【科学的根拠に基づく】予防的乳房切除術のすべて:遺伝的リスクと向き合うための完全ガイド
がん・腫瘍疾患

【科学的根拠に基づく】予防的乳房切除術のすべて:遺伝的リスクと向き合うための完全ガイド

予防的乳房切除術を検討することは、身体的にも精神的にも大きな重みを伴う決断です。これは単なる医療上の選択ではなく、遺伝的リスク、家族歴、そして自らの健康の未来を管理したいという願いから始まる、深く個人的な旅路でもあります。本稿は、厳格な指針書としてではなく、皆様の意思決定の旅路において、科学的根拠に基づいた包括的な伴走者となることを目指して編纂されました。私たちの中心的な目標は、不確実性を明確さに置き換え、皆様が医療チームとの共同意思決定に主体的に参加し、最終的にご自身の価値観、人生の目標、そして健康上の目的に最も合致した選択を下せるよう、十分な情報を提供することにあります。本稿では、この問題のあらゆる側面を論理的に解説していきます。まず、手術に関する基礎知識から始め、次に誰が適切な対象者となるのかを深く掘り下げ、手術と再建の具体的な方法を詳述します。続いて、有効性や生存率に関する重要な科学的証拠を厳密に分析し、日本国内および国際的な臨床ガイドラインを比較検討します。最後に、日本における保険適用の実際的な側面や、術後の生活の質への深遠な影響についても考察します。各セクションは次のセクションへの土台となるよう設計されており、皆様が自信と見識をもって決断を下すための一助となる、包括的な全体像を描き出します。


この記事の科学的根拠

この記事は、入力された研究報告書で明示的に引用されている最高品質の医学的証拠にのみ基づいています。以下のリストには、実際に参照された情報源と、提示された医学的ガイダンスへの直接的な関連性のみが含まれています。

  • 日本遺伝性乳癌卵巣癌総合診療制度機構(JOHBOC): この記事における「リスク低減乳房切除術(RRM)に対する推奨(推奨の強さ:弱)」に関する指針は、JOHBOCが発行した『遺伝性乳癌卵巣癌(HBOC)診療ガイドライン 2024年版』に基づいています1727
  • 米国国立包括的がんネットワーク(NCCN): 高リスク者に対するRRMの位置づけと多職種チームによるアプローチの重要性に関する記述は、NCCNのガイドラインに基づいています836
  • Liらのメタアナリシス研究: RRMが乳がん罹患リスクを90%以上低減するという記述は、複数の研究を統合・分析したこの科学的証拠に基づいています6
  • Heemskerk-Gerritsenらのコホート研究: BRCA1遺伝子変異保持者におけるRRMの生存率への利益、およびBRCA2における利益の不確実性に関する分析は、オランダで行われたこの大規模追跡研究の結果に基づいています21

 

       

要点まとめ

       

               

  • 予防的乳房切除術(RRM)は、BRCA遺伝子変異保持者など高リスク者の乳がん発症リスクを90%以上と大幅に減少させます2
  •            

  • 発症リスクを劇的に下げる一方で、延命効果(全生存率の向上)については科学的証拠が確立しておらず、議論が続いています17
  •            

  • 日本では、乳がんと診断されたBRCA陽性患者の対側乳房切除(CPM)とそれに伴う乳房再建は保険適用ですが、未発症者のRRMは自費診療となります419
  •            

  • RRMの決断は、「がんへの不安の軽減」という精神的利益と、「身体的な変化や感覚の喪失」という代償とのトレードオフであり、最終的には個人の価値観に基づく共同意思決定が最も重要です12
  •        

   

   

第1部:予防的乳房切除術を理解する:基本的な知識

   

1.1. 手法の定義:リスク低減乳房切除術とは何か?

予防的乳房切除術、あるいは医学的により正確な用語では「リスク低減乳房切除術(Risk-Reducing Mastectomy – RRM)」とは、既存の乳がんを治療するためではなく、将来の乳がん形成を予防することを目的とした外科的介入です。この手術の中心は、乳がんが最も発生しやすい部位である乳管や小葉を含む乳腺組織を除去することにあります1
この概念は、女優のアンジェリーナ・ジョリー氏のような著名人が自らの決断を公に語ったことで一般にも広く知られるようになり、高リスク者にとって重要な医療選択肢であるという認識を高める一助となりました1。この手術の主な背景には、遺伝性の遺伝子変異によって引き起こされ、生涯にわたるがんリスクを著しく増大させる「遺伝性乳癌卵巣癌症候群(Hereditary Breast and Ovarian Cancer syndrome – HBOC)」がしばしば関与しています3
用語の使用自体も、医学的認識における微妙ながら重要な変化を反映しています。「予防的(prophylactic)」という言葉が絶対的な阻止を意味する可能性があるのに対し、「リスク低減(risk-reducing)」という用語は、手術の本質をより正確に表現しています。これはリスクを100%完全に取り除くのではなく、可能な限り低いレベルにまで最小化するものです。現代の臨床ガイドラインや専門文献でRRMという用語へ移行したことは、患者の期待をより現実的に管理し、思考を「絶対的予防」からより洗練された「リスク管理」の枠組みへと転換させるのに役立っています。これは、誤解から生じる不安を軽減するための第一歩であり、基本的なステップです。

1.2. 主な目的:乳がんリスクの低減レベルを定量化する

RRMの最も魅力的で説得力のある点は、がん罹患率を著しく低減させるその卓越した効果にあります。科学的証拠は一貫して、高リスクの個人がこの手術を選択することで、乳がんを発症する危険性を90%以上も減少させることができると示しています2。この驚異的な数字は、手術の実施を支持する最も強力な論拠の一つです。
このリスク低減の度合いは、BRCA1やBRCA2といった遺伝子に病的バリアント(変異)を持つ人々にとって特に重要です5。これらはがん抑制遺伝子であり、変異するとDNA修復機能が損なわれ、がんのリスクが急上昇します。がん細胞へと変化する可能性のある乳腺組織の大部分を除去することが、この顕著なリスク低減を達成する機序なのです。

1.3. 本質的な限界:なぜリスクはゼロにならないのか

バランスの取れた現実的な視点を持つためには、手術の本質的な限界を認識することが重要です。それは、RRMがリスクを100%除去することはできないという事実です11。最も緻密な外科技術をもってしても、外科医がすべての乳腺細胞を完全に取り除くことは不可能です。少量の乳腺組織が、特に胸壁の辺縁部、皮膚の下、あるいは腋窩(わきの下)近くに残存する可能性があります8
これらの残存組織が存在するため、将来的にはこれらの細胞から乳がんが発生するごくわずかな危険性が残ります。この危険性は極めて低いものの、この限界を明確に理解することは、期待を正確に管理するために不可欠です。それは、手術が絶対的な保護をもたらすという誤った観念を打ち消し、RRMが完全な保証ではなく、極めて効果的なリスク低減策であることを強調するのに役立ちます。

第2部:適切な対象者の評価:誰がこの道を検討すべきか?

2.1. 遺伝的素因の中心的な役割:BRCA1、BRCA2、そしてそれ以上

RRMの主な検討対象となるのは、乳がんに対する強い遺伝的素因を持つ個人です。中心となるのは、BRCA1およびBRCA2遺伝子に病的バリアントを持つ人々です。これらはがん抑制遺伝子であり、DNAの損傷を修復し、ゲノムの安定性を維持する役割を担っています。これらの遺伝子の一方に変異があると、身体のDNA修復能力が弱まり、生涯にわたるがん発症リスクが著しく増大します1
統計データは、このリスクの大きさを明確に示しています。80歳までの累積乳がんリスクは、BRCA1変異保持者で約72%、BRCA2変異保持者で約69%に達します。これらの数字は、一般人口のリスクである約12%よりもはるかに高いものです12。この顕著なリスクの差こそが、RRMのような抜本的な予防策を検討する根拠となっています。BRCA1およびBRCA2以外にも、TP53(リ・フラウメニ症候群に関連)やPTEN(カウデン症候群に関連)のような他のがん高リスク遺伝子の変異も乳がんリスクを増加させますが、これらの症例に対するRRMの推奨はより少なく、専門的な医療チームによる高度に個別化された評価を必要とします13

2.2. 家族歴とその他の高リスク要因の解釈

遺伝子検査の陽性結果に加え、家族歴もリスクを特定する上で重要な指標となります。「濃厚な」家族歴には、通常、以下のような特徴が含まれます:近親者(第一度、第二度、または第三度近親者)に乳がんまたは卵巣がんの罹患者が複数いること、若年(通常は50歳未満)で診断された親族がいること、または男性の近親者に乳がん罹患者がいること1。これらの要因は、たとえ遺伝子検査が実施されていなくても、家族内に遺伝的素因が存在する可能性を示唆しています。
さらに、より稀ではありますが、他の高リスク状況もRRMを検討する根拠となり得ます。例えば、将来の浸潤性乳がんのリスク因子と見なされる非浸潤性小葉がん(Lobular Carcinoma In Situ – LCIS)の既往歴がある女性が挙げられます5。また、30歳になる前に胸部への放射線治療(例:ホジキンリンパ腫の治療など)を受けたことがある人々も別のグループです。若年での放射線照射は、後の乳がん発症リスクを大幅に高めるためです9

2.3. 乳がん既発症者のための対側予防的乳房切除術(CPM)

特別な臨床状況として、片側の乳房にがんが診断された女性について考える必要があります。これらの患者、特にBRCA遺伝子変異保持者である場合、残されたもう一方の乳房(対側乳房)に新たながんが発生するリスクは非常に高くなります3。この健常な側の乳房を切除して対側がんのリスクを低減する手術は、対側予防的乳房切除術(Contralateral Prophylactic Mastectomy – CPM)と呼ばれます。
注目すべきは、臨床ガイドラインが、未発症の遺伝子保持者に対するRRMよりも、BRCA陽性患者におけるCPMに対してより強い推奨を出すことが多い点です3。この違いは偶然ではありません。それはリスク認識の根本的な差異を反映しています。未発症の遺伝子保持者にとって、リスクは未来の確率です。しかし、がんの診断と治療を経験した人にとって、その遺伝的リスクは既に証明された現実となっています。このため、CPMを実施する決断は、より具体的で抽象的でなくなることが多いのです。この違いを理解することは、患者が受ける医学的助言の背景を位置づけ、それらが恣意的なものではなく、具体的な臨床状況に基づいていることを認識するのに役立ちます。

2.4. 診断への道のり:遺伝カウンセリングから検査へ

RRMの候補者となるための旅は、手術の決断からではなく、情報収集から始まります。このプロセスには明確な道筋があり、不可欠な第一歩は遺伝カウンセリングです10
遺伝カウンセリングとは、個人や家族が遺伝性疾患の医学的、心理的、家族的側面を理解するのを助けるために訓練された専門家との詳細な話し合いです。このカウンセリングは、以下の点を明確にするのに役立ちます:

  • 家族歴や個人歴に基づく個人のリスク
  • 遺伝子検査の利益、限界、そしてその意味
  • 陽性または陰性の結果が自身や親族に与える影響
  • 手術やサーベイランス(経過観察)強化を含むリスク管理の選択肢

十分なカウンセリングを受けた後でのみ、個人は遺伝子検査に進むかどうかを決定します。日本では、BRCA1/2遺伝子検査は、既にがんを発症し、特定の基準(例:45歳以下での乳がん診断、60歳以下でのトリプルネガティブ乳がん、男性乳がん、または明確な乳がん・卵巣がんの家族歴があるなど)を満たす場合に保険適用となります16。これらの基準を満たさない場合や、未発症者の場合、検査は通常自費となります。

第3部:手術の旅路:手法、再建、そして回復

3.1. 多岐にわたる手術の選択肢:全切除から乳頭温存まで

乳房切除術は単一の方法ではなく、それぞれに長所と短所がある一連の選択肢です。適切な方法の選択は、患者の身体的特徴、リスクの程度、そして最も重要なこととして、将来の乳房再建の目標など、多くの要因に依存します。

  • 乳房全切除術(Total/Simple Mastectomy): 最も伝統的な方法で、乳腺組織、乳輪、乳頭をすべて除去します11。この方法は乳腺組織を最大限に除去できますが、胸壁が平坦になり、乳房の形状を再建するためにはより複雑な再建技術が必要となります。
  • 皮膚温存乳房切除術(Skin-Sparing Mastectomy – SSM): この方法では、外科医は乳腺組織、乳頭、乳輪を除去しますが、乳房を覆う外側の皮膚の大部分を温存します。これにより、インプラントや自家組織を挿入するための自然な皮膚の「ポケット」が作られ、より自然な審美的結果が得られます5
  • 乳頭温存乳房切除術(Nipple-Sparing Mastectomy – NSM): これは審美的に最も先進的な技術です。外科医は乳房の皮膚、乳輪、乳頭をすべて温存し、小さな切開から内部の乳腺組織のみを除去します。この方法は、乳房本来の形状と外見的特徴のほぼすべてを保持するため、最良の審美的結果をもたらします1。しかし、NSMが常に実行可能な選択肢とは限りません。患者が適切な乳房の解剖学的特徴(例:大きすぎたり下垂しすぎていない)を持っていること、そして最も重要なこととして、乳頭近くにがん細胞の証拠がないことが必要です。

がんの安全性という観点からは、SSMやNSMのようなより審美的な方法は、経験豊富な外科医によって実施された場合、遺伝子変異保持者にとって安全であることが研究で確認されています7

3.2. 乳房再建の芸術と科学:技術とタイミング

RRM手術において、切除と再建はほぼ常にセットで考えられます。乳房再建は単に形状を回復するだけでなく、女性の心理的な回復と自信を取り戻す上で重要な部分を占めます。

再建のタイミング:

  • 一次再建(Immediate Reconstruction): 乳房切除術と同じ手術内で行われる再建手術です。これはRRMで最も一般的な選択肢であり、患者が手術後に新しい乳房の形で目覚めることができ、胸壁が平坦な状態で生活する期間を避けることができます1
  • 二次再建(Delayed Reconstruction): 乳房切除後、数ヶ月から数年経ってから行われる再建手術です。この選択肢はRRMではあまり一般的ではありませんが、特定の医学的な状況で必要となることがあります。

再建の技術:

  • インプラントによる再建(Implant-based reconstruction): シリコンや生理食塩水のインプラントを用いて乳房の形状とボリュームを再建する一般的な方法です1。この技術は比較的単純で、手術時間が短く、回復も早いです。
  • 自家組織による再建(Autologous/Flap reconstruction): 腹部、背中、太ももなど、身体の他の部位から患者自身の組織(皮膚、脂肪、時には筋肉)を用いて新しい乳房を形成する技術です。これはより複雑な手術で、手術時間と回復期間が長くなりますが、結果はより自然で柔らかく、本物の乳房のように体重の変化に応じて変化します。
  • ハイブリッド法(Hybrid approaches): 最適な結果を得るために両方の技術を組み合わせることもあります。例えば、自家組織皮弁とインプラントを併用したり、脂肪注入(fat grafting)を用いてインプラント再建の輪郭を滑らかにし、自然さを向上させたりします。

3.3. 審美的結果と患者満足度

RRMを検討している人にとって最も重要な問いの一つは、「手術後、私はどのように見えるのだろうか?」ということです。これは全く正当な関心事であり、決断に大きな影響を与えます。
研究は複雑な状況を示しています。一般的に、手術の決断そのものに対する満足度は非常に高く、大多数の女性はその選択を後悔していません17。しかし、審美的結果に対する満足度はより多様である可能性があります。新しい形状に非常に満足する女性もいれば、変化を受け入れるのに苦労する人もいます。
乳頭温存技術(NSM)は、元の乳房の特徴を最も多く保持するため、審美的な満足度が高いことと関連しています5。しかし、最高の技術をもってしても、再建された乳房が自然の乳房と全く同じになることはありません。感覚は異なり、形状も完全ではないかもしれません。そのため、経験豊富な形成外科医と率直に話し合うことが極めて重要です。彼らは、何が可能で何が不可能かを患者が理解し、現実的な期待を設定し、自身の身体と希望に最も適した再建方法を選択する手助けをすることができます1

表1:予防的乳房切除術の各術式の比較
手術手技 説明 主な利点 主な欠点・制約 理想的な対象者
乳房全切除術 皮膚、乳輪、乳頭を含む全ての乳腺組織を除去する。 乳腺組織を最大限に除去し、リスクを最高レベルで低減する。 胸壁が平坦になり、より複雑な再建が必要。審美的結果は最も自然さに欠ける。 最も徹底的な組織除去が必要な場合、または温存術式が不可能な場合。
皮膚温存乳房切除術(SSM) 乳腺組織、乳輪、乳頭を除去するが、外側を覆う皮膚は温存する。 乳房の自然な皮膚の「ポケット」を温存し、再建に有利。全切除より審美的に優れる。 乳頭と乳輪を失う。皮膚の下に少量の乳腺組織が残存する可能性がある。 一次再建を希望し、乳房の解剖学的構造が適しているほとんどのRRM患者。
乳頭温存乳房切除術(NSM) 内部の乳腺組織を除去するが、皮膚、乳輪、乳頭は温存する。 最良の審美的結果。乳房の外部形状をほぼ完全に保持する。 全ての人が対象ではない(例:乳房が大きすぎる/下垂している)。乳頭近くにがん細胞がないことが必須。乳頭壊死のリスクが他の術式より高い。 乳頭近くに病変がなく、乳房の解剖学的構造が適しており、審美性を高く優先する高リスク患者。

出典:1からの情報を基にJHO編集委員会が作成

第4部:重要証拠の評価:有効性、生存率、そして未解決の問い

4.1. 確立された利益:がん罹患率の大幅な減少

RRMに関するあらゆる議論の基盤となるのは、明確かつ議論の余地なく証明された一つの利益です。それは、この手術が高リスクの女性が乳がんと診断される危険性を著しく減少させるという事実です。世界中のメタアナリシスや大規模なコホート研究はすべて、RRMが乳がんの罹患率を90%以上減少させるという一貫した結論に至っています5
この発見は、すべての臨床的推奨の確固たる基盤であり、患者がこのような大きな外科的介入を検討する主な動機です。生涯にわたり70~80%もの高いがんリスクを抱えて生きるという絶え間ない不安を持つ人にとって、その数字を一桁台にまで下げる可能性は、人生を変えるほどの変化をもたらします。

4.2. 大きな論争:予防的乳房切除術は全生存率を改善するのか?

ここが、RRMの証拠を評価する上で最も複雑で、多角的で、議論の的となる部分です。中心的な問いは、「罹患リスクの減少は、より長く生きることと同義か?」というものです。率直な答えは、「全生存率(Overall Survival – OS)への利益に関する証拠は不確実であり、多くの議論が残っている」ということです。
この論争は、相反する研究結果から生じています:

  • 生存利益を支持する論拠: いくつかの研究やメタアナリシスは、生存率の有意な改善を示しています。例えば、Liらのメタアナリシスでは、CPM(対側乳房切除術)が全死因死亡率を大幅に減少させることが示されました6。オランダの大規模コホート研究でも、RRMがBRCA1変異保持者の乳がんによる死亡率を減少させることが発見されました21
  • 生存利益に反駁する論拠: 一方で、他の多くの質の高い研究では、RRMを選択した女性とサーベイランス強化を選択した女性との間で、全生存率に統計的に有意な差は見出されていません。韓国で575人の患者を対象に行われた傾向スコアマッチングを用いた研究では、BRCA変異保持者において、乳房温存療法群と切除群との間に生存率の有意差は認められませんでした22。ある詳細な分析記事でも、両側乳房切除が、罹患した乳房のみを治療する場合と比較して生存率を向上させることを大規模データは示していないと指摘されています23

科学的証拠におけるこの矛盾こそが、臨床ガイドラインがRRMに対して「弱い」または「条件付きの」推奨を出す主な理由です17。これは手術が腫瘍の予防に効果がないという意味ではなく、寿命に対する最終的な影響がまだ明確に証明されていないということを意味します。

4.3. データの深掘り:BRCA1とBRCA2変異保持者の違いを分析する

証拠は、RRMの利益がすべての変異保持者で一様ではない可能性をますます示唆しています。この問題に関する最も重要な研究の一つが、Heemskerk-Gerritsenらが実施したオランダの多施設共同コホート研究です21
この研究は、未発症のBRCA1およびBRCA2変異保持者を多数追跡し、RRMを選択した群とサーベイランス強化を選択した群の結果を比較しました。結果は以下の通りです:

  • BRCA1変異保持者において、RRMは乳がんによる死亡率の有意な減少と関連していました。65歳時点での乳がん特異的生存率は、RRM群で99.7%であったのに対し、サーベイランス群では93%でした。
  • BRCA2変異保持者において、同様の利益は観察されませんでした。65歳時点での乳がん特異的生存率は、RRM群で100%、サーベイランス群で98%であり、どちらも非常に高く、サーベイランス強化だけでもこの群には非常に効果的であることを示唆しています。

この発見は、RRMに関する決定が、特定の遺伝子変異のタイプに基づいてさらに個別化される必要がある可能性を示唆しています。より攻撃的で若年性の乳がんリスクを持つBRCA1保持者にとっては、RRMの生存上の利益はより明確かもしれません。一方、予後がより良好でサーベイランスの効果が高いBRCA2保持者にとっては、大きな手術を避ける方向へ判断が傾く可能性があります。

4.4. 交絡因子:リスク低減卵管卵巣摘出術(RRSO)が結果に与える影響

RRMに関するデータを解釈する際の最大の課題の一つに、重要な交絡因子が存在します。それは、RRMを受ける多くの女性が、同時に、あるいはそれ以前にリスク低減卵管卵巣摘出術(Risk-Reducing Salpingo-Oophorectomy – RRSO)も受けているという事実です。
RRSO自体が、極めて強力な介入です。それは以下のことが証明されています:

  • 卵巣がんリスクを大幅に減少させる。
  • 乳がんリスクを減少させる(特にBRCA2保持者において)。
  • そして最も重要なことに、RRSOはBRCA変異保持者の全死因死亡率の減少と強く関連している6

したがって、RRMを受けた女性を観察する多くの研究において、RRM単独の生存利益を、RRSOがもたらす強力な生存利益から切り離して評価することは非常に困難です。日本のガイドラインなども、この交絡因子がRRMの生存利益に関する不確実性の主な理由の一つであることを明確に指摘しています17。これは、一部の集団で観察される生存率の改善が、RRMではなく、主にRRSOの効果によるものである可能性を意味します。

4.5. 一つの対抗的視点:「全身病」仮説とその含意を探る

最も包括的な視点を提供するために、本稿では、より理論的ではありますが臨床界で議論されている概念に触れます。この概念は、参考文献23で強調されています。この仮説は、一部のがんでは、発生した時点ですでに、検出不可能な微小転移が全身に広がっている「全身病(systemic disease)」である可能性があるというものです。
この観点によれば、原発臓器(乳房)を除去することは、局所での新たな腫瘍の発生を防ぐかもしれませんが、もし病がすでに他の場所に「種を蒔いて」いるならば、最終的な結果には影響しないかもしれません。この仮説は、一見矛盾しているように見える発見、すなわち、なぜ(予防的な)両側乳房切除が、既発症患者における(治療的な)片側乳房切除と比較して一貫して優れた生存利益を示さないのかを説明するのに役立ちます23。これは、全身的な問題である可能性のあるものに対して、純粋に外科的なアプローチの限界を強調しています。これは複雑で広く受け入れられているわけではない理論ですが、遺伝性がんとの闘いが、単にリスクのある臓器を除去するだけではないことを私たちに思い起こさせます。

表2:有効性に関する臨床証拠の要約
評価基準 主要な研究からの主な発見 証拠の強さ 重要なニュアンス
乳がん罹患率 高リスク者において90%以上のリスク減少(Liらのメタアナリシス、その他多数の研究)6 強い これはRRMの最も確固として一貫した利益である。
全生存率(OS) 矛盾:
– 一部のメタアナリシスは死亡率の減少を示唆(特にCPMで)6
– 他の大規模コホート研究では、サーベイランスとのOSに有意差なし22
– Heemskerk-Gerritsenの研究は、BRCA1保持者には乳がん特異的生存利益があるが、BRCA2保持者にはないと示唆21
不確実/中程度 – RRSOの強力な交絡作用が、RRM単独の利益評価を困難にしている17
– 利益は遺伝子変異のタイプ(BRCA1 vs BRCA2)に依存する可能性がある。
– この不確実性が、ガイドラインにおける「弱い」推奨の主因である。

出典:6, 17, 21, 22からの情報を基にJHO編集委員会が作成

第5部:臨床ガイドラインを読み解く:日本と国際的な推奨の比較分析

5.1. 日本の枠組み:JOHBOCガイドライン(2024年版)を理解する

日本の患者にとって、最も適切で重要な臨床ガイドラインは、日本遺伝性乳癌卵巣癌総合診療制度機構(JOHBOC)から提供されています26。これらのガイドラインは、日本のトップ専門家たちのコンセンサスを反映しており、最新の証拠を反映するために定期的に更新されています。
これらのガイドラインの発展過程は、アプローチの顕著な変化を示しています。2017年版のような古い版ではまだ慎重な姿勢が見られましたが33、より最近の版(2021年および2024年)では、依然として非常に慎重ではあるものの、より明確な推奨が示されるようになりました17
未発症の遺伝子保持者(BRRM)と既発症患者(CRRM)の両方に適用されるRRMに関する現在の主要な推奨は、以下のように要約できます:

  • 推奨の強さ:「弱い推奨」(推奨の強さ:2)または「条件付きの推奨」
  • 証拠の強さ:「中程度」
  • 根拠:ガイドラインは、RRMが乳がんの発症リスクをほぼ確実に減少させることを認めています。しかし、全生存率の改善に関する証拠が依然として不確実であるため(第4部で分析した通り)、最終的な決定は患者自身の価値観と優先順位に大きく依存しなければならないとされています17

これらのガイドラインの変化は、弱さの表れではなく、医学における洗練された進化です。それは、家父長的な医療モデル(「医師が最もよく知っている」)から、科学的な不確実性がオープンに認められ、患者の自己決定権が最優先される協調的なモデルへの移行を表しています。今日のガイドライン作成委員会に患者代表が参加していることは、この哲学的な変化をさらに裏付けています30。これは患者に非常に強力なメッセージを伝えます。彼らの感情、恐怖、そして個人的な優先事項は、単なる「ソフト」な要素ではなく、最良の実践基準に従った臨床的意思決定プロセスの中心として公式に認められているのです。

5.2. 米国の視点:米国国立包括的がんネットワーク(NCCN)からの見解

グローバルな文脈を提供するために、世界中で大きな影響力を持つ米国の米国国立包括的がんネットワーク(NCCN)のガイドラインを検討することは非常に有益です。
NCCNのガイドラインは、BRCA変異保持者などの高リスク個人にとって、RRMを重要なリスク管理の選択肢として提示しています。しかし、NCCNはまた、この手術が中程度または低リスクの女性には推奨されないことを強く強調しています8
NCCNとJOHBOCの重要な共通点は、多職種によるアプローチを重視している点です。NCCNは、RRMを検討している高リスクの女性は、多くの専門家(乳腺外科医、形成外科医、遺伝カウンセラーなど)を含む医療チームによって評価され、利益、危険性、さらには心理社会的な問題について徹底的なカウンセリングを受けるべきであると推奨しています36

5.3. 推奨の統合:患者のための主要なポイント

JOHBOCとNCCNの両方のガイドラインからのメッセージを抽出すると、患者にとって重要で意味のある二つの主要なポイントが浮かび上がります:

  • ポイント1:共同意思決定(Shared Decision-Making)が最も重要である。 手術を強制するガイドラインは一つもありません。すべてがRRMを、患者が長所と短所について包括的な情報を受け取った後に自己決定しなければならない選択肢として位置付けています12。このプロセスには、患者と医師の間でのオープンな対話が必要であり、双方が情報と価値観を共有して、最も適切な決定に到達します。
  • ポイント2:「弱い」推奨には理由がある。 「弱い」という推奨レベルは、外科医の技術や手術の腫瘍予防能力を反映しているわけではありません。むしろ、それは生存利益に関する科学の不確実性を直接反映しています。これを理解することで、患者は自身の価値観(例:証明された生存利益 対 精神的な安心感)が、臨床的な方程式の正当かつ重要な一部であることを認識できます。それは、唯一の「正しい」道を選ばなければならないというプレッシャーから彼らを解放し、力づけます。

5.4. 手術以外:代替の道としてのガイドラインに基づくサーベイランス強化

RRMは唯一の選択肢ではありません。ガイドラインで推奨されている完全に有効な代替の道は、サーベイランス強化(intensive surveillance)です。
高リスクの個人にとって、この戦略は、がんを予防するのではなく、最も治療可能性の高い早期段階で発見することを目的として、一般人口よりもはるかに厳格な検査スケジュールを含みます。典型的なサーベイランス体制には以下が含まれます:

  • 年1回の乳房MRI検査(通常、造影剤を使用)
  • 年1回のマンモグラフィ検査(時にトモシンセシスと併用)
  • 定期的な臨床乳房診察(例:6~12ヶ月ごと)

このプログラムは通常、25~30歳といった非常に若い年齢から開始されます12
RRMとサーベイランス強化のどちらを選択するかは、高リスク者が直面する中核的な決断の一つです。どちらも有効な戦略であり、選択はそれぞれの道の長所と短所に関する個人的な考慮に依存します。

第6部:日本の財政的現実:保険適用を読み解く

6.1. 2020年の画期的な改革:保険適用の概要

過去において、予防的手術に対する最大の障壁の一つは費用でした。しかし、2020年4月の日本の公的医療保険制度における画期的な改革が、この状況を大きく変えました。初めて、公的医療保険が特定の予防的手術に対して支払いを開始したのです4
これは歴史的な変化でした。なぜなら、健康な身体部位に対して行われる予防的な手技を、支払い対象となる医療上の必要性と認めたからです。この変化は、患者団体や医療専門家による長年の根気強い働きかけと、HBOCに関連する高リスクに関する臨床的証拠の蓄積の結果でした37。これにより、以前は費用を負担できなかった多くの患者にとって、重要な選択肢が開かれました。

6.2. 適用対象と対象外:既発症者と未発症者のための詳細な分析

最も重要なことは、この保険適用が普遍的なものではないと理解することです。規則は非常に具体的であり、患者の臨床状況に依存します。

  • 保険が適用される場合:
    • 乳がんと診断されたBRCA変異保持者が、対側(健常側)の乳房切除術(CPM)を受ける場合10
    • 乳がんまたは卵巣がんと診断されたBRCA変異保持者が、リスク低減卵管卵巣摘出術(RRSO)を受ける場合10
    • 上記の保険適用となる切除術に伴う乳房再建術19
  • 保険が適用されない場合(つまり、全額自費診療となる場合):
    • 未発症のBRCA変異保持者(健康だが遺伝子変異を持つ人)が、両側乳房切除術(bilateral RRM)を受けたい場合2
    • 未発症者が、たとえ濃厚な家族歴があっても、遺伝子検査を受ける場合19

この区別は極めて重要です。これは、現行制度では、保険が支援するのは「二次」予防(既発症者における二次がんの予防)のみであり、乳房切除術による「一次」予防(未発症者における初回がんの予防)はまだ支援していないことを意味します。

6.3. 財政的な道のり:保険適用の遺伝子検査から手術費用まで

要約すると、日本の患者にとっての現実的な財政的道のりは以下のようになります:

  1. 患者はまず、がん(乳がん、卵巣がんなど)と診断され、保険適用のBRCA遺伝子検査を受けるための特定の臨床基準(年齢、がんの種類、家族歴)を満たす必要があります16
  2. 検査結果が陽性であれば、その患者は対側乳房切除術(CPM)とそれに伴う再建術に対して保険適用を受けることができます。
  3. 対照的に、未発症の遺伝子保持者は、遺伝カウンセリング、遺伝子検査(推定費用約20~30万円)4、そして両側乳房切除術と再建の全費用(数百万円に上る可能性)を自費で支払う必要があります。
表3:日本の保険制度における予防的手技の適用範囲(2020年改定以降)
患者の状況 遺伝子検査 両側RRM(未発症) CPM(既発症) RRSO 乳房再建 注記/条件
BRCA陽性、未発症 対象外 対象外 適用なし 対象外 対象外 全てのプロセスが自費診療となる。
乳がん患者、BRCA陽性 対象 適用なし 対象 対象 対象 基準を満たせば検査は保険適用。陽性結果後にCPMとRRSOが適用。CPMに伴う再建も適用。
卵巣がん患者、BRCA陽性 対象 対象外 適用なし 対象 対象(乳房切除の場合) 検査は保険適用。RRSOも適用。この場合の予防的乳房切除(RRM)は依然として自費。

出典:2, 10, 16, 19からの情報を基にJHO編集委員会が作成

第7部:手術後の生活:生活の質、心理的健康、そして個々の物語

7.1. 心理的な変化:がんへの不安からの解放

女性がRRMを選択する最も強力な動機の一つは、高いがんリスクを抱えて生きるという心理的負担から逃れたいという願望です。研究は、この手術ががんに関連する不安やストレスを軽減する上で非常に効果的であることを一貫して確認しています1
多くの女性が、手術後に深い安堵感を覚えたと報告しています。まるで、常に人生を覆っていた暗い雲がようやく晴れたかのように。この心理的な利益は、手術の決定に対する満足度がなぜこれほど高いのかを説明する主要な要素です17。リスクを管理するために積極的に行動することが、単なる経過観察では得られないかもしれない力強さと心の平穏をもたらすのです。

7.2. ボディイメージ、セクシュアリティ、そして身体的感覚:生きた経験

しかし、この心理的な安堵には代償が伴います。RRM手術は人生を変える介入であり、現実的に向き合う必要のある身体的、感情的な課題をもたらします。

  • ボディイメージ:再建手術は乳房の形状を回復することを目指しますが、新しい乳房は決して以前と同じものにはなりません。審美的な結果に対する満足度は非常に多様です。自信を持ち、満足する女性もいれば、「不完全さ」や自分の身体への疎外感、あるいは傷跡や非対称性に不満を感じて苦しむ人もいます7
  • 身体的感覚:これはあまり議論されないことが多いですが、最も深い影響を与える結果の一つです。乳房切除の過程で、感覚神経が切断されます。これにより、再建後であっても、乳房の皮膚と乳頭における永久的な感覚の喪失(触覚、温度覚、性的感覚を含む)が生じます10。再建された乳房は本物のように見えるかもしれませんが、感覚はありません。
  • 性的健康:変化したボディイメージと感覚の喪失の組み合わせは、一部の女性にとって性機能や親密さに悪影響を与える可能性があります。乳房はもはや性的感覚の中心ではなくなり、外見の変化が親密な関係における自信に影響を与えることがあります41

7.3. バランスの取れた視点:高い決断満足度と身体的・感情的課題との間の衡量

これは重要な逆説につながります。女性たちは、自らの決断に非常に満足し、全く後悔していない一方で、同時にボディイメージや性生活への悪影響を認め、それらに直面しなければならないのです20
ここでのメッセージは、RRM後の「生活の質」は単一のスコアではなく、人生の様々な領域で得られるものと失われるものの複雑な絵図であるということです。それはトレードオフです。がんへの恐怖を軽減するために、永久に変化した身体という課題に直面するのです。

7.4. 各々の道を比較する:手術と高リスクサーベイランスの生活の質

では、RRMを受けた女性の生活の質は、サーベイランス強化を選択した人と比べてどうなのでしょうか?これら二つのグループを直接比較した研究は、興味深い発見をもたらしています:

  • 全体として、両グループ間で全般的な心理的ストレス(不安、抑うつ)のレベルに有意な差はありませんでした14
  • しかし、課題の源泉は全く異なります。サーベイランス群は、潜在的ながんへの恐怖と、定期的な検査のストレス(「スキャンザイエティ」)を抱えて生きています。RRM群は、その不安と引き換えに、手術後の身体の身体的・審美的な課題を手に入れたのです12

これは、RRMとサーベイランスの間の決断が、「良い」結果と「悪い」結果の間の選択ではなく、それぞれが独自の心理的・身体的負担を伴う二つの異なる生き方の間の選択であることを示しています。患者にとっての核心的な問いは、「どちらが良いか?」ではなく、「私はどちらの種類の課題によりよく対処できるか?」です。これは、医学的な計算から、深い自己評価の行為へと移行します。それは女性に、「私は、『もしも』という問いの慢性的で低レベルの不安に耐えられる人間か、それとも手術の急性的で永久的な身体的変化に耐えられる人間か?私のアイデンティティと幸福にとって、より中心的なのは何か?身体的な完全性と感覚か、それともがん診断の恐怖からの自由か?」という内省的な問いを自らに投げかけることを促します。

表4:生活の質(QOL)の結果:手術とサーベイランスの比較
生活の質の領域 RRMでの経験 サーベイランス強化での経験
がん特異的不安 大幅に減少。安堵感とリスクをコントロールできている感覚は大きな心理的利益となる。 維持または増加。検査前や結果待ちの際に不安が増大することがある(「スキャンザイエティ」)。
全般的な不安/抑うつ 有意な差なし。全体的なストレスレベルは同等かもしれないが、原因が異なる(身体/回復関連)。 有意な差なし。全体的なストレスレベルは同等かもしれないが、原因が異なる(リスク/疾患関連)。
ボディイメージ 大きな課題。再建はするものの、傷跡、非対称性、身体への疎外感などが残る。 維持される。介入によるボディイメージの変化はない。
性機能/感覚 大幅に低下。乳房と乳頭の永久的な感覚喪失。親密さや快感に影響する可能性がある。 維持される。乳房の機能と感覚は影響を受けない。
身体的健康/医療負担 負担は手術と回復期に集中。外科的合併症の可能性あり。その後、乳房のサーベイランスは不要。 定期的な検査(MRI、マンモグラフィ)、潜在的な生検、偽陽性など、生涯にわたる負担が続く。

出典:7, 12, 14からの情報を基にJHO編集委員会が作成

   

よくある質問

   

       

手術を受ければ、乳がんのリスクはゼロになりますか?

       

           
いいえ、ゼロにはなりません。リスク低減乳房切除術は、乳がんの発症リスクを90%以上と大幅に減少させることができますが、完全に取り除くことはできません11。手術では可能な限り全ての乳腺組織を切除しますが、ごくわずかな組織が胸壁や皮膚の下に残存する可能性があり、そこからがんが発生する非常に稀なケースがあるためです。この手術は「絶対的な予防」ではなく、極めて効果的な「リスク管理」の手段とご理解ください。
       

   

   

       

日本では、未発症者の予防的乳房切除術は保険適用されますか?

       

           
いいえ、現在のところ、遺伝子変異を持っていてもがんをまだ発症していない方(未発症者)の予防的乳房切除術(RRM)は、日本の公的医療保険の適用対象外です219。保険が適用されるのは、既に乳がんと診断されたBRCA遺伝子変異陽性の方が、反対側の健康な乳房を切除する(対側予防的乳房切除術 – CPM)場合などに限定されています。したがって、未発症者のRRMは全額自費診療となります。
       

   

       

手術とサーベイランス(経過観察)強化、どちらが「正しい」選択ですか?

       

           
どちらか一方が絶対的に「正しい」という選択肢はありません。これは、どちらの選択肢も臨床ガイドラインで認められた有効な戦略だからです12。決断の鍵は、ご自身の価値観と、どのような課題なら対処しやすいか、という自己評価にあります。手術は「がんへの不安」を大幅に軽減しますが、「身体的な変化と感覚の喪失」という代償を伴います。一方、サーベイランス強化は身体を維持できますが、「生涯続く検査の負担と潜在的なリスクへの不安」を抱え続けることになります。医療チームと相談し、どちらの人生の道筋がご自身にとってより受け入れられるかを深く考えることが重要です。
       

   

   

結論

   
リスク低減乳房切除術を検討する旅は、複雑な問いと深い個人的な決断に満ちた道です。本稿が分析してきたように、全ての人にとって簡単な答えや唯一の「正しい」選択は存在しません。むしろ、この決断は、科学的証拠、個人の価値観、そして人生の現実が交差する点にあります。
核心となるトレードオフを要約します:

  • 手術(RRM)の道は、乳がん発症リスクを90%以上低減するという明確で強力な利益をもたらし、それに伴い、この病気に対する不安を大幅に解消します。しかし、寿命を延ばすことへの利益は、まだ科学的に確固たる答えが出ていない問題です。この安心感の代償は、大きな手術であり、ボディイメージの永久的な変化、身体的感覚の喪失、そしてそれに伴う心理社会的な課題です。
  • サーベイランス強化の道は、手術による傷を避け、身体の物理的・感覚的な完全性を保つのに役立ちます。しかし、それは生涯にわたる警戒、変わらない高リスクを抱えて生きるという心理的負担、そして絶え間ない医学的検査のストレスを要求します。

これらの複雑なトレードオフのために、「最善の」決断とは、科学的に優れていると証明された決断ではなく、あなたという人間に最も適合する決断、つまり、あなたが熟考した価値観、恐怖、優先順位、そして人生の目標と一致する決断です。
その決断に至るためには、多職種の医療チームと緊密に協力することが不可欠です。乳腺外科医、形成外科医、遺伝カウンセラー、そして場合によっては心理士や療法士とのオープンな対話は、この決断のあらゆる側面を様々な角度から探求するのに役立ちます5。彼らは情報を提供し、質問に答え、あなたを支援するためにいますが、あなたの代わりに決断を下すためではありません。
最後に、あなたが今感じている不安は、困難な状況に対する全く正常な反応であることを認識してください。本稿の目標は、その不安を、自信に満ち、賢明で、力づけられた意思決定のプロセスへと転換するために必要な知識と思考の枠組みを提供することでした。最終的な選択はあなた自身のものです。そして、正しい情報があれば、それはあなたが平穏と確固たる信念をもって下せる選択となるでしょう。
   

        免責事項        
この記事は情報提供のみを目的としており、専門的な医学的助言に代わるものではありません。健康に関する懸念がある場合や、ご自身の健康や治療に関する決定を下す前には、必ず資格のある医療専門家にご相談ください。
   

   

       

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