顎の硬直・顎関節症の完全ガイド:原因から最新治療法まで専門家が徹底解説
口腔の健康

顎の硬直・顎関節症の完全ガイド:原因から最新治療法まで専門家が徹底解説

朝、目覚めたときに顎がこわばって痛む、口が開きにくい、あるいは顎を動かすとカクカクと音がする。このような経験は、決して珍しいものではありません1。多くの方が「顎の硬直」という言葉で表現するこの不調は、多くの場合、「顎関節症(がくかんせつしょう)」として知られる、より広範な状態の兆候です2。この記事は、顎の不調に悩む日本の皆様に向けて、信頼できる情報を提供することを目的としています。その基盤となるのは、日本顎関節学会が発表した最新の「顎関節症初期治療診療ガイドライン2023改訂版」や、厚生労働省の公式な調査データなど、最も権威ある情報源です3。顎関節症は非常に一般的な疾患であり、その多くは深刻なものではなく、適切な自己管理(セルフケア)を治療の柱とすることで十分に管理可能であることが、国内外の研究で示されています4。本稿を通じて、ご自身の症状を正しく理解し、不安を解消し、回復への第一歩を踏み出すための一助となれば幸いです。

この記事の科学的根拠

この記事は、入力された研究報告書で明示的に引用されている最高品質の医学的根拠にのみ基づいています。以下は、参照された実際の情報源と、提示された医学的指針との直接的な関連性を示したリストです。

  • 日本歯科医師会: 本記事における顎関節症の主要な3症状(顎の痛み、開口障害、関節雑音)に関する記述は、同会の公式見解に基づいています5
  • 日本顎関節学会: 治療方針、特に保存的治療(スプリント療法など)や、症状の分類に関する記述は、同学会が発行した「顎関節症初期治療診療ガイドライン 2023 改訂版」および「顎関節症治療の指針」に準拠しています36
  • 厚生労働省: 日本国内における顎関節症の有病率に関する統計データは、「平成28年歯科疾患実態調査」の結果を引用しています7
  • 国際的な研究論文(PubMed, PMC等): TCH(歯牙接触癖)のメカニズム、ストレスとの関連性、理学療法の有効性など、より専門的な知見については、国際的な査読付き学術論文の成果を取り入れています489

要点まとめ

  • 顎の硬直や痛み、音は「顎関節症」の典型的な症状で、非常に多くの方が経験しています。
  • 原因は「噛み合わせ」だけでなく、ストレスや無意識の癖(特に歯牙接触癖 TCH)など複数の要因が絡む「多因子性疾患」です。
  • 治療の基本は、顎を休ませ、筋肉をほぐし、癖に気づくといった「セルフケア」であり、多くの場合はこれで改善が見込めます。
  • 痛みが続く、口が開きにくいといった症状があれば、自己判断せず歯科・口腔外科を受診することが重要です。治療の多くは保険適用内で行われます。
  • 最新の治療は、身体への負担が少ない「保存的治療」が中心であり、安易に歯を削ったり手術をしたりすることはありません。

第1章:その不調、「顎関節症」かもしれません ― 症状と日本の現状

一般的に「顎の硬直」と感じられる症状は、医学的には顎関節症の典型的な症状の一部であることが多いです。専門家の間では、顎関節症の主な症状は大きく3つに分類されています。

1.1. 顎関節症の3大症状

日本歯科医師会をはじめとする専門機関は、顎関節症の主な症状を以下の3つに分類しています2

  • 顎の痛み(関節痛・筋肉痛): 耳の前にある顎関節そのものや、頬やこめかみにある咀嚼筋(そしゃくきん)が、口を開け閉めするときや食べ物を噛むときに痛む症状です。
  • 開口障害(口が開きにくい): 口を大きく開けようとしても指が縦に3本入らない、あるいは途中で引っかかってそれ以上開かなくなる状態です。重症化すると、顎が「ロック」されたように動かなくなることもあります。
  • 関節雑音(顎の音): 顎を動かしたときに「カクカク」「ポキポキ」といったクリック音や、「ジャリジャリ」「ミシミシ」といった軋轢音(クレピタス音)がする症状です。

重要な点として、現代の診療ガイドラインでは、痛みや開口障害を伴わない「関節雑音」だけの症状は、治療の必要がないとされています10。首や肩を回したときに音が鳴るのと同じように、生理的な現象と捉えられることが多くなっています。

1.2. 似ているが異なる疾患:開口障害(Trismus)と顎関節強直症(Ankylosis)

「口が開かない」という症状は共通していますが、顎関節症とは異なる、より注意が必要な疾患も存在します。これらの区別を理解することは、適切な対処のために極めて重要です。

  • 開口障害(Trismus – トリスムス): これは、顎の筋肉の持続的な痙攣(けいれん)や炎症によって、口が35mm以上開かなくなる痛みを伴う状態を指します11。重度の顎関節症の一症状として現れることもありますが、親知らずの抜歯後の炎症、顎への外傷、破傷風やおたふくかぜなどの感染症、頭頸部がんの放射線治療の副作用など、特有の原因によって引き起こされることが多いのが特徴です11。ほとんどのケースは一時的(通常2週間未満)ですが、原因を特定し、早期に治療を開始する必要があります1112
  • 顎関節強直症(Ankylosis – アンキロージス): これは最も重篤な状態で、顎関節の骨同士が癒合(ゆごう)してしまい、関節が動かなくなる疾患です2。非常に稀ですが、重度の外傷や感染症が原因で起こり、多くの場合、外科的な手術が必要となります13

このように、症状の背景には様々な病態が存在します。一般的な顎関節症は筋肉や関節円板の問題が主であるのに対し、トリスムスは筋肉の痙攣、強直症は骨の癒合と、問題の根本が異なります。自己判断はせず、口が全く開かない、あるいは急激に症状が悪化した場合は、速やかに専門医に相談することが不可欠です。

1.3. 日本における顎関節症:あなたは一人ではない

顎の不調は、決して特別なことではありません。日本の公的な調査によって、非常に多くの方が同様の症状を経験していることが明らかになっています。

平成28年厚生労働省歯科疾患実態調査によると、日本人の顎関節の症状に関する有病率は以下の通りです7

症状 全体 男性 女性
関節雑音(あごの音がある) 15.0% 11.6% 17.7%
顎の痛み(あごの痛みがある) 3.3% 2.6% 3.9%

出典: 平成28年厚生労働省歯科疾患実態調査7

この調査結果から、何らかの顎関節症状を持つ人は日本国内で約1900万人にのぼると推定されています14。また、人口統計学的な傾向として、顎関節症は女性に多く、特に20代から30代の若年層で発症のピークを迎え、その後は年齢とともに減少していくことが知られています2。この事実は、顎関節症が単なる加齢による関節の「すり減り」が主な原因ではないことを強く示唆しています。むしろ、この年代の女性に特有の骨格や靭帯の特性、ストレスへの感受性、そして後述する生活習慣などが、発症に深く関わっている可能性を浮き彫りにしています15

第2章:なぜ起こるのか?顎関節症の複雑な原因

2.1. 現代の常識:原因は一つではない「多因子性疾患」

かつて、顎関節症の主な原因は「噛み合わせの悪さ」にあると考えられていました5。しかし、現在ではその考え方は見直され、単一の原因で発症するのではなく、複数の要因が複雑に絡み合って起こる「多因子性疾患」であるというのが専門家の間での共通認識です5。個人の持つ体質(解剖学的要因)や精神的状態(心理的要因)を土台として、そこに外傷や、特に重要なのが日々の「癖」(行動要因)といった負荷が加わります。これらの要因が積み重なり、その人の顎が耐えられる許容量を超えたときに、痛みや開口障害といった症状として現れるのです5

2.2. 筋肉・関節・骨の問題:顎関節症の4つのタイプ

顎関節症は、主にどの部分に問題が生じているかによって、大きく4つのタイプに分類されます。タイプによって治療法が異なるため、正確な診断が重要です16

タイプ 正式名称 主な問題の場所 主な症状 主な治療アプローチ
I型 咀嚼筋痛障害 咀嚼筋(咬筋、側頭筋など) 筋肉の使いすぎによる痛み(筋肉痛に似る)、こめかみの痛み(頭痛と間違われることも) 筋肉のマッサージ、顎の安静、理学療法16
II型 顎関節痛障害 関節包、靭帯 関節の捻挫のような痛み、無理に口を開けた後の痛み、耳の前の痛み 顎の安静、硬いものを避ける、薬物療法16
III型 顎関節円板障害 関節円板(骨と骨の間のクッション) 「カクカク」というクリック音、または円板のズレがひどくなり口が開かなくなる(ロック) クリック音のみなら治療不要。開口障害があればスプリント(マウスピース)療法など16
IV型 変形性顎関節症 下顎頭(下あごの骨の関節部分) 「ジャリジャリ」という軋轢音(クレピタス音)、骨の変形による痛みや開口障害 骨の変形は元に戻せないため、痛みの管理と開口訓練、スプリント療法が中心16

出典: 済生会などの医療機関情報を基に作成16

2.3. 最大の要因?「癖」が顎を追い詰める

多くの顎関節症、特に最も多いI型の筋肉痛障害の背景には、無意識に行っている「癖」、すなわちパラファンクション(非機能的活動)が存在します。

  • 睡眠中の「歯ぎしり」(ブラキシズム)
    歯ぎしりは、睡眠中に無意識に歯をギリギリとすり合わせたり、強く食いしばったりする、睡眠関連の運動異常症です17。ストレス、睡眠の質の低下、カフェインやアルコールの摂取などが関連しているとされ、自分の体重以上の強い力が歯や顎にかかるため、朝起きたときの顎のだるさや歯の摩耗の直接的な原因となります18
  • 日中の無意識な「歯牙接触癖(TCH)」
    近年、顎関節症の最大の原因の一つとして特に注目されているのがTCH (Tooth Contacting Habit) です19

    • TCHの定義: 食事や会話以外の、何もしていないリラックスしている時に、上下の歯を無意識に接触させてしまう癖のことです19
    • 正常な状態との比較: 本来、人の口はリラックスしているとき、上下の歯の間に2〜3mmの隙間があり、接触していません。1日の総接触時間は、会話や食事の時間を含めてもわずか20分程度と言われています12
    • TCHが起こる状況: デスクワークでのパソコン作業、スマートフォンの操作、運転、家事など、何かに集中しているときや、精神的な緊張・ストレスを感じているときに起こりやすいとされています5
    • 害のメカニズム: TCHは歯ぎしりのように強い力ではありません。しかし、たとえ弱い力でも持続的に歯が接触していると、顎周りの筋肉は常に緊張状態を強いられます。この絶え間ない緊張が筋肉を疲労させ、血行を悪化させ、痛みやこわばりを引き起こし、最終的に顎関節に過剰な負担をかけるのです12

現代社会における長時間のスクリーンタイムや精神的ストレスは、多くの人々を無意識のうちにTCHの状態に導いています。これは単なる「癖」ではなく、現代生活がもたらす姿勢的かつ心理的な反応であり、顎関節症の蔓延に大きく寄与していると考えられます。

2.4. ストレス社会の影:心と顎の密接な関係

顎関節症は「現代のストレス病の一つ」と数えられるほど、心理的な要因と深く結びついています2。ストレスや不安を感じると、体は無意識に緊張し、交感神経が優位になります。その身体的反応の一つとして、顎の筋肉(咬筋)がこわばり、食いしばりや歯ぎしり、そしてTCHが誘発されやすくなります5。この心と体のつながりは非常に重要で、国際的な診断基準(DC/TMD)では、身体的な診断(Axis I)と並行して、心理社会的な状態を評価する(Axis II)ことが標準となっています20。また、治療法においても、後述する認知行動療法(CBT)のように、心理的な側面にアプローチする方法が非常に高い効果を上げることが科学的に証明されています8

第3章:自分で気づくための第一歩 ― 症状セルフチェックと受診の目安

3.1. 詳細な症状リスト:顎だけではない全身への影響

顎関節症の症状は、顎だけに留まらないことがあります。以下のチェックリストで、ご自身の状態を確認してみましょう。

  • 顎とその周辺の症状
    • 朝起きたときに顎がだるい、こわばっている21
    • 食事のときに顎が疲れる、痛い22
    • 耳のすぐ前あたりが痛む、または耳の中に痛みや詰まった感じがする(顎関節は耳の穴のすぐ前にあるため)12
    • 顔面が痛む、重い感じがする23
  • 関連して起こる全身の症状
    • 頭痛(特にこめかみ部分の痛みは、側頭筋の緊張が原因であることが多い)12
    • 首や肩のこり、痛み2
    • めまい24
    • 重症化した場合、腕や手のしびれ2

これらの全身症状は、顎の筋肉の異常な緊張が、首や肩など関連する筋肉群に波及することで生じます。顎関節症を放置すると、これらの症状が慢性化し、生活の質(QOL)を大きく低下させる可能性があります25

3.2. 今すぐできるセルフチェック法

専門家への相談を考える前に、ご自身の状態を客観的に評価するための簡単な方法があります。これらは大学病院などでも指導されている、信頼性の高いセルフチェックです。

  • 開口範囲の確認:「3横指テスト」
    1. ご自身の人差し指・中指・薬指の3本を揃えて、縦にします。
    2. 痛みを感じない範囲で、この3本の指を上下の前歯の間に入れてみてください。

    結果の解釈: 痛みなくスムーズに3本指が入れば、開口範囲は正常である可能性が高いです。もし2本指でもきつい、あるいは痛みを感じる場合は、「開口障害」の疑いがあり、専門家への相談が推奨されます12

  • TCHの自覚:「貼り紙法」と意識改革これは、無意識の癖に「気づく」ための認知行動療法的なアプローチです。
    1. パソコンのモニター、デスク、キッチンの壁など、日常生活でよく目にする場所に「歯を離す」「リラックス」といった簡単なメモを貼ります。
    2. そのメモが目に入るたびに、自分の上下の歯が接触していないかを確認します。もし接触していたら、意識して歯を離し、肩の力を抜いて深呼吸します。

    この目的は、無意識下で行われているTCHという癖を、意識のレベルに引き上げ、それを中断する習慣を身につけることです26

これらのセルフチェックは、ご自身の状態を把握し、専門家と相談する際に具体的な情報として伝える上で非常に役立ちます。

3.3. 専門医へ相談すべきサイン

以下のサインが見られる場合は、自己判断で様子を見ずに、専門医(歯科・口腔外科)を受診することを強くお勧めします。

  • セルフケアを試みても、痛みが1週間以上続いている5
  • 「3横指テスト」で指が3本入らない(明らかな開口障害がある)12
  • これまで「カクカク」音がしていたのに、急に音がなくなり、代わりに口が開きにくくなった(より重度な関節円板のズレが疑われます)5
  • 顎がロックして、開いたまま、あるいは閉じたまま動かせなくなった38
  • 痛みが非常に強い、突然始まった、または食事や会話といった日常生活に支障をきたしている25

第4章:【行動計画】自分でできるセルフケア大全

顎関節症治療の根幹は、専門家による治療だけでなく、患者さん自身が行う日々のセルフケアにあります。日本や海外の診療ガイドラインでも、セルフケアや患者教育は最も重要な初期治療として位置づけられています7。ここでは、専門家が推奨する効果的なセルフケアを網羅的に解説します。

4.1. 基本の「き」:顎を徹底的に休ませる生活習慣

症状があるときは、まず顎関節と周囲の筋肉に負担をかけないことが鉄則です。

  • 食事の工夫: 硬い食べ物(フランスパン、せんべい、タフな肉など)、粘着性の高い食べ物(ガム、キャラメルなど)は避け、柔らかい食事を心がけましょう。食材は小さく切って、口を大きく開けなくても食べられるように工夫します12
  • 癖の修正: 爪を噛む、ペンの先を噛む、頬杖をつく、うつ伏せで本を読む、受話器を肩と顎で挟むといった、顎に不必要な力を加える癖を意識してやめましょう5
  • 正しい顎の安静位: 意識して「正しい顎の安静ポジション」を保つことが重要です。これは「唇は軽く閉じ、上下の歯は接触させず、舌は上顎のスポット(前歯の少し後ろ)に軽く触れている」状態です。このポジションを意識することで、筋肉の無駄な緊張を防ぎます27

4.2. 筋肉をほぐす:専門家推奨のマッサージと温熱療法

筋肉の緊張が主な原因であるI型顎関節症には、特に以下のケアが有効です。

  • マッサージ(あご筋ほぐし): テレビ番組でも紹介された効果的なマッサージ法です1
    1. 軽く歯を食いしばったときに、耳の下からエラにかけての角の部分で盛り上がる筋肉が「咬筋(こうきん)」です。
    2. その咬筋の位置を人差し指や中指で確認し、力を抜きます。
    3. 指の腹を使って、その部分を「痛気持ちいい」程度の強さで、円を描くようにゆっくりと8〜10秒間マッサージします。
    4. これを朝晩2回程度、習慣として行うと効果的です1
  • 温熱・冷却療法:
    • 慢性的なこりや鈍い痛みには温熱療法: 蒸しタオルや温湿布を、痛みやこりを感じる頬やこめかみに15〜20分当てます。血行を促進し、筋肉の緊張を和らげる効果があります28
    • 急な強い痛みや炎症には冷却療法: 捻挫と同じように、急性の痛みや腫れがある場合は、氷嚢や保冷剤をタオルで包み、15分程度冷やします。炎症を抑え、痛みを鎮める効果があります25

4.3. TCHを克服する:認知行動療法に基づくアプローチ

TCHは無意識の癖であるため、克服には「気づき」と「行動の修正」が必要です。これは認知行動療法(CBT)の原理に基づいた、科学的根拠のあるアプローチです。

  • 意識化トレーニング(貼り紙法): 前述の「貼り紙法」を実践し、TCHに気づく頻度を増やします30
  • パターンの中断とリラクセーション: 歯が接触していることに気づいたら、すぐに歯を離し、意識的に顎の力を抜き、ゆっくりと深呼吸をします。この「気づいて、離して、リラックスする」という一連の動作を繰り返すことで、脳に新しい健全なパターンを学習させます30

このセルフCBTは、専門的な治療を受ける際にも必ず指導される、極めて重要なセルフケアです。

4.4. ストレスと上手に付き合う

顎関節症の根本的な要因であるストレスを管理することは、症状の改善と再発予防に不可欠です5

  • リラクセーション法の実践: 腹式呼吸、瞑想、ヨガなど、自分に合ったリラックス法を見つけて日常生活に取り入れましょう。
  • 質の良い睡眠の確保: 睡眠不足はストレス耐性を低下させ、歯ぎしりを誘発します。規則正しい睡眠習慣を心がけましょう。
  • 適度な運動: ウォーキングなどの有酸素運動は、ストレス解消に非常に効果的であり、全身の健康状態を改善することが多くの研究で証明されています9

これらのセルフケアは、単なる気休めではなく、臨床現場で推奨される「第一選択の治療法」です。根気強く続けることで、多くの症状は改善に向かいます。

第5章:【行動計画】専門家と進める最新の治療法

セルフケアで症状が改善しない場合や、症状が重い場合は、専門家による治療が必要となります。現代の顎関節症治療は、可逆的(元に戻せる)で、身体への負担が少ない「保存的治療」が中心です。

5.1. 治療のゴール設定:「痛みなく、十分に口が開く」こと

専門的な治療を開始する前に、現実的なゴールを共有することが重要です。専門家が目指す治療のゴールは、主に「痛みをなくすこと」と「十分に口が開くようにすること(機能回復)」の2点です12。前述の通り、関節雑音(音)が残ったとしても、痛みや機能障害がなければ、それは治療の成功と見なされます。音を完全になくすことを目的とした、身体に不可逆的な変化をもたらす治療は、現在では推奨されていません5

5.2. 日本顎関節学会ガイドラインに基づく保存的治療

日本の診療ガイドラインや国際的なエビデンスに基づき、以下の治療法が標準的に行われます。

  • スプリント療法(マウスピース): 顎関節症治療で最も一般的に行われる治療法の一つです12。主に就寝中に装着する透明なマウスピース(スタビリゼーションスプリント)で、睡眠中の歯ぎしりや食いしばりから歯と顎関節を保護し、筋肉の緊張を緩和します7。ただし、スプリントは歯科医師が精密に作製・調整する必要があり、不適切なものは逆に症状を悪化させる可能性があるため、必ず専門家の監督下で使用することが重要です7
  • 理学療法(運動・マッサージ指導): 歯科医師や理学療法士の指導のもとで行われる専門的なリハビリテーションです。関節の可動域を広げるための開口訓練、筋肉の緊張を和らげるためのマニュアルセラピー(徒手療法)、超音波治療などが含まれます39。国際的なガイドラインでは、専門家が介助する運動療法や徒手療法は、慢性的な痛みに対して「強く推奨」されています37
  • 薬物療法: 主に痛みをコントロールするために補助的に用いられます。消炎鎮痛薬(NSAIDs)は急性の痛みに、筋弛緩薬は筋肉の強いこわばりに、またごく少量の三環系抗うつ薬が慢性的な痛みや歯ぎしりのコントロールに有効な場合があります940
  • 認知行動療法(CBT): 痛みに対する考え方や行動パターンを変えることで、症状の改善を目指す心理療法です。特に慢性的な痛みに対して非常に有効であることが証明されており、国際ガイドラインでは「強く推奨」される治療法です37

5.3. 最後の手段としての外科的治療

外科的治療は、顎関節症治療全体の中でごく一部の重症例に限られます。すべての保存的治療を試みても効果がなく、日常生活に深刻な支障が出ている場合にのみ、選択肢として検討されます10。対象となるのは、主に外傷や感染による顎関節強直症(骨の癒合)や、保存的治療では改善しない重度の関節円板障害などです20。かつて行われていたような、安易な関節円板の切除術や、噛み合わせの調整(歯を削るなど)は、不可逆的な変化をもたらし、長期的に見て有益でないことが多いため、現在のガイドラインでは強く推奨されていません6。治療法を選択する際は、その治療が可逆的か不可逆的か、そして最新の科学的根拠に基づいているかを、担当医と十分に話し合うことが極めて重要です。

よくある質問

Q1: 放置するとどうなりますか?

A1: 軽症の場合は自然に症状が軽快することもありますが9、放置することで症状が慢性化・悪化するリスクがあります。慢性的な痛みは、頭痛や肩こりといった全身症状を引き起こし、顔の歪みにつながる可能性も指摘されています。最終的には食事や会話といった基本的な活動が困難になり、生活の質(QOL)を著しく損なう恐れがあります39

Q2: 治療期間と費用は?保険は使えますか?

A2: 保存的治療の場合、治療期間は症状の重さによりますが、数週間から数ヶ月程度が一般的です13。診断、スプリント(マウスピース)療法、理学療法、薬物療法など、標準的な治療の多くは日本の公的医療保険の適用対象です。保険の3割負担の場合、スプリント作製の費用は一般的に5,000円前後です13。ただし、一部の特殊な治療や、専門家による長時間のカウンセリングなど、保険適用外の治療を提案される場合もあります24

Q3: 再発はしますか?予防法は?

A3: はい、再発の可能性はあります。特に、症状の根本原因であるストレスやTCHといった生活習慣が改善されていない場合に再発しやすくなります13。最良の予防法は、治療で得られた良好な状態を維持するために、第4章で解説したセルフケア(ストレス管理、TCHの意識、顎に負担をかけない生活)を継続することです14

Q4: 何科を受診すればよいですか?

A4: 最初の相談窓口としては、歯科または口腔外科が最も適切です4。これらの診療科で顎関節症の診断と初期治療が可能です。症状が複雑であったり、治療が難航したりする場合は、大学病院などに設置されている顎関節症専門外来を紹介されることもあります30。受診の際は、最新の保存的治療ガイドラインに基づいたアプローチを行っている医療機関を選ぶことが望ましいでしょう。

結論

顎の硬直や痛み、口の開きにくさといった症状は、多くの場合、多因子疾患である「顎関節症」のサインです。この記事で解説したように、その原因は単一ではなく、日々の生活習慣、特に無意識の歯牙接触癖(TCH)やストレスが大きく関わっています。重要なことは、顎関節症は多くの場合、危険な病気ではなく、適切に対処すれば十分に管理可能であるという点です。そして、その回復への道のりの基礎となるのは、専門家による治療だけではなく、患者さん自身の「気づき」と「セルフケア」に他なりません。ご自身の顎をいたわる生活習慣を身につけ、筋肉の緊張を和らげ、ストレスと上手に付き合うこと。これら一つ一つが、最も強力な治療法となります。本稿で紹介したセルフチェックツールを用いてご自身の状態を把握し、もし不安や持続する症状があれば、決して一人で悩まず、信頼できる歯科・口腔外科の専門家にご相談ください。正確な診断と、科学的根拠に基づいたあなたに合った治療計画が、健やかな顎の機能を取り戻すための確実な一歩となるでしょう。あなたの顎の健康を、あなた自身の手でコントロールする力があるのです4

免責事項この記事は情報提供を目的としたものであり、専門的な医学的アドバイスを構成するものではありません。健康上の懸念がある場合や、ご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。

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