【科学的根拠に基づく】なぜ人は嘘をつくのか?心理学・脳科学が解き明かす動機とメカニズムの完全ガイド
精神・心理疾患

【科学的根拠に基づく】なぜ人は嘘をつくのか?心理学・脳科学が解き明かす動機とメカニズムの完全ガイド

嘘は、稀な逸脱行為どころか、人間の日常生活における遍在的かつ基本的な一部です。著名な社会心理学者であるベラ・デパウロ博士の研究によると、大学生は平均して1日に1〜2回、社会的な交流の約3分の1で嘘をついていることが明らかになっています12。この傾向は学生に限らず、地域住民を対象とした調査でも同様に見られます3。日本の研究においても、村井潤一郎教授らの調査で、日本の参加者が1日平均1.53回「欺瞞性認知」(嘘かもしれないと感じること)を経験していることが示されており、嘘が文化を問わず日常的な現象であることが裏付けられています45。これほどまでに嘘が蔓延しているのであれば、それは単なる性格の欠陥なのでしょうか、それとも人間の心理に深く根ざした側面なのでしょうか。本稿では、なぜ人は嘘をつくのかという根源的な問いに対し、心理学、社会学、そして神経科学の最新の知見を統合し、その多面的な正体に迫ります。


この記事の科学的根拠

この記事は、参考文献として明示された質の高い医学的エビデンスにのみ基づいて作成されています。以下に、参照された主要な情報源と、それが記事中のガイダンスとどのように関連しているかを示します。

  • ベラ・デパウロ博士らの研究 (DePaulo et al.): 日常生活における嘘の頻度、種類(向社会的・自己中心的)、動機(心理的報酬)に関する記述は、この分野の基礎を築いた同氏らの一連の研究に基づいています12
  • 阿部修士教授の研究 (Abe, N. et al.): 正直さと不正直さの個人差が、報酬への期待を処理する「側坐核」と自己制御を司る「背外側前頭前野」の脳活動に関連するという記述は、京都大学の阿部教授らが『Journal of Neuroscience』で発表した研究に基づいています29
  • 松井智子教授らの研究 (Matsui, T. et al.): 子どもの嘘が「心の理論」の発達と密接に関連しているという解説は、中央大学の松井教授らによる日本の子供を対象とした研究に基づいています3940
  • 林創教授の研究 (Hayashi, H.): 情報を与えない「不作為の嘘」が、情報を与える「作為の嘘」よりも道徳的に許容されやすいという認知バイアスに関する記述は、神戸大学の林教授の研究に基づいています11

要点まとめ

  • 嘘は決して珍しい行為ではなく、社会的交流の潤滑油として、また自己防衛のために日常的に使われる人間的な行動です。
  • 嘘をつく動機は、罰を避ける自己防衛から、他者からの評価を高める自己高揚、相手を傷つけないための配慮(向社会的な嘘)まで多岐にわたります。
  • 脳科学の研究では、嘘をつく行為は真実を語るより脳に高い負荷をかけ、特に前頭前野を活発化させることがわかっています。
  • 正直者と嘘つきの違いは、報酬に対する脳の感受性(側坐核の活動)と、誘惑に抵抗する自己制御能力(前頭前野の活動)の個人差に根ざしていることが日本の研究で示唆されています。
  • 子どもの嘘は、他者の心を理解する能力(心の理論)が発達している証であり、健全な成長過程の一部です。
  • 嘘はたとえ発覚しなくても、自尊心の低下や罪悪感といった心理的な代償を伴い、長期的には心身の健康に悪影響を及ぼす可能性があります。

「嘘」の正体:心理学が解き明かす定義と種類

「嘘」という言葉は一括りにされがちですが、科学的に分析するためには、その定義と種類を明確に区別する必要があります。専門的には「嘘(lie)」と、より広範な概念である「欺瞞(deception)」は区別されます。嘘とは、話し手が真実ではないと知っている情報を意図的に述べる行為を指します。一方、欺瞞とは、相手を意до的に誤った方向へ導くあらゆる行為を含み、直接的な嘘をつかなくても成立します。例えば、社会心理学の専門家によれば、真実をあたかも嘘であるかのように語ることで、相手を欺くことも可能です7
心理学や社会学では、嘘をその動機や形態に基づいて分類します。主な種類は以下の通りです。

  • 向社会的な嘘 (Pro-social Lies): 他者の感情を保護したり、利益をもたらしたりするためにつく嘘です。「ホワイトライ」とも呼ばれ、人間関係を円滑にするために不可欠なものとされます1。デパウロ博士の研究では、特に女性がこの種の嘘をつく傾向が強いことが示されています2
  • 自己中心的な嘘 (Self-centered Lies): 罰の回避や自己の利益のためにつく嘘です。この利益とは、金銭的なものだけでなく、他者からの尊敬や好意といった「心理的な報酬」を求める場合が非常に多いと指摘されています2
  • 不作為の嘘 (Lies of Omission): 意図的に重要な情報を伝えないことで相手を欺く行為です。神戸大学の林創教授の研究では、偽の情報を伝える「作為の嘘」に比べ、この「不作為の嘘」は、子どもでさえも道徳的に悪くないと判断する傾向があることが明らかにされています11。これは、行動よりも「何もしないこと」に対する責任を軽く見積もる認知バイアスの一種と考えられます。
  • 病的虚言 (Pathological Lying / 虚言癖): 明確な目的が見当たらないにもかかわらず、強迫的に嘘をつき続け、本人や周囲に著しい苦痛や機能障害を引き起こす状態です。これは日常的な嘘とは区別される臨床的な概念です15

これらの分類を理解することは、嘘という複雑な行動の背景にある心理を読み解くための第一歩となります。

嘘をつく5つの心理的動機

人が嘘をつく背後には、多様な心理的動機が存在します。これらは、単純な悪意から複雑な社会的配慮まで多岐にわたります。

1. 自己防衛 (Self-Defense)

最も直感的で基本的な動機は、自己防衛です。失敗や過ちを犯した際に、罰や非難、他者からの否定的な評価を避けるために嘘をつきます16。これは、物理的な危険だけでなく、社会的な地位や自尊心を守ろうとする根源的な防衛本能の一環と言えます19

2. 自己高揚と印象操作 (Self-Enhancement and Impression Management)

社会学者のアーヴィング・ゴッフマンが提唱した「ドラマトゥルギー」理論では、人々は社会という舞台の上で自己を演じる「パフォーマー」であるとされます20。この観点から見れば、嘘はより良い自己を演出し、他者からの評価を高めるための重要な道具となります。デパウロ博士の研究が示すように、人々が嘘をつく動機は、金銭などの物質的利益よりも、尊敬や好意といった「心理的な報酬」を得るためであることがはるかに多いのです2。私たちは、他者からより好感を持たれるために嘘をつく傾向があります8

3. 他者配慮と社会的円滑油 (Consideration for Others and Social Lubricant)

すべての嘘が利己的なわけではありません。相手の感情を害することを避けたり、人間関係を円滑に保つために、意図的に真実ではないことが語られます。これらは「向社会的な嘘」と呼ばれ、一種の社会的な潤滑油として機能します1。デパウロ博士の研究によれば、人々が実際よりも好意的な評価を装う「偽のポジティブな嘘」(例:「あなたのマフィンは最高だね」)は、否定的な評価を装う嘘の10倍から20倍も多く見られます1。これは、対立を避け、協調性を重んじる人間の基本的な傾向を反映しています。

4. 個人的・物質的利益 (Personal and Material Gain)

心理的な報酬を求める嘘ほど頻繁ではないものの、金銭や地位といった具体的な利益を得るために嘘が使われることも少なくありません。履歴書に虚偽の経歴を記載したり、商取引で不都合な事実を隠したりするなど、競争的な状況で優位に立つための戦略として用いられます2

5. 承認欲求と注目獲得 (Desire for Approval and Attention)

他者から注目されたい、認めてもらいたいという強い承認欲求が、嘘の引き金になることがあります。自らの経歴や体験を誇張したり、同情を引くために不幸な身の上を創作したりする行為がこれにあたります16。この動機が極端な形で現れると、演技性パーソナリティ障害など、臨床的な問題として扱われる場合もあります16

嘘と脳の科学:不正直さが生まれる神経メカニズム

嘘は単なる心理的な行為ではなく、脳内で測定可能な物理的プロセスを伴う生物学的な現象です。近年の神経科学の進歩は、不正直な行動が生まれるメカニズムを分子レベルで解き明かしつつあります。

嘘は脳にとって「重労働」

一般的に、嘘をつくことは真実を語るよりも脳にとって「重労働」です。これは、嘘をつく際に複数の高度な認知機能が同時に稼働する必要があるため、「認知負荷(Cognitive Load)」が高い状態になるからです8。具体的には以下の機能が動員されます。

  • ワーキングメモリ(Working Memory): 脳は、抑制すべき「真実」と、新たに構築する「嘘」の両方の情報を同時に保持し続けなければなりません22
  • 抑制制御(Inhibitory Control): より自動的で強力に想起されやすい「真実」を口に出さないよう、積極的に抑制する必要があります22
  • タスクスイッチング(Task Switching): 嘘の物語を構築する作業と、相手の反応を監視し、話の辻褄を合わせる作業とを絶えず切り替えなければなりません22

この認知的な努力は、脳の「実行機能ネットワーク」と呼ばれる領域、特に前頭前野(Prefrontal Cortex, PFC)と前帯状皮質(Anterior Cingulate Cortex, ACC)の活動亢進として、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた多くの研究で確認されています824。嘘をつくという行為は、脳の司令塔である前頭前野をフル回転させる、まさに知的な作業なのです。

【日本の最新研究】正直者と嘘つきは「脳の反応」が違う?

なぜ、同じ状況でも正直でいられる人と、嘘をついてしまう人がいるのか。この個人差の謎に、日本の研究が神経科学的な光を当てています。この分野の第一人者である京都大学の阿部修士教授の研究は、正直さが生まれる脳のメカニズムについて画期的な知見を提供しました2627
米国科学雑誌『Journal of Neuroscience』に掲載された阿部教授らの研究では、fMRIを用いて被験者の脳活動を測定しながら、金銭的利益のために嘘をつく機会を与える実験が行われました29。その結果、二つの重要な事実が明らかになりました。

  1. 報酬への期待と嘘: 脳内で報酬への期待を処理する中心的な領域である側坐核(Nucleus Accumbens)の活動が、金銭的報酬を期待する際に活発になる人ほど、その後の別の課題で嘘をついて不正に利益を得る割合が高いことが判明しました3133。これは、報酬に対する脳の感受性の高さ(誘惑の強さ)が、不正直な行動に直接関連していることを示す強力な証拠です。
  2. 誘惑への抵抗と自己制御: さらに興味深いことに、この報酬感受性が高い人々が、あえて嘘をつかずに正直な行動を選択した際には、自己制御や理性的判断を司る背外側前頭前野(Dorsolateral Prefrontal Cortex, DLPFC)の活動が著しく高まっていました31

これらの発見は、「正直さ」が単一のメカニズムによるものではないことを示唆しています。阿部教授らの研究は、正直さに関する二つの対立する仮説、「意志(Will)仮説」(正直であるためには誘惑に打ち勝つ強い意志が必要)と「天恵(Grace)仮説」(正直さは葛藤のない自然な状態)を神経科学的に統合するものです30。つまり、報酬への感受性が低い人(側坐核の活動が低い人)にとっては、そもそも誘惑が弱いため、葛藤なく正直でいられる「天恵」の状態にあります。一方で、報酬への感受性が高い人(側坐核の活動が高い人)が正直でいるためには、強い誘惑を前頭前野の力でねじ伏せる、まさに「意志」の力が必要となるのです。人の正直さや不正直さという性格の違いは、単なる道徳観の問題だけでなく、報酬と自己制御を司る脳の基本的な働きの個人差に深く根ざしているのです。

子どもの嘘は「心の成長」の証

親が子どもの嘘に初めて気づいたとき、それは衝撃的な出来事かもしれません。しかし、発達心理学の見地からすれば、子どもの嘘は非行の始まりではなく、むしろ健全な「心の成長」の証と捉えることができます6
嘘をつく能力は、他者の心を理解する能力、すなわち「心の理論(Theory of Mind, ToM)」の発達と密接に結びついています36。心の理論とは、他者にも自分とは異なる考え、信念、意図があることを理解する能力です。子どもは、他者が自分とは違う「誤った信念」を持つ可能性があると理解して初めて、意図的に相手に偽りの情報を与え、騙すことができるようになります。
この分野の日本の専門家である松井智子教授(中央大学)らの研究は、子どもの嘘の発達段階を明確に示しています3940

  • 2〜3歳: この時期の嘘は、罰を避けるための単純な否認が主です(例:口の周りにチョコをつけながら「食べてない」と答える)14。まだ他者の心を操作するという意図は乏しく、とっさの自己防衛に近いものです。
  • 4〜5歳: 「心の理論」が大きく発達し、他者が自分の言葉をどう解釈するかを予測できるようになります。これにより、相手を騙す意図を持った、より戦略的な嘘をつけるようになります36
  • 8〜9歳: 認知能力がさらに発達し、話の辻褄を合わせたり、嘘がばれないように一貫性を保ったりすることができるようになります38。また、相手の気持ちを思いやり、傷つけないための「向社会的な嘘」もこの頃から見られるようになります。

この発達過程は、嘘をつくという行為が、ワーキングメモリや抑制制御といった高度な認知機能(実行機能)を駆使する「認知的な訓練」でもあることを示唆しています43。子どもの嘘は、他者の心を理解し、自らの行動を制御する能力が育っている証拠なのです37。したがって、親の対応も重要となります。子どもの嘘を頭ごなしに叱責し、厳しい罰を与えると、子どもは罰を避けるためにさらに巧妙な嘘をつくようになる可能性があります37。むしろ、「オオカミ少年」のような罰を強調する物語よりも、「ジョージ・ワシントンの桜の木」のように正直さを称賛する物語を伝える方が、子どもの正直さを育む上で効果的であることが研究で示されています35

日本文化と嘘:「本音と建前」の心理

嘘の現れ方やその解釈は、文化的な背景によって大きく異なります。日本社会における「嘘」を理解する上で避けて通れないのが、「本音(ほんね)」と「建前(たてまえ)」という独特の概念です。
「本音」とは個人の真の感情や欲求を指し、「建前」とは社会的な調和(和)を保つために公の場で示される行動や意見を指します44。西洋の個人主義的な文化では、直接的な自己表現が価値を持つことが多いのに対し、日本の集団主義的な文化では、対立を避け、相手の面子を保つことが重視されます44。このため、建前として本音とは異なることを口にするのは、個人的な利益のための欺瞞というよりも、むしろ高度な社会的配慮と見なされることがあります。
この文化的背景を理解しないと、建前は単なる「嘘」として誤解されやすいです。しかし、その動機を分析すると、建前の多くは他者の感情を保護し、集団の円滑な運営を目的とする「向社会的な嘘」に分類されます。直接的な言葉で真実を伝えることよりも、非言語的な合図や文脈(空気を読む)を通じて本音を伝え、相手にそれを察してもらうことを期待する、高度なハイコンテクスト・コミュニケーションの一形態なのです46。もちろん、この二重構造が常に機能するわけではなく、世代間の価値観の変化や、国際的なコミュニケーションにおいて誤解を生む原因となることもあります45

嘘が心と身体に与える「代償」

嘘が成功し、誰にも見破られなかったとしても、嘘をついた本人には見えない「代償」が伴います。それは、心と身体に及ぶ深刻な影響です。

心理的な代償:自尊心の低下と負の感情

嘘をつくという行為は、たとえそれが他者のためであったとしても、嘘つき自身の心に影を落とします。Sanne Preuterらの研究チームが行った一連の調査では、嘘をついた人は、真実を語った人に比べて自尊心が低下し、罪悪感や不快感といった負の感情が増加することが一貫して示されました4748。これは、多くの人が内心では正直さを道徳的な価値として持っており、嘘をつくことでその自己像との間に矛盾(認知的不協和)が生じるためです。この内的な葛藤は、嘘が続くほどに自己評価を蝕み、公的な自分と内面の自分との間の溝を深めていきます49

関係性への代償:信頼の侵食

嘘は、人間関係の基盤である信頼を根本から破壊します。特に、一度嘘が発覚すると、その修復は極めて困難です17。さらに、一つの嘘を隠すために次々と嘘を重ねる必要が生じ、当初の嘘そのものよりも、その後の隠蔽行為が関係にさらなる損害を与えることも少なくありません49

健康への代償:心理的ストレス

嘘を維持することに伴う慢性的な不安や罪悪感は、心理的なストレスとなり、心身の健康に悪影響を及ぼす可能性があります17。研究では、嘘をつく行為と健康上の不調との関連が指摘されています49。また、良かれと思ってついた向社会的な嘘でさえ、長期的には対人関係の疲労感を生み、抑うつなど精神的健康を悪化させる可能性も示唆されています50

よくある質問

子どもが嘘をつくのは悪いことですか?
必ずしも悪いことではありません。発達心理学では、子どもの嘘、特に4〜5歳頃に見られる意図的な嘘は、他者の心を理解する能力(心の理論)が育っている証拠とされています636。罰を避けるため、あるいは相手を思いやるための嘘は、社会性を学ぶ過程での正常な発達段階の一部です。ただし、嘘の背景にある動機を理解し、正直さの価値を教えることは重要です。
「建前」は、単なる嘘とどう違うのですか?
建前と嘘は、意図的に真実と異なることを述べる点で似ていますが、主な動機が異なります。一般的な自己中心的な嘘が自己の利益や保身を目的とするのに対し、日本の文化における「建前」の多くは、社会的な調和を保ち、相手の感情を害さないための「向社会的な嘘」に分類されます44。個人の利益よりも集団の円滑な関係性を優先する文化的配慮が背景にあります。
嘘をつくと、本当に体に悪い影響があるのですか?
はい、可能性があります。嘘をつくこと、そしてその嘘を維持することは、罪悪感や発覚への不安から慢性的な心理的ストレスを生み出します17。このストレスが、頭痛や消化器系の不調、免疫力の低下など、様々な身体的不調につながる可能性が研究で指摘されています49。嘘は精神的な健康だけでなく、身体的な健康にも代償を求めることがあるのです。
嘘つきな性格は、脳の仕組みで決まっているのですか?
完全に決まっているわけではありませんが、脳の働きの個人差が大きく影響していることが示唆されています。京都大学の阿部修士教授の研究によると、報酬への期待に関わる「側坐核」の活動が強い人(誘惑に弱い傾向)が正直でいるためには、自己制御を司る「前頭前野」を強く働かせる必要があります2931。つまり、生まれ持った脳の特性と、後天的に培われる自己制御能力の両方が、その人の正直さの度合いに関わっていると考えられます。

結論

本稿で見てきたように、嘘は単なる道徳的な欠陥ではなく、自己防衛や社会的配慮といった心理的動機、心の理論という認知発達、そして報酬感受性という神経生物学的な素因が複雑に絡み合った、きわめて人間的な行動です。嘘を見破ろうとする試みは古くから行われてきましたが、ポール・エクマン博士らの研究が示すように、人間は他人の嘘を見抜くのが非常に苦手であり、その正答率は偶然をわずかに上回る54%程度に過ぎません51。これは、私たちが基本的に相手を信じようとする「真実バイアス」を持っているためであり、社会生活を円滑に営む上ではむしろ適応的な性質と言えます7。したがって、「嘘つきを見破る」という目標を追求するよりも、「なぜ人は嘘をつくのか」を深く理解することの方が、はるかに建設的です。脳内で誘惑と葛藤するメカニズム、子どもの発達段階の表れとしての嘘、社会的な圧力が促す配慮の嘘、そして嘘をつく本人が支払う心理的な代償。これらの背景を理解することは、他者の行動に対して、より洗練された共感的な視点をもたらします。目標は、社会から嘘を根絶することではないかもしれません。むしろ、家庭や職場、社会全体において、誰もが不必要に自己防衛的な嘘や自己高揚のための嘘をつく必要のない、心理的安全性の高い環境を育むこと、そして、自分自身が誠実であることの心理的な価値を再認識すること。それこそが、嘘という複雑な現象と向き合うための、最も誠実な取り組みと言えるのではないでしょうか。

免責事項
本記事は情報提供を目的としたものであり、専門的な心理学的・医学的アドバイスを構成するものではありません。健康に関する懸念や、ご自身の行動に関する具体的な悩みについては、必ず資格を持つ専門家(医師、臨床心理士など)にご相談ください。

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