本記事の科学的根拠
この記事は、入力された研究報告書で明示的に引用されている最高品質の医学的証拠にのみ基づいています。以下に示すリストは、実際に参照された情報源のみを含み、提示された医学的ガイダンスとの直接的な関連性を示したものです。
- 米国精神医学会 (APA) 『DSM-5-TR』および世界保健機関 (WHO) 『ICD-11』: 本記事における解離性遁走の定義、診断基準、および解離性健忘の特定用語としての分類に関する記述は、これらの国際的な診断マニュアルに基づいています38。
- 複数の査読付き学術論文 (PMC, PubMed掲載): 解離性遁走の引き金となる心的外傷、神経生物学的メカニズム、心理療法の有効性、併存疾患に関する議論は、クリーブランド・クリニックや各種医学ジャーナルで公開された事例報告や系統的レビュー研究に基づいています61718。
- 日本の専門機関および専門家の見解: 日本における解離性障害の理解や文化的背景、家族への対応に関する記述は、厚生労働省の資料や、岡野憲一郎医師のような国内の第一人者の見解を参考にしています142026。
要点まとめ
- 解離性遁走は、耐えがたい心的外傷への反応として、自己同一性の記憶を失い、突然家や職場から離れて放浪する状態です。
- 最新の診断基準(DSM-5-TR, ICD-11)では独立した疾患ではなく、「解離性健忘」の一症状(特定用語)として位置づけられています。
- 原因は本人の「弱さ」ではなく、脳の前頭前野の機能不全など、ストレスによる神経生物学的な変化が関与する無意識の防衛機制です。
- 治療の中心は、安全な環境下での心理療法です。トラウマを処理し、新たな対処法を学ぶことが回復の鍵となります。特効薬はありません。
- 周囲の人は、無理に記憶を思い出させようとせず、穏やかに接することが重要です。早期の専門家への相談が不可欠です。
第1章:解離性遁走を理解する:現実からの逃避
解離性遁走は、ラテン語で「逃げる」を意味する `fugere` に由来し2、その名の通り、心理的な逃避が物理的な行動として現れる状態です。この現象を正確に理解するためには、その定義、歴史的変遷、そして当事者が経験する特異な状態について深く掘り下げていく必要があります。
1.1. 解離性遁走とは何か?
解離性遁走の中核には、二つの主要な特徴が存在します1。それは、精神的な自己喪失と、それに伴う物理的な移動です。
- 自己同一性(アイデンティティ)やその他の重要な自伝的記憶の喪失(健忘):自分の名前、年齢、経歴、家族といった、自分自身を定義する上で不可欠な情報を思い出せなくなります。これは単なる物忘れとは質的に異なります。
- 突然で予期せぬ、意図的な移動や当惑した状態での放浪:住み慣れた家や職場から離れ、目的のある旅に出たり、当てもなくさまよったりします。
特筆すべきは、遁走中の人物が、表面的にはごく普通に見えることがある点です。世界保健機関(WHO)の指摘によると、当事者は食事や入浴といった基本的な自己管理は保たれ、切符を買ったり食事を注文したりといった、見知らぬ人との簡単な社会的やり取りも可能です8。そのため、周囲の人々は彼らが深刻な記憶障害を抱えていることに気づかない場合が少なくありません。
1.2. 理解の変遷:独立した障害から健忘の一症状へ
精神医学における解離性遁走の理解は、時代とともに大きく変化してきました。かつて、米国精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル第4版(DSM-IV)』や世界保健機関(WHO)の『国際疾病分類第10版(ICD-10)』では、解離性遁走は独立した一つの診断名として扱われていました7。
しかし、最新の診断マニュアルである『DSM-5-TR』および『ICD-11』では、この位置づけが変更されました。現在、解離性遁走は独立した疾患ではなく、解離性健忘(Dissociative Amnesia) の一症状、具体的には 「解離性遁走を伴う(with dissociative fugue)」 という特定用語(specifier)として分類されています3。この変更は、単なる専門用語の整理ではありません。それは、この現象に対する理解が根本的に深まったことを示しています。以前は、物理的な「移動」や「放浪」という行動そのものが注目されがちでした。しかし、新しい分類は、この状態の核心にあるのは、トラウマによって引き起こされた深刻な記憶障害(健忘)であり、遁走行動はその最も劇的な現れの一つに過ぎない、という考え方を反映しています。このパラダイムシフトは、臨床現場や社会の認識に重要な影響を与えます。「謎の失踪事件」といったセンセーショナルな側面から、「この人物は、どのような耐えがたい記憶から心を守ろうとしているのか?」という、より本質的で共感的な問いへと焦点を移すことを促します。これにより、解離性遁走が意図的な行動であるという誤解を解き、トラウマに基づいた、より正確で偏見の少ない理解への道が開かれるのです9。
1.3. 遁走中の体験:その最中とその後
遁走エピソードは、当事者にとって極めて混乱を招く体験であり、その期間と終結の仕方は様々です。
遁走中の状態
遁走エピソードの期間は、数時間から数日、場合によっては数ヶ月、あるいはそれ以上に及ぶこともあります2。期間が短い場合は、単に職場に遅刻したり、帰宅が遅れたりしただけのように見えるかもしれません。しかし、遁走が長期化すると、当事者は自宅から遠く離れた土地へ移動し、そこで全く新しい、しばしば以前よりも単純なアイデンティティを無意識に形成し、新しい名前を名乗り、新しい仕事を始めて生活することがあります。この間、本人は過去の自分に関する記憶がないため、自分の生活に起きた変化に気づいていません1。
遁走の終わりとその後
遁走状態は、始まった時と同じように、しばしば突然終わりを迎えます。ある瞬間、当事者は突然「我に返り」、見知らぬ場所にいる自分に気づきます。その時、元のアイデンティティは回復していますが、遁走していた期間の記憶(「失われた時間」)は完全に失われており、なぜ自分がそこにいるのか分からず、深い混乱と苦悩に襲われます1。
回復に伴う感情的影響
記憶が戻り、自分が置かれていた状況を把握するにつれて、当事者はしばしば強烈な抑うつ、悲嘆、羞恥心、不安、そして怒りといった感情を経験します1。失われた時間や、遁走の引き金となった出来事と向き合うことは、計り知れない精神的負担となります。特に、クリーブランド・クリニックの専門家が指摘するように、解離性健忘は自傷行為や自殺企図のリスクが非常に高いことが知られており、この状態にある人々には、迅速かつ専門的な精神科医療による介入が不可欠です6。
第2章:逃避のメカニズム:なぜ心は逃げるのか
解離性遁走という劇的な行動は、どのようにして引き起こされるのでしょうか。その背景には、心理的な防衛機制と、それに応答する脳の神経生物学的な変化が複雑に絡み合っています。
2.1. きっかけ:圧倒的な心的外傷とストレス
解離性遁走の引き金は、ほぼ例外なく、個人の対処能力をはるかに超えるような、圧倒的な心的外傷(トラウマ)体験や極度のストレスです1。それは、耐えがたい状況から「逃れたい」という根源的な欲求が、意識の変容を引き起こした結果と考えられています5。具体的には、以下のような出来事が誘因となり得ます。
重要なのは、これが本人の「弱さ」を示すものではなく、いかなる人間であっても心理的に打ちのめされうるような、極限的な体験への反応であるという点です。
2.2. 心理的防衛:解離と区画化
このような圧倒的な体験に直面した際、私たちの心は自己を守るために特別な防衛機制を発動させることがあります。その一つが解離(dissociation)です10。厚生労働省の資料によると、解離とは、通常は統合されているはずの意識、記憶、感情、知覚、自己同一性といった精神機能が、一時的に切り離されてしまうプロセスを指します10。あまりにも辛い出来事に直面した心は、その記憶や感情を意識から「壁で仕切る」ようにして区画化し、心理的な崩壊を防ごうとします11。解離性遁走は、この防衛機制が最も極端な形で現れた状態と言えます。心は単に精神的に分離するだけでなく、その心理的な逃避を物理的な世界で実行に移します。つまり、耐えがたい記憶と結びついた「自分」そのものから離れるために、文字通りその場を「去る」のです。これは意識的な決断ではなく、自己を守るための無意識的で衝動的な行動なのです4。
2.3. 神経生物学的な痕跡:包囲された脳
この心理的なプロセスは、脳内で起きている具体的な神経生物学的な現象と深く関連しています。心理的な「逃避したい」という欲求は、単なる比喩ではありません。それは、脳の制御システムと記憶システムが、大量のストレスホルモンによって機能不全に陥るという、物理的な出来事を伴います。近年の脳機能イメージング研究は、まだ数は少ないものの、解離性障害を持つ人々の脳に特有の活動パターンがあることを示唆しています。特に、思考や行動の計画・実行を司る前頭前野皮質(prefrontal cortex)の機能不全が顕著であることが、複数の研究で指摘されています12。この脳領域の機能が低下することで、記憶の検索や行動に対する意識的なコントロールが失われると考えられます。このメカニズムを説明する有力な仮説がいくつか提唱されています。
- ストレス関連説明モデル(Kopelman):極度のストレスに晒されると、視床下部-下垂体-副腎皮質(HPA)系が過剰に活動し、大量のストレスホルモン(コルチゾールなど)が放出されます。このホルモンが、自伝的記憶を思い出すために必要な前頭前野の実行機能(executive function)を直接的に阻害し、記憶へのアクセスを妨げるとするモデルです13。
- 前頭葉-側頭葉の脱同期仮説(Markowitsch):ストレスホルモンの影響で、意識的なコントロールを担う前頭葉と、記憶の貯蔵庫である側頭葉との間の正常な神経回路の連携が断絶(脱同期)してしまうという仮説です。これにより、過去の記憶へのアクセスが効果的にブロックされると考えられています13。
これらの知見は、解離性遁走が「意図的な逃亡」や「詐病」であるという有害な神話を覆す強力な科学的根拠となります。意識的な判断を下す脳の部位そのものが機能不全に陥っているため、この行動は本人の意思によるものではないのです。この統合的な視点は、当事者に対する非難やスティグマを減らし、共感に基づいた支援を促進するために不可欠です。
第3章:臨床診断:過去を遡るパズル
解離性遁走の診断は、その性質上、非常に複雑なプロセスを辿ります。多くの場合、当事者が混乱状態にある中で発見されてから、過去を遡って情報を集めるという、パズルを組み立てるような作業が必要となります。
3.1. 診断への道のり:過去へのまなざし
解離性遁走の診断は、ほとんどの場合、遁走エピソードが終了し、本人が自分の状況に気づいて苦悩している段階で、後方視的(retrospectively)に行われます1。精神保健の専門家による徹底的な評価が不可欠であり、そのプロセスには以下の要素が含まれます6。
- 詳細な病歴聴取:本人の話だけでなく、家族、友人、同僚、あるいは警察などからの情報を集め、遁走前の状況、移動の経緯、そして別の生活を築いていた期間の様子を詳細に把握します1。
- 身体的・神経学的検査:記憶障害を引き起こす可能性のある他の身体的要因を除外するため、頭部外傷(TBI)、てんかんなどの神経疾患、脳腫瘍、薬物やアルコールの影響などを慎重に評価します。これにはMRIや脳波(EEG)検査、血液・尿検査などが含まれることがあります3。
- 精神医学的評価:他の精神疾患(うつ病、PTSDなど)の併存を評価し、解離体験尺度(DES)などの心理検査を用いて、解離症状の性質をより深く理解します9。
3.2. 国際的な診断基準
解離性遁走の診断は、米国精神医学会(APA)の『DSM-5-TR』と世界保健機関(WHO)の『ICD-11』という二つの国際的な診断基準に基づいて行われます。どちらのマニュアルも、解離性遁走を解離性健忘の一つの型として位置づけています。以下にその要点を示します。
診断項目 | DSM-5-TR(米国精神医学会)の基準3 | ICD-11(世界保健機関)の基準814 |
---|---|---|
A. 中核症状(健忘) | 通常の物忘れとは一致しない、重要な自伝的情報(通常は心的外傷的またはストレスの強い性質のもの)を想起できない。 | 思い出せることが期待される重要な自伝的記憶を想起できない。想起できないことは通常の物忘れとは一致しない。最も一般的には最近の心的外傷的またはストレスの強い出来事の記憶を含む。 |
B. 遁走の特定 | 特定用語「解離性遁走を伴う」:自己同一性または他の重要な自伝的情報の健忘と関連した、意図的な移動または当惑した状態での放浪。 | 特定用語「解離性遁走を伴う」:解離性健忘のすべての特徴に加え、自宅や職場、大切な人から離れて、長期間(数日または数週間)にわたる、突然の、一見意図的な移動または当惑した状態での放浪。 |
C. 苦痛・機能障害 | その症状は、臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、他の重要な領域における機能の低下を引き起こしている。 | その症状は、個人的、家族的、社会的、教育的、職業的、または他の重要な機能領域において、著しい苦痛または機能の障害を引き起こすほど重度である。 |
D. 除外基準 | 物質(例:薬物乱用、医薬品)の生理学的作用、または神経疾患や他の医学的状態(例:複雑部分発作、一過性全健忘、頭部外傷の後遺症)によるものではない。 | 他の精神行動障害や睡眠・覚醒障害ではうまく説明されない。中枢神経系に対する物質や医薬品の直接的な影響、神経系の疾患、頭部外傷によるものではない。 |
E. 他の精神疾患との鑑別 | 他の解離性障害(例:解離性同一性障害)、心的外-後ストレス障害(PTSD)、急性ストレス障害、身体症状症などではうまく説明されない。 | 他の解離性障害の経過中にのみ起こるものではなく、他の精神行動障害または神経発達障害ではうまく説明されない。 |
この表は、診断が単一の症状ではなく、厳密な基準の組み合わせに基づいて行われることを明確に示しています。特に、他の医学的・精神医学的な原因を体系的に除外するプロセスが極めて重要です。
3.3. 鑑別診断:他の可能性は?
記憶喪失や放浪といった症状は他の疾患でも見られるため、正確な診断には慎重な鑑別が必要です。
- 神経疾患:一過性全健忘(TGA)やてんかん発作後の健忘とは区別されます。これらの状態では、通常、自己同一性の喪失や新たな人格の形成は見られません。また、MSDマニュアルによると、解離性健忘では一般的な知識(社会常識など)は保たれることが多いのに対し、器質性の健忘ではより広範な記憶障害が見られることがあります23。
- 物質乱用:アルコールや薬物の影響によるブラックアウト(記憶喪失)は、物質の使用歴を明らかにすることで鑑別されます1。
- 他の精神疾患:
第4章:回復への道筋:エビデンスに基づく治療と管理
解離性遁走からの回復は、単に失われた記憶を取り戻すことだけを意味しません。それは、遁走という極端な防衛手段に頼らざるを得なかった心の傷を癒し、より健康的な対処法を身につけていく、長く繊細な旅路です。
4.1. 治療の基盤:安全、信頼、そして治療同盟
治療の絶対的な第一歩は、安全で、支持的で、非審判的な環境を確立することです2。日本の解離性障害研究の第一人者である岡野憲一郎医師が指摘するように、多くの患者はそれまで自分の心を自由に表現できない環境に置かれてきました。治療者との間に、安心して自己表現ができる信頼関係(治療同盟)を築くことこそが、回復への最初の、そして最も重要なステップとなります15。そのため、治療者が解離という現象について深い知識と経験を持っていることが極めて重要です16。この治療関係の構築は、治療における一つの興味深い、しかし本質的な課題を浮き彫りにします。治療の目標は、患者がその存在自体から逃れるために全存在をかけて防衛してきた、まさにその心的内容へと、患者を安全に導くことです。遁走は耐えがたいトラウマ記憶からの逃避であり3、治療はその記憶を思い出し、意味づけ、解決することを助けるプロセスです2。この過程で、治療者が性急に記憶の回復を迫れば、患者は再トラウマを体験し、さらに強固な解離状態に陥る危険があります。一方で、トラウマに触れることを避けていては、根本的な問題は解決せず、再発のリスクが残ります。この繊細なバランスを取るために、治療における「安全性」と「信頼関係」は、単なる付加的な要素ではなく、治療そのものの成否を左右する絶対的な土台となるのです。治療の本質は「記憶を無理やり取り戻す」ことではなく、「その記憶に耐えうる心の力を育む」ことにあると言えるでしょう。
4.2. 心理療法的介入
心理療法が治療の中心となります。その目標は、失われた記憶の回復だけでなく、遁走の引き金となったトラウマや葛藤を理解・処理し、将来のストレスに対してより適応的な対処法を身につけることです2。
- トラウマインフォームドケア:治療全体を貫く基本姿勢として、トラウマが患者の症状や行動に与える影響を常に念頭に置いたアプローチが取られます。
- 記憶回復のための技法:これらの技法は、誤った記憶(偽記憶)を植え付けないよう、細心の注意を払って用いられます。催眠療法や、バルビツール酸系・ベンゾジアゼピン系の薬剤を用いて半催眠状態を誘導する面接法などがありますが、これらは患者が極度の苦痛を感じる可能性があるため、非常に慎重かつ段階的に進められます2。
- 認知行動療法(CBT)など:ストレスの引き金を特定し、それに対する非適応的な思考パターンや行動を修正する手助けをします。また、アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)などの新しいアプローチも用いられることがあります13。
- 感情調整スキルの訓練:苦痛な感情を認識し、それに圧倒されることなく耐え、解離に頼らずに管理するための具体的なスキル(例:マインドフルネス、気分転換、問題解決技法)を学びます16。
4.3. 薬物療法の役割
ここで明確にすべき重要な点は、解離性遁走そのものを直接治療する特効薬は存在しないということです10。しかし、薬物療法が全く無意味というわけではありません。厚生労働省の資料が示すように、解離性障害の患者は、うつ病、不安障害、PTSDといった他の精神疾患を併存していることが非常に多いです17。これらの併存疾患に対して抗うつ薬や抗不安薬などを用いることで、患者の精神状態を安定させ、苦痛を和らげることができます。これにより、患者は心理療法に集中して取り組むための土台を築くことができるのです。
4.4. 予後と再発予防
一度の遁走エピソードからの回復は、多くの場合、自然にかつ完全であることが報告されています17。しかし、これは根本的な治癒を意味するわけではありません。ストレス下で解離しやすいという脆弱性は、根底にあるトラウマが解決されない限り残存します。そのため、適切な治療を受けずにいると、将来的に再び強いストレスに直面した際に、遁走を繰り返す可能性があります4。長期的な予後は、MSDマニュアルが示唆するように、心理療法を通じて本来のトラウマを安全に処理し、ストレスに対する新たな、より適応的な対処スキルを習得できるかどうかにかかっています18。回復とは、過去を消し去ることではなく、過去の経験を自己の物語の一部として統合し、未来に向かって歩み出す力を取り戻すプロセスなのです。
第5章:日本における文脈:文化的視点と支援体制
解離性遁走の根底にある神経生物学的なメカニズムは普遍的かもしれませんが、その引き金となるストレッサーの種類や、結果として生じる「逃避」行動に対する社会的な解釈は、文化的な文脈によって大きく影響を受けます。
5.1. 日本における解離性障害:臨床家の視点
日本では、厚生労働省の資料や、岡野憲一郎医師のような国内の第一人者によって、解離性障害に関する知見が深められています1015。日本の臨床現場では、解離は「つらい体験を自分から切り離そうとするために起こる一種の防衛反応」であり、特に「他の人に自分を表現することができない」状況で生じやすいと理解されています10。これは、自己主張よりも和を重んじる文化的背景が、苦痛の表出を困難にし、内的な解離という形で対処せざるを得ない状況を生み出す可能性を示唆しています。
5.2. 社会的ストレッサーと「逃避」の物語
解離性遁走の引き金となる「圧倒的なストレス」を、日本の社会的な文脈で捉え直すことは、この現象への理解を深める上で極めて重要です。戦争や大規模な災害といった極端なトラウマだけでなく、より日常に近い、しかし深刻なストレスもまた、引き金となり得ます。その一つの指標が、精神障害による労働災害(労災)の認定状況です。総務省の報告によれば、公務災害として認定された精神障害のうち、「神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害(ICD-10コード:F4)」、特に重度ストレス反応や適応障害が大きな割合を占めています19。これは、過重労働や職場のハラスメントといった労働環境に起因するストレスが、公的に認められるほど深刻な精神的影響を及ぼしているという、社会的な現実を物語っています。この「労災」という社会的に認知された問題と、まれな現象である解離性遁走とを結びつけることで、私たちは新たな視点を得ることができます。社会がすでに「人を壊す」ほどの有害性を認めているストレスが、その最も極端な形で現れた時、一個人の心は究極の逃避行動である遁走を選択せざるを得ないのかもしれない、という仮説です。この文脈は、解離性遁走を「奇妙な個人の問題」から、「社会的な圧力の極限的な帰結」として捉え直すことを可能にし、当事者へのスティグマを軽減し、共感を育む土壌となり得ます。また、これはひきこもりといった他の社会的逃避(social escape)の現象とも(臨床的には区別しつつも)通底する、社会の圧力に対する一つの応答様式として理解する手がかりを与えてくれます20。
5.3. ご家族と支援者のためのガイド
解離性障害を持つ人の身近にいる家族や支援者にとって、どのように接すればよいのかは切実な問題です。NHKハートネットなどの専門家の助言に基づき、以下に重要なポイントをまとめます21。
推奨される対応(Do’s)
- 穏やかで安心できる環境を提供する:本人がプレッシャーを感じずに過ごせるよう、安定した環境を整えることが最も重要です。
- 普段通りに接する:病気に対して過剰な先入観を持たず、一人の人間として自然に接することが、本人の安心につながります。
- 約束事は書面で残す:本人が言ったことや約束を覚えていない可能性があるため、後で互いに確認できるよう、重要な事柄はメモなどで共有するとよいでしょう。
- 本人が話し始めたら耳を傾ける:本人が自ら辛い体験について語り始めた場合は、遮ったり評価したりせず、静かに耳を傾ける姿勢が大切です。
避けるべき対応(Don’ts)
- 過去のトラウマを無理に聞き出さない:これは最も重要な注意点です。善意からであっても、無理に記憶を思い出させようとすることは、再トラウマを引き起こし、症状を悪化させる危険性が非常に高いです。
- 症状や記憶のないことを責めない:記憶の喪失や遁走中の行動は本人の意思によるものではありません。それを非難することは、本人をさらに孤立させ、苦しめるだけです2。
家族や周囲のサポートは不可欠ですが、それだけで解決する問題ではありません。異変に気づいた場合は、できるだけ早く専門の医療機関(精神科・心療内科)の受診を促すことが、回復への最も確実な一歩となります11。
よくある質問
解離性遁走は、単なる「現実逃避」や「サボり」とどう違うのですか?
遁走中の記憶は、いつか完全に戻るのでしょうか?
解離性遁走を予防する方法はありますか?
解離性遁走は予測不可能な反応であるため、直接的な予防法はありません。しかし、その引き金となるのは極度のストレスやトラウマであるため、長期的な視点では、ストレス管理技術を学ぶこと、トラウマ体験(特に小児期の虐待など)があれば早期に専門的な心理ケアを受けることが、将来的な発症の危険性を低減させる可能性があります18。また、社会全体で過重労働やハラスメントなどの深刻なストレッサーを減らす取り組みも重要です。
家族や友人が突然失踪しました。解離性遁走の可能性はありますか?何をすべきですか?
突然の失踪には様々な理由が考えられますが、解離性遁走も可能性の一つです。まず最も優先すべきは、警察に届け出て、本人の安全を確保することです。本人が保護された後、もし記憶喪失や混乱が見られる場合は、非難したり問い詰めたりせず、速やかに精神科や心療内科といった専門の医療機関へ繋げることが極めて重要です11。専門家による適切な診断とケアが、回復への第一歩となります。
結論
解離性遁走は、選択の結果ではなく、トラウマによって引き起こされる、無意識的で根源的な心の防衛メカニズムです。それは、解離性健忘という中核的な問題が行動として現れたものであり、その背景には明確な心理学的・神経生物学的なプロセスが存在します。この現象を「意図的な逃避」や「奇妙な事件」としてではなく、耐えがたい苦痛に対する人間の必死の応答として理解することが、すべての支援の出発点となります。診断と治療への道は、繊細さと専門性を要します。しかし、トラウマに精通した専門家による、安全で共感的なケアを通じて、人々は心の傷を癒し、自己の感覚を再統合し、解離という防衛手段に頼ることなく未来を築いていくことが可能です。この旅は困難かもしれませんが、決して一人で歩む必要はありません。もしあなた自身やあなたの愛する人が、説明のつかない記憶の空白や、自分が自分でないような感覚に苦しんでいるのなら、どうか躊躇せず、恥じることなく、専門家の助けを求めてください。回復への扉は、必ず開かれています4。
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