9人に1人が生涯のうちに乳がんに罹患する時代であることを示唆しています3。しかし、希望もあります。治療法の目覚ましい進歩により、5年相対生存率は92.3%と非常に高い水準に達しているのです1。この事実は、現代医療がいかに多くの命を救っているかを物語っています。その一方で、乳がんは依然として30歳から64歳の女性におけるがん死因の第1位であり、多くの女性がキャリアや家庭生活の真っ只中でこの病と闘っているという厳しい現実も存在します3。特に、罹患率は30代後半から急増し、40代後半と60代前半に二つのピークを迎えることが統計的に示されており3、その社会的・個人的影響は計り知れません。本稿の核心的なメッセージは、「乳がん」という言葉が、実際には生物学的に全く異なる性質を持つ多様な疾患の集合体を指すという点にあります10。診断後、最も重要なステップは、ご自身のがんがどの「種類」に属するのかを正確に理解することです。この知識は、がんの振る舞い(予後)を予測し、個々の患者に最適化された治療戦略を立てるための、根本的な鍵となります9

この記事の科学的根拠

この記事は、引用元として明示された最高品質の医学的エビデンスにのみ基づいています。以下は、参照された実際の情報源と、提示された医学的指針との直接的な関連性を示したものです。

  • 国立がん研究センター: 日本における乳がんの罹患率、生存率、年代別統計に関する記述は、同センターが運営する「がん情報サービス」の公的データに基づいています12
  • 世界保健機関(WHO): がんの組織型分類に関する記述は、WHOが発行する国際的な基準である「WHO腫瘍分類 第5版」に基づいています19
  • 米国国立がん研究所(NCI): 乳がんのサブタイプ(ルミナルA/B、HER2陽性、トリプルネガティブ)の定義、特徴、治療法に関する解説は、NCBI Bookshelfで公開されている専門家向けレビューに基づいています7
  • NCCN(National Comprehensive Cancer Network): 各サブタイプに対する具体的な薬物療法の選択肢や治療戦略は、NCCNが発行する診療ガイドラインに基づいています121342
  • 日本乳癌学会(JBCS): 日本国内における診療の指針や、患者向けの推奨事項に関する記述は、同学会が発行する「乳癌診療ガイドライン」に基づいています4347

要点まとめ

  • 乳がんは単一の病気ではなく、生物学的性質が異なる多様な疾患の集合体です。その「種類」を正確に知ることが、治療方針決定の鍵となります。
  • 最初の分類は、転移の能力を持たない「非浸潤がん(ステージ0)」と、転移の可能性がある「浸潤がん」に分けられます。
  • 顕微鏡で見るがんの「顔つき」である組織型や、悪性度(グレード)、広がり(ステージ)によって、がんの基本的な性格が評価されます。
  • 現代の治療は、ホルモン受容体(ER, PR)、HER2、Ki-67という4つのバイオマーカーに基づき、「ルミナルA/B型」「HER2陽性型」「トリプルネガティブ型」のいずれかに分類するサブタイプ診断が中心です。
  • 薬物療法はサブタイプによって完全に異なり、ホルモン療法、抗HER2療法、化学療法、免疫療法、分子標的薬などが個別に選択されます。
  • 患者自身が病理診断報告書を理解し、信頼できる情報源を活用して知識を得ることが、最善の治療を受ける上で不可欠です。

第一部:基礎的分類 – 病理医の視点

この部では、がんの診断における最も基本的かつ重要な分類法を解説します。これらは、病理医が顕微鏡下でがん組織を観察し、その形態や広がりを評価することによって決定されます。

第1章:最初の分岐点 – 非浸潤がんと浸潤がん

乳がんの分類における最初の、そして最も決定的な分岐点は、がん細胞がその発生した場所にとどまっているか、あるいは周囲に広がっているか、という点です。これは、がんが転移する潜在能力を持つかどうかを決定づける根本的な違いです。

非浸潤がん(Carcinoma in Situ):ステージ0のがん

非浸潤がんとは、がん細胞が乳管や小葉といった本来の発生場所の内部に限定されており、基底膜と呼ばれる境界線を越えていない状態を指します14。この段階は「ステージ0」のがんとも呼ばれ、適切に治療されれば転移の心配はなく、生命を脅かすことはないとされています14

  • 非浸潤性乳管がん(Ductal Carcinoma in Situ, DCIS): 乳管から発生する最も一般的な非浸潤がんです14。DCISは、放置すると浸潤性乳管がんに進行する可能性がある「前がん病変」と見なされています14。多くの場合、マンモグラフィ検査で発見される微細な石灰化として見つかります19
  • 非浸潤性小葉がん(Lobular Carcinoma in Situ, LCIS): 乳汁を産生する小葉から発生する、比較的まれな状態です14。ここで極めて重要なのは、LCISはDCISとは異なり、直接的ながんの前駆病変とは見なされていない点です。むしろ、LCISの存在は、将来的に両側の乳房のいずれかに浸潤がんが発生するリスクが通常より高いことを示す「危険因子(リスクマーカー)」として扱われます14

このDCISとLCISの違いは、正確な病理診断がいかに重要であるかを如実に示しています。両者は共に「非浸潤がん」というカテゴリーに含まれますが、その臨床的な意味合いと治療法は全く異なります。DCISは局所的な浸潤がんへの進行を防ぐため、通常は手術と、しばしば放射線治療が行われます。一方、LCISはそれ自体が生命を脅かすものではないため、多くは慎重な経過観察や、将来のがん発生リスクを低減するための薬物療法が選択されます。もしLCISをDCISと同様に扱えば、患者は不必要な手術や放射線治療を受けることになり、これは過剰治療に他なりません。このように、病理学的な精密な分類が、患者を不利益から守り、真の生物学的リスクに見合った治療介入を可能にするのです。

浸潤がん

浸潤がんとは、がん細胞が乳管や小葉の壁を破り、周囲の乳房組織(間質)にまで侵入した状態を指します13。間質には血管やリンパ管が豊富に存在するため、がん細胞はこれらを通じてリンパ節や、骨・肺・肝臓などの遠隔臓器へ広がる(転移する)能力を獲得します13。乳がんと診断されるケースの約80%は、この浸潤がんです21

第2章:組織型分類 – がんの細胞構築

病理医は、がん細胞の集まりがどのような構造(顔つき)をしているかを顕微鏡で観察し、「組織型」として分類します。この分類の国際的な基準となっているのが、世界保健機関(WHO)による「WHO腫瘍分類」であり、最新版は2019年に発行された第5版です19。組織型は、がんの生物学的な振る舞いを予測する上で最初の重要な手がかりとなります。

  • 最も一般的な組織型:浸潤性乳管がん(非特殊型): 以前は「浸潤性乳管癌(Invasive Ductal Carcinoma, IDC)」として知られていましたが、現在では「Invasive Breast Carcinoma of No Special Type (NST)」という名称が用いられます。これは浸潤性乳がんの70~80%を占める最も多いタイプです14。”No Special Type”(非特殊型)という名称は、後述する特殊な組織学的特徴を持たない、標準的な乳がんであることを意味します。典型的には、触診で硬いしこりとして感じられます14
  • 二番目に多い組織型:浸潤性小葉がん: 浸潤性乳がんの約5~10%を占めます25。小葉を発生母地とし、がん細胞が列をなして(single-file pattern)間質に浸潤していく特徴的な形態を示します。このため、明瞭なしこりを形成しにくく、マンモグラフィなどの画像診断で捉えにくいことがあります27。多くはホルモン受容体陽性です26

予後と関連する主要な「特殊型」

これらは頻度こそ低いものの、その組織像ががんの性質を強く反映するため、診断上重要です。

  • 予後良好なタイプ
    • 管状がん (Tubular Carcinoma): がん細胞が正常な乳管に似た管状構造を形成します。予後は極めて良好です19
    • 篩状がん (Cribriform Carcinoma): がん細胞が篩(ふるい)やスイスチーズのような穴のあいた構造を作ります。これも予後良好なタイプです19
    • 粘液がん (Mucinous Carcinoma): がん細胞が豊富な粘液(ムチン)の中に浮遊するように存在します。比較的高齢の女性に見られ、一般的に予後は良好です19
  • 攻撃的・複雑なタイプ
    • 化生がん (Metaplastic Carcinoma): がん細胞が乳腺以外の細胞(例:扁平上皮細胞、紡錘形細胞)に変化(化生)する、まれで多様なグループです。多くはトリプルネガティブであり、攻撃的で治療抵抗性を示すことがあります10
    • 炎症性乳がん (Inflammatory Breast Cancer, IBC): これは純粋な組織型ではなく、臨床的な診断名です。がん細胞が皮膚のリンパ管を塞ぐことで、乳房が赤く腫れ上がり、熱感を持つなど、炎症のような症状を呈します14。頻度は1~5%とまれですが、極めて進行が速く攻撃的で、診断時には少なくともステージIIIBと分類されます15

組織型を特定することは、単なるレッテル貼りではありません。それは、分子マーカーなどの情報が得られる前に、がんの基本的な性格を把握するための第一歩です。例えば、病理診断で「管状がん」と報告されれば、臨床医は直ちに「予後が非常に良いがん」であると認識し、治療の強度を弱める(デ・エスカレーション)可能性を考慮します。逆に「化生がん」と診断されれば、より強力な治療法の検討や、臨床試験への参加を視野に入れることになります。このように、組織型という名称そのものが、治療戦略の方向性を左右する強力な初期情報となるのです。

第3章:悪性度と病期 – 攻撃性と広がりの評価

組織型に加えて、がんの悪性度(グレード)とその解剖学的な広がり(ステージ)を評価することが、予後予測と治療計画の策定に不可欠です。

腫瘍の悪性度(グレード):細胞の「顔つき」の悪さ

グレードは、がん細胞がどれだけ正常な細胞から逸脱しているか、その「顔つきの悪さ」を示す指標です。国際的にはノッティンガム組織学的グレード分類(またはElston-Ellis改良法)が標準として用いられます22。この分類では、腺管形成能、核異型度、核分裂像数の3つの要素をそれぞれ1~3点で評価し、その合計点でグレードを決定します。合計スコアに基づき、以下の3段階に分類されます。

  • グレード1(高分化型、スコア3~5点):がん細胞は正常細胞に比較的似ており、増殖が遅い。最も予後が良い22
  • グレード2(中分化型、スコア6~7点):グレード1と3の中間的な特徴と予後を持つ22
  • グレード3(低分化型、スコア8~9点):がん細胞は正常細胞とは似ても似つかず、異型性が強く、増殖が速い。最も予後が悪い22

TNM病期分類(ステージング):がんの「広がり」

ステージングは、診断時点でのがんの解剖学的な広がりを評価するもので、治療法、特に手術や放射線治療といった局所療法の適応を決定する上で極めて重要です22。T(原発腫瘍の大きさ)、N(所属リンパ節への転移)、M(遠隔転移)の3つの要素を総合して、最終的な病期(ステージ)が0期からIV期まで決定されます1531

表1:乳がんのTNM病期分類(UICC/AJCC準拠)の簡略版
病期(ステージ) T分類 N分類 M分類
0期 Tis(非浸潤がん) N0 M0
IA期 T1 N0 M0
IB期 T0, T1 N1mi(微小転移) M0
IIA期 T0, T1 / T2 N1 / N0 M0
IIB期 T2 / T3 N1 / N0 M0
IIIA期 T0, T1, T2 / T3 N2 / N1, N2 M0
IIIB期 T4 N0, N1, N2 M0
IIIC期 すべてのT N3 M0
IV期 すべてのT すべてのN M1

出典: 15 の情報を基に作成。TNM分類の詳細は複雑であり、これは簡略化した代表例です。正確なステージングは専門医にご確認ください。

この表は、TNM分類という抽象的な記号と、ステージという臨床的な実感とを結びつける橋渡しとなります。例えば、報告書に「T2N1M0」と記載があれば、この表からそれが「ステージIIB」に相当することがわかります15。このステージ情報は、予後の大まかな目安(ステージIIの5年生存率は約90%22)を提供すると同時に、治療方針を決定する上での根幹となるのです。

第二部:分子生物学の革命 – 生物学的特性による分類

この部では、乳がん治療を根底から変えた現代的な分類法を解説します。これは、がんの増殖を駆動している遺伝子やタンパク質、すなわち「生物学的ドライバー」に基づいてがんを分類するアプローチです。

第4章:鍵となるバイオマーカー – ER, PR, HER2, Ki-67

組織型ががんの「見た目」を教えてくれるのに対し、バイオマーカーはがんが「何を栄養にして」「どれくらいの速さで」増殖するのかを教えてくれます。これらは、生検で採取されたがん組織を用いて、免疫組織化学(IHC)法という特殊な染色検査によって調べられます31

  • ホルモン受容体(HR):エストロゲン受容体(ER)とプロゲステロン受容体(PR): 一部の乳がん細胞は、女性ホルモンであるエストロゲンやプロゲステロンをキャッチするための「受け皿(受容体)」を持っています。ホルモンがこの受容体に結合すると、がん細胞に対して「増殖せよ」というスイッチが入ります7。全乳がんの約70~75%がこのホルモン受容体陽性(HR+)です7
  • HER2(ハーツー): 正式には「ヒト上皮増殖因子受容体2型」と呼ばれるタンパク質で、一部の乳がんではこのHER2タンパクが細胞表面に異常に多く作られてしまいます(過剰発現)7。全乳がんの約15~25%に見られるHER2陽性(HER2+)のがんは増殖が速いですが、HER2を狙い撃ちする「分子標的薬」が劇的な効果を発揮します9。近年では、従来の陰性の中に含まれていた「HER2低発現(HER2-low)」というカテゴリーが新たに定義され、治療の選択肢が広がっています35
  • Ki-67:増殖マーカー: Ki-67は、細胞分裂を行っている活発な細胞の核内に見られるタンパク質です。がん組織全体の中でKi-67が陽性となる細胞の割合(Ki-67指数)を調べることで、腫瘍の増殖スピードを測ることができます7。特にホルモン受容体陽性乳がんにおいて、予後や化学療法の必要性を判断する重要な指標となります。

第5章:遺伝子発現サブタイプ – 現代治療の設計図

これら4つのバイオマーカー(ER, PR, HER2, Ki-67)の結果を組み合わせることで、ほとんどの浸潤性乳がんは、生物学的な性質を反映した4つの主要な「サブタイプ」に分類されます。このサブタイプ分類こそが、薬物療法(全身治療)の方針を決定する上で最も重要な指標です7

表2:乳がん遺伝子発現サブタイプの包括的概要
特徴 ルミナルA型 ルミナルB型 HER2陽性型 トリプルネガティブ型
ER/PR 陽性 陽性 陰性 陰性
HER2 陰性 陰性 または 陽性 陽性 陰性
Ki-67指数 低い 高い 問わない(通常高い) 問わない(通常高い)
おおよその頻度 最も多い (約40-50%) 多い (約20%) 約10-15% 約15-20%
典型的な組織悪性度 グレード1または2 グレード2または3 グレード3 グレード3
一般的な予後 最も良好 良好~中間 (治療により)改善 最も不良
主要な治療標的 ホルモン受容体 ホルモン受容体, (HER2), 高い増殖能 HER2 なし(化学療法が主体)

出典: 7 の情報を基に作成。頻度は概算値です。

この表は、個々のバイオマーカーの知識を、臨床的に意味のあるグループへと統合します。例えば、ルミナルA型はHR陽性/HER2陰性で増殖が穏やかなため、最も予後が良好です7。一方、ルミナルB型は同じHR陽性でもKi-67が高いかHER2が陽性のため、より増殖が速く攻撃的です7HER2陽性型はHR陰性/HER2陽性で、かつては予後不良でしたが、分子標的薬の登場で治療成績が劇的に改善しました7。そして、トリプルネガティブ型は3つの標的(ER, PR, HER2)を全て持たないため、最も攻撃的で治療選択肢が限られていましたが、近年、免疫療法などの新しい治療法が登場しています7。このサブタイプは、遺伝性乳がんの原因となるBRCA1遺伝子変異を持つ女性に多いことも知られています7

第三部:臨床的意義 – 分類から治療へ

この最終部では、これまで解説してきた全ての分類法が、実際の臨床現場でどのように統合され、個々の患者の生命を救うための治療決定に繋がるのかを、最新の診療ガイドラインに基づいて具体的に示します。

第6章:腫瘍に合わせた治療 – 個別化腫瘍学の実践

現代の乳がん治療は、日本乳癌学会(JBCS)や米国のNCCN(National Comprehensive Cancer Network)といった専門機関が策定する、科学的根拠に基づいた診療ガイドラインに沿って行われます12。そして、これらのガイドラインの根幹をなすのが、サブタイプ分類です。

表3:サブタイプ別・全身薬物療法のフレームワーク
サブタイプ 主要な治療法 推奨される代表的な薬剤・クラス ガイドライン根拠
ルミナルA型(低リスク) ホルモン療法 タモキシフェン、アロマターゼ阻害薬 JBCS/NCCN
ルミナルB型(高リスク) ホルモン療法 + 化学療法 ± CDK4/6阻害薬 上記に加え、アントラサイクリン系、タキサン系抗がん剤、アベマシクリブ JBCS/NCCN
HER2陽性型 化学療法 + 抗HER2療法 タキサン系抗がん剤 + トラスツズマブ + ペルツズマブ。ADC(T-DM1, T-DXd) JBCS/NCCN
トリプルネガティブ型 化学療法 ± 免疫療法 アントラサイクリン系、タキサン系抗がん剤 + ペムブロリズマブ JBCS/NCCN
トリプルネガティブ型 (BRCA変異あり) 化学療法 ± PARP阻害薬 上記に加え、オラパリブなどのPARP阻害薬 JBCS/NCCN

出典: 7 の情報を基に作成。実際の治療は個々の患者の状況に応じて決定されます。

この表が示すように、治療戦略はサブタイプによって劇的に異なります。HR陽性/HER2陰性(ルミナル型)ではホルモン療法が基本ですが、リンパ節転移陽性などの高リスク例には化学療法やCDK4/6阻害薬(アベマシクリブなど)が追加されます44HER2陽性のがんでは、化学療法と抗HER2分子標的薬(トラスツズマブ、ペルツズマブなど)の併用が標準です39。近年では、抗体薬物複合体(ADC)と呼ばれる「スマート爆弾」のような薬剤(T-DM145, T-DXd35)が、治療成績をさらに向上させています。トリプルネガティブのがんでは化学療法が主体ですが、多くの早期症例で免疫チェックポイント阻害薬(ペムブロリズマブなど)の追加が生存期間を改善することが示されています46。さらに、遺伝性のBRCA遺伝子変異を持つ患者には、PARP阻害薬という分子標的薬が有効な選択肢となります39

第7章:患者の役割 – 知識を持って診断と向き合う

治療の旅路において、最も重要なメンバーは患者自身です。知識は力となり、自分のがんの正確な種類を理解することは、主体的に治療に参加するための第一歩です12。患者は自身の病理診断報告書のコピーを医療機関に依頼し、主治医と共にその内容を確認することが推奨されます。組織型、グレード、ステージ(TNM)、そしてER, PR, HER2, Ki-67のステータスといった各項目が、自分の病気について何を物語っているのかを理解することが重要です。
幸い、日本には患者を支えるための質の高い情報源が複数存在します。日本乳癌学会は「患者さんのための乳がん診療ガイドライン」47を公開しており、国立がん研究センターの「がん情報サービス」1も信頼できます。また、「あけぼの会」49や「NPO法人キャンサーネットジャパン」51といった患者支援団体は、情報提供や仲間との交流の場としてかけがえのない役割を果たしています。自分のがんのサブタイプを正確に知ることは、これらの豊富な情報源の中から、自分に本当に関連のある情報を見つけ出すための羅針盤となります。これは、不安を軽減し、最善の治療を受ける上で不可欠なプロセスです。

よくある質問

Q1. 私のがんの「種類」は、どうすればわかりますか?
がんの種類は、生検や手術で採取された組織を病理医が詳しく調べる「病理診断」によって決定されます。最終的な診断結果は「病理診断報告書」にまとめられます。この報告書には、本稿で解説した組織型、悪性度(グレード)、ステージ(TNM分類)、そしてサブタイプを決定するバイオマーカー(ER, PR, HER2, Ki-67)の結果が記載されています31。主治医からこの報告書の説明を受け、コピーを保管しておくことをお勧めします。
Q2. なぜ同じステージでも治療法が違うのですか?
現代の乳がん治療では、がんの広がりを示す「ステージ」だけでなく、がんの生物学的な個性を示す「サブタイプ」が薬物療法の選択に最も重要だからです7。例えば、同じステージIIの乳がんでも、ホルモン受容体陽性(ルミナル型)であればホルモン療法が治療の中心となり、HER2陽性型であれば抗HER2療法が、トリプルネガティブ型であれば化学療法や免疫療法が中心となります。ステージは主に手術や放射線治療といった局所療法の範囲を決定し、サブタイプは全身に作用する薬物療法を決定する、という役割分担になっています。
Q3. 「予後が悪い」と言われたら、もう希望はないのでしょうか?
決してそのようなことはありません。「予後が悪い」という言葉は、統計的に見て再発のリスクが高い、または進行が速い傾向があることを意味しますが、個人の未来を決定づけるものではありません。例えば、かつて最も予後不良とされたHER2陽性型乳がんは、分子標的薬の登場によって治療成績が劇的に改善しました7。同様に、トリプルネガティブ型乳がんに対しても免疫療法や新しい分子標的薬が登場しています46。医学は日々進歩しており、新しい治療法が次々と開発されています。予後に関する情報は冷静に受け止めつつ、主治医と協力して現在利用可能な最善の治療を受けることが最も重要です。

結論

本報告書で詳述してきたように、「乳がん」は決して一つの病気ではありません。顕微鏡下の顔つき(組織型・グレード)から、体内の広がり(ステージ)、そして治療の鍵を握る生物学的特性(分子サブタイプ)に至るまで、多層的な分類こそが、現代の乳がん診療のあらゆる側面を導く不可欠なフレームワークです。自分のがんの正確な「種類」を理解することは、個別化医療の基盤であり、予後を改善し、生命を救うための第一歩なのです。この分類体系は固定されたものではなく、治療の進歩と共に進化し続けています。近年登場した「HER2低発現」というカテゴリーは、新しい治療薬が、より精密な分類を必要とすることを示す象徴的な例です35。未来に目を向ければ、先進的なゲノム解析、血液でがんの遺伝子変異を検出するリキッドバイオプシー、そして病理診断における人工知能(AI)の活用などが、この分類をさらに細分化していくでしょう1054。その目標は、4つの主要なサブタイプという枠組みを超え、一人ひとりのがんの個性を分子レベルで完全に理解し、真にオーダーメイドの治療を実現する時代へと向かうことです。乳がんとの闘いは、その多様性を深く理解することから始まり、そしてその理解が、より明るい未来への道を切り拓いていくのです。

免責事項
この記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医学的アドバイスに代わるものではありません。健康に関する懸念がある場合、またはご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。

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