しかし、「甲状腺がん」と一括りにはできません。その予後は、がんの「顔つき」、すなわち病理組織型によって大きく異なります。甲状腺がんの約9割を占める乳頭がんや、それに次ぐ濾胞がんといった「分化型甲状腺がん」は進行が緩やかで予後が非常に良い一方、稀な「未分化がん」は極めて進行が速く、甲状腺がんによる死亡の多くを占めるなど、予後が著しく不良です。したがって、甲状腺がんの治療と予後を理解するためには、まず自身の診断されたがんの種類を正確に把握することが不可欠です。
近年の甲状腺がんの罹患率(新たに診断される人の割合)は増加傾向にありますが、死亡率はほぼ横ばいです。これは、致死的ながんが真に増加しているわけではなく、超音波検査などの画像診断技術の進歩により、これまで発見されなかったであろう、生命に影響を及ぼさない小さな、おとなしい性質のがん(主に微小乳頭がん)が多数見つかるようになった「過剰診断」の側面が大きいことを示唆しています。この現象は、現代の甲状腺がん診療における中心的な課題、すなわち「いかにして過剰な治療を避けるか」という問題意識を生み出しました。
この課題に応える形で、現代の甲状腺がん治療は、画一的なアプローチから、個々の患者さんの再発危険性を精密に評価し、治療の強度を最適化する「リスク層別化」に基づいた個別化医療へと大きく舵を切りました。日本や米国の診療ガイドラインが示すように、低リスクの患者さんには身体的負担の少ない治療(あるいは治療をしない経過観察)を、高リスクの患者さんには根治を目指した集学的治療を提供するのが現在の標準です。
本稿では、JHO編集委員会が、甲状腺がんの基本的な分類から、各組織型に対する最新の診断・治療戦略、そして進行・再発した場合の分子標的治療や患者支援制度に至るまで、専門医の視点から網羅的かつ詳細に解説します。
この記事の科学的根拠
この記事は、入力された研究報告書で明示的に引用されている最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下に示すリストは、実際に参照された情報源と、提示された医学的指導との直接的な関連性を示したものです。
- 世界保健機関 (WHO): 本記事における甲状腺腫瘍の病理分類に関する記述は、2022年に改訂されたWHO内分泌・神経内分泌腫瘍分類第5版に基づいています1。
- 米国国立がん研究所 (NCI): 分化型甲状腺がん、髄様がん、未分化がんの治療法に関する一般的な指針と進行がんに対する薬物療法(PDQ®要約)は、NCIの公開情報に基づいています5。
- 米国甲状腺学会 (ATA): 未分化甲状腺がんの管理に関する2021年のATAガイドラインは、本疾患の集学的治療アプローチに関する記述の主要な典拠です6。
- 隈病院・がん研究会有明病院: 低リスク微小乳頭がんに対する「積極的経過観察」の安全性と有効性に関する記述は、これらの日本の主要施設から報告された長期的な研究成果に基づいています23。
要点まとめ
- 甲状腺がんの大半は予後が非常に良好で、全体の5年生存率は94%を超えます。特に分化型甲状腺がん(乳頭がん、濾胞がん)は治癒が期待できます。
- 治療方針はがんの組織型と個々の再発危険度(リスク)によって決定される「個別化医療」が標準です。
- 直径1cm以下の特定の低リスク微小乳頭がんでは、手術をせずに定期的な超音波検査で経過を見る「積極的経過観察」が安全な選択肢として確立されています。
- 手術が必要な場合も、がんの状況に応じて甲状腺の一部のみを切除する「葉切除術」と全てを摘出する「全摘術」が選択されます。
- 進行・再発した一部のがんに対しては、$BRAF$や$RET$といった特定の遺伝子異常を標的とする分子標的薬が開発され、治療成績が飛躍的に向上しています。
甲状腺がんの多様性:病理分類とそれぞれの特徴
甲状腺がんの治療方針と予後を決定づける最も重要な要素は、その病理組織分類です。2022年に改訂された世界保健機関(WHO)の内分泌・神経内分泌腫瘍分類第5版は、従来の組織形態に加え、腫瘍の発生起源や遺伝子異常の知見を取り入れた、より精緻な分類体系を提示しており、現在の世界標準となっています1。
分化型甲状腺がん (Differentiated Thyroid Cancer – DTC)
甲状腺の濾胞細胞から発生し、甲状腺がんの大半を占めます。比較的おとなしい性質を持つものが多く、総じて予後は良好です。
- 乳頭がん (Papillary Thyroid Cancer – PTC): 全甲状腺がんの約90%を占める最も頻度の高い種類です2。進行は非常に緩やかで、頸部リンパ節への転移をきたしやすい特徴がありますが、生命予後は極めて良好で、10年生存率は90%を超えます。遺伝子変異としては$BRAF$遺伝子の異常が関与することが多く、「$BRAF$-like」腫瘍に分類されます。
- 濾胞がん (Follicular Thyroid Cancer – FTC): 約5%を占める2番目に多い種類です2。リンパ節転移は少ない一方、血流に乗って肺や骨などの遠隔臓器に転移(血行性転移)しやすい傾向があります。予後は乳頭がんに次いで良好で、10年生存率は約85%です。$RAS$遺伝子変異が多く見られ、「$RAS$-like」腫瘍とされます。
- オンコサイティック癌 (Oncocytic Carcinoma): かつてはヒュルトレ細胞がんと呼ばれていましたが、WHO分類で再定義されました。好酸性を示す特徴的な細胞(オンコサイト)から成り、他の分化癌に比べてやや予後が不良な可能性が指摘される独立した疾患単位です。
髄様がん (Medullary Thyroid Cancer – MTC)
甲状腺ホルモンを産生する濾胞細胞とは異なる、カルシトニンというホルモンを産生する傍濾胞細胞(C細胞)から発生する稀な神経内分泌腫瘍です(約1~2%)2。ヨウ素を取り込まないため、後述する放射性ヨウ素内用療法は無効です。約4分の1が遺伝性で、$RET$遺伝子の生殖細胞系列変異が原因で発症します。予後は分化癌と未分化癌の中間に位置し、10年生存率は約75%です。
未分化がん (Anaplastic Thyroid Cancer – ATC)
全甲状腺がんの1~2%と非常に稀ですが、最も悪性度の高いがんです2。極めて増殖が速く、診断時にはすでに周囲の臓器(気管、食道など)への浸潤や遠隔転移をきたしていることが少なくありません。しばしば既存の分化癌から悪性転化して発生すると考えられています。予後は極めて不良で、診断後の生存期間中央値は数ヶ月、1年生存率は20%未満と報告されており5、迅速な診断と集学的治療を要する緊急疾患と認識されています。
低リスク腫瘍 (Low-Risk Neoplasms)
WHO分類の改訂は、治療の過剰化を抑制する上で重要な役割を果たしています。その象徴が「低リスク腫瘍」という区分の確立です。
- NIFTP (Non-Invasive Follicular Thyroid Neoplasm with Papillary-like Nuclear Features): 日本語では「乳頭様核特徴を有する非浸潤性濾胞性甲状腺腫瘍」と訳されます。かつては濾胞型乳頭がんの一部として扱われていましたが、被膜や脈管への浸潤がなく、転移や再発の危険性が極めて低いことが明らかになり、「がん」ではなく「低リスク腫瘍」として再分類されました1。この病理診断の変更は、患者の精神的負担を軽減し、甲状腺全摘や放射性ヨウ素治療といった過剰な治療を回避するための医学的根拠となっています。
これらの多様性を理解するため、以下の表に各組織型の特徴をまとめます。
組織型 | 日本での発生頻度 | 主な特徴 | 関連する主な遺伝子変異 | 5年/10年相対生存率 |
---|---|---|---|---|
乳頭がん (PTC) | 約90% | 進行が緩徐。リンパ節転移が多いが予後良好。 | $BRAF^{V600E}$ など | 5年: >95%, 10年: >90% |
濾胞がん (FTC) | 約5% | 血行性転移(肺、骨)をきたしやすい。 | $RAS$ など | 5年: ~95%, 10年: ~85% |
髄様がん (MTC) | 約1-2% | C細胞由来。約25%が遺伝性。RAI無効。 | $RET$ | 5年: ~90% (限局), 10年: ~75% |
未分化がん (ATC) | 約1-2% | 最も悪性度が高い。進行が極めて速い。 | $BRAF^{V600E}$, $TP53$ など | 5年: <10%, 1年: <20% |
病理分類の進化は、単なる学術的な整理に留まりません。NIFTPのように一部を「がん」から除外することで治療の低侵襲化を正当化し、$BRAF$や$RAS$といった分子情報に基づいて腫瘍の生物学的特性を理解することで、個別化治療への道筋を示しています。病理診断は、今や治療戦略を決定するための行程表そのものなのです。
現代的治療の礎:正確な診断、ステージング、リスク層別化
甲状腺がんの治療方針を決定する過程は、①正確な診断、②病気の広がりを評価するTNMステージング、③再発の危険度を評価するリスク層別化、という3つの柱で構成されます。
診断プロセス
多くの甲状腺がんは、首のしこり(結節)として発見されます。診断までの一般的な流れは以下の通りです。
- 問診と診察: 頸部への放射線被曝歴や甲状腺がんの家族歴などの危険因子を確認し、結節の硬さや可動性を評価します。
- 頸部超音波(エコー)検査: 結節の大きさ、形状、内部の性状(充実性か嚢胞性か)、石灰化の有無などを詳細に観察し、悪性の可能性を評価する最も重要な画像検査です。
- 穿刺吸引細胞診 (Fine-Needle Aspiration – FNA): 超音波で結節を確認しながら細い針を刺し、細胞を採取して顕微鏡で調べる検査です。悪性度を判定する上で最も信頼性の高い検査とされ、結果は国際的に用いられる「ベセスダシステム」に準じて報告されます。
TNMステージング
がんの解剖学的な広がりを示す世界共通の基準がAJCC(米国がん合同委員会)のTNM分類です。T(原発腫瘍の大きさ・広がり)、N(所属リンパ節への転移)、M(遠隔転移)の3つの要素で評価されます。甲状腺分化癌のステージングには、他の多くのがんと異なる極めて重要な特徴があります。それは年齢が主要な予後因子として組み込まれている点です。
- 55歳未満の患者: 予後が非常に良好であるため、遠隔転移(M1)がなければ、腫瘍の大きさ(T)やリンパ節転移(N)の有無にかかわらず、すべてステージIと分類されます。遠隔転移がある場合のみステージIIとなります4。
- 55歳以上の患者: 腫瘍の大きさ、周囲への浸潤、リンパ節転移、遠隔転移の組み合わせによって、ステージIからIVまで細かく分類されます4。
リスク層別化
TNMステージングが主に生命予後(死亡の危険度)を予測するのに対し、治療方針、特に手術の範囲や術後治療の必要性を決定するためには、より詳細な再発の危険度の評価(リスク層別化)が用いられます。
- リスク分類: 日本のガイドラインでは「超低・低・中・高リスク」、米国のATAガイドラインでは「低・中・高リスク」といった区分が用いられます。これらは腫瘍の大きさ、甲状腺外への浸潤の有無、リンパ節転移の個数や大きさ、組織型などの因子を組み合わせて評価されます4。
- 動的リスク層別化 (Dynamic Risk Stratification): 甲状腺がん診療の洗練された点として、危険度の評価が一度きりで終わらないことが挙げられます。初期治療(手術など)後の経過、特に血中の腫瘍マーカー(サイログロブリン値)や画像検査の結果に応じて、再発の危険性は継続的に再評価されます。例えば、初期治療時に「中リスク」と判断された患者でも、治療後の経過が良好であれば「優れた治療反応(Excellent Response)」と判断され、その後の経過観察はより低リスクの患者に近い形に緩和されます。これは、長期にわたる患者の管理を真に個別化するアプローチです。
TNMステージングと再発リスク層別化は、異なる目的を持つ補完的な仕組みです。例えば、リンパ節転移が多数ある55歳未満の若い患者は、TNM分類ではステージI(死亡の危険度は低い)ですが、再発リスク分類では「中~高リスク」となります。この高い再発リスク評価に基づき、再発を防ぎ、再手術の負担を避ける目的で、甲状腺全摘術や放射性ヨウ素治療といった、より積極的な初期治療が選択されることがあります。このように、2つの評価法を組み合わせることで、生命予後の確保と再発抑制、そして生活の質(QOL)の維持という複数の目標を達成するための、極めて合理的な治療戦略が立てられるのです。
分化型甲状腺がん(乳頭がん・濾胞がん)の治療戦略:リスクに応じた個別化アプローチ
分化型甲状腺がんの治療は、リスク層別化に基づいた個別化が最も進んでいる領域です。かつては「がんはすべて切除する」という考え方が主流でしたが、現在は「不必要な治療を避け、必要な治療を必要な患者にだけ行う」という方向に大きく転換しています。
低リスク微小がんに対する新たな標準治療「積極的経過観察 (Active Surveillance – AS)」
この治療の考え方の転換を最も象徴するのが、積極的経過観察(AS)です。
- 日本発の治療戦略: ASは1990年代に日本の隈病院やがん研究会有明病院などが世界に先駆けて開始したアプローチです3。
- 長期成績: 30年近くにわたる日本の大規模な研究データにより、ASの安全性と妥当性が確立されています。リンパ節転移や明らかな浸潤所見のない低リスク微小乳頭がん(直径1cm以下)では、10年間の観察期間中に腫瘍が3mm以上増大する患者は5~6%、新たにリンパ節転移が出現する患者は1%程度とごく僅かです3。最も重要な点は、経過観察中に増大や転移が見つかってから手術を受けた場合でも、その後の予後は初期に手術した患者と変わらず、甲状腺がんによる死亡例は報告されていないことです。
- ガイドラインへの採用: この強力な科学的根拠に基づき、ASは現在、日本および米国の甲状腺学会診療ガイドラインにおいて、低リスク微小乳頭がん($T1aN0M0$)に対する治療の選択肢として強く推奨されています。
- 適応と共有意思決定: ASは「何もしない」のではなく、専門施設での定期的な超音波検査を伴う厳格な管理です。腫瘍が気管や反回神経(声帯を動かす神経)に近いなど、危険性の高い部位にある場合は適応外となります。また、患者自身が病態を十分に理解し、不安も含めて医療者と相談の上で方針を決定する「共有意思決定(Shared Decision-Making)」が不可欠です。
外科治療 (Surgical Management): 甲状腺葉切除と全摘出術の選択基準
ASの適応とならない、あるいは手術を選択した分化型甲状腺がんに対する治療の基本は外科切除ですが、その範囲も危険度に応じて決定されます。
- 甲状腺葉切除術 (Lobectomy): がんのある片側の甲状腺のみを切除する術式です。現在は、明らかな転移や甲状腺外浸潤のない低リスク分化型がん(多くは4cm未満)に対する標準術式と位置づけられています4。最大の利点は、反対側の甲状腺と副甲状腺(カルシウムを調節する臓器)を温存できるため、生涯にわたる甲状腺ホルモン薬の内服が不要になる可能性が高く、副甲状腺機能低下症や両側の反回神経麻痺といった重篤な合併症の危険性をほぼゼロにできる点です。
- 甲状腺全摘術 (Total Thyroidectomy): 甲状腺をすべて摘出する術式です。腫瘍が4cmを超える、甲状腺の外に明らかに浸潤している、リンパ節転移や遠隔転移がある、といった高リスクの患者に推奨されます4。全摘術を行うことで、術後の放射性ヨウ素内用療法が可能となり、腫瘍マーカー(サイログロブリン)による再発の監視が容易になるという利点があります。
術後補助療法 (Adjuvant Therapy)
手術後に再発の危険性をさらに低減させる目的で行う治療です。これも危険度に応じて適応が厳密に判断されます。
- 放射性ヨウ素内用療法 (Radioactive Iodine – RAI): 甲状腺細胞がヨウ素を取り込む性質を利用した治療法です。放射線を出すヨウ素($I-131$)のカプセルを内服し、甲状腺全摘後に体内に残存している可能性のある正常甲状腺組織や微小ながん細胞を破壊(アブレーション)します。RAIは低リスクの患者には利益が証明されておらず、副作用の観点から推奨されません。中リスクの患者では再発リスク低減のために選択的に考慮され、高リスクの患者には推奨されます4。
- TSH抑制療法 (TSH Suppression Therapy): 下垂体から分泌される甲状腺刺激ホルモン(TSH)は、分化型甲状腺がん細胞の増殖を促進する働きがあります。このTSHの分泌を抑えるために、甲状腺ホルモン薬をやや多めに内服する治療法です。抑制の目標値も再発の危険度に応じて調整され、高リスク患者ではTSHを$0.1 \text{mU/L}$未満に強く抑制しますが、低リスク患者や治療後の経過が良好な患者では、心房細動や骨粗鬆症といった長期的な副作用を避けるため、正常範囲の下限程度に維持します4。
これらの危険度に応じた治療戦略を、以下の表にまとめます。
リスク分類 | 推奨される外科術式 | 術後RAIの適応 | TSH抑制目標値 |
---|---|---|---|
低リスク | 甲状腺葉切除術 | 推奨されない | 正常範囲下限~軽度抑制 |
中リスク | 甲状腺葉切除術 または 全摘術 | 個別化して検討 | 軽度~中等度抑制 ($0.1-0.5 \text{mU/L}$) |
高リスク | 甲状腺全摘術 | 推奨される | 強力な抑制 (<0.1 \text{mU/L}) |
出典: 米国国立がん研究センター(NCI)の情報を基に要約4 |
特殊な臨床的課題への対応:髄様がん・未分化がんの治療
分化型甲状腺がんとは異なる生物学的特性を持つ髄様がんと未分化がんには、それぞれ特殊な治療戦略が必要です。
髄様がん (Medullary Thyroid Cancer – MTC)
髄様がんの治療は、その遺伝的背景とホルモン産生能に基づいたアプローチが鍵となります。
- 遺伝子検査の重要性: すべての髄様がん患者に対して、遺伝性(多発性内分泌腫瘍症2型:MEN2など)の有無を調べるための$RET$遺伝子検査が推奨されます。これにより、患者本人だけでなく、血縁者の発症前診断や予防的治療につなげることができます。また、進行がんでは腫瘍組織の$RET$遺伝子変異を調べることで、分子標的薬の適応判断に役立ちます。
- 外科治療: 標準的な手術は、甲状腺全摘術と、転移がなくても予防的に中央区域のリンパ節を切除する「予防的中心頸部郭清」です。これは髄様がんが早期にリンパ節転移を起こしやすい性質を持つためです。
- RAI・TSH抑制療法の非適応: 髄様がんはC細胞由来でありヨウ素を取り込まないため、放射性ヨウ素内用療法は無効です。また、TSHによる増殖刺激を受けないため、TSH抑制療法も行われません。
- 進行・再発例への治療: 手術で根治できない進行・再発例に対しては、全身薬物療法が選択されます。かつてはバンデタニブやカボザンチニブといった複数の分子を標的とするチロシンキナーゼ阻害薬(TKI)が用いられていましたが、近年では$RET$遺伝子変異を特異的に阻害するセルペルカチニブやプラルセチニブが登場し、高い治療効果を示しています5。
- 予防的甲状腺全摘術: 遺伝子検査で$RET$変異が確認された未発症の血縁者に対しては、がんの発症を未然に防ぐため、変異の種類に応じた危険度評価に基づき、小児期に予防的な甲状腺全摘術が推奨されます。
未分化がん (Anaplastic Thyroid Cancer – ATC): 集学的かつ緊急的なアプローチ
未分化がんは、診断から治療まで一刻を争う緊急疾患です。
- 迅速な診断と多職種チーム: 診断を確定するためには、穿刺吸引細胞診だけでなく、より多くの組織を採取できるコア生検がしばしば必要です。診断と同時にPET/CTを含む画像検査で病気の広がりを迅速に評価し、外科、放射線治療科、腫瘍内科、緩和ケア科などからなる多職種専門チームによる治療方針の決定が不可欠です6。
- $BRAF^{V600E}$遺伝子変異検査: 未分化がんの約40~50%に$BRAF^{V600E}$変異が見られます。この変異の有無は治療方針を大きく左右するため、診断後直ちに検査を行う必要があります6。
- 治療戦略:
- 切除可能な場合 (ステージIVA/IVB): 根治を目指し、手術、放射線治療、全身薬物療法を組み合わせた集学的治療が行われます5。
- 切除不能・転移がある場合 (ステージIVB/IVC): 全身薬物療法が治療の中心となります。
- 免疫療法の役割: 近年、免疫チェックポイント阻害薬が、特に分子標的薬との併用で有望な結果を示しており、新たな治療の選択肢として期待されています7。
未分化がん治療の進歩は目覚ましく、以下の表に示すように、分子標的薬の登場により、かつては考えられなかった治療効果が得られるようになっています。
治療レジメン | 標的遺伝子 | 患者数 (n) | 奏効率 (ORR) | 全生存期間中央値 (Median OS) |
---|---|---|---|---|
レンバチニブ | マルチキナーゼ | 17 | 24% | 10.6ヶ月 |
ダブラフェニブ + トラメチニブ | $BRAF^{V600E}$ | 36 | 56% | 14.5ヶ月 |
エンコラフェニブ + ビニメチニブ | $BRAF^{V600E}$ | 5 | 80% | 未到達 |
ベムラフェニブ/コビメチニブ + アテゾリズマブ | $BRAF^{V600E}$ | 19 | 50% | 43.2ヶ月 |
出典: 進行性未分化甲状腺がんに対する抗がん剤治療に関する報告を基に要約7 |
進行・再発がんとの闘い:分子標的薬治療の最前線
手術や放射性ヨウ素治療で根治が難しい進行・再発甲状腺がんの治療は、分子標的薬の登場によって劇的に変化しました。
放射性ヨウ素治療抵抗性(RAI-Refractory)分化型甲状腺がん
分化型甲状腺がん(乳頭がん・濾胞がん)の患者さんの一部は、病気が進行する過程でヨウ素を取り込む能力を失います。このような「放射性ヨウ素治療抵抗性」となり、進行性の遠隔転移を有する場合には、全身薬物療法が必要となります5。
- マルチキナーゼ阻害薬 (Multi-Kinase Inhibitors – MKIs): この領域で最初の大きな進歩をもたらした薬剤群です。レンバチニブとソラフェニブは、がんの増殖や血管新生に関わる複数の標的(VEGF受容体など)を阻害する薬剤です。大規模な第III相臨床試験において、偽薬と比較してがんの進行を著しく遅らせること(無増悪生存期間の延長)が証明され、標準治療として確立されました。日本では、レンバチニブは未分化がんにも適応があります。
- 精密医療(プレシジョン・オンコロジー)の時代へ: 近年では、腫瘍が持つ特定の「ドライバー遺伝子変異」を標的とする、より選択性の高い薬剤が次々と登場しています。
- $BRAF$阻害薬: $BRAF^{V600E}$変異を持つがん(乳頭がんや未分化がんに多い)に対しては、BRAF阻害薬とMEK阻害薬の併用療法(ダブラフェニブ+トラメチニブなど)が用いられます。
- $RET$阻害薬: $RET$遺伝子異常を持つがん(髄様がんのほぼ全例と一部の乳頭がん)に対しては、セルペルカチニブやプラルセチニブといった選択的RET阻害薬が極めて高い効果を発揮します5。
- $NTRK$融合遺伝子阻害薬: 非常に稀ですが、$NTRK$融合遺伝子を持つがんに対しては、ラロトレクチニブやエントレクチニブといった薬剤が、がんの種類を問わず(臓器横断的に)劇的な効果を示すことが知られています5。
これらの分子標的薬治療の進歩は、これまで治療選択肢が限られていた進行甲状腺がん患者に新たな希望をもたらしました。しかし同時に、最適な薬剤を選択するための網羅的がん遺伝子パネル検査の実施や、高血圧、皮膚障害、下痢といった特有の副作用を管理するための専門的な知識と経験が、医療機関側に求められるようになっています。この治療革命は、より高度で専門的な多職種連携によるチーム医療の必要性を浮き彫りにしたと言えるでしょう。
患者の視点から:長期フォローアップと療養生活の支援
甲状腺がんの治療は、手術や初期治療が終了した後も長期にわたります。合併症の管理、再発の監視、そして療養生活を支える制度の活用が重要です。
長期フォローアップ
甲状腺分化癌は、10年、20年経ってから再発することもあるため、長期的な経過観察が必要です。定期的な診察、頸部超音波検査、そして血液検査による腫瘍マーカー(分化癌ではサイログロブリン、髄様癌ではカルシトニン)の測定を通じて、再発の兆候を早期に捉えます。
治療に伴う合併症とその管理
- 手術合併症: 甲状腺全摘術後の副甲状腺機能低下症は、血中カルシウム濃度の低下を招き、手足のしびれや痙攣を引き起こすため、ビタミンD製剤やカルシウム剤の生涯にわたる内服が必要になることがあります。また、反回神経麻痺による声のかすれ(嗄声)も重要な合併症ですが、多くは一時的です。
- その他の治療に伴う副作用: TSH抑制療法は、長期にわたると骨密度の低下や不整脈の危険性を高める可能性があるため、定期的な監視が重要です。放射性ヨウ素内用療法では、唾液腺の障害による口腔乾燥などが起こることがあります。
日本の患者会やピアサポートに関する情報
同じ病気を経験した仲間との交流は、大きな精神的支えとなります。日本には様々な患者支援団体が存在します。
- がん種を問わないコミュニティ: 特定非営利活動法人5yearsは、がんの経験者が集う日本最大級のSNSコミュニティを提供しています。
- 甲状腺がんに関連する支援: 3.11甲状腺がん子ども基金は、原発事故後に甲状腺がんと診断された子どもたちへの療養費給付や支援を行っています。また、がん研究会有明病院や福島県立医科大学などの主要な医療機関では、院内でのピアサポート活動が提供されています。
医療費負担を軽減する「高額療養費制度」の解説
手術や分子標的薬治療など、高額な医療費がかかる場合でも、日本の公的医療保険には自己負担額を軽減する仕組みがあります。
- 制度の概要: 「高額療養費制度」は、1ヶ月(1日から末日まで)の医療費の自己負担額が、年齢や所得に応じて定められた上限額を超えた場合に、その超過分が払い戻される制度です。
- 主な特徴:
- 上限額: 所得区分によって月々の自己負担上限額が決められています。
- 多数回該当: 直近12ヶ月以内に3回以上上限額に達した場合、4回目からは上限額がさらに引き下げられ、負担が軽くなります。
- 限度額適用認定証: 事前に加入している健康保険組合などに申請し、「限度額適用認定証」の交付を受けておけば、医療機関の窓口での支払いを自己負担上限額までに抑えることができ、一時的な高額な立て替え払いを避けることができます。
この制度は、入院時の食費や差額ベッド代、先進医療の技術料などは対象外ですが、治療費の経済的負担を大幅に軽減する上で非常に重要な制度です。
よくある質問
低リスクの甲状腺がんで「積極的経過観察」を勧められました。手術しなくても本当に安全なのでしょうか?
はい、特定の条件を満たす低リスクの微小乳頭がん(1cm以下で、危険な部位になく、リンパ節転移などがないもの)に対する積極的経過観察は、日本の長年にわたる研究によって安全性が確立された標準的な選択肢です3。10年間の観察でがんが大きくなる人はごく一部で、もし増大が見られてから手術をしても、最初から手術した人と予後は変わらないことが分かっています。ただし、専門医による定期的な超音波検査が不可欠ですので、担当医とよく相談し、ご自身が納得した上で方針を決めることが重要です。
甲状腺をすべて摘出したら、一生薬を飲み続けなければいけないのですか?
はい、甲状腺をすべて摘出(全摘術)した場合、体内で甲状腺ホルモンを作れなくなるため、甲状腺ホルモン薬(チラーヂンSなど)を生涯にわたって毎日服用する必要があります。この薬は、体にとって不可欠なホルモンを補充するもので、適切に服用すれば副作用はほとんどありません。また、分化がんの場合は、再発を抑える目的でTSH抑制療法として少し多めに服用することもあります4。一方、甲状腺の半分のみを切除(葉切除術)した場合は、残った甲状腺が十分なホルモンを産生できれば、薬の内服が不要になることもあります。
進行した甲状腺がんでも、新しい治療法はありますか?
結論
本稿の冒頭で提起した「甲状腺がんは治るのか?」という問いに、改めて答えます。答えは、圧倒的多数の患者さんにとって「はい、治癒が期待できるがん」です。特に、大半を占める分化型甲状腺がんは、適切な治療により極めて良好な予後が望めます。
甲状腺がんの診療は、この10年で劇的なパラダイムシフトを遂げました。かつての画一的な治療から、病理組織型、遺伝子変異、そして動的なリスク評価に基づいた、真の「個別化医療」へと進化しています。この進歩の柱は、以下の3点に集約されます。
- 治療の低侵襲化(デエスカーレーション): 超音波診断の普及による「過剰診断」という課題に対し、日本の研究が世界をリードした「積極的経過観察」という選択肢が確立されました。これにより、多くの低リスク微小がん患者が、手術に伴う合併症や身体的・精神的負担を回避できるようになりました。
- リスクに応じた治療の最適化: 手術範囲の決定(葉切除 対 全摘)や、放射性ヨウ素治療、TSH抑制療法の適応が、個々の再発リスクに応じて厳密に判断されるようになりました。これにより、過剰治療を避けつつ、高リスク患者には確実な根治を目指すという、合理的でバランスの取れた治療が可能となっています。
- 進行がん治療の革命: かつては有効な治療法が乏しかった放射性ヨウ素治療抵抗性の分化がんや、極めて予後不良であった未分化がんに対し、$BRAF$や$RET$といった特定の遺伝子変異を標的とする分子標的薬が次々と登場しました。これにより、一部の進行がん患者の予後が劇的に改善され、新たな希望がもたらされています。
今後の展望として、分子標的薬と免疫チェックポイント阻害薬の併用療法など、さらなる治療効果の向上を目指した臨床試験が進行中です。また、どの微小がんが進行するのかをより正確に予測するためのバイオマーカーの探索や、患者の生活の質を最大限に維持しながら根治性を追求する治療法の改良が、今後の重要な研究テーマとなるでしょう。
甲状腺がんとの闘いは、絶え間ない進歩の道のりです。正確な情報に基づき、専門家と十分に話し合い、自身に最適な治療を選択することが、希望ある未来への最も確かな一歩となります。
参考文献
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